なんか、Xでやたらとバズったので自分のブログで意見をまとめておきますね。
今回の起点になったはてな匿名ダイアリーはこれだ。
anond.hatelabo.jp
11月25日のはてな匿名ダイアリーに、「オタクを降りた。何も残ってない」という文章が投稿され、はてなブックマークが集まっていた。
この文章を読んで最初、私はサブカルチャーの儚さについて思った。たとえば10年前に見たアニメ、20年前に熱中したゲーム、それらが傑作で心動かされるものだったとしても、社会からは次第にフェードアウトしていき、自分自身のなかでも思い出、それも遠ざかる思い出になってしまう。リメイクが作られる作品もあるが、だからといって、たとえば『銀河英雄伝説』や『らんま1/2』が過去そのままに蘇るわけではないし、それらにタイムリーに触れていた頃と同じ熱気を伴って蘇るわけでもない。
諸行無常、盛者必衰。
匿名ダイアリーの筆者は「労働」や「生活」は偉大だよと書いているが、それらですら時間によって摩耗していく。歳月はすべてを風化させるが、サブカルチャーのコンテンツの風化速度はとりわけ早い。古典が歳月に対して持っている耐久力を、サブカルチャーのコンテンツたちは持ち合わせていない。それらは流行り物であり演し物でもあり(少なくとも第一には)若者向けにつくられるものだから、更新されていく。更新されていくとは、ジャンルの地層が堆積し、古いものが埋もれていくということだ。そのように新陳代謝の早いジャンルが、ときどき私には蜃気楼のように思えてしまう。たちまち消えてしまう幻のごときコンテンツたち。それらを生涯かけて追いかけていく覚悟は自分にあるのか? と自問してしまう夜もある。
それとは別に、オタク趣味、どこまで続けられるの? って疑問もある。
「オタクは自然になるもの」「オタクは自然に続くもの」ってフレーズ、5年10年だったらほとんどの自称オタクの皆様に当てはまるでしょう。でも、20年30年の単位になると「努力しなければ続けられないもの」になってしまう。ここを見誤って置物や政治人間になってしまったオタクがどれだけいたことかhttps://t.co/pMCEO8pK1l
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma)2025年12月10日
ここまではいつもの話。
ここからは少し違ったことを書いてみたい。
それは、中年以後にオタクを続けるにあたってポジティブ/ネガティブに働くファクターを、指差し確認してみることだ。中年は、生物学的にも社会的にも若者とは状況が異なる。だからオタクを続けるための与件も変わってくる。そういう考えに基づき、中年になってもしぶとくオタクが続けられる人の条件について、実際に見かける人々を思い出しながら書き出してみる。
1.時間
一般に、中年期にさしかかると可処分時間は短くなることが多い。家庭を持っていれば家のことに時間が必要となるし、ある程度以上の年齢になると介護という問題がポップアップしてくる。仕事に関しても、今までよりも責任ある立場に立っていたり、後進の指導を請け負うことも多い。これら、すべての条件に該当しない人だけが「中年期を迎えても可処分時間が若い頃と変わらない」という状況を過ごすことになる。
しかし、順当に人生を送っていれば中年期には上記のいずれかに当てはまり、可処分時間が短縮する。中年期にオタクを続けるために努力が必要な理由のいちばん大きな理由はここだろう。縮みゆく可処分時間というボトルネックを僅かでも改善させようとしたら、努力や工夫や根回しが必須だ。順当に人生を送り、なおかつ中年期に可処分時間で困らない……ということはまずない。
2.経済力
いくら時間があってもお金がなければ趣味は続けられない。オタクは趣味にリソースを投じる者だから、時間同様、経済力も問題になってくる。家庭を持っていれば独身貴族の時代に比べてお金の余裕はなくなる。独身だったら楽勝か? と言われたらそうとも限らない。独身かつ収入が大きめで、そのうえ持ち家だったりすればお金に余裕があるかもしれないが、そうでない境遇、たとえば低収入で賃貸住まいの独身の場合などは、老後まで見据え、支出に慎重な姿勢をとらざるを得ないかもしれない。
後述の体力の問題などもあって、中年のオタクの活動は、若者のオタクの活動よりもお金がかかってしまう場合も少なくない。たとえば、若かった頃は宿泊施設などにお金をかけなくてもゴリ押しできていた遠征が、多少なりともお金をかけなければ体力的に困難になってしまう、等々である。オタクに限らず、活発な中年はしばしば体力低下を経済力でカバーしようとするが、経済力が弱すぎればそうもいかない。
そうしたわけで、経済力も中年オタクを続けられるか否かを左右する変数として無視できない。時間がたくさんあっても経済力が乏しければ、中年オタクとしての活動はかなり制約される。サブスクでひたすらアニメを観るなど、それでも可能なこともあろうけれども、ジャンルによっては経済的限界がそのままオタクとしての活動限界、ひいてはオタクを続けていくうえでの足枷になってしまう。
3.健康
どんな中年にも加齢は忍び寄り、例外はない。健康を失えばオタクとしての活動は中断されるか、縮小される。若いころから病気を持っていて病気慣れしている人ならともかく、病気慣れしていない人が病気にかかり、それでも趣味生活を続けるのは簡単なことではない。そして若い頃に身体を顧みず活動していた人の健康上の負債が、いよいよ表面化しはじめるのが中年期だ。
病気になっていない中年でも、やはり健康には気を付けなければならず、いい加減にしていれば心身は故障する。遠征計画を立てるにあたってはちゃんと休めるような計画が必要で、前述のとおり、そのために若かった頃より経済的支出が増えるかもしれない。また、健康を維持するための活動を行わなければ健康が維持できないせいで、その維持のために時間やお金をかけることにもなる。健康を保つために努力や工夫が必要である以上、オタク趣味を持続するためにも努力や工夫が必要である、と言っても言い過ぎではない。病気にならないこと、病気を遠ざけること、心身の活動レベルを維持すること、等々は年を取れば取るほどあらゆる活動の必要条件になる。ここを疎かにしているようでは、オタクを続ける続けないどころか、最悪、命を落とすことにもなりかねない。
4.関心
年を取っても当該ジャンルに関心を持ち続けること。
「老化すると新しいことにそれほど興味を示さなくなる」みたいな話もあるが、本当にそうなのか、私はちょっと疑問に思っている。個人的には、それより「知ってしまったことが多すぎて、好奇心が働く範囲が狭くなる」のほうが実態に即しているんじゃないかと疑う。ロシアのことわざどおり、「知りすぎは老けのもと」だ。「その作品は○○が元ネタだよ」みたいなオタクあるあるも、知りすぎてしまえば楽しさより気難しさの源泉になってしまう。知りすぎないほうが目の前のコンテンツを新しく、楽しく感じられる一面もある。しかし二十年、三十年と当該分野を掘り続けていれば、過去を知りすぎてしまって「その作品は○○が元ネタだよ」に陥ってしまいやすくなる。
オタクにとってそうした知識の蓄積もひとつの醍醐味、なすべき使命のように思えるかもしれない。しかし知ってしまうことには喪失も伴う。知って、知って、知って、なおも関心を維持するためには、狭いジャンルに囚われない活動とか、元ネタが新時代にどう料理されているのかを味わう態度とか、そういったものが必要だろう。控えめに言っても、知れば知るほど関心が高まる、というのは並みではない。
こうして考えると、「若さは趣味の七難隠す」だなーと思わずにいられない。
時間があれば趣味の活動もたくさんできる。仕事に就く前であること、家庭を持つ前であること、責任や裁量が大きくなる前であることは、オタクをやるうえで有利だ。経済力の乏しさを時間で解決することだってできる。その経済力にしても、中年期以降はなにかとお金がかかるし、老後がチラついて気前の良い消費が難しくなるし、健康維持のためのコストという問題も出現する。
でもって、その健康を損ねる可能性は年を取るほど高くなるし、若かった頃に前借りした身体的負債の請求書が舞い込んで来るのも中年期以降だ。若いうちは健康を前借りしての無茶なオタ活もできようが、中年期以降はその逆で、若いうちに前借りした健康の負債を支払いながらオタ活をせざるを得なくなるかもしれない。
こうしたことを、まだ若いうちに知悉することは難しい。よしんば前知識として理解しても、実感が得られるのはもっと先だ。だから若い年頃で「オタクライフを継続すること」の条件と思えることと、中年になって「オタクライフを継続すること」の条件と思えることには食い違いが生じる。たぶん、老人になって「オタクライフを継続すること」となるとまた違った風景がみえてくるのだろう。
そうしたうえで、我が身や周辺を顧みながら思うことがある。
それは、生きるのに必死になっている間は、オタクなんてやってられない、安定した趣味活動を続けていられないってことだ。例外は、オタク然とした活動が収入に直結しているケースぐらいだろうか。
オタクと呼ばれるものは、そもそも趣味人、趣味活動、趣味ジャンルなどを指す言葉だった。オタクは「生活」や「労働」ではない、少なくとも一般には「生活」や「労働」そのものを指すものではない。しかし人が生きていくには「生活」や「労働」がまさに必要になる。中年期に限ったことではないが、生きていくための「生活」や「労働」が重たくなってくると、その隙間に趣味をねじ込むのは一苦労になる。中年期ともなれば分別がついてきて、「生活」や「労働」を削りすぎれば生存が脅かされることなどわかりきっているから、それらの隙間に趣味をねじ込む余地はどうしても小さくなってくる。身体的に無理がきかない・社会的に無理がきかない・経済的に無理がきかない状況下なら尚更だ。
そうしたなか、それでも中年は、自分の趣味を捻出しようとする。中年であり且つオタクであるとは、「生活」や「労働」の間を縫うように捻出されるものだ。「生活」も「労働」も欠如した中年もいないわけではない。が、そうなると今度は別の要素が欠けてきて、やはり十全の趣味生活は期しがたい。かといって、健康を前借りする戦法がもう使えないのは前述のとおりである。
私たちの健康も、社会的立場も、経済力も、それぞれホメオスタシスを保っていなければ崩れてしまうものだから、それらを維持する与件が変わってくればすべきこと、しなければならないことも変わってくる。ましてや趣味のこと、オタクのこととなれば尚更である。中年期になってもオタクライフのホメオスタシスを維持するためには、趣味生活の前提となる諸々に気を配り、これをよく維持し、そのうえで「生活」や「労働」の隙間に巧く配置していく必要がある。やっている人はやっていることだし、今でもインターネット上でならしている古強者はそういう人ばかりだから簡単そうに見えるかもしれないが、その与件はけっこう厳しいし、しっかり支えていく意志と能力がなければ続かない。続けている人だけが、インターネット上で古強者としてならしている。
こういうことを、まだ若い人やどこかで無理をしながら趣味生活を続けている人にも確認してもらうことには意義があると思って、これを書きました。
ご安全に!
*1:それは、ほとんど「キッザニアに子どもがたくさん集まっているのを見て日本は少子化していない」と言っているのと同じ視界の偏りである
2025年12月4日の23時15分頃、「教養をつけるべし」という霊言が私に降ってきた。
12月4日23時15分、この、2025年の惣流アスカラングレーの誕生日にポストモダンの霊言が私のもとにおりてきた。霊言に曰く、「教養をつけよ、励め」だそうな。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma)2025年12月4日
ここ一か月ほどの私はインターネットが億劫だった。Xやブルースカイは特にそうで、疲弊した金曜夜にそれらを死んだ目で眺める時間が呪わしかった。こんな蜃気楼を眺めて何になる? と。
この一か月ほどX等を眺めていて思うのは、ファクトかフェイクかといった思考法はここではなんの意味も持たず、たぶんここの外においてもそれほど意味を持たないってことだ。「社会における社会の出来事について」ファクトとフェイクの思考法で臨んでも甲斐ないことになった。あるのは違った何かだけだ
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma)2025年12月4日
社会とそれを内側から支えているメディアがこんな風になってしまって、私はどうすべきなのか?
ひとつ。引きこもりたい。真贋が定まらず判断もできない情報の濁流から一定の距離を置いておきたい。もうひとつ。教養が欲しくなった、自分のアタマで考える力としての教養、が欲しくなった。
教養、とは色々な使われ方をする言葉で、ときには知識やうんちくのマウンティングの具材とみなされることもある。実際問題、それが有効で必要な場面も世の中にはあるのかもしれない。また、教養主義という言葉も過去にはあったが、これも言っていることが微妙に違っている風にみえて、なんだかわからない。一時期話題になった『教養主義の没落』には、
本書の対象は教養そのものよりも教養主義と教養主義者の有為転変のほうにある。近代日本社会を後景にしながら、教養主義(者)の軌跡を辿ることで、エリート学生文化のうつりゆく風景を描き、教養主義へのレクイエムとしたいのである。
(『教養主義の没落』より)
と記されていて、教養主義のほうにウエイトが置かれている。
人格の完成を目指す大正教養主義、学生運動や社会運動の寄る辺としての教養主義、近代社会における主体としての個人を陶冶する教養主義、等々。同書には、色々な時代の教養主義、大衆からエリートまでの教養主義が登場するが、時代のコンテキストが2025年と隔たっているのは言うまでもない。そして教養主義の時代にはモダン、近代の進歩、近代の啓蒙、近代の約束といったものが多かれ少なかれ残っていて、その近代における知的準拠点として教養なるものに期待が持てる時代だった。
今はどうだろうか?
この文章のいちばんはじめに、私は「なぜならポストモダンが本当にやってきたからだ」と書いた。ポストモダン、ポスト近代、ポスト構造主義が論じられ流行したのは20世紀で、確かにその頃にもそれらの言葉があてはまる現象はあり、今こそポスト近代だとみていた人は当時実際にいたのだろう。
けれども後期近代とか、ハイモダニティという別の言葉を用いる論者たちの考えに基づくなら、近代は終わったのでなく徹底された、または変形したのであって、そのうえで知的準拠点は相変わらず近代の諸思想だった。2010年代のはじめのほうまでは、この後期近代やハイモダニティといった考え方は割と世の中によく当てはまっていて、近代末期の情況を掬い取っていたと私は感じる。
しかし2020年代以降の現状を、私は「本当にやってきたポストモダン」「本当の近代の後」と捉えている。近代の進歩は部分的に続いているかもしれない、いや、少なくとも続いている部分はあろう。けれども近代の啓蒙、近代の約束を成立させている諸条件は半世紀前~四半世紀前に比べてガタガタになっている。近代の啓蒙や近代の約束が成り立っている風に装っていた化けの皮もはがれてきた。たとえばパレスチナで起こっている出来事などは、西洋近代体制の羊頭狗肉*1っぷりを物語っている。
こんな混沌とした時代のなかで、自分はどうすべきだろうか? 寄る辺がない。だから私は自分のアタマで考えなければと思った。だからといって、Xやブルースカイに流れていることのひとつひとつの真贋について自分のアタマで考えようとするわけではない。やるだけ無駄だし、やろうとしてもきっと自分自身の感情やポジションに喰われ、ぬかるみにはまるだけだ。さしあたり、世俗の出来事については(近代という体制のバイアスに基づいていることを承知のうえで)NHKやBBCや新聞などに判断をアウトソースしてしまうのがベターだと想像している。
自分のアタマで考えるのは、NHKやBBCや新聞が教えてくれなさそうなこと、たとえば自分たち自身の社会適応についてだ。混沌の時代にあって人生の舵取りをしていくのは難しい。けれども社会適応は、より妥当性のあるかたちで状況を把握できる者が有利になりやすく、同じ把握でも早く把握した者が遅く把握する者よりもアドバンテージを持てるのが通例だ。完璧でなくていい。ほんの少しでも状況をうまく把握し、ほんの少しでも早く把握できればそれで充分だ。
しかし、そのためにはアンテナが高いだけでも駄目だ。アンテナの感度は人並みでもたぶん構わない。それより、肝心な事柄についてもっと粘り強く考える力が要る。その力、自分のアタマの筋力に相当する力を与えるものはいったい何なのか。それが教養ではないか?
教養という言葉には近代のにおいがこびりついている。が、この期に及んで近代のプロダクツを無批判に受け入れると、今起こっていることを近代というバイアスに基づいて解釈し過ぎる危険を含んでいる。他方で、知的純拠点たりえるオルタナティブを、私は思いつけない*2。仕方ないから、近代の書籍や作品に「これは近代のインサイダーです」という付箋を貼り付けながら私は参考にする。でも、そうすることで、少しだけ近代の重力に魂を奪われた状態がマシになる気がする。
そうしたうえで、過去に考えを練って練って練った人たちの思考の足跡、論の立て方、ものを考える際の手つきを私は少しでも学びたい。何が書いてあるかだけでなく、どう書かれているのか、どう書いているのかも重要だ。別に書籍を読むばかりが能でもない。絵画や彫刻もあるだろうし、ユースカルチャーの産物、たとえばゲームやアニメを参照してはいけないこともないだろう。教養を、難しい本、まして人文社会科学の本に絞るなどあってはならないことだ。印刷技術の産物は確かに重要だが、だからこそその外にも目を向けなければ印刷技術の知に囚われてしまう。
自分のアタマで考えるといっても、要は巨人の肩の上で歌ったり踊ったりしようって肚だから、自分が乗っている巨人について知っておくに越したことはない。その作業も、ここでいう教養を得るということにかなり近いだろう。
もっとうまく、もっと自由に巨人たちの肩の上に乗り、そこで歌ったり踊ったり眺めたりするための教養が欲しくなった。欲しいものは、戦ってでも手に入れるまでだ。
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。
令和人文主義者全体それぞれの人たちはあまり分からないが、少なくとも三宅さんの言う「読書」はけっこうラディカルなものを志向しているように見えるが
— ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen)2025年12月1日
読書をすることで一人になれるだとか半身になれるだとか言っているのって、今ある社会秩序を揺るがそうとしてはいるよね
— ホリィセン放言取り急ぎ (@noisysen)2025年12月1日
はじめに、孤独でも一人でもない読書の、わかりやすい例について考えてみたい。社会には、狭義の「みんなで読む読書」に相当する行為が幾つかある。それらの読書は多かれ少なかれ孤独ではない。
たとえば大学の研究室で皆で本を読む時、その読書は孤独ではない。そのとき読書は本と一対一で向き合うものではなく、指導教官と学生たちがコミュニケーションを行いながら書籍を紐解いていくかたちになる。そういう読書の良いところは、指導教官から読み方や読み筋を教えてもらえること、他の学生と議論をしたり補足しあったりしながら読めるところだ。そのかわり、読み方や読み筋はある程度まで指導教官や他の学生の影響下に入ることになる。読書をとおしてインストールされる知識、または読書体験そのものは、指導教官や他のゼミ生からの影響のカラーを免れ得ない*1。
それよりもっと緩い、読書会という集まりもある。読書会には指導教官は存在しないが、コミュニケーションは存在する。読書会には複数名が含まれ、そこにコミュニケーションもあるだろうし、読み方や読み筋についても幅があって面白かろう。とはいえ、この場合もインストールされる知識や読書体験には他の参加者からの影響のカラーが紛れ込む。
それらをもっと緩く・もっと広くした体験として、「話題の本を読む」「誰かの書評記事を見て本を読む」という体験もある。自分の属しているインターネットの界隈で話題になっている本があり、その感想文や引用文などがチラチラ見える状況下で読む読書は、読書会ほどではないにせよ、その本について言及しているメンバーからの影響を被る可能性がある。同じく、書評記事を見て本を読む行為も、大学の指導教官ほどではないにせよ、書評記事というメディアをとおして書評者とコミュニケーションが行われ、書評者の影響を受けながらの読書になる。なら、それだって厳密には孤独の読書と言い切れない。
逆に、自分が読書について「発信している」場合もあろう。
レビューを書き残したり、その本についてSNSに書いたりしているなら、それも孤独の読書とは言えない。読書した事実や読書をとおして獲得したことをブログや SNSに書き残し、他人がそれを読むよう期待するのはコミュニケーションである。そうしたコミュニケーションが織り込み済みの読書はどうにも孤独じゃないし、それで「いいね」がついたりつかなかったりする読書も孤独じゃない。それも読書には違いなかろう。ただし、それはコミュニケーションに紐ついた読書だと言えるし、社会的相互行為としての読書、ときには政治的行為としての読書というニュアンスさえ含んでいるかもしれない。
こうした要素をできるだけ切り捨て、読書体験の孤独さの純度をあげていくとしたら? 最も孤独な読書とは、ぶらりと本屋を訪れ、店内をぶらぶらしたり立ち読みしたりしたうえでこれぞ、という見知らぬ本を手に取る体験……あたりが該当するんじゃないだろうか。書店員のオススメ欄に置かれていた本を読む読書、派手な広告に惹かれて読む読書、帯に記された推薦者の売り文句に釣られて読む読書も、若干、孤独ではないかもしれない。なぜならそれらのメディアをとおしてコミュニケーションが発生し、そのぶん、誰かの影響下に入っていると言えるからだ。
そういったものをガン無視して、前評判や前知識や人間関係などと無関係に手に取って読む読書が、一般的には孤独の読書といえるんじゃないかと思う。
で、そうやって前評判や前知識や人間関係から距離を置いた読書をしていてさえ、最近の私は孤独を感じない。なぜなら、そこには著者という人間がいるからだ。
たとえば、この『西洋近代の罪』という本には大澤真幸という著者がいらっしゃる。
これらは、全体としてどこに向かっているのか。それは、西洋近代の裁量の部分、啓蒙主義が見出した価値や理念の否定であろう。多文化主義、気候主義、LGBTQ+、ジェンダーの平等等の思想の多くは、直接的には、20世紀の終わりから21世紀にかけての時期に唱えられるようになった新しいものだが、それらを基礎づけている基本的な価値や理念は、ヨーロッパの啓蒙主義の時代(17-18世紀)に見出されたものだ。多文化主義や気候正義等は、この時代に定期された人権、平等、自由等々の概念の発展や現代版だ。トランプの制作は、これらをすべて否定するものである。
(中略)
トランプは、AIの開発などIT関連のビジネスを大々的に支援するつもりでいる。これもまた、西洋近代の理念的な産物の否定を促進する仕事になる。なぜか? ミシェル・フーコーが、1966年に発表した『言葉と物』で、西洋近代(19世紀)のエピステーメー(認識枠組み)は、「人間」の概念を中心に置いて成り立っている、。と論じた。フーコーは1960年代後半の段階で、人間主義の終焉を予言していたわけだが、AIの急速な発展とともに私たちが今立ち会っているのは、19世紀的な人間概念の崩壊の過程以外のなにものでもない。トランプのIT企業への肩入れは、この家庭にさおさすものである。
私は大澤真幸という著者が特別に好きなわけではないが、上掲の文章などを読むと、「ああ、この著者さんならこう書くのはわかる気がするなー」などと感じ取ったりする。近代社会と啓蒙とトランプとAIについて論じる人はたくさんいようが、この著者ならこう書くのはすごくわかるし、この著者がこう書いたからこそ私が受ける影響というのもある。たとえば私は、これを読んで本棚の隅っこで居眠りしているフーコー『言葉と物』を叩き起こしたいと思ったわけだ。
この本に限らず、新書タイプの書籍は著者に教えられて次の読書に広がっていくことが多い。新書というフォーマットはおしゃべりだと思う。新書それ自体で一冊の読み物をなしていると同時に、著者が「この本は面白かったよ」「この本を引用してこれを書いているんだよ」と教えてくれる。これは新書に限ったことでもないか。著者はいつだって何事かを読者に投げかけてくるし、本とはそのようなメディアだ。だから私は読書をとおしていつでも著者の影響を受けているし、著者とのコミュニケーションを感じ取っている。
さきほど挙げた大澤真幸の新書にしても、それを通して私は彼の近代観、彼の啓蒙観、彼の21世紀観を浴びているわけだ。そしてイエス! と思ったり ノー! と思ったり ウムム…… と思ったりして、いわば討論している。私はこれをkindle版で導入したけど、メモ欄には、著者に向かって書いたことや自分と著者の考えを結び付けるために書いた殴り書きが残されている。読書であると同時に紛れもないコミュニケーションだと思う。
で、読書の面白さとヤバさのきわみにあるのは、「読書は天才や怪物を召喚する」点にあると思うんですよ。
新書の著者だってコミュニケーションの相手として十分に面白いしヤバい。けれども、読書でコミュニケーションできる相手はもっともっと広い。その分野を代表する学究や思想家、数百年前の偉人とさえコミュニケーションできてしまう。
「読んだら二度と戻れなくなる本」として私が経験した本といえば、『消費社会の神話と構造』『幼児期と社会』『進化と人間行動』『ディスタンクシオン』あたりで、それらを読んだ後は前のように娑婆を眺められなくなった。内容はさておき、それらの本の膂力に私はねじ伏せられ、感化されてしまったhttps://t.co/GWDVu2o22y
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma)2025年11月28日
そのうえ、そうした強烈すぎる天才や怪物たちは何度でも蘇ってくれる。たとえば私も、さきに挙げた書籍たちを何度か通読している。飽きる気配はなく、暇な時にパラパラとめくったりする。手許に書籍さえあれば天才や怪物たちは何度でも召喚できるし、する甲斐がある。まるで『Fate /Grand Order』のカルデア召喚術のごとく、私たちは読書をとおして天才や偉人たちを何度も何度も呼び出し、サーヴァントのように使役することができる。
もちろん、ここでいう使役とは考える対象としての使役、そしてコミュニケーションとしての使役だ。自分の代わりに考えてもらう使役もあり得るだろう。時間をかけて向き合うも良し、枕頭の書として少しずつ言葉をわけてもらうも良し。彼(彼女)らは一筋縄ではいかないので、一度読んだだけで理解できるとは限らないし、下僕にならずに済むのかもわからない。が、何度でもいつまでも召喚できるのだから、細かいことは気にしなくて構わない。なにせ相手は、何十年も何百年も前に時代や分野のパイオニアになったような偉人なのだ。まずは怪物じみたパワーに惚れこみ、噛みしめようじゃないか。
そうして自分の本棚の一番良い場所に、お気に入りの天才や怪物の本を並べておけば、彼らを召喚しっぱなしにしているにも等しい。これも『Fate Grand Order』のチームバトルに似て、自室のいちばん手近な本棚に並べる本のチョイスは、(ソーシャルゲームやカードゲームで)デッキを組むのに限りなく近い。いちばん手近な本棚の本たちは、ほぼ直接的に自分の思考やアイデアに影響をもたらすし、それらは一番手近な話し相手としても機能する。個人的なイメージとしては、以下のようなチョイスに近い。

手近な本棚って、ソーシャルゲームのお気に入りデッキ編成にすごく近いと思う。今、自分に必要なバフや援助を与えてくれる本を並べておくと、いろいろはかどりやすくなるのでお勧め。
ページさえめくれば、いつでも過去の天才や偉人、怪物じみた力を持った著者たちが待ち構えていて、相手をしてくれるって素晴らしいと思いませんか? 私は思います、本ってすごい発明品だよね。
こうして考える場合、読書はまったく孤独な体験でなく、いつでも著者とお話できる召喚魔術ってことになる。私はそんな風に読書をしていて、私の本棚からはたくさんの偉人や天才や怪物や大学者たちの叫び声やうめき声や金切り声や演説が聞こえてくる。大きな書店や図書館でも同様だ。そうした著者たちの声がよく聞こえる日には、寂しがりな私でさえ寂しさが吹き飛んでしまう。
*1:もちろん、それがリテラシーやディシプリンを身に付けるうえで大切なのだけど、それは於く
私の2024年は、まだ終わっていない。
私にとって2024年は「人間の自己家畜化」と「推し活」と「中年危機」についてひたすら書き続け、しゃべりつづける年だった。ありがたいことに色々な人にご関心を持っていただき、私もたくさん課題を持ち帰った。それは良かったのだけど、2025年になっても問い合わせが続くのは想定外だった。ちょっと負担になりはじめている。
そのなかで、今日は「中年危機」についてグチグチ書きたい。
私は現代人と私自身の年の取り方に関心があって、2010年代には当時の若作りな傾向、たとえば"美魔女"や"チョイ悪オヤジ"に象徴されるようなエイジングの混乱に違和感を表明する本を書いたりした*1。当時は現在以上に中年や老年に対するネガティブなイメージが流通していて、加齢恐怖症めいた、若さ至上主義っぽい社会風潮があったように思う。
で、あれから10年が経過し、好ましい中年像や老年像は少しはできあがっただろうか?
日本社会全体が年を取ったためか、昔ほどの若作りは目立たなくなった。若者然としたライフスタイルやメンタリティを後生大事にすることは、今、決してカッコいいことではないように私には見えている。
しかしそれは私自身が年を取ったため、それも私が混乱しながら年を取ったためそう思っているだけかもしれない。若者と呼ばれる年齢から遠く離れ、中年期の渦中にある私には、私自身と私の世代がどれぐらい若作り的なのか、それともエイジングの歩みを発見しているのか、うまく論じられないと思う。
その一方で、私に身体的・社会的・心理的変化がはっきり起こったのも事実だ。今の私の心境は30歳当時とも40歳当時とはかなり違う。私の知己たちの心境も変わったように思う。とはいっても、かつて私が年上世代のエイジングに違和感を投げかけていた頃のように、私自身と私の世代のエイジングに疑問を投げかけることは難しい。私たちの世代のエイジングの是非については、下の世代が批判的に検討すべきことだろうと思う。
かわって意識する機会が増えたのが中年危機だ。私自身についても、少なくとも数年前にそれがあったと感じているし、対処が必要だった。でも、その対処が福をなした結果として2024年に3冊の本を同時に出版できたので、当時の一時的な混乱は結果的に良かったのだろう*2。
それなら、私は中年危機を克服したと言えるか?
いやー、どうだろう? 私がそれを克服したのか克服していないのか、それともこれからが本番かなんて、本当は誰にもわからない。
数年前の行き詰まりを突破したつもりでも、還暦までにはまだ時間があるし、なんでもかんでも割り切れたわけじゃない。中年覚悟完了とはとても言えない。私にも若さへの未練がある。心のなかに、せめぎ合うものがある。
ときどき、鏡にうつる自分の姿に、生命の翳りを探してしまう。
荒れた肌や消えなくなった皺は、雄弁だ。普段は、そうした歳月の刻印をスルーできているが、疲弊している日やネガティブな日には気にしてしまう。心の蓋がとれた瞬間には、「もうこの身体はどうしようもない!」といった気持ちになったりする。
過ぎ去った時間や失われた可能性についてもそうだ。思春期~青年期に比べて、夢や可能性や"人生の余白"を意識し、あてにする度合いは減った。過ごしてきた時間に対する印象もそれほど悪くない。だけど、たまにそれらの亡霊が蘇る日もある。しょうがないですね。甲斐のないことですね。わかっているが、それでも、過去にあったはずの夢や可能性に気持ちが囚われてしまう日がゼロになったわけでもない。
私のなかには子ども時代の気持ちや思春期の気持ちや青年期の気持ちも強烈に生き残っていて、ときどき私の袖をクイクイと引っ張るのだ。今の私には、中年期らしい気持ちが堆積していて、それは子ども時代や思春期には無かった種類の堆積物に違いない。だからといって、若かった頃への執着や、若かったらできるはずのことへの執着がゼロになったわけでもなく、潤いを失った皮膚の内側をそれらが這い回っている……のが本当のところだ。
こんな自分自身を省みている真っ最中に『中年危機』というイシューについて読み書きしていると、自嘲不可避というか、自分自身のおかしさに吹き出したくなってしまう。しょうがないですねえ。まあでも、私がこうして不承不承にエイジングの階段をのぼっていくからこそ、こんなふうに読み書きできるのかな、と思う部分もなくはない。執着していなければ、そもそもエイジングに関心を持とうとしないだろう。言及するということは、関心があるということと表裏一体だ。そうして関心を持ちながら、中年らしくなっていく自分自身の心身に慣れ、慣らされていき、思春期や児童期の亡霊たちをどうにか手懐けていく。本当は、他の人もそれぐらいが精一杯なんだろうか? 願わくは、それが私にとっての最適解でありますように。
中年危機や中年期心性について記された文献をいくら読みこなしたところで、結局のところ、私のエイジングはもっとゴチャゴチャしていて、執着まみれで、ズルズルと進んでいくのだろうと思う。それが中年危機の克服と呼べたものなのか、私にはわからない。でも、人間ってスッキリしない生き物じゃないですか。少なくとも私はスッキリしない生き物だと自分自身のことを思っている。だから、文献をとおしてエイジングについて調べたり年上の人の生きざまをロールモデルにしたりして役立てながら、割り切れない部分についてはなだめすかしたり、ごまかしたり、社会的体裁に身を任せたりしながらやってくしかないし、やっていくのが私のエイジングの実態なんじゃないかな、と最近は思ったりしています。
なので、私にとっても中年危機は他人事にできる領域のイシューではなく、今もここにあって泥んこまみれになっているイシューなんですよと、今日は言いたい気持ちになったのでこれを書きました。
※本文はここまでです。今回の有料パートは中年危機とは違うことを少し書いているだけなので、常連の方以外は読まなくていいと思います。
*1:講談社から出していただいた『「若作りうつ」社会』のこと
*2:ちなみに、この一時的な混乱については、何人かのはてなブックマークユーザーから重要な示唆をもらい、私は自分が混乱していること・行き詰まっていることを自覚させてもらった。はてなブックマークユーザーには頼りにならない人もいるが、ある日・あるユーザーの意外なコメントが事態を大きく変えることがあるから無視できない
ちょうど一か月前に「早起きできるようになった。年を取った - シロクマの屑籠」と書いたけれども、11月に入ってからは過労死な気分だ。矛盾も甚だしいが、矛盾した状況を生きていることを書き残せば、生命力の不安定な脈動を思い出せる気がするので書いてみる。
今週はとても忙しくて、週のはじめからフルパワー稼働だった。最近は午後8時を回っても普通に全力で働けてしまうので困る。リンク先にあるとおり、あまり遅くまで働くと眠れなくなるので午後9時までには作業を停止したいのだが、昨日とおとといは午後10時まで働いてしまったし、働く必要のあることごとが存在していたりする。今期唯一楽しみにしている『ウマ娘シンデレラグレイ』を視聴するのも遅れているし、『ヨーロッパユニバーサリス5』を遊ぶなど夢のまた夢だ。
昭和時代には「24時間働けますか」などとリゲインのCMは歌っていたが、密度の高い令和の労働状況のなかで同じ時間働いていたらたちまち心身が溶けるだろう。私の就業時間+αは、労働生産性の向上や副業としての文章づくりも含めて力の限り・効率のおよぶ限りやり遂げるもので、かつての自分自身のそれを大幅に上回る。私は勤勉になってしまった。異常に勤勉だ。資本主義の悪魔や近代社会の魍魎に憑かれているのではないかと我が身を勘ぐりたくなる。
勤勉のバックグラウンドに怠惰がある点も見逃せない。私は怠惰なのだ。怠惰ゆえに勤勉である。怠惰をきわめんとして勤勉をやってしまい、気がつけば自分自身の首がしまっている。向上するのは生産性だけだ。それでは良くないとも言えるし、それで良いとも言える。……いいわけあるか!
この身体は、オーバーヒートするマシンのように駆動死反応する。夕方になってくると頭痛がしてくる。たびたび身体は血糖を求める。思うさま糖分を補充していれば糖尿病にまっしぐらだから、飢えたまま作業をしたり干した昆布をかじったまま作業をしたりする。35歳の頃の私だったら休んでいただろう場面でも働くし働けてしまう。衰えた身体。老眼。腰痛。それでも作業できてしまうのは悪いことだ。きりがない。
仕事ができて、できる意味や意義もあって、「たぶん今が生涯でいちばん仕事ができるんだ」と魍魎が耳元でささやいて、それらに取り憑かれている自分がいる。文章制作や文献調査もそうだ。繰り返すが私はワーカホリックでなく怠惰なので、休暇をこのうえなく好む。だのに仕事や活動にどこか魅入られている自分自身もいて、それが自分の身体をいじめつつある。これをずっと続けていたら、たぶん血圧や血糖がおかしくなり、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞などに討たれるだろう。怠惰であるはずの自分がそんなことを心配しなきゃいけないとはね。でも、この頭痛は本物だ。間違いなく、一生のなかで今が一番頭痛の発生頻度が高くなっている。
40代までと比較して働く意義や意味が異様に高まり、働く能力も異様に高まり、だのに自分の身体の耐久性が低下しているというのは怖いものだな、と思う。私の身体は着実に老化していて、壊れたら取返しがつかない。私は身体からのメッセージとしての痛みや疲労に敏感であるべき、なのだろうと思う。ところが夢中になって作業している時、私はしばしばその身体からのメッセージに鈍感になる。そんなことを一週間続けていると、金曜日の午前にはきついと感じるとようになり、土曜日はミイラのように寝ている。『ヨーロッパユニバーサリス5』なんてやっている場合じゃない。土日すら休まなかったら、すみやかに心身を破壊してしまうだろう。
できることが増え、すべきことも増えたことで、良かったこともたくさんある。フロイトが言ったとされる*1、中年の課題「働くことと愛すること」の渦中に私はいると思うが、それゆえ、リミッターを超えるとまではいかなくても、身体のアラートが出るまで働くパターンを毎週繰り返している。危険な兆候だ。
ははあ、人生にはこういう風景もあったのか。これは、ここまで来てみなければまったくわからなかった境地だった。20代や30代の、身体のホメオスタシス機構が丈夫で、怠惰がもっと前に出ていて構わなかった頃には想像すらできなかった境地でもあった。私は、人生のなかで新しい一ページをめくるのが大好きなので、こういう境地が存在すると自覚できたのは獲得だったが、これは一歩間違えれば全部失いかねないやつなので、ここでこれを書いておいて、自戒にしたいと思っています。
*1:注:実際には言ったかどうかは甚だ怪しい
id:p_shirokumaはてなブログProイーストプレス『ないものとされた世代の私たち』、早川書房『人間はどこまで家畜か』大和書房『「推し」で心はみたされる?』好評発売中! 仕事連絡は「c6eneroアットhotmail.com」まで。ただし、忙しくて全部のお仕事はお引き受けできないかもしれません。
引用をストックしました
引用するにはまずログインしてください
引用をストックできませんでした。再度お試しください
限定公開記事のため引用できません。