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On The Bluff

横浜 山手 居留地ものがたり

■「学校の恩人」キルビー氏の帰国

E. F. キルビー

1889年2月26日火曜日正午、フリント・キルビー氏とその家族は横浜から神戸へと向かう西京丸に乗船した。

神戸でカーマーゼンシャー号に乗り換えてイギリスに帰郷するのである。

§

激しい雨と寒さにもかかわらず、波止場にはキルビー一家との別れを惜しむために大勢の人びとの姿があった。

中でも目立ったのは少年たちの一団。

ヒントン校長とファーデル教諭に率いられたヴィクトリア・パブリックスクールの生徒たちである。

§

イギリス人エドワード・フリント・キルビーは1873年5月に来日し、ハドソン・マルコム商会に勤務した。

そこに10年ほど務めた後、30代半ばで独立し、キルビー商会をおこした。

以来、横浜外国人居留地の重鎮として外国人商工会議所、クライスト・チャーチ、山手病院、居留地消防隊の委員を歴任。

横浜クリケット&アスレチッククラブ(YC&AC)の会長も務めている。

§

キルビー夫人

キルビー一家が去ったことを伝える地元紙は、横浜の外国人コミュニティーがこの別れを極めて残念に思っていると記している。

その第一の理由として、キルビー氏が有用な人物であったことを挙げているが、人柄についても賛辞を惜しんでいない。

§

どんな日でも、どんな状況でも、彼は常に変わることがなかった。

東洋においても彼の濃やかな兄弟愛は移ろうことなく、また優越感に浸ることもなかった。

横浜の一部の人びとに見られるような 「階級」意識を彼は全く持ち合わせていなかった。

これらの理由から、私たちは彼を失ったことを残念に思っている」

§

キルビー氏は1887年にブラフ179番地に開校したヴィクトリア・パブリックスクールの創設に尽力したイギリス人居留民の一人であった。

「女王陛下のジュビリーの記念碑たる同校が今日あるのも、彼の貢献によるところが大きい」と新聞は伝えている。

§

旅立ちに先立つ2月23日土曜日の朝。

ヴィクトリア・パブリックスクールの生徒たちはキルビー氏への感謝を込めて記念の品を手渡そうとしていた。

それは美しいブロンズの像で、龍が花瓶を支えているようなデザインだった。

§

新聞はそのときの様子を次のように伝えている。

§

生徒の一人が代表して次のように述べた。

§

キルビーさん、あなたはわがヴィクトリア・パブリックスクールの設立にあたりご尽力くださり、また設立後も学校のために心を砕いてくださいました。

ヴィクトリア・パブリックスクール一同は、あなたの多大なご貢献に感謝を表したいと思います。

あなたは私たちのために貴重な時間を費やし、多くの便宜を図ってくださいました。

イギリスでのご幸福と繁栄を願っております。

そして、あなたが再びここに戻られた時、あなたは学校が新たな生徒たちを迎えて栄えており、彼らもまた学校への誇りと、創設者の方々への尊敬の意を抱いていることに気づくことでしょう。

イギリスでもあなたが私たちのことを思い出してくださるよう、記念品を贈ります。

どうぞお受け取りください。

§

キルビー氏は、生徒たちの善意にあふれた表現、そして自らが学校のためにしてきたことへの感謝のことばに対して謝意を表した。

そして横浜で得た多くの記念品の中でも、生徒たちから贈られた美しいブロンズが最も素晴らしいものであること、またこの像を見るたびに、彼ら善意を思い出しては誇りに思うであろうことは間違いないと述べた。

§

次に彼は生徒たちに言い聞かせるように次のように語った。

§

学校の授業の大部分は先生たちの手のなかにありますが、学校の評判は君たちの手に委ねられています。

なぜならば、君たちがここで教えられたことをどのように全うするかということ、とりわけ学校の外での君たちがどのように振る舞うかということによって、人びとは学校を判断するからです。

そのため教育だけでなく、君たちが学校で受ける訓練全体が、君たちを待ち受けているこれからの人生のどのような場面においても、あらゆる意味で役に立つことは明らかです。

世界中の誰の目の前においても、学校の名誉を保つことができるよう心しなくてはなりません。

そうすれば、ヴィクトリア・パブリックスクールの一員であること、もしくはあったことがそのまま君たち自身の推薦状となるでしょう。

§

キルビー氏の言葉に生徒たちは万歳三唱でこたえた。

§

数日後、夫妻を乗せたボートが横浜港を離れ西京丸へ向かって動き出したとき、ヴィクトリア・パブリックスクールの生徒たちは再び万歳三唱を叫びながら「学校の恩人」の姿を見送ったという。

 

図版
・E. F. キルビー夫妻肖像写真(筆者蔵)

参考資料
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
The JapanGazette, Feb. 26, 1889
The Japan Weekly Mail, March 2, 1889

 
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掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
 

■Bluff(山手町)番地別記事一覧

横浜山手外国人居留地――かつてブラフと呼ばれたこの地域には、横浜開港から関東大震災までの約60年間、さまざまな様式の洋館が建ち並び、イギリス人を始めとする欧米人たちが日本人社会とはかけ離れた独自の生活を営んでいました。このブログは当時発行されていた英字新聞などから彼らの暮らしを思い起こさせるエピソードを拾い出して皆様にご紹介しています。

 

Bluff地図

Bluff:現在の横浜市中区山手町。居留地時代から現在に至るまで同じ番地が使われています。

ドイツハウスBluff 25
ドイツハウス定礎式
ミシェル先生、ドイツ学校附属幼稚園創設に奮闘す
ドイツハウス炎上

ベーマー商会Bluff 28
ベーマー商会創立25周年記念祝賀会

ヴィンセント邸Bluff 31
元英国駐屯軍兵士ヴィンセント夫妻の金婚式

エディソン邸Bluff 35
米国人写真師のカメラがとらえたマグニチュード7.5

ドイツ帝国海軍病院Bluff 40, 41詳細
ドイツ帝国海軍病院起工式
ドイツ帝国海軍病院創立25周年記念祝賀会

カトリック聖心聖堂Bluff 44
バンドからフラフへ カトリック聖心聖堂献堂式
ペティエ神父叙階50周年記念式典(前編)
ペティエ神父叙階50周年記念式典(後編)

ユニオン・チャーチBluff 49
私たちの「家庭」となる教会を(ユニオン・チャーチ献堂・前編)
「家族」の願いが叶った日(ユニオン・チャーチ献堂・後編)

横浜外国人学校Bluff 76B
「横浜外国人学校」新校舎視察会

サンモール修道院Bluff 83
横浜で教育活動50年―サンモール記念祭

メイプルズホテルBluff 85
横浜に誇りと実利をもたらす施設―メイプルズホテル堂々オープン!

プール邸Bluff 89
古き横浜の思い出-1888年から1899年-(前編)
古き横浜の思い出-1888年から1899年-(後編)

横浜外国人墓地 Bluff 92-95
エルドリッジ少佐かく語りき―1897年デコレーション・デー
横浜居留地が愛したアマチュア音楽家カイル氏の葬儀
写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(前編)
写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(後編)
花は手向けずとも―37年間墓地の会計係を務めたジレット氏の葬儀
外国人墓地に眠る兵士らの魂に捧ぐ―米国記念碑完成除幕式
英国皇太子の山手訪問

ウィーラー医師邸Bluff 97
万歳、女王陛下即位60年! バンドとブラフが歓喜に沸いた日
ウィーラー医師の愛娘の結婚式

米国海軍病院Bluff 99詳細
写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(前編)
写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(後編)
ヨコハマで祖国に奉仕―米国赤十字社日本支部横浜分隊の女性たち

モリソン邸Bluff 118A
「サン・トイ」再び
モリソン夫妻の銀婚式(前編)
モリソン夫妻の銀婚式(後編)

ビール工場Bluff 123
スプリング・ヴァレー・ブルワリー工場見学記(前編)
スプリング・ヴァレー・ブルワリー工場見学記(後編)
英国領事裁判開廷(ビール工場での騒動・前編)
犯行の動機(ビール工場での騒動・後編)

ヴァン・スカイック・ホール(フエリス和英女学校講堂)Bluff 178
ブラフに日本女子教育の殿堂完成! フェリス設立14周年記念式典
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フェリス設立14周年記念式典(その3)
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横浜生まれの音楽家ヴィンセント氏の旅立ち(後編)
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われ喜び叫ばん わが王の御前に目覚めて―音楽教師ミス・モールトンの死
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ヴィクトリア・パブリックスクールBluff 179詳細
ヴィクトリア・パブリックスクール開校
ヴィクトリア・パブリックスクールの1889年夏学期
「第一等の金製賞牌を得たるは・・・」ヴィクトリア・パブリックスクール1889年夏の表彰式
「これは英語とは言えません!」ハーン先生の綴り方教室
ヴィクトリア・パブリックスクール1890年夏の表彰式
学校を救え!―ヴィクトリア・パブリックスクール年次総会1893

フランス領事館Bluff 185
「極東一のすばらしい名建築のひとつ」―フランス領事館ついに完成!

共立女学校(横浜共立学園Bluff 212
女性のために働く女性たちー米紙が伝える婦人伝道師たちの活躍

ブラフガーデン(山手公園Bluff 230
惜しまれつつ横浜から北京へ―英国公使ハリー・パークス卿送別舞踏会
米国の英雄横浜に来る! グラント将軍おもてなし大作戦

クライストチャーチ(山手聖公会Bluff 234
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エリノア・プール嬢の結婚式
ウィーラー医師の誕生祝い

ヘボンBluff 245
ヘボン夫妻の金婚式祝賀会

パブリックホール(山手ゲーテ座)Bluff 256、257
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■全世界が諸君の故郷、すべての人が諸君の兄弟ーセントジョセフ卒業生に贈る言葉

1901年(明治34年)9月、横浜山手にセントジョセフ・カレッジという外国人子弟を対象とした学校が開校した(後にセントジョセフ・インターナショナルカレッジと名称変更)。

フランスの修道会であるカトリック・マリア会によって設立されたこの教育機関は、初等科から高等科まで幅広い年齢層の少年たちを国籍、宗教にかかわらず受け入れ、フランス人やアメリカ人の修道士が英語で授業を行った。

§

1922年7月6日木曜日、この日はセントジョセフ・カレッジの21回目の卒業式である。

会場はフェリス女学校内のヴァン・スカイック・ホール(山手町178番地)。

山手町85番地に位置するセントジョセフから歩いて5分ばかりのところだ。

§

W・ライン氏指揮、セントジョセフ・カレッジ・オーケストラによるヒルドレス作曲「タイタニア」の演奏で式は開幕した。

§

 

卒業生代表としてのD・デーヴァーが答辞を、アルバート・ウォーデンが送辞を述べた後、ガシー校長より、卒業生全員に卒業証書が、成績優秀者にメダルや記念品などが授与された。

§

続いてジョセフ・E・デベッカー氏が登壇し、11名の卒業生らに祝いの言葉を述べた。

J. E. デベッカー

デベッカー氏はイギリス人法律家で、横浜の古参の外国人の一人である。

日本人女性を妻として日本国籍を取得し、小林米珂という日本名でも知られていた。

§

セントジョセフ・カレッジ卒業生諸君、教職員の皆さん―。

このたび、校長先生から、21回目の卒業式に当たるこの喜ばしい機会に、一言お話しするようにとのご依頼を受けました。

§

今日、皆様にご挨拶させていただけることを光栄に思います。

また、このところ私の心の中にあった考えを述べる機会を与えていただき、光栄であると同時に感謝の気持ちでいっぱいです。

§

まず第一にセントジョセフ・カレッジのような立派な教育施設が横浜にあり、青少年を指導することができるという地域社会の幸運を心から祝福すべきであると思います。

§

特に私が申し上げたいのは、ガシー校長と先生方の揺るぎない、そして自己犠牲的な献身があったればこそ、多くの困難と、条件的に不利な状況に置かれているにも関わらず、この学校がこのような輝かしい成功を収めることができたのだということです。

§

信じていただきたいのですが、私が次のように申し上げても、決して賞賛しすぎるということはありません。

すなわち、この組織を築き上げるために長い年月をかけて奮闘した紳士たちの勇敢な姿を描き出す適切な言葉を見いだすことはできないということです。

§

これは容易に成しえる業ではありませんでした。

§

彼ら困難な取り組みに立ち向かいました。

それはもし環境に恵まれていたとしても、十分骨の折れるものでした。

ことにこの横浜では、地域の事情と幾重にも重なった偏見によって状況はさらに複雑でした。

しかし、様々な評判をものともせず、勇敢な忍耐と不屈の決意で取り組んだ結果、長きにわたる気概と根性が勝利し、成功を勝ち取ったのです。

§

困難が奇跡を生むという言葉がありますが、セントジョセフ・カレッジはそれが正しいことを裏付ける明白な証拠です。

その驚異的な成功は、当初の困難があったからこそ達成されたものであります。

すなわち困難が創設者たちの精神を鍛え、不屈の決意を強化し、彼らの心を奮い立たせたのです。

§

今日この学校は、四半世紀近くにわたる努力の末、私たちの良き友人たちが成し遂げ、そして今も成し遂げつつある取り組みの真の記念碑として存在しています。

しかし、諸君、彼らは、単なる物質であらわされた記念碑よりもはるかに永続的な記念碑を完成させ、そして今も完成させつつあるのです。

§

今日ここに集まった私たちがこの世を去った後も、私たちの友人たちが広めた知識、彼らが呼び起こしたさらなる知識への渇望、成し遂げた親切な行い、示してくれたコスモポリタン的な共感、授けてくれた人生に対する寛大な見方、与えてくれた教え、私たちの心に蒔いてくれたインスピレーションの種、そしてこの学校の生徒たちに植え付けた善と美徳への畏敬の念は、生徒たちと彼らの子供たちの心と精神に生き続け、まだ見ぬ世代へと受け継がれていくでしょう。

§

良き教えと賢明な訓戒を後世の人々の心と精神に永続させることこそが、創設者らにとって最高の記念碑を形作ることになるのです。

それは大理石よりも頑丈で、真鍮よりも長持ちするものです。

§

第二に、私はこの学校の生徒たちが、学長と彼を支える先生たちが、自分たちにどのような恩恵を与えてきてくれているのかを、感謝の気持ちを持って理解しようと努めるよう願っています。

彼らは遠い国々から、海と陸を数千マイル旅し、最終的にこの日本でこの教育機関を設立し、この地域の少年たちを、遅かれ早かれ誰もが飛び込まねばならない人生の戦いに備えるために教育するという大義に生涯を捧げるために尽力しているのです。

§

少年たちに提供できる最高のサービスは、この彼らが提供しているものに勝るものはないでしょう。

なぜなら、教育による教養と規律なしには、若者が賢く幸福で、社会に役立つ人間になることは不可能だからです。

§

教育は、美徳と幸福への扉を開く鍵であると言われています。

その鍵は、諸君が教えを受けている賢明な先生たちによって提供されています。

先生たちの唯一の目標は、善良で有益な市民、そして社会の価値ある一員となるよう諸君を育成することです。

§

私は、諸君がさまざまな国籍の生徒が集まる学校の生徒であることは、特に幸運なことだと思います。

なぜなら、異なる国から来た少年たちと対等な立場で交流することで、ある特定の民族や国籍が他の民族や国籍よりも優れていることはないということを、知らず知らずのうちに教えられるからです。

そして、他の国の人々と自分たちを比較してみると、どこでも同じように、良い人と悪い人が平均的にいることが分かるでしょう。

§

異なる国籍を持つ人々とのふれあいや交流は、当然ながら地理的な境界や人種の区別を消し去ってゆくに違いありません。

§

それは、諸君がふれあうすべての人々を理解し、共感できるようになることを教えてくれるでしょう。

そして、広い視野を持つコスモポリタンになるよう訓練し、全世界を諸君の故郷、すべての人々を兄弟としてみなすように導いてくれるでしょう。

§

もちろん、諸君は自らの母国を常に愛し続けるでしょう。

しかし、学生時代にさまざまな国籍の人々と出会った経験は、将来必ずや貴重な財産となるでしょう。

なぜなら、それは「他者の視点」を考慮することを学び、今後出会う人々に対する理解を深める傾向にあるからです。

§

私は、諸君が、本校が提供する素晴らしい機会を最大限に活用し、一生懸命にしっかりと勉強し、勤勉さと従順さをもって、先生たちが諸君のためにしてくれていることすべてにどれほど感謝しているかを示してくれることを心から願っています。

§

第三に、そして最後に、今年卒業を迎え、より本格的な職務に就くために学校を離れる諸君に言葉を贈りたいと思います。

§

卒業生諸君、今日という日は諸君にとって幸福で誇らしい日です。

学業を修了し、セントジョセフで培った高潔な志、明るい夢、高い理想に駆り立てられつつ、すばらしい世界へと旅立つ日です。

§

今日、諸君は少年時代と青年時代が交差する場所に立ち、多くの喜びと満足への期待をかける未来に、熱意と自信、そして熱い心を抱いて目を向けています。

そして今こそ、自問自答すべき時です。

「あなたはどこへ行くのか?」

§

今日、諸君が勇気と自信そして幸福を感じているのは良いことです。

なぜなら、若さとは、全世界が諸君の足元にひれ伏し、希望と進取の精神が諸君の存在全体を生き生きと輝かせる人生の美しい瞬間だからです。

§

私は、諸君の甘い白日の夢のごとき偶像を打ち砕こうとしたり、あるいは、諸君燃えさかる大望に水を差したりというようなことは決してしません。

しかし、私は切に願っています。

青春は永遠に続くものではなく、真のライフワークに全力で取り組む準備を今からしておくべきであると、諸君が常に肝に銘じておくことを。

§

学校や大学を卒業したからといって、教育が完了したわけではないということを忘れないでください。

なぜなら、私たちの人生は最初から最後まで、展開し続けるものであり、教育だからです。

生きること、学ぶこと、考えることが私たちの仕事だからです。

そして、容赦なく時が流れ、日々が過ぎていく中で、愚かな自己満足によって、自分自身を向上させようとする努力を一切せずに、人生の流れにただ漫然と身を任せるような人間には災いが降りかかるでしょう。

§

人生における成功の秘訣は、チャンスが訪れたときに備えることであることを常に忘れないでください。

チャンスをつかむための備えは、努力と苦労を伴う準備によってのみ整えることができるのです。

§

何事にも誠心誠意、全力を尽くして取り組み、すべてを完璧にやり遂げるようにしなさい。

そして、信念と勤勉さをもって支えられた強い意志の前には、すべてが屈するものであることを確信しなさい。

§

失敗を案ずることはありません。

なぜなら、自信を持ち、成功できると信じれば、あらゆる障害を克服し、乗り越えることができるからです。

§

しかし、物質的な成功を得るだけでは十分ではありません。

§

諸君はそれ以上のものを追求しなくてはなりません。

なぜならば人生のこの期間は、崇高な義務と人類への奉仕のために諸君に与えられたものなのですから。

人生を歩む中で、自分自身と自らの生活環境を向上させるだけでなく、他の人々をも助けることが諸君の義務なのです。

§

誰かが書いているように、私たちがこの世を通過するのは一度だけです。

したがって、同じ世界に生きる仲間に対して親切にすることができるなら、たった今そうすべきなのです。

§

選り好みして、奉仕の機会を失うことのないようにしてください。

なぜなら、私たちは二度とこの道を通ることがないからです。

§

私たちが人生においてなすべきことはすべてにおいて、強くあること、勇気に満ち溢れていること、男らしく断念することです。

そして、戦いつつ、神が私たちを置くことを望むその場所において、最善を尽くしつつ、日々勇敢に前進しなければなりません。

詩人ロングフェローは、次のように述べています。

§

楽しみでも、悲しみでもない、

ぼくらの定められた目的と道は。

行動することだ、日々新しく

進歩しつづける自分を発見するために

§

人生において考慮すべきことは、単に「義務とは何か」ということであり、「快楽とは何か」ということではありません。

そして、果たすべき義務とは、明らかに自分にとって最も身近にあるものなのです。

§

偉大さは我々の塵に、神は人にとても近い。

義務が汝はしなければならないとささやくと、若者はできると答える

(ラルフ・ウォルドー・エマーソン-筆者註)

§

時に、私たちの義務が何であるかを正確に決定することは困難です。

なぜなら、多くの場合、私たちには同じように開かれている2つの道が現れるからです。

しかし、私はニューマン枢機卿が述べられたことが正しいと思います。

すなわち「義務に関する問題では、最初に考えたことの方が最も良いことが多い。

なぜなら、それには神の声がより多く含まれているからである」

§

人間であるということは、弱く、過ちを犯しやすいものであるということです。

故に私たちは時に誤りに陥ります。

しかし、私たちの義務は、あるがままの義務を果たすことであり、またそれから逸脱しないことです。

§

私たちは、理性と良心に従って正しいと判断したことを行い、その結果はより高い力に委ねるべきです。

友人や知人からどんな批判を浴びようとも、私たちは義務から目をそらすべきではありません。

なぜなら、私たちの役割は義務について考えることであり、結果や事象について考慮することではないからです。

そして、何事であれ正しいことを行うのであれば、大胆に行うべきです。

正しいことをしようと意志する魂には、助言は必要ないのです!

§

今日、世界で切実に求められているのは、恐れを知らない独立した精神を持つ真の男です。

一攫千金を狙うような人や、ごまかしのテクニックに長けたタイプではなく、高い志を持つ真剣な人、希望に駆り立てられ、名誉に燃える人、尊敬に値する有益な人生を送り、誠実で忠実な市民となる人、 そして知性、進取の精神、エネルギーにあふれた勤勉な労働者です。

私は本日卒業される諸君が、与えられた仕事が何であれ、それに一所懸命取り組み、しっかりと徹底して行おうという強い覚悟持って社会に出ていくことを心から願い、信じています。

そして、世の中は常に善良な人材を求めているということをいつも忘れないでください。

§

デベッカー氏はジョサイア・ギルバート・ホーランドの詩を引用して卒業生たちへのはなむけの言葉の結びとした。

§

ミカエル修道士が作曲した「セントジョセフ・マーチ」が流れ、式典は幕を閉じた。

§

この翌年、関東大震災に襲われ横浜の大半が灰塵と帰す。

セントジョセフもまた一時神戸への移転を余儀なくされたが、その後元の場所への帰還を果たした。

戦後は同じ山手町内のサン・モールとヨコハマ・インターナショナル・スクール(YIS)とともに、横浜の外国人子弟教育を担ってきたが、2000(平成12)年、100年間にわたる歴史を閉じる。

跡地である山手町84番地は売却され、かつての学び舎の地は大規模マンションへと姿を変えた。

 

マンション提供公園にはセント・ジョセフ同窓会によって銘板が設置されている

 

壁面にはガシー校長の肖像をかたどった銘板やセントジョセフを表す意匠が埋め込まれている

 

図版:
・(トップより)卒業生写真2点、デベッカー氏肖像:Saint Joseph’s Collage, 1922, Forward所収

Saint Joseph’s Collage, 1922, Forward(セントジョセフ・カレッジ1922年卒業生名簿)表紙と目次

・その他の写真4点:筆者撮影

参考資料:
・Saint Joseph’s Collage, 1922,Forward
The JapanGazette, July 7,1922

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掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

 

■ディケンズ誕生百年祭

1912年2月1日木曜日、英国が誇る文豪チャールズ・ディケンズの生誕百年記念祭が横浜・山手178番地のヴァン・スカイック・ホールにて行われた。

ディケンズ作品の朗読や、名場面の上演、それにピアノやヴァイオリンの演奏などを交えた催しは大入り満員の大成功で、主催の横浜文芸音楽協会は大いに面目を施したようである。

§

先日、筆者はたまたまイギリスのオークションサイトで、この舞台に出演した素人俳優のひとりのものと思われるアルバムを落札した。

持ち主の名はP. F. アンダーソン。

調べたところ、ロンドンのタイムズ紙から派遣されたイギリス人で、1911年から1912年にかけて横浜に滞在したらしい。

§

アルバムにはディケンズ百年祭の舞台写真とともにそれを伝えるいくつかの新聞記事の切り抜きがびっしりと貼り付けられている。

ジャパン・ガゼット紙をはじめ英語ローカル紙にまじって朝日新聞の記事があったのでここに紹介したい。

誰かに翻訳を頼んだタイプタイピングされた英文も添えられている。

§

ちなみにこの記事を書いたのは当時朝日新聞社の記者であり、ロンドンをはじめ欧米で特派員として活躍したこともある杉村楚人冠という人物だということがわかっている。

楚人冠は和歌山出身で、同郷の河島敬蔵(日本で初めて原文からシェイクスピア劇を翻訳)に英語を学び、随筆家としても知られている。

§

文豪のまつり

ディッケンズの百年祭とてヴァン・スカイック・ホールに横浜文芸会催しの素人演芸会がある、一つ見に来ぬかと横浜の友人から電話がかかった、すなわち試みに一つ見に行く。

五時の急行で出かけた、手早く衣物を夜会服に着替えて、ホテルでしたたか晩餐を参った後、月明に馬車を駆って建て連ねた西洋造りの家々の間を山手なるホールの方に向かう、ちょっとロンドンのなにがし町に夜ふけて馬車を打たする心地、思えば懐かしい。

ホールに入るに誰一人入場切符を改める者もいない、八時四十分開会というに来る限りの者はそのときまでに皆来てしまって、ほとんど一人も遅れて出てくる者はない、開会はまさに八時四十分一分も違えず、見れば見物は男女ともことごとくちゃんと礼装できている-今晩の見物は多くイギリス人だそうだ、どこまでもイギリス人はイギリス人でゆく者と見える。

演芸は美しいラッセル嬢のピアノの独奏に始まって取り替えひっかえ、演説やら朗読やら芝居やら独唱合唱の色々合わせて十有三種、素人ながらも中には入神の妙手もあって、グリフィン氏アダム夫人の朗読、ウェラーに扮したアンダーソン氏の声色など大分一同を笑わせた、分けて、オリバー・ツイストの一幕に本会の幹事ベル氏がバンブルに扮しその細君がコーニー夫人となって握手したり接吻したり散々ふざけ合ったあげく抱きつき合った幕などは実にすこぶる非常に振るった、満場大喝采、イギリス人が平生極めて生真面目腐っていながら、いざとなると思い切ってはしゃぎ回るところは大いに踏める。

会の果てたのがちょうど十一時半、またも月明に馬車を駆って眠ったような町の間を抜けてゆく。

(二日朝横浜にて楚)

(読みやすさのため旧字を改めました)

§

この日本語記事は上下逆さまに貼られるという無造作な扱いをうけているが、その翻訳文を読んだアンダーソン氏は自分の演技が賞賛されているのを見て大いに気を良くしたに違いない。

横浜に来てまだ間もなかったにもかかわらず、氏はこの時の舞台に合計3回も登場している。

当日のプログラムでその活躍ぶりが確認できる。

§

演 目

第一部

1. 開幕ショパン/プレリュード 17番 L.ラッセル嬢

2. 講演 「ディケンズの生涯」 ベル夫人

3. 劇「従僕たちが風呂場でサム・ウェラーを楽しませる」(『ピクウィック・クラブ』よりハリス家、奥座敷の場)
  ハリス(八百屋)…ハロルド・ベル氏
  タックル…R. H. ボックス氏
  ジョン・スモーカー…F. W. ロウボトム氏
  ファイファー…L. A. R. キング氏
  青党の紳士…A. ティプル氏
  御者…W. ブランデル氏
  サム・ウェラー…P. F. アンダーソン氏

4. 朗読 「ドゥザボイーズ・ホール」(『ニコラス・ニクルビーより』) C. グリフィン氏

5. 二重唱 「荒波はなんていっているの」(『ドンビー親子』より)
  フローレンス…ブース嬢
  ポール…S. H. サマトン氏(文芸協会副会長)
  伴奏 モールトン嬢

6. 劇「デリカシーのない男」(『二都物語』よりロンドン、マネット医師宅の応接間の場) 
  ジュディス・マネット…ボックス嬢
  シドニー・カートン…P. F. アンダーソン氏

第二部

1. ヴァイオリン独奏 チャールズ H. ソーン氏 
  伴奏 リピット嬢

2. 劇 「バンブルの求婚」(『オリバー・トゥイスト』より救貧院、コーニー夫人の客間の場) 
  コーニー夫人(救貧院婦長)…ベル夫人
  救貧院の老人…ホール嬢
  バンブル(教区役人)…ハロルド・ベル氏

3. 朗読 「バークスは喜んで応じます」(『デイヴィッド・コパフィールド』より) ダグラス・アダム夫人

4. リビング・ポートレート
 『ニコラス・ニクルビー』
   スマイク…V. デーリング氏
   ニューマン・ノッグス…H. W. ロウボトム氏
 『骨董屋』
   老人…W. バンデル氏
   リトル・ネル…ボックス嬢
 『バーナビー・ラッジ』
   ドリー・ヴァーデン…M. キャメロン嬢
   バーナビー・ラッジ…T. ブルー氏
 『マーチン・チャズルウィット』
   セアラ・ギャンプ…W. M. カミング夫人
 『ドンビー親子』
   カトル船長…R. H. ボックス氏
 『互いの友』
   リジー…ホール嬢
   ライア…L. A. R. キング氏
 『デイヴィッド・コパフィールド』
   ウィルキン・ミコーバー
   ベッツィー・トロットウッド…キャメロン嬢
   チャールズ・ディケンズ

5. 朗読 「カトル船長とバンズビー」(『ドンビー親子』より) C. グリフィン氏

6. 劇 「唯一の道」(『二都物語』より) 
  シドニー・カートン…P. F. アンダーソン氏

7. アポテオシス

§

第2部で演じられた「リビング・ポートレート」とは、役者がディケンズ作品の著名な登場人物に扮した姿を舞台で披露したものと思われる。
(「活人画(tableau vivant)」という語が使われていないので、そのままカタカナで表記しました)

§

アンダーソン氏は記事にあるとおり、『ピクウィック・クラブ』のウェラー役のほか、『二都物語』の主役ともいえる弁護士カートンを2度にわたって演じている。

第一部では、カートンが愛するルーシーに、自分は彼女にふさわしくないと言って別れを告げる場面、次は彼がルーシーの幸福のために自ら断頭台への道を進もうとする場面で、これは第二部の最後、つまりプログラム全体の掉尾を飾る大役である。

素人とはいえ、これほどの名場面を演じるからにはさぞかし魅力的な俳優だったのだろう。

§

それでは舞台写真のなかの、どの人物が彼なのだろうか。

あらためてアルバムに残された3枚の写真をみてみよう。

ちなみにこれらの写真すべてに、山下町102番地で絵葉書の版元を営む米国人写真師、カール・ルイスによって撮影されたことを示す「Karl Lewis」という名が添えられている。

§

冒頭の写真と次の1枚を比べてみると、いずれも写っている人数は14名、位置は多少入れ替わっているものの全員衣装も同じ。

おそらく上演前か後に集合して撮影したと思われる。

§

もう1枚は新聞記事に掲載されたものの切り抜き。

「従僕たちが風呂場でサム・ウェラーを楽しませる」というキャプションが添えられているので、第一部の3番目の演し物、「『ピクウィック・クラブ』よりハリス家、奥座敷の場」出演者一同の写真である。

このなかのサム・ウェラー役がアンダーソン氏ということになるが、果たしてどの人物か。

§

ディケンズの小説の登場人物の多くが個性的で衣服や持ち物にも特徴があるので、作品に慣れ親しんでいる読者ならば、これらの写真を見ただけで役柄を特定できるのかもしれない。

しかし残念ながら筆者にはそのような素養がないためどの人物がアンダーソン氏なのかは特定できない。

§

写真とプログラムに記された配役とを見比べて、だれがどの人物か特定できる方、この人こそわがアンダーソン氏であると言い当てることができた方がもしいらっしゃれば、ぜひともご一報願いたい。

 

図版
すべてP. F. アンダーソン氏のアルバム所収(ディケンズ肖像はアルバムに貼付されたThe Japan Weekly Mail, Feb. 2, 1912の切り抜き記事より)

参考資料
The Japan Weekly Mail, Feb. 10, 1912
The JapanGazette Directory, 1912
・『東京朝日新聞』明治45年2月3日

掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

■年代別記事一覧

横浜山手外国人居留地――かつてブラフと呼ばれたこの地域には、横浜開港から関東大震災までの約60年間、さまざまな様式の洋館が建ち並び、イギリス人を始めとする欧米人たちが日本人社会とはかけ離れた独自の生活を営んでいました。このブログは当時発行されていた英字新聞などから彼らの暮らしを思い起こさせるエピソードを拾い出して皆様にご紹介しています。

 

1867年
7月25日(旧暦慶應3年6月24日)■バンド東側丘陵地を競売に付す―山手居留地のはじまり

1874(明治7)年
5月16日 ■日本馬タイフーン号、中国馬チャンピオンを堂々制覇!
7月14日 ■東京の友人らに惜しまれつつも ドクター ウィーラー横浜へ!

1875(明治8)年
4月19日 
■1870年代横浜の二重の悲劇―古老が語る居留地の実話

1876(明治9)年
12月30日 
■ドイツ帝国海軍病院起工式

1877(明治10)年   
9月18日 
■コレラ猖獗を阻止せよ!外国領事と健康保安局員が緊急会合

1878(明治11)年
10月4日 
■スプリング・ヴァレー・ブルワリー工場見学記(前編)
10月4日 ■スプリング・ヴァレー・ブルワリー工場見学記(後編)

1879(明治12)年
8月1日 
■米国の英雄横浜に来る! グラント将軍おもてなし大作戦

1880(明治13)年
4月6日 
■クレーン&カイル 別れの演奏会

1882(明治15)年
7月14日 
■7月14日、横浜の港に響いた「共和国万歳!」

1883(明治16)年
8月24日 
■惜しまれつつ横浜から北京へ―英国公使ハリー・パークス卿送別舞踏会

1885(明治18)年
4月18日 
■パブリックホールの杮落し

1886(明治19)年
5月21、22日
 ■バラに松にアスパラガス!? 山手のフラワーショーは百花繚乱

1887(明治20)年
6月21日 
■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その1)
6月21日 ■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その2)
6月21日 ■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その3)
10月1日 ■ヴィクトリア・パブリックスクール開校

1888(明治21)年
3月12日 
■英国領事裁判開廷(ビール工場での騒動・前編)
3月12日 ■犯行の動機(ビール工場での騒動・後編)

1889(明治22)年

2月26日  「学校の恩人」キルビー氏の帰国
6月1日 
■ ブラフに日本女子教育の殿堂完成! フェリス設立14周年記念式典
6月1日 ■ フェリス設立14周年記念式典(その2)
6月1日 ■ フェリス設立14周年記念式典(その3)
6月1日 ■ フェリス設立14周年記念式典(その4・最終回)
4月から7月 ■ヴィクトリア・パブリックスクールの1889年夏学期
7月2日 ■「第一等の金製賞牌を得たるは・・・」ヴィクトリア・パブリックスクール1889年夏の表彰式

1890(明治23)年
4月上旬 
■「これは英語とは言えません!」ハーン先生の綴り方教室
4月25日 ■ウィーラー君も大活躍!山手居留地こども芝居
7月8日 ■ヴィクトリア・パブリックスクール1890年夏の表彰式
10月27日 ■ヘボン夫妻の金婚式祝賀会

1891(明治24)年
12月11日 
■ヨコハマ文芸協会第百回記念ー初代会長が語るそのあゆみ

1892(明治25)年
7月4日 
■「お妃様風ポタージュ」に「外交官のプディング」はいかが?―グランドホテルの独立記念日メニュー
10月18日 ■ヘボン夫妻とヨコハマの「家族」の間で交わされた惜別の言葉(前編)
10月18日 ■ヘボン夫妻とヨコハマの「家族」の間で交わされた惜別の言葉(後編)

1893(明治26)年
1月30日 
■ 学校を救え!―ヴィクトリア・パブリックスクール年次総会1893

1896(明治29)年
3月12日 ■ 「極東一のすばらしい名建築のひとつ」―フランス領事館ついに完成!

1897(明治30)年
5月30日 ■ エルドリッジ少佐かく語りき―1897年デコレーション・デー
6月22日 ■ 万歳、女王陛下即位60年! バンドとブラフが歓喜に沸いた日
11月25日 ■ 谷戸村の火事(谷戸坂の事件・前編)

1898(明治31)年
12月10日
 ■祝・完成! YC&AC 新クリケット・パビリオン

1899(明治32)年
1月7日 ■ウィーラー夫妻の銀婚式
2月4日 ■横浜居留地が愛したアマチュア音楽家カイル氏の葬儀
4月19日 ■ウィーラー医師の愛娘の結婚式
6月2日 ■山手クライストチャーチ献堂式
10月20日 ■横浜に誇りと実利をもたらす施設―メイプルズホテル堂々オープン!

1888(明治21)年-1899(明治32)年
■古き横浜の思い出-1888年から1899年-(前編)
■古き横浜の思い出-1888年から1899年-(後編)

1901(明治34)年
5月22日 
■サン・トイのリハーサルでメチャメチャ忙しい(前編)
5月22日 ■サン・トイのリハーサルでメチャメチャ忙しい(後編)
5月22日 ■サン・トイ再び
12月7日 ■日本ラグビー史上に残る一戦! YC&AC対慶應義塾

1902(明治35)年
11月29日 ■「ウィーラー先生、ケガ人です!」(谷戸坂の事件・後編)

1903(明治36)年
7月5日 ■ドイツ帝国海軍病院創立25周年記念祝賀会
10月21日 ■ 互いに健闘をたたえあった横浜・神戸インターポートディナー

1904(明治37)年
4月22日 ■出征兵士の家族に救いの手を―モリソン夫人によるチャリティ・イベント
6月3日
 ■明日からいよいよ夏休み! ヨコハマモダンスクールの表彰式
9月14日 ■エリノア・プール嬢の結婚式
11月29日 ■道ならぬ恋とクーン商会の結末

1905(明治38)年
2月4日
 ■モリソン夫妻の銀婚式(前編)
2月4日 ■モリソン夫妻の銀婚式(後編)
6月21日 ■元英国駐屯軍兵士ヴィンセント夫妻の金婚式

1906(明治39)年
1月4日
 ■女性のために働く女性たちー米紙が伝える婦人伝道師たちの活躍
1月16日 ■アリアンス・フランセーズ「文学と音楽の集い」
5月13日 ■バンドからブラフへ カトリック聖心聖堂献堂式

1907(明治40)年
7月24日 
■ベーマー商会創立25周年記念祝賀会
10月26日 ■紳士淑女も大興奮!? 1907年根岸競馬場秋のエンペラーズカップ
12月7日 ■ドイツハウス定礎式

1908(明治41)年
5月30日 
■写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(前編)
5月30日 ■写真が語る1908年横浜メモリアル・デー(後編)
11月9日 ■私たちの「家庭」となる教会を(ユニオン・チャーチ献堂・前編)

1909(明治42)年
1月9日 
■ 開港50年―モリソン氏が語る「横浜の思い出」
1月9日 ■ 「横浜の思い出」(その2)
1月9日 ■ 「横浜の思い出」(その3)
1月9日 ■ 「横浜の思い出」(その4)
1月9日 ■ 「横浜の思い出」(その5)
1月9日 ■ 「横浜の思い出」(その6・最終回)
3月13日 ■米国人写真師のカメラがとらえたマグニチュード7.5
12月22日 ■横浜生まれの音楽家ヴィンセント氏の旅立ち(前編)
12月22日 ■横浜生まれの音楽家ヴィンセント氏の旅立ち(後編)

1910(明治43)年
10月15日 
■「家族」の願いが叶った日(ユニオン・チャーチ献堂・後編)

1911(明治44)年
7月26日 
■マカドホテルー炎に消えた海辺の宿

1912(大正元)年
2月1日 ディケンズ誕生百年祭
9月15日 
■ミシェル先生、ドイツ学校附属幼稚園創設に奮闘す
12月14日 ■コミック・オペラの名作『軍艦ピナフォア』にアマチュア劇団が挑戦。いざゲーテ座へ!

1913(大正2)年
3月4日 
■ドイツハウス炎上

1916(大正5)年
5月22日 
■パブリックホールを笑いの渦に巻き込んだ仏喜劇「オンフルールの叔母さん」

1918(大正7)年
2月19日 
■シドニー・ウィーラーの早すぎた死
3月7日 ■ヨコハマで祖国に奉仕―米国赤十字社日本支部横浜分隊の女性たち
5月30日 ■外国人墓地に眠る兵士らの魂に捧ぐ―米国記念碑完成除幕式
6月6日 ■ペティエ神父叙階50周年記念式典(前編)
6月6日 ■ペティエ神父叙階50周年記念式典(後編)
10月28日 ■花は手向けずとも―37年間墓地の会計係を務めたジレット氏の葬儀

1919(大正8)年
4月23日 
■ヨコハマボーイ初!ヴィクトリア十字勲章受勲祝賀会

1921(大正10)年
4月9日 
■グーチ氏が有終の美を飾ったADC第42回公演「グリーン・ストッキングス」
9月12日 ■「横浜外国人学校」新校舎視察会

1922(大正11)年
4月22日 
■英国皇太子の山手訪問
4月22日 ■そしてプリンスは行ってしまった―山手ゲーテ座の春の夜の夢
5月11日 ■横浜で教育活動50年―サンモール記念祭
5月25日 ■われ喜び叫ばん わが王の御前に目覚めて―音楽教師ミス・モールトンの死
7月6日 ■全世界が諸君の故郷、すべての人が諸君の兄弟ーセントジョセフ卒業生に贈る言葉
7月15日 ■ウィーラー医師の誕生祝い

 

■歴史パネル展「古き横浜の青春 ~プール嬢のアルバムから~」ハイライト

2024年、横浜市アメリカ山公園にて開催した歴史パネル展「古き横浜の青春 ~プール嬢のアルバムから」のなかから特に興味深い写真3点を取り上げます。同展は1888(明治21)年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリ人女性エリノア・プールのアルバムに残されていた写真を中心に居留民たちの生活を紹介したものです。

 

§

 

その1 仮装パーティー

この写真は撮影年も場所も不明ですが、壁を覆うほどの大きさのスコットランド旗と日の丸が掲げられていることから、毎年11月30日のスコットランドの祝日、セント・アンドリュース・デイのパーティーの際に撮られたものと思われます。

§

会場はかなりの広さですので、領事館か公使館など公的施設かホテル、劇場などの大広間ででしょう。

§

100名を超える参加者の服装を見ると、当時の一般的な夜会服にまじってピエロや武士、聖職者などの扮装をしたり、時代がかったかつらを身に着けたりした姿もあるので、仮装パーティーだったと思われます。

§

さらによく見ると欧米人だけでなく、日本人と思しき人々も交っています。

白い枠で囲った部分は比較的鮮明で各々の顔立ちが分かりますので、「この顔にピンときた」方はぜひ当方にご一報を! 外国人との親善パーティーの参加者ですから、社会的地位の高い方々かもしれません。

§

さて、仮装している人が多いので見分けるのは難しいのですが、この中にはOn the Bluffの常連メンバーもきっといるはず。

目を凝らしてみたところ、断言はできませんが、数名を特定することができました。

§

まずこのアルバムの持ち主エリノア・プール嬢。

ぼやけていますが、赤枠で囲った婦人だと思われます。

§

そしてわれらがエドウィン・ウィーラー医師。

故郷アイルランドにちなんで緑色の枠で囲ってみました。

豊かな頬髯と突き出たお腹から見て間違いありません。

§

眼をつぶっているので見分けが難しいのですが、おそらくこちらがモリソン夫妻。

モリソン氏の故郷スコットランドの旗の地色である青色の枠で囲った二人です。

§

ほかにも何となく見覚えのある顔もありますので、はっきりわかったらまたご報告いたします。

 

その2 エドワード七世即位記念写真

 

社屋と思われる建物上部に掲げられた文字ERIはEdwardus Rex Imperatorの略。

英国王エドワード七世(在位1901~1910年)即位を祝って社員一同で記念写真を撮影したときものもののようです。

椅子に座っている6名の西洋人のうち、左から2人目がエリノアの夫ナサニエル・メイトランドですが、何度か勤め先を変えているので残念ながらどの会社か特定することができません。

§

ERIの文字を囲むように配置された提灯をよく見ると、エドワード七世とその妃アレクサンドラ、そしてイギリス国旗が描かれています。

§

提灯のほかにもイギリスと日本の国旗やリボン状の布があしらわれており、ずいぶん立派な飾り付け。

大英帝国の威信を誇示している印象です。

座っている6名のいかめしい顔つきからもそんな雰囲気が感じられます。

§

彼等の後ろには東洋人従業員がずらり。

なかにはよそ見したり、たばこを吸ったりしている人たちも。

数えてみると中国人11名、日本人27名、国ごとに左右に分かれて並んでいるのが興味深いですね。

§

中国の人たちの装いは中国服。

日本人のなかには洋装も交っています。

スーツにネクタイ姿の人々は中央に並んでいるので、社内でそれなりの地位についていたと思われます。

端に行くにしたがってだんだんカジュアルになり、着流しに兵児帯といったスタイルも。

子供と言って差し支えないようなあどけない顔もまじっていますね。

 

その3 コスプレ・ロケ撮影

次の3枚の写真は同じときに撮影されたものです。

衣装や場所、ポーズなどなんとなく不思議な感じがしますが、幸いなことにそれぞれにメモが添えられています。

§

写真の右はしに1893年、江の島にて〉と記されています。

エリノアが15歳ぐらいのときです。

§

3名の少女たちの名前も明らかです。

左から〈エミー・リケット、メアリー・ウィーラー、自分〉

「自分」というのはもちろんエリノアのこと。

§

エミーの父は海運会社P&Oのエージェントを務めていたジョン・リケット、メアリーはブラフ(山手町)97番地に住むイギリス人医師エドウィン・ウィーラーの長女です。

§

エリノアの兄弟バートとチェスター、メアリーの弟たちシドニーとジョージの4人は、ともにブラフの男子校ヴィクトリア・パブリックスクールに通った仲でした。

プール家とウィーラー家の人々が家族ぐるみで親しく付き合っていたことは、エリノアのアルバムにウィーラー家の人々が度々登場していることからもわかります。

§

さて3人の少女たちは、おそろいの古代ローマ風の衣装をまとってポーズをとっています。

どうしてわざわざ横浜から江の島に出向いてこんな格好で写真を撮ったのでしょうか。

その答えは次の写真のメモからわかります。

§

ポインターの『世界の若かりし頃』にちなんで〉

§

ポインターとは、当時のイギリスで活躍していた画家エドワード・ジョン・ポインターのことで、「世界の若かりし頃」は、彼が1891年に発表した油彩画です。

ちなみにこの作品は現在、愛知県美術館に所蔵されています。

同館のウェブサイトにも掲載されているので、詳細はそちらをご覧ください。

[ID:4943] 世界の若かりし頃 : 作品情報 | コレクション検索 | 愛知県美術館 (jmapps.ne.jp)

画像はパブリック・ドメインになっているので以下に張り付けておきます。

§

エリノアたちはこの絵の少女たちの真似をして衣装をあつらえ、髪を整え、カメラの前でポーズを決めているのです。

さすがに絵にあるようなローマ風神殿は見つからなかったので、江の島で妥協したのでしょう。

§

居留地時代の横浜のティーンエイジャーたちがすでにコスプレ、ロケーション・フォトを楽しんでいたとは驚きです。

§

エリノアたちがどのようにしてこの絵のことを知ったのか、また愛知県美術館に所蔵されるまでの作品の来歴なども知りたいところですが、わかっていません。

お心当たりの方はぜひご一報願います。

 

図版:
・写真全てアントニー・メイトランド氏所蔵
エドワード・ジョン・ポインター「世界の若かりし頃」1891年、愛知県美術館所蔵

参考資料:
The Japan Weekly Chronicle, July 6, 1922.

 

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■横浜に生まれ南アフリカで生涯を閉じたアメリカ人、K. ヴァン・R. スミス ~プール嬢のアルバムから

1888(明治21)年に家族とともに来日し、横浜で青春を過ごしたアメリカ人女性エリノア・プールのアルバムから興味深い写真をご紹介するシリーズの5回目、今回はエリノアが遺した写真に度々登場するK. ヴァン・R. スミスを取り上げます。

§

冒頭の写真で、花のような乙女たちに囲まれて自らを草にでも見立てたのか、地べたに寝転がってポーズをとっているのがスミス君。

袖の膨らんだおしゃれなスーツ姿で右端に収まっているのがエリノア嬢。

「1889年10月6日、本牧にて」と手書きのメモがあるので当時19歳。

スミス君は彼女より二つ年下ですが、すでに堂々たる体躯の青年です。

メモの一番下の1行 "Kiliaen Van Rensselaer Smith" が彼のフルネーム。

普段は「ヴァン」と呼ばれていたようです。

§

外国人居留地の気の合う若者たちが集まって本牧までサイクリング。

いずれの顔にも笑みがあふれ、青春真っ盛りといった一コマ。

陽気な歌声でも聞こえてきそうです。


本牧にて。前列右がヴァン、左がエリノアの兄バート、後列の左から4人目が弟チェスター、2列の左から3人目がエリノア。

§

エリノアたちプール家の兄弟とヴァン・スミスの関わりは、彼らの父の代にさかのぼります。

§

ヴァンの父、ナサニエル F. スミスはニューヨーク州ロングアイランドの都市スミスタウン出身。

来日後、製茶貿易の会社で働いていましたが、1868年に同僚のコルゲート・ベーカーとともに独立してスミス・ベーカー商会を起こしました。

そして1888年、茶の輸入商社に勤めていたオーティス A. プールを社員としてアメリカから呼び寄せたのです。

§

さて、スミス家の三男ヴァンは居留地生まれのヨコハマボーイ。

7歳になると、ブラフ(山手町)179番地に開校したばかりのヴィクトリア・パブリックスクールに入り、ブラフ1番地の自宅から通学することになります。

来日してブラフ89番地に居を構えたプール家の兄弟たちも間もなく同校に入学。

3人は少年時代の約6年間、ほぼ毎日顔を合わせて過ごしたのです。

しかしその舞台となったヴィクトリア・パブリックスクールは、実際には慢性的な経営難にあえいでおり、1894年ついに閉校に至ります。

§

学び舎を失ったヴァンはブラフにあったウィンストンスクールに転校し、15歳の時に父の会社であるスミス・ベーカー商会に入社。

その後、アメリカの石油会社であるスタンダード・オイル社の横浜支社に転職します。

§

一方、プール兄弟は家庭教師についてフランス語や日本語のほかタイプや速記といった実務を学んだ後、バートはアメリカン・トレーディングカンパニーの速記者を経て、ヴァンと同じスタンダード・オイルに籍を置きます。

弟のチェスターはドッドウェル・カンパニーというイギリスの商社に勤め、支配人を務めるまでになりました。

§

こちらの写真は場所も年代も分かりませんが、やっぱり一人だけ寝転んでいるヴァン君。

お得意のポーズだったのでしょうか。

§

ヴァンはアメリカへの帰国など何度か海外を旅行しますが、ブラフ1番地から離れることなく、横浜のスタンダード・オイル社に勤務していました。

スポーツマンで、フットボールやテニスの試合に参加した記録が当時の新聞に残されています。

§

次の2枚の写真も撮影場所・年代とも不明です。

最初の1枚にはバートが、2枚目にはチェスターが写っているので、二人が交代で撮影したのかもしれません。

ヴァンとチェスターは生涯を通しての親友で、チェスターが結婚した際にはヴァンが花婿の付添人を務めました。

§

1922年、ヴァンはロンドンの教会でヘレン・バトラーと華燭の典を挙げます。

40歳と遅い結婚でしたが、花嫁は23歳、二人は日本に戻り横浜山手の父のもとで新婚生活をスタートさせました。

§

翌1923年3月12日、ヴァンとヘレンの間に女児が誕生し、モオリーンと名づけられました。

そして同じ年の9月1日、大震災が横浜を襲います。

§

後年、チェスターが記した関東大震災の体験記「古き横浜の壊滅」にはスミス一家についての記述もあります。

§

その日、いつもの通り出勤していたチェスターは、ランチを取りにオフィスを出る寸前に大きな揺れに見舞われました。

建物は崩壊しましたが、辛くも脱出して一命をとりとめます。

翌日、一面の廃墟となったブラフを歩いていたとき、現在の代官坂のあたりでヴァンの父に出会います。

息子一家の安否を尋ねられると、彼はもうろうとした様子でしたが「大丈夫」と答えました。

§

後でわかったことですが、実際には、ヴァンの妻と幼い娘は落ちてきた屋根瓦で負傷していました。

スタンダード・オイルの事務所にいたヴァンは幸いなことに怪我もなく、家族と合流してエンプレス・オブ・カナダ号に乗り、神戸へと避難します。

§

ヴァンの父、ナサニエル・スミスはその後、娘を頼ってイギリスに渡り、そこで生涯を閉じます。

享年84。

アメリカから日本に来て会社を起こし、居留地の名士として人望を集め、製茶輸出の発達等の功により日本政府から勲四等に叙勲され、歴史に残る大地震を体験してイギリスに没す。

波乱の人生と言えるでしょう。

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スタンダード・オイル社は東京の帝国ホテルに事務所を移し、ヴァンはそこで勤めを続けました。

震災の翌年には二女に恵まれます。

その後何度か会社の住所は変わりますが、いずれも東京内で、ヴァン一家がどこに住んでいたのかは不明です。

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1929年2月21日付のロンドン&チャイナ エクスプレスに、2月18日ロンドンに到着した日本郵船熱田丸の搭乗者としてヴァン・スミス夫妻の名前が記されています。

横浜ではなく門司から乗船したようです。

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残念ながら夫妻のその後の足取りはつかめていません。

家系図サイトAncestryによるとヴァンの終焉の地は南アフリカヨハネスブルク

1968年8月2日、87年間の生涯でした。

旅券申請書に貼られたヴァン・スミス38歳当時の写真。身長約180cm、髪の色は茶、目はグレーと記されている。(United States Passport Applications, 1919)

図版
・最後の1枚を除いてすべアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料
Poole FAMILY Genealogy, (http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
London and China Express, May 25, 1922.
・―, Mar. 15, 1923.
・―, Oct. 30. 1924.
The Japan Weekly Mail, Jan. 21, 1905.
・―, July 20, 1907.
・―, Sep. 14, 1907.
London, England, Church of England Marriages and Banns, 1754-1938 for K. V. R. Smith.
・明治期外国人叙勲史料集成_第四巻
・K. Van・R. Smith経歴(https://www.ancestry.com.au

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