※この文章は、黄金頭さんへの返信のかたちをとった、私なりの反出生主義についての考えをまとめた文章です※
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こんにちは黄金頭さん、p_shirokumaです。拙著『人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』をお読みくださり、ありがとうございました。今回私は、どうしてもこの本を読んでもらいたいブロガーさん数名におそれながら献本させていただきました。受け取ってくださったうえ、ご見解まで書いてくださり大変うれしかったです。
『人間はどこまで家畜か』を黄金頭さんに献本したかった理由は2つあります。
ひとつは、黄金頭さんが書いたこのブログ記事のおかげで『リベラル優生主義と正義』に出会えたからです。
思想の進展には最終目的地はありません(例外は反出生主義で、これには生物の絶滅という壮大な最終目的地があります)。思想の世界には自然主義的誤謬という言葉があります──生物学的な事実があるからといって、そのとおりに振る舞う「べき」とみなしてはいけないと戒める言葉です。たとえば人間には反応的攻撃性や能動的攻撃性がありますが、だからといって暴力や殺人が肯定される理由にはなりません。
一方、その逆は成立しません。自然主義的誤謬ならぬ思想的誤謬という言葉はないのです。思想は思想以外に対しては無謬であり、無敵であり、特権的な地位にあるため、思想を否定したり修正したりし得るのは、人間の生物学的特徴ではなく、思想自身だけです。たとえば反出生主義が思想として完全に定着した時、それを道徳的判断や価値判断からひっくり返せるのは当の思想だけで、生物学者が何を言おうとも哲学者や倫理学者のつくる未来を覆すことは許されないでしょう。その意味において、加速主義やハラリのビジョン、反出生主義にも荒唐無稽と切って捨てられない怖さがあります。思想のゆくえは真・家畜人たる私たちのゆくえであり、それは絶滅のゆくえでもあるのかもしれないのです。
━『人間はどこまで家畜か』ボツパートより
たかが思想だ、それもマイナーな思想だと反出生主義を軽んじるべきではありません。
拙著で述べてきたように、思想は文化の中核をなすミームで、たとえば今日の社会は資本主義・個人主義・功利主義といった思想に沿ってできあがっています。思想は都市空間のアーキテクチャとなって具現化しますし、私たち自身の超自我や価値観となって内面化もされます。だから思想なんてたいしたことがない、と思うのはとんでもない間違いです。思想が都市をつくり、社会をつくり、時代時代の人間をかたどり、値踏みすらするのです。
と同時に、21世紀においてメジャーな思想たちも、かつてはマイナーでした。(信用取引や流通貨幣の起源は別として)今日の資本主義のシステムや思想を育てたのは西洋のブルジョワ階級でしたが、はじめから彼らとその思想がメジャーだったわけではありません。たとえば今日では当たり前のものになっているコスパ/タイパ意識も、20世紀初頭には一部の人のものでしたし、いわゆる上昇志向もそこまで強かったわけではありません。でもって、ブルジョワ階級は「第三身分」と呼ばれ「第一身分」や「第二身分」ではなかったのでした。
古来より、流行りものは人間をたくさん減らしてきました。ペストしかり、天然痘しかり、インフルエンザや新型コロナウイルスしかり。それらは細菌やウイルスといった生物学的ミームで、交易網に乗って広がり、大暴れしたのでした。
一方、今日ではそうした生物学的ミームよりもずっと多くの文化的ミームが、テレビや教育制度やインターネットをとおして広がっています。これまで、文化的ミームが人間を滅ぼす様子はないように……みえました。でも、それはいつまで本当でしょうか? たとえば資本主義や個人主義や功利主義が人間を滅ぼすまではいかなくても、人間を大幅に減らしてしまう未来はあり得るのではないでしょうか? いえいえ、案外それは既に起こっていることのようにもみえます。
そのうえで、反出生主義のような、より直接的に人間を滅ぼす文化的ミームが大流行し、本当に人間を滅ぼす、ひいては全生物すら滅ぼす未来は絶対に来ないと言えるでしょうか。
苦を避けることを至上命題とする反出生主義は、人間を滅ぼすだけでなく、たとえば自然界の食物連鎖、野生動物の生の在り方をも標的とするでしょう。人間の滅亡も全生物の滅亡も、思想として正しければ肯定され得て、その思想に対して生物学をはじめとする自然科学は何も言えません。そうして考えてみると、反出生主義は荒唐無稽な人類滅亡ストーリーではなく、文化をとおして人間が絶滅する現実的な導火線のひとつと思えるのです。
でもって、もし反出生主義が人類や生物を滅亡に追いやった時、その思想は、その善や正義を誇るでしょう。
伊藤計劃のSF小説に『虐殺器官』という作品があって、その世界では虐殺の文法なるものが登場し、そのミームが世界じゅうに争いを起こすさまが描かれていました。虐殺の文法というミームが人文社会科学の産物だとしたら、虐殺の文法もまた、文化的ミームの一種と言えます。
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