私がはてな村村民として認められていないと思う3つの理由 - orangestarの雑記
なんか、私の手許にジグソーパズルのピースが揃ってしまったので、『はてな村奇譚』が果たした歴史的役割について一村民として意見を述べます。興味のある人だけ読んでやってください。


そんな、「はてな村」の修羅世界も、(株)はてなの尽力が実ってか、少しずつ薄まってきました。2010年ぐらいには大分マシになっていたと思うし、2013年には「はてな村」古参村民のウエイトは明らかに小さくなりました。
そういうタイミングで『はてな村奇譚』が連載されたのです。
『はてな村奇譚』を連載したのは、はてなダイアリー時代から「はてな村」を知っている漫画家の小島アジコさんでした。こちらでネタ半分に表明されているように、彼は、決して「はてな村」の中枢にいたわけでもないし、修羅のルールを内面化していたバトラーでもありませんでした。でも、彼は「はてな村」を見つめていました。少なくとも、「はてな村」が視界にチラチラ入るポジションでインターネット生活を続けていたとは言えるでしょう。
そんなアジコさんが『はてな村奇譚』を書いたことで、「はてな村」と村ルールは変わりました。そういって語弊があるなら「はてな村」の転機を象徴する作品になった、と言い直すべきでしょうか。
『はてな村奇譚』が連載される前から「はてな村」は変わり始めていました。修羅のルールどおりに行動しているブロガーやブックマーカーは少数派に転じ、そうではないブロガーやブックマーカーが増えていました。忌まわしくも野蛮な「はてな村」のイメージも少しずつ変化し、ガチで危険な「はてな村」イメージと、ネタ的に語られる「はてな村」イメージが交錯していたのが2012〜2013年頃。
そうしたプロセスが進行している最中に、『はてな村奇譚』が著され、新旧のブロガーやブックマーカーが一堂に会したわけです。しかも作者は「はてな村」の歴史をある程度知っている古参でありながら、「はてな村」のルールと一定の距離を置き、修羅道に堕ちていなかった小島アジコさん。奇譚をまとめるにあたって適任者だったと思います。
この『はてな村奇譚』によって達成された功績は少なくとも3つあります。
ひとつは「はてな村」というワードの拡散。『はてな村奇譚』がどこまで事実どおりかはともかく、作品をとおして「はてな村」というワードに改めて注目が集まりました。これは村貢献度の高い功績だったと言わざるを得ません。“やっぱり「はてな村」はあったんだ!”
ふたつは「はてな村」の新旧のプレイヤーの交歓と、村民定義ずらし。『はてな村奇譚』は古い修羅ばかり紹介した作品ではなく、新時代のはてなブロガーも多数紹介しました。また、古くから活躍していた修羅道に染まらないアカウントをも『はてな村奇譚』の物語に登場させていました。これにより、作中の「はてな村」は古臭い修羅の国ではなく、もっと広い世界として描かれていました。
みっつめは「はてな村」の殺伐としたエッセンスをもコンテンツとして昇華したこと。村民同士のバトル描写などが好例ですね。「なんか異様なことをやっている、でも、まあ楽しそうにやっているし終わりには蘇生してるじゃないか!」あの湯加減というか、作品全体に籠る暖かい(または生暖かい)目線によって、多くのものが救われたと思います。
『はてな村奇譚』は「はてな村」の正史とは言い切れない要素を含んではいます。そのかわり、もっと開放的で、もっと可能性に溢れた、新しいユーザーが憧れても構わないような「はてな村」イメージを普及させる起爆剤になったと思うんですよ。
だから私は、『はてな村奇譚』と小島アジコさんは、今日の刷新された「はてな村」イメージを推進した立役者だと思っています。今、はてなブログに新規参入してくるブロガーが「はてな村」という単語をカジュアルかつポジティブに使用するようになったのも、(株)はてなの生存戦略と喧嘩しないかたちで「はてな村」というワードが生き残る余地が生じたのも、この作品による影響が大きいんじゃないかと思います。
もちろん『はてな村奇譚』の普及によって喪失に拍車がかかったものもあります。
はてな村のコンテクストは、深くて冷たいダムの底 - あざなえるなわのごとし
「美しいはてな」「はてなを取り戻す」でメンヘラやモヒカンは消される - はてな村定点観測所
今、「はてな村」というワードの語感からは、いろんな意味や文脈が失われようとしています。
でも、fujiponさんの文章を読んだ後、私はそれでもいいのかなと思うようになりました。かつての殺伐としていた「はてな村」の理なんて、新たにブログを始めるような人には邪魔だろうし、それで幸せになれるのは完全武装した一握りの村民だけです。インターネットも(株)はてなも変わったのだとしたら、歴史はともかく、敷居の高い殺伐とした村ルールはもう要らないのかなと。
「はてな村」のコンテキスト(の一部)は、ダムの底に沈んでしまって構わない。
修羅を前提とした「はてな村」の理やルールも、希釈されて構わない。
そうやって「はてな村」という古い皮袋に、新しいワインが注ぎ直されていく。
いいんじゃないでしょうか。
現在のインターネットには、『はてな村奇譚』よりも残酷で殺伐とした圏域が存在しています。twitterとかね。戦いはこれで終わったわけじゃないし、未来のネットユーザーもまた揉め事に魂を奪われるのでしょう。でも、現在の「はてな村」というワードは、過去のソレよりは希望の持てるもので構わないのかもしれない――現在の私はそう思っています。
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