私の2024年は、まだ終わっていない。
私にとって2024年は「人間の自己家畜化」と「推し活」と「中年危機」についてひたすら書き続け、しゃべりつづける年だった。ありがたいことに色々な人にご関心を持っていただき、私もたくさん課題を持ち帰った。それは良かったのだけど、2025年になっても問い合わせが続くのは想定外だった。ちょっと負担になりはじめている。
そのなかで、今日は「中年危機」についてグチグチ書きたい。
私は現代人と私自身の年の取り方に関心があって、2010年代には当時の若作りな傾向、たとえば"美魔女"や"チョイ悪オヤジ"に象徴されるようなエイジングの混乱に違和感を表明する本を書いたりした*1。当時は現在以上に中年や老年に対するネガティブなイメージが流通していて、加齢恐怖症めいた、若さ至上主義っぽい社会風潮があったように思う。
で、あれから10年が経過し、好ましい中年像や老年像は少しはできあがっただろうか?
日本社会全体が年を取ったためか、昔ほどの若作りは目立たなくなった。若者然としたライフスタイルやメンタリティを後生大事にすることは、今、決してカッコいいことではないように私には見えている。
しかしそれは私自身が年を取ったため、それも私が混乱しながら年を取ったためそう思っているだけかもしれない。若者と呼ばれる年齢から遠く離れ、中年期の渦中にある私には、私自身と私の世代がどれぐらい若作り的なのか、それともエイジングの歩みを発見しているのか、うまく論じられないと思う。
その一方で、私に身体的・社会的・心理的変化がはっきり起こったのも事実だ。今の私の心境は30歳当時とも40歳当時とはかなり違う。私の知己たちの心境も変わったように思う。とはいっても、かつて私が年上世代のエイジングに違和感を投げかけていた頃のように、私自身と私の世代のエイジングに疑問を投げかけることは難しい。私たちの世代のエイジングの是非については、下の世代が批判的に検討すべきことだろうと思う。
かわって意識する機会が増えたのが中年危機だ。私自身についても、少なくとも数年前にそれがあったと感じているし、対処が必要だった。でも、その対処が福をなした結果として2024年に3冊の本を同時に出版できたので、当時の一時的な混乱は結果的に良かったのだろう*2。
それなら、私は中年危機を克服したと言えるか?
いやー、どうだろう? 私がそれを克服したのか克服していないのか、それともこれからが本番かなんて、本当は誰にもわからない。
数年前の行き詰まりを突破したつもりでも、還暦までにはまだ時間があるし、なんでもかんでも割り切れたわけじゃない。中年覚悟完了とはとても言えない。私にも若さへの未練がある。心のなかに、せめぎ合うものがある。
ときどき、鏡にうつる自分の姿に、生命の翳りを探してしまう。
荒れた肌や消えなくなった皺は、雄弁だ。普段は、そうした歳月の刻印をスルーできているが、疲弊している日やネガティブな日には気にしてしまう。心の蓋がとれた瞬間には、「もうこの身体はどうしようもない!」といった気持ちになったりする。
過ぎ去った時間や失われた可能性についてもそうだ。思春期~青年期に比べて、夢や可能性や"人生の余白"を意識し、あてにする度合いは減った。過ごしてきた時間に対する印象もそれほど悪くない。だけど、たまにそれらの亡霊が蘇る日もある。しょうがないですね。甲斐のないことですね。わかっているが、それでも、過去にあったはずの夢や可能性に気持ちが囚われてしまう日がゼロになったわけでもない。
私のなかには子ども時代の気持ちや思春期の気持ちや青年期の気持ちも強烈に生き残っていて、ときどき私の袖をクイクイと引っ張るのだ。今の私には、中年期らしい気持ちが堆積していて、それは子ども時代や思春期には無かった種類の堆積物に違いない。だからといって、若かった頃への執着や、若かったらできるはずのことへの執着がゼロになったわけでもなく、潤いを失った皮膚の内側をそれらが這い回っている……のが本当のところだ。
こんな自分自身を省みている真っ最中に『中年危機』というイシューについて読み書きしていると、自嘲不可避というか、自分自身のおかしさに吹き出したくなってしまう。しょうがないですねえ。まあでも、私がこうして不承不承にエイジングの階段をのぼっていくからこそ、こんなふうに読み書きできるのかな、と思う部分もなくはない。執着していなければ、そもそもエイジングに関心を持とうとしないだろう。言及するということは、関心があるということと表裏一体だ。そうして関心を持ちながら、中年らしくなっていく自分自身の心身に慣れ、慣らされていき、思春期や児童期の亡霊たちをどうにか手懐けていく。本当は、他の人もそれぐらいが精一杯なんだろうか? 願わくは、それが私にとっての最適解でありますように。
中年危機や中年期心性について記された文献をいくら読みこなしたところで、結局のところ、私のエイジングはもっとゴチャゴチャしていて、執着まみれで、ズルズルと進んでいくのだろうと思う。それが中年危機の克服と呼べたものなのか、私にはわからない。でも、人間ってスッキリしない生き物じゃないですか。少なくとも私はスッキリしない生き物だと自分自身のことを思っている。だから、文献をとおしてエイジングについて調べたり年上の人の生きざまをロールモデルにしたりして役立てながら、割り切れない部分についてはなだめすかしたり、ごまかしたり、社会的体裁に身を任せたりしながらやってくしかないし、やっていくのが私のエイジングの実態なんじゃないかな、と最近は思ったりしています。
なので、私にとっても中年危機は他人事にできる領域のイシューではなく、今もここにあって泥んこまみれになっているイシューなんですよと、今日は言いたい気持ちになったのでこれを書きました。
※本文はここまでです。今回の有料パートは中年危機とは違うことを少し書いているだけなので、常連の方以外は読まなくていいと思います。
*1:講談社から出していただいた『「若作りうつ」社会』のこと
*2:ちなみに、この一時的な混乱については、何人かのはてなブックマークユーザーから重要な示唆をもらい、私は自分が混乱していること・行き詰まっていることを自覚させてもらった。はてなブックマークユーザーには頼りにならない人もいるが、ある日・あるユーザーの意外なコメントが事態を大きく変えることがあるから無視できない
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