だんだん「何者かになりたい」という現代の願望が、作家や配信者など職業への憧れのみでなく、「自分とはこういった個性と感性を持っている人物だ」と周知されるほど確固たるキャラクター性を有したいことであると分かってきた。
— nyalra (@nyalra)2025年7月22日
「何者かになりたい」という現代の願望が、作家や配信者など職業への憧れのみでなく、「自分とはこういう個性と感性を持っている人物だ」と周知されるほど確固たるキャラクター性を有したいことであるとだんだんわかってきた
という。
にゃるらさんは、私よりも二回りほど若い世代で、活動領域からいって、私の知らない景色を見てらっしゃる人だ。だから、「何者かになりたい」という言葉に、上掲のような願望が重なる様子を実際にご覧になっていると信じてしまうことにする。
それはそうとして、このポストがトリガーになって私も「何者かになりたい」とキャラクター性について書きたいことが生じた。それを書いてしまう。
なお、キャラクター性という語彙はかなり曖昧だ。この語彙の曖昧さのために、にゃるらさんが言いたかったことと私が考えていることがかみ合わない結果を迎えたかもしれない。でも、とにかく私は上掲ポストが気になったから、自分のブログにセーブポイントを残しておきたくなった。
たまたま私は、その名も『何者かになりたい』という本を2021年にまとめている。
ここまで踏まえたうえで、にゃるらさんの冒頭のポストについて考えてみたい。利便性のために、ポストをもう一度張り付けておく:
だんだん「何者かになりたい」という現代の願望が、作家や配信者など職業への憧れのみでなく、「自分とはこういった個性と感性を持っている人物だ」と周知されるほど確固たるキャラクター性を有したいことであると分かってきた。
にゃるらさんのおっしゃることを私なりに解釈すると、旧来からのアイデンティティ獲得のための色々に加えて、現在は、肩書きなどとは無関係なキャラクター性、ひいては肩書きが無くとも第三者からユニークな人物と周知されるほどのキャラクター性が欲しがられている、といった感じだろうか。
もし、そんなユニークネスが個人にあるとしたら、確かにそれはアイデンティティの構成要素たり得るだろう。自分で自分のことをユニークと納得し、なおかつ他人や第三者や社会も「この人はユニークだなぁ」と認めてくれる、そのようなキャラクター。なるほど、アイデンティティの構成要素の条件としては十分かつ強力に思える。
だけど、確固たるキャラクター性とはなんだろうか。真剣に考えてみると、私はわからなくなってしまう。こういってはなんだが、原則論として、人間はみんな凡庸でしかないのではないか。もし凡庸でないキャラクター性が本当に生じてくるとしたら、それはその人自身の内側から生じるというより、場や文脈をとおして生じてくるような、人間関係に根差した現象じゃないだろうか。
アイデンティティと同じく、ユニークさやキャラクター性も自分一人では獲得できないし肚落ちすることもできないように思う。たとえば無人島で何年も暮らしている人は、元がどんなにユニークで魅力的でも、そうした人間性なりキャラクター性なりを自認し続けられないんじゃないだろうか。アイデンティティには承認が、つまりアイデンティティを鏡映し、それがあると納得させてくれるような他人や第三者や社会が必要になる。で、思うに、ユニークさやキャラクター性も同様じゃないだろうか。
それから、「現代日本におけるキャラクター性とは何か」……を私は意識せずにいられない。にゃるらさんが想定されているキャラクター性とイコールではないかもしれないけれども、私なら、キャラクター性という語彙には「自分で演じるもの」「多かれ少なかれ意識的にアウトプットするもの」という意味合いが含まれていると想像する。ということは、ここで要請されている確固たるキャラクター性とは、自分の個性や感性を他人や第三者や社会に物語れるようなキャラクター性、および、そうしたキャラクター性を第三者に想像させるような行動選択(群)ではないかと連想した。
こうして考えてみると、アイデンティティと同じくキャラクター性なるものも、多分に他者からの承認や鏡映を介して形成・維持できるもののように思える。ただ、アイデンティティの構成要素として考えた時、キャラクター性なるものは肩書きや職業に比べて抽象度が高く、みずからの行動の積み重ねをとおして他人や第三者や社会にその抽象度の高い性向を承認・鏡映されなければならない難しさが伴うように思われた。
こうしたキャラクター性を、「心の面白さ」とか「心のかけがえのなさ」みたいに捉える人もいるかもしれない。でも、心ってのもよくわかんないし、相違点よりも相似点の多い現象ですよね。俗に心と呼ばれるはたらきは、ホモ・サピエンスという生体ユニットがつくりだす現象だ。この、心と人々が呼びたがる現象が本当に珍しい性質を帯びている場合、メリットもあるかもしれないがデメリットもあるかもしれない。
たとえばもし、その心なるものが社会の多数派から遠ければ遠いほど、また精神機能としての安定性を欠いていれば欠いているほど、意思疎通や社会適応が難しくなり、それらが難しくなればアイデンティティやキャラクター性を承認・鏡映してくれる他人や第三者に出会いにくくなり、アイデンティティの形成・獲得にもキャラクター性の生起にも不自由しやすくなると推測されるからだ。
それでもなお、キャラクター性を有するよう努めるとしたら何が必要だろう? 不特定多数を相手どってそうであることは、きわめて難しいように思われる。実際にやりやすく、また実際に行われているのは、自分の活躍している場の文脈に即したかたちでの行動の積み重ね、ひいてはキャラクター性の獲得ではないだろうかと思う。
違った言い方をするなら、もし今日の私がキャラクター性の獲得について真剣に考えた場合、それは「心や人格へと内面化されていくもの」よりも「場や文脈へと外在化されていくもの」として想像するほうがたやすい、と言い換えられるかもしれない。
アイデンティティ全般についてもそうかもしれない。私はエリクソン以来のアイデンティティ論が好きだし、そうやって人間の心が変化していく心理モデルをある程度はあてにしている。でも、実際にアイデンティティ形成や獲得に際して起こっていることは、いつも他者や第三者のまなざしのなか、ひいては社会や世間や共同体のなかで起こっていることだし、アイデンティティの構成要素として意識されるものもだいたい、人の間で起こる出来事に紐付けられている。だから、アイデンティティの獲得とは個人の内側だけでなく外側でも起こるものだし、そうである以上、それに適した場や文脈をどう見出していくのか、という課題にもっと注目が集まってもいいはずだとも思う。
キャラクター性についても同じことを思う。ある共同体・ある付き合いのなかで「ゲームのうまい人」「宴会ではいつもハイボールから始める人」「低身長で眼鏡をかけたアニメ少女が好きな人」と認識されるようなキャラクター性は、場や文脈に大きく依存している。でも、本当はそれでいいし、それこそがいいのかもしれない。場や文脈を離れて不特定多数にアイデンティファイされるキャラクター性、不特定多数から認められるアイデンティティとして機能するキャラクター性というのは、本当はいびつではないか。不特定多数にアイデンティファイされるための表徴は、それこそ肩書きや職業に任せておけばいいような気がする。
思いつくまま、アイデンティティとキャラクター性について書いてみた。
今回、私が言語化してみたかったのは、
1.アイデンティティは他人や第三者や社会からの承認・鏡映に大きく左右される。キャラクター性もそうではないか
2.アイデンティティが実際に獲得・形成されるのは、原則としては狭い場や文脈の内側である。キャラクター性もそうではないか。
3.そうして場や文脈に依存して形成されるアイデンティティやキャラクター性を思う時、それは個人の内側にできるのか外側にできるのか、なんだかわからなくなる
この3つだ。にゃるらさんのポストから、この3つを言語化するきっかけをいただいたことを感謝してます。ありがとうございます。
私自身としては、肩書きや職業では間に合わないアイデンティティの問題に特効薬たりえるキャラクター性ってあんまりないんじゃないの? と思いたくなります。しかしローカルな場や文脈の内部においてそれを形成していく場合、この限りではありません。案外、見込みがある気もします。アイデンティティについても同様です。
世の中には、一流企業に入った、資格職業に就いた、だけど自分自身がわからない、何者にもなれてない気がする、なんて人はいくらでもいます。不特定多数に名前が売れてもアイデンティティの問題が十分に解決しないのは、多くの先人が証明しているようにも思います。である以上、アイデンティティの宛先を私たちはもっとローカルな場や文脈に期待するのがいいんじゃないでしょうか。
たとえば私にしても、私のアイデンティティの構成要素はローカルな人間関係や場に多くを依存していて、不特定多数に知名度を獲得することにほとんど依存していません。私は、自分自身が十分にユニークな人間だと自認可能ですが、それは不特定多数に対してはまったくそんなことはなく、あくまでローカルな場や文脈のなか、ひいてはローカルな人間関係のなかでのことに過ぎません。
逆に、私は自分のことをユニークな人間として扱ってくれる場や文脈によってアイデンティティやキャラクター性をエンチャントされている、と言い換えられるでしょうし、ゆえにこそ、私にそれらを仮構させてくれる場や文脈に感謝し、大切にしていかなければならないのだとも思います。
書いてみて気づいたのですが、現在の私は、アイデンティティにせよキャラクター性にせよ、自分自身のものとして捉えたがっていないのかもしれません。もちろんあらゆることは個人の生物学的基盤のうえに具象化する現象ですから、これを純粋な社会構築物だと言い切るつもりはありません。しかし、そうは言ってもこれらは人の間で起こることでもあるのです。もし、にゃるらさんやその周辺の方々が確固たるキャラクター性を望む場合も、それが人の間で起こる現象という側面を持っていることにもご注目いただくと、何かご利益があるかもしれません。
今日、私が書きたかったことはこんな感じです。
こうしたアイデンティティ観に立ったうえで中年危機の話もしたいなと一瞬思いましたが、すっかり長くなったので、それはまた別の機会にします。
*1:より正確にはアイデンティティの獲得vs拡散。アイデンティティ拡散は、アイデンティティがまとまっていない状態として、どちらかといえばネガティブに語られがちだ。エリクソン自身、ある程度はそう語っているのだが、よく読むとアイデンティティ拡散とアイデンティティ獲得は完全に対立するものというより、両者の矛盾に折り合いづけていくもの、基調としてはアイデンティファイ獲得に向かいつつも、そううまくいかない部分も抱えつつ生きること、と読み取りたくなる書き方になっている。ただ、この話をはじめると長くなるのでここでは割愛し、この視点については略する
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