こんにちは。榊原です。
このブログの更新は大体毎週日曜日に行われていますが、今回は一日遅れです。
というのも3/13-3/16にかけて学会で金沢に行っていたからです。
思えば今年度はいろんな学会に行きました。学会は各地方の研究者が持ち回りで開催しているため、毎回開催場所が北は北海道から南は沖縄まで変わります*1。いろんな学会に行くためには様々な交通手段を駆使する必要があります。まあ名古屋に住んでいると基本は鉄道を駆使することになるわけで、全然鉄オタでもなんでもなかったんですが、使っているうちに愛着が湧くもんです。最近は駅メロ(駅で聴くことができるメロディ)にも愛着がわいてきました。
ということで今回は名古屋大学~金沢駅間で聴くことができた駅メロを紹介していきたいと思います。
なぜ二つまとめて紹介するのかというと、作成者が同じだからです。というか、名古屋市営地下鉄の接近メロディは全て同じ人間(名古屋市立大学大学院の水野みか子教授)が作っています。
ここで当然気になるのは水野みか子とはいったい何者なのかということですが、まさかまさかのゴリゴリの現代音楽作曲家です。
なぜそんな作曲家が駅メロを!?と思いましたが、どうやらもともと電子音響作品を得意としているようです。
だから白羽の矢がたったのか~(納得はしていない)。
水野氏はこの二つの路線以外にも上飯田線を除く*2全ての名古屋市営地下鉄の接近メロディを作成しています。
ゆえにこんな曲も。
自分が作った発車メロディを主題に使った組曲を作っちゃいました。こういう曲って基本的に他人の作ったメロディを下地につくると思うんですが、全部自前なのめちゃくちゃかっこいいですね。
この間は発表用の原稿の手直しに追われていて正直なに聞いたかほとんど覚えていないんですが、唯一、しらさぎの車内メロディ*3があまりに演歌すぎたことを覚えています。
それがこれです。
「北陸ロマン」は曲名がさすがに演歌すぎるので、元々演歌だったものを社内メロディにしているのではないか、流石にそうでないと......。
歌謡曲でした。
歌っている谷村新司は超有名フォークグループ「アリス」のリーダーなわけで、おそらく昴が最も有名な曲だと思うわけですが、こんなご当地ソングもあったんですね~。
北陸新幹線の車内メロディも北陸ロマンです。
なので語ることがないかと思いきや、金沢駅には言及するべきものが......。
まさかの中田ヤスタカ作曲です。EDMでぶち上げてたら面白かったかもしれませんが、結構スマートに収めてきましたね。実は中田ヤスタカが作曲したことはもともと知っておりまして、今回の出張で実際に聴くことができて非常にうれしかったです。何が言いたいかわかりますか?そう、移動時間って暇なんすよ。おわり。
本編の更新は久しぶりになるこのシリーズだが、今回はきっかけが存在している。と、いうのも先日RMCチャンネルにあげている名倉晰の「気まぐれ」という小品に以下のようなコメントが寄せられた。
--原文引用
@mica0612
RMC様、こんにちは。何度もすみませんでした。名倉晰も1930年代に日本作曲界で活躍していた1人だと思いますが、関連資料がなぜか極めて少ないですね...。もしご存じであれば、この「気まぐれ」という小品の作曲年を教えていただけますか?また名倉晰さんはもう一つのピアノ小品「ひら祭り」(原文ママ)を作曲したそうですが、作曲年の究明はいかに探っても至っていません…もし何か手掛かりがあれば助かります!
--引用ここまで
名倉晰に着目されるとは素晴らしい目の付け所、さぞかしの通人の方とお見受けするところだが、言われてみるとなるほど、名倉晰というい作曲家の資料は少ない。
実際にはかなり多作であり、歌とピアノ曲を中心に相当の作品数があるにも関わらず、例えばWikipediaにもまとめ記事がないと言った状態であり、その足跡にしては過小評価がすぎる気がしてならない。
そこでこのご要望にお答えできるかは別としても、名倉晰という作曲家について、再評価につながればという一つの期待をもって、まとまった解説を書いてみようと思い立った。むろん論文レベルには落とし込めない即席のものだが、資料集としては少しは役に立つのではないだろうか。
名倉晰の顔写真を探すのもかなり大変な作業である。あん順にGoogleで検索しても私がアップしたRMC動画のサムネール程度しか出てこないだろうろ思う。この写真の出典は大日本作曲家協会が刊行していた楽譜集「日本作曲年鑑」(共益商社刊)のなかに掲載されたものである。
今回はできるだけ出典を明らかにし、掲載していきたいので、国立国会図書館デジタルコレクションのリンクを貼っていくが、個人送信登録をしていないと読めないので、資料を参照されたい方は、ぜひ国会図書館に利用申請をしてみてほしい。
まずはこの写真の出典を掲示する。
この資料には名倉の作品がいくつか掲載されているものがあるが、時系列的にもう少し後で再度取り上げることにして、まず彼の経歴に関する資料をあげていこうと思う。
名倉晰は1899年(明治32年)5月18日に静岡県に生まれた。その後1919年(大正8年)に濱松師範学校を卒業し、1938年(昭和13年)に文検(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)に合格している。つまりは中学校の教諭になる資格を得たということである。このことから、彼が音楽の教諭(訓導)として教育に奉職していたことがわかる。
音楽を担当していたので、これら教員になるための勉強と並行して音楽への学びも深めていったのは間違いない。作曲の師は資料により若干ばらつきがあるが、佐々木すぐる(1892-1966)、中田章(1886-1931)、貫名美奈彦(1889-1955)と書かれている。
師を中田章(※田中章と誤字)、貫名美奈彦としたもの 「音楽年鑑」昭和48年版(音楽之友社刊)
師を佐々木すぐる(※佐々木英と表記)としたもの 「音楽年鑑」昭和26年版(音楽之友社刊)
彼の出身地を静岡県とした資料は数多いが、具体的にどこなのかがよくわからない。そこで更にその点を深く調べてみると、とある資料に静岡県四方郡函南町平井1300-49と住所が書いてあるものを発見した。調べてみるとこれはどうやら誤字であり、静岡県田方郡函南町平井のことであるようだ。
そしてその住所は今も現存している。
「コンフィデンス年鑑」1976年版(オリジナルコンフィデンス)
ただ出生地は時代から考えて新興住宅街であるとは思えない。この住所をGoogle Mapで確認してみると山間に造成された新規宅地の様相を呈していることから、出身地ではなく、帰郷後の住所だったのかも知れない点には注意がいるだろう。そのことを示すように「音楽年鑑」にも同住所在住であることが確認できるものがある。
「音楽年鑑」昭和52年版(音楽之友社刊)
このことから、名倉は静岡県のどこかに生まれ、各地で教育に従事した後、故郷の静岡の新しい住宅地に戻って余生を過ごしたと思われる。そしてこの資料が昭和52年のものつまり1977年のものであるから、名倉が1980年に亡くなったのはやはり静岡県であったと考えるのが自然であろう。
次に彼の職歴、つまりは赴任校についていくつか資料が残っているので見ていこうと思う。
まずこんな記録がある。「大正十三年度になった。四月、、加島小学校(中略)新たに赴任したのは(略)名倉晰(後略)」。このことから名倉が加島小学校に着任したことがわかる。どうやらこれは大阪市立加島小学校のことのようだ。訓導として教壇に立ったのだろう。
小川長男著「鈴木長太郎」
まず大正14年7月付けの「職員録」(内閣印刷局)には岩手県師範学校の訓導にその名が見られる。時期から考えて文検合格前なので、附属小学校の先生であったのだろう。
そして昭和13年7月付けの職員録(内閣印刷局)には「福岡県築上高等女学校」の教諭としてその名がある。これは文検合格後のことなのだろう。
「音楽年鑑」昭和16年度には城右高女勤務とあるが、これは現在の文化学園大学杉並高等学校のことである。
「音楽年鑑」昭和16年版
昭和24年刊行の井上武士著「音樂敎育精義」(敎育科學社)には面白い表記が見つかる。山水高等女学校教諭として名倉の名がある。ちなみにこの山水高等女学校とは東京都の仙川に作られた学校で、後に桐朋学園女子高等学校となって桐朋学園に組み入れられたものである。
井上武士著「音樂敎育精義」(敎育科學社)
なるほどなので先程紹介した資料、「音楽年鑑」昭和26年版(音楽之友社刊)には桐朋女子高校教諭との記載があったのはこのためだとわかる。
「音楽年鑑」昭和26年版(音楽之友社刊)
いよいよCiNiiにて彼の出版物について追いかけてみようと思う。
Ciniiによる名倉晰の検索結果
この中にピアノ曲集が2つ見られる。一つが「少年時代の想いで : 中級者のためのピアノ曲集」、もうひとつが「12 Sonatines = 12のソナチネ : 中級者のためのピアノ曲集」である。ともに全音楽譜出版社から観光され、刊行年は不明とある。そこでこれらを少し掘り下げてみると、まず「少年時代の想いで : 中級者のためのピアノ曲集」について分かる資料が出てきた。
どうやら全音楽譜出版社から1972年に発売されたものであるようだ。
現在CiNiiによるとこの資料は「倉敷市立短期大学 付属図書館」にのみ蔵書されているようだ。そしてこれは資料を見てみないとわからないが、この曲集に大村典子氏の監修された一連のピアノ曲シリーズに掲載された名倉の小品ふたつ、「気まぐれ」「ひな祭り」が含まれているのではなかろうか。このことを確かめるためにもこの資料をすぐに確認したいが、一般図書館でない上に、非常に遠い。こういった図書館の資料を地元の公共図書館、ないしは自身の所属している大学図書館に借りてもらうことはできないだろうか。ILLなどといって似たようなことができるような記述があるのだが、全く詳しくなく、ぜひお知りの方がいたらお教えいただきたい。
仮にこの曲集に冒頭に掲げた「ひな祭り」が掲載されているとすると、少なくとも1972年には作曲されていたということはわかる。またこの手の作品は委嘱からすぐに出版されるだろうから、作曲年は比較的出版年に近いのではないかとも思えてくる。
倉敷市立短期大学附属図書館蔵書情報
もう一つのピアノ曲集「12 Sonatines = 12のソナチネ : 中級者のためのピアノ曲集」の方も厄介である。所蔵館は神戸女学院大学図書館のみで、その蔵書情報によると全音楽譜出版刊で1出版年不明とのことだ。名倉にはソナチネ集が実は2つあることが判明しているのだが、まずはこちらの中級者向けのものについて調べていくと、音楽年鑑にあるときから代表作としてこの作品が掲載され始める。それが昭和52年である。昭和52年は1977年であり、名倉が故郷に帰って最晩年を迎えていることである。前の曲集が1972年刊行で、そこからしばらく音楽年鑑の代表作に掲載されたりもしていることからこれも1970年代後半、それも限りなく1977年に近い頃に刊行されたのではないだろうか。
神戸女学院大学図書館蔵書情報
「音楽年鑑」昭和52年版(音楽之友社刊)
先程触れたもうヒッツのソナチネについてここで書いておこう。実は名倉にはもう一つ初心者向けのピアノ曲集として「10のソナチネ、10のバガテル」(音楽之友社刊)があることがわかっている。なぜならば、どういうめぐり合わせかその楽譜を私が蔵書しているからである。この楽譜についてはどうやら1973年に出版されているようだ。
「楽譜音楽図書総合カタログ」1973国内版(ミュージック・トレード社)
この他の代表作的出版物とすると彼の歌曲集が2巻出版されている。「叙情詩編」と「短歌編」でともに1968年に音楽之友社から刊行されている。この内短歌編はまもなく手元に届くことになっていて、非常に楽しみである。両編とも125ページに及ぶ歌曲集であるので、相当の作品数が掲載されているだろう。
「奈良教育大学増加図書目録12」昭和59年度(奈良教育大学附属図書館)
また合唱作品も多く書かれていて「名倉晰女声合唱曲集」というものも1970年にカワイ楽譜社から出版されている。こちらは東京文化会館資料室にも蔵書があるようだ。同館は他にも「女声合唱作品集」など多くの蔵書があるのは流石である。
東京文化会館資料室の名倉作品蔵書情報
最後に皇紀二千六百年奉祝曲の作曲者の一人に名倉の名があることを記しておかねばなるまい。神武天皇即位から2600年を記念した行事で1940年(昭和15年)に開催されたもので、海外からも多くの作品が寄せられている中、名倉は「皇紀二千六百年奉祝歌」(作歌 杉江健二)を発表している。そしてこの楽譜は共益商社書店から1939年に出版もされたようである。だいぶん古い資料だが、京都市立芸術大学、東京藝術大学には蔵書があるようだ。
時代柄、軍歌も多く書いた作曲家であるが、教育者としての目線を常に持ち、教育のための音楽を書き続け、その作風にはしっかり日本的な色合いをたたえている。こういったかげの功労者をもっと再評価し、これらの入手困難となった楽譜を再販、そして多くの演奏家による再解釈と演奏が待ち望まれる。
さて、やはり羅列的になってしまったが、あちこちを調べるよりもこの記事だけである程度まとまった名倉晰の情報がわかるものとはなっただろう。これをもってRMCチャンネルへのコメントへの回答とさせていただきたい。調査という重要な機会を与えていただいたことに深く感謝するとともに、更に今後ともチャンネルやブログなどを通じ、こういった作曲家の紹介再評価を進めていきたいと思う次第である。
最後にRMCチャンネルにUPした名倉晰のピアノ小品「気まぐれ」のリンクを貼っておこうと思う。再評価されるべき流麗で日本的な作風ではないだろうか。
名倉晰/気まぐれ
こんにちは。なんすいです。
まずはコンサート開催のためのクラウドファンディング、本当にありがとうございました!!!!!!!!!
大成功に終わり、感無量としか言いようがありません。
皆様から頂いたご支援に足る最高のコンサートに出来るよう、あらゆる努力を尽くしてまいります。
いよいよ残り1週間となった私たちの《弦楽四重奏コンサート》、ぜひ多くの方々のご来場を心待ちにしております。
さて、今回は、会員のトイドラくんが提唱している音楽理論「TLT」に関する話です。
まずTLTとは何かをざっくり振り返ります。
発端は「ロクリア旋法」。通常の機能和声と同様にダイアトニックコードを作るとIの和音にトライトーンが含まれてしまうため、使用が「禁じられた」旋法でした。
これを何とかするため、「ダイアトニックコード」の構成を変えるという方法を取るのが、TLTの最初の一手です。
そしてTLTでは、このようなダイアトニックコード構成を定めました。
ルート、3rd、4th、6th、…
という構成です。これにより、5thがダイアトニックコードに入らないので、ロクリア機能和声における問題が解決されました。
でも、これで終わるのは早計です。
なぜなら、このダイアトニックコード構成である必要性が無いからです。
ようは5thが含まれていなければ良いだけなので、こんな歪な団子を積まなくとも
4度の等間隔で積んでみるとか
普通のお団子から5thだけ抜くとか、いくらでもダイアトニックコード構成の候補はあるはずです。
ではなぜTLTでは先の構成を採用したのかというと、(名言していたかは分からないですが)従来の機能和声の構造を可能な限り保ちたかったからなんじゃないかと思います。
従来の機能和声で「完全5度」が軸として働いていたように、TLTでは「完全4度」を軸として採用していました。
トイドラくんはその根拠として、完全4度が自然倍音の考え方から安定した響きであることを言っていました。また、同時に12平均律という空間を支える「軸」であり、それが機能和声と同様の構造をTLTにも作り出していることも重要だと私は思います。
これにより、TLTにおいては完全4度を中心とした「4度圏」の構造が作られます。
(なお、私の過去の記事で、この圏を作る音程が完全5度と完全4度以外に無いことを示しています。)
そして、「ルートからの完全4度堆積」+「3rdからの完全4度堆積」と、通常の機能和声での和音堆積を完全4度で置き換えることにより、この構成が完成するわけです。
さて、今度こそ疑問の余地なくこのダイアトニックコード構成を認められるでしょうか?
いや、まだですよね!
4thの正当性は認められましたが、3rdをダイアトニックコードに含めるのはまだ非自明のはずです。一回も3rdのことなんか触れてないもんね。
そもそも響きの安定性の観点から5thを省き4thを採用したならば、3rdと4thの間に生じてる2度の音程は不安定なので良くないんじゃないか?というのが、なんすいの意見。
むしろ6thからの4度堆積にした方が自然なんじゃないでしょうか。
つまり、こう。
また4度圏の観点から、通常の和声の「長音階」にあたるスケールは「フリジアンスケール」になるので、フリジアンスケールの場合でダイアトニックコードを見比べてみましょう。
こっちがTLT案で、
こっちが6th採用案。
重要なのは、TLT案の場合、通常の和声で属和音に対応するIVの和音がめちゃ安定してるということです。対して、6th採用案では4和音にするとIVにトライトーンが現れ、解決に向かう不安定な和音として機能します。まさに5度圏機能和声の「鏡映し」です。
TLT案なんかもうひどいもので、IVにトライトーンを出現させようとした場合、6和音にまで積み上げなければいけません。でもその前に、(5度圏の鏡映しならば)安定和音であるべきIIIやVIの方が5和音の時点でトライトーンを含んでしまいます。
ではTLTではこれをどのように弁明しているか……それは、TLTのコード進行は「緊張→解決」というメカニズムじゃなくて、「音が滑らかに動く」ことなんですと。だからトライトーンのあるなしは別にどうでもいいよと。このようにトイドラくんは言ってます。
果たしてそうでしょうか。
だって、事の始まりはロクリア旋法、そのIの和音にトライトーンが含まれていて、それが不安定な響きで、不安定な和音に解決するのはおかしいから、新しいダイアトニックコードを模索しよう、って話だったんじゃなかったですか?
「緊張→解決」を否定するということは、緊張感のある和音を機能として軽視するということです。それなら、緊張した和音がIでも別に良かったんじゃないか。
本当は、ダイアトニックコード構成の時点で3rdをなんとなく含ませちゃったがために、全体的に2度のぶつかりを持った濁ったダイアトニックコードになり、おまけにトライトーン解決を属和音に出現させられなくなり、仕方ないからTLTは機能感が薄い和声なんですよと弁明することになってしまっただけなんじゃないでしょうか!?!?
というのが、なんすいの意見!!!!!!!!!
トイドラくんは(一方的に私が書いてる記事なので)全く反論出来ず、幼稚園の困りも ののように手足をバタバタさせながらウーーーーッ!!!!!とビショ泣きしています。
「でも、ぼくちん、TLTを使ってこんなかっこいい曲作ったもんね!!!」
そう、このTLT、どれだけ論理的に矛盾を孕んでいたとしても、なまじっか実用性が高いのです。
耳なじみの良い音楽、でも今までの音楽とは明らかに違う空気を感じます。そしてこの効果は、軸として完全4度を採用したことよりもむしろ、ダイアトニックコードの構成によってもたらされていると思うのです。
このコードを改めて見ると、3和音がルート、3rd、4thという、通常の機能和声だとまず出てこない構成和音になっています。そして7thや9thより先んじて6thが付加します。
この観点から6th案を見ると、やや弱いです。3和音は通常の固有和音の転回なので真新しくはないし、4和音は9thが載ります。
もちろん、通常の和声でも付加4、6の和音なんかは普通に使われます。しかしやはり基本構造としてダイアトニックコードの型があるので、付加4、6の和音は「ここぞ!」「敢えて」という感じで使われることになります。
一方、TLTでは4thや6thが通常運転で使われ、逆に5thは全然出てきません。もちろん5thを付加した和音は使えるでしょうが、TLTの世界でそれは「敢えて」の手法になるのです。
すなわち、ダイアトニックコードの構成がある意味対称的であるために、各和音へ手を伸ばす「距離感」が変わってきて、これが音楽の空気感の違いを作り出しているということです。
結局、最終的ななんすいの意見としては、TLTは5度圏の通常の機能和声の完全な鏡映しではないし、採用されているダイアトニックコード構成に必然性があるとは思わないけど、それを差し置いたところにTLTの本当の功績があるんじゃないか。
それは、和声における新しい座標系を定めたことだろう、ということです。
この恩恵は、もはや5度圏も4度圏も関係なく、より自由な実践としてもたらされます。
例えば……
こんなダイアトニックコードを定めれば、クラスターが使いやすく協和音が使いにくい音楽が作れるし、
あるいは、和音構成をI~VIIで揃える必要もないかもしれません。
2種類のコード構成をダイアトニックとして定めるのもアリです。
TLTは、定めた前提によって作りやすいものが変わってくることを、神秘的に示していたのです。
トイドラくんが上げているTLT解説動画にも、こういうコード構成にするのが妥当なんじゃないですか?といったコメントがたくさん付いていました。
それらのコード構成代案は、きっと全て試す価値のある新たな座標系です。ぜひ各々で実験してみると良いでしょう。
そのうえで言えるのは、必ずしも5度圏音楽の正確な「鏡映し」を実行することが唯一の解では無いし、それよりももっと魅力的で歪な解もありうるということでしょう。自撮りだってどんどん加工する時代だし。
この記事のタイトルは「TLT本当にこれでいいのか」でしたが、むしろこれだから良かったんだと思います。TLTの益々の発展に期待。
どうもトイドラです。
最近、作曲理論関係で面白い本が出版されました。
西尾洋著の「許される連続5度」です。
連続5度と言えば、クラシック音楽においてあまりに有名な禁則です。
この本では、「そもそもなぜ連続5度はダメなのか?」という疑問を皮切りに、作曲理論全体を俯瞰していきます。
本書の内容紹介文では、
和声の学習においての指標(約束事)は「禁則」として、教科書で「禁」「許」「可」「不可」「避けよ」などと列挙されており、これらに基づいて授業やレッスンも行われる。しかし、学習者はそれらが「なぜ禁じられているのか」を知る由もない。
という、きわめて真っ当な指摘がされています。
本の内容はけっこう本格的で、作曲理論・音楽史に対する基礎的な知識がないと理解するのは難しいですが、とても有意義な一冊にまとまっていると思います(まだ読んでる途中だけど)。
そんな本書ですが、まえがきの文章があまりにも良すぎて感動しました。
作曲理論に対してあまりにも本質的な内容が、とてもスッキリまとまっています。
というわけで、今回は「許される連続5度」のまえがきを参考に、作曲理論って何の意味があるのか考えていきましょう。
〈もくじ〉
作曲理論には、しばしば「禁止」「不可」「避けよ」などといった表現が並びます。
連続5度や連続8度、限定進行の無視など挙げればいくらでもありますが、平たく言えば禁則というやつです。
現実世界にも禁則と言うのはあって、例えば「殺人はしちゃダメ!」とか「浮気はしちゃダメ!」といったものが禁則に当たります。
当然ですが、こういった禁則というのは普通に考えたらゼッタイ破っちゃいけない鉄の掟です。
ところが、こうした禁則について、著者はとても簡潔な言葉でこう表現しています。
規則違反はそれが違反であることによって、最も強い形で表現に貢献することになります。
これは非常にパワフルな言葉です。
つまり、例えるならこういうことになります。
当然ですが、禁止されていないことをいくらやっても、だれも驚きません。
逆に、禁止されていることを敢えてやる場合、そこには驚きと共に「なぜこんなことを……?」という否応のない疑問が生まれるわけです。
そして音楽においては、これがまさに表現と直結します。
何も表現する必要がない音楽は、当然のように禁則を一切破らないことでしょう。
しかし、仮にあなたが作品に対し、感情や情景描写などの表現を与えようと思った場合どうでしょう。
もはや理論なんて守っている場合ではありません。
気の向くままに連続5度でも8度でも使いまくって、初めて表現できる世界があるわけです。
これについて、本文ではこのように表現されています。
つまり、何が何でも、どうしても、という強い力を表現するためには、乗り越えられる対象として、規則が表現によって犠牲にされるのです。
表現が成立するために規則が必要というのは、ある意味で直感に反しています。
何しろ、自由に表現するためには、むしろ自由を縛る足かせが必要、ということですからね。
しかし、これは作曲におけるとても大事な事実です。
この部分をはき違えている人は一定数おり、
「ただひたすらに自由な音楽こそが表現なのだ!」
と信じて疑っていません。
これについて、本文の言葉を借りましょう。
禁則は犯されないものとして認識されているがゆえに、それが破られるほどの強い芸術上の必然があったときの衝撃は計り知れないものとなります。
この分の中で大事なのは、「禁則は犯されないものとして認識されている」という前提の部分です。
例えていうなら、もし殺人を犯したのが普段からヤンチャな暴力沙汰を繰り返している迷惑なチンピラだった場合、誰もそこに意味なんて見出さないわけです。
ただ単に、
「あ~あ、ついにやっちゃったか」
と思うだけ。
これが仮に、普段とても実直な好青年がある日いきなり殺人を犯した、という場合どうでしょう。
「あの彼が殺人だって……? 何か深い理由があるのだろうか」
と思わざるを得ないはずです。
音楽に置き換えて話しましょう。
そのへんの人が適当に作った音楽に規則違反が含まれていても、驚く人はまずいません。
何しろ、「禁則は犯されないだろう」という認識が特にありませんからね。
適当に音を置いた結果偶然そうなった、としか思いません。
ところが、バッハの作品の中で規則違反が出てきたらどうでしょうか。
何しろあの"音楽の父"バッハです。
何の狙いもなく規則を破ることは考えにくく、そこには遠大な意図があったのではないかと考えることになります。
つまり、作曲理論をろくすっぽ学ぼうともせず
「これがオレの表現だ! 理論になんて縛られねえ!」
という態度で作曲をしている人は、大きな勘違いをしているということです。
そういった作曲姿勢は、言ってみればバフンバフンと騒音をまき散らしながら田舎道を走る珍走団*1みたいなもんです。
本人は「オレの叫びを聞け~~~!」とやっているつもりでしょうが、"叫び"に意味が生じるのはめったに叫ばない人だけです。
常日頃からバフンバフンと叫んでいる人がいくら叫んでも、特に何の意外性もなく、意味も生じないというワケ。
真に自分の内的な表現を達成するために、「禁則は犯されないだろう」という期待を前提として作り出す必要があります。
そのために作曲理論は存在しているのです。
これについて、本文ではこのように表現されています。
制限を知らない自由らしきものは本当の自由ではなく、単なる無秩序です。
さて、ここまでの話から分かるように、作曲理論はやがて破られるための存在として深い存在理由があります。
そしてその理論は、まるで決して破られようがないほど強固に見えれば見えるほど、強い意味を持つのです。
禁則を破る衝撃は、その禁則の禁忌度が高ければ高いほど激しいものになります。
万引きをした理由よりも、殺人をした理由の方が切実に考えさせられるのと同じです。
逆に言えば、作曲において規則を破らないということには何の意味もありません*2。
作曲は規則を破ることで初めて表現となり、芸術的意味を持つのです。
これについて、著者はいささか衝撃的な持論を展開しています。
逸脱を企図しない単純な和声課題やソルフェージュ課題などは、それ自体が仮に美しかったとしても芸術作品として自立するだけの力は持ち合わせていないことがほとんどです。簡単な童謡や民謡の類も同じで、逸脱の志を持っていない音楽は芸術とは別のものです。
童謡や民謡は芸術ではない、と言い切っちゃっています。
反論したくなる人もいそうですが、僕は全く同意見です。
例えば、夕焼け空とかを見て
「うわ~大自然の芸術だね!」
などと言う人がたまにいますが、僕はこういった表現が好きではありません。
やっぱり芸術というのは、逸脱の志を持って表現されたものだと思うのです。
そうでなく単にキレイなだけのものは「美術」と呼ぶべきで、芸術とは分けて考えるべきだと思います。
こういった主張の最たるものとして、著者はとても面白い一文を脚注にコソッと書いています。
もし本当に規則破りを犯したくないのであれば、音楽をしないのが最善の策です。
いやあ、沁みますね。
したがって、音楽理論を守ることは少しも良いことではないばかりか、むしろ破ることにこそ意味があるという結論になります。
ただし、だからこそ破るためには重い重い意味合いが付きまとうことも忘れてはなりません。
決して倒せそうもない敵を、見事倒し切るから意味があるのです。
決して破られようもない規則を、見事破り切るから表現になるのです。
中途半端な規則違反や、逆に徹底した規則遵守の姿勢は、ともに表現的な価値を持たないといえるでしょう。
そしてそのために、作曲者は作曲理論をよく理解しておく必要があります。
徹底的に理論を習熟し、その内容に強く納得した上で、なお破る必要が生じた瞬間にこそ音楽の輝きが宿ります。
理論を軽視するチンピラ的な態度も、理論を金科玉条と掲げる保守的な態度も、けっきょく芸術的な態度とは言えないことでしょう。
現代音楽のコンサートに人がたくさん来ていたらきっと面白いので、ぜひ来てください!
そして現在、開催のためのクラウドファンディングも行っております!
なんとあの故・ゴルバチョフ(Горбачёв)元大統領の推薦もいただいております!
大変有難いことに皆様からの温かいご支援を頂き、第一目標金額は無事達成出来ました。
ですが、第一目標金額はコンサートを最小規模でなんとか開催出来るギリギリ金額です。
より充実したコンサートを開催するためにはより多くの資金が必要となります。
そこで現在、ネクストゴールである ¥300,000 に向けて、挑戦を再開しております。
¥300,000あるとこんなこともできちゃいますの(例)
・プログラムノートの印刷
現状プログラムノートは電子配布を予定しています。
しかし、曲中や曲間に紹介文を見返したい!と私は思います。そうなるとスマホよりも紙の方が断然良いです。スマホだとどうしても演奏中に開くのははばかられますから.......。
こんなかんじで、ただ演奏会を開くだけでなく、よりよい聴取体験をお届けするためにもご協力をいただけると幸いです。
ちなみに
1/3が集まっております。支援してくださった方々、本当にありがとうございます。
そうでない方には
・今回演奏する弦楽四重奏曲の楽譜(!)
・今後3回分の演奏会の優待券
など魅力的なリターンを多数ご用意しておりますので、ぜひご支援をよろしくお願いいたします。
私は焦燥を感じています。
というのも、新たに好きになる音楽が年々減少しているからです。特に去年の暮れあたりから明確に減少しており、このまま行くと来月には0になる見通しです。
じゃあ音楽が嫌いになったのかというとそういうわけでもなく、昔好きだった曲を聴くと沁みます。要は新しい響きは殆どなくなり(特にポップス)、その上で好みが固定化されているんだと思います。このままだと懐メロおじさんになってまう。
というところで取り出したるはSoundCloud。理由はここ2年くらいマジで開いてないので僅かに可能性を感じるからです。あと俗っぽい曲が聴きたい気分だから。
久々に取り出したので、ロゴが変更されていました。
ロゴだけでなく、UIも洗練とされています。
以前のSoundCloudを知らない人に向けて書いても仕方がないのですが、昔はこういう個々人に向けて最適化されたプレイリストみたいなのはかなり貧弱で数が少なかったんですよ。それがまた良かったりしたのですが、まあ過去の話ですね。
ということで、今回はこの「は、とり」に基づいたプレイリストを聴いていきたいと思います
「は、とり」というのはシンガーソングライターで、都会的な青葉市子みたいな曲が多くて好きだったんですが、ある日突然活動を辞めてしまいました(多分)。まだ活動しているなら教えてください。
「他人」とか凄くいい感じの曲だと思うんですけどねー。
はい。それではいい感じだった曲を抜粋していきます。
全然知らなかったんですが、曲がポップで可愛い♡のに歌詞が病んでるので多分カルト的な人気があるはずです。
ポケモンでサトシ達の旅路に度々現れては歌をうたって皆を眠りにつかせるプリンが、自分で寝ちゃった時の夢に私でたいな、とそんな気持ちを密かに混ぜて書いた曲昔ハマってたラブandベリーのゲームがあって、サビ終わりのタンバリンはそれの影響うけてる
とは作曲者の談。
youtu.be良し悪しでいうと可も不可もない感じかなと思いますが、なんだかんだこういうのが好きだったりするんですよねー。存在していると嬉しいタイプの曲です。
SoundCloudではサムネイルの画像が音楽の進行に合わせて右から左に流れるんですが、ネコチャンの画像がスローで右から左に流れ始めた瞬間、この世の全てがどうでも良くなりました。
信じられないくらい小さいディスプレイで小沢健二が出演しているテレフォンショッキングの動画を見ているのも◎。
今の自分が欲しているものが詰まっていて(遊具とか)、泣きました。当然のようにSoundCloud以外には上がっていません。すごい世界だ。
終わりです。
普通にいい感じの曲をたくさん教えてくれました。ありがとう。でも私は全く満足していません。全部破壊してえ。
時は2023年、コロナ禍が長引き巷にはこれらの対策に疑問を唱える「我慢のできなくなった民」が出現し始め、くちぐちに聴くも虚しい「陰謀論」を言い出していた。
私は基礎疾患者、そして科学の純然たる信奉者としてコロナ対策へのマスクの有効性、消毒の有効性、そしてワクチンの効果を疑わないのだが、こういう意見が揶揄され始めていたのである。もっとも2025年となれば、その揶揄さえも一般化し始め、ノーマスクは当たり前になりつつあり、当時抑え込めていたインフルエンザの大流行を引き起こすにまでその「バカ」は進んでいる。
2023年という年は私にとって、悲しみと不安と怒りの年であった。環境も激変したのである。
まず前年の父の他界、そして上記のようなコロナ禍の騒動により、不安発作の症状が再発していたところに、ネット上でくだらない連中からの誹謗中傷を受けていた。しかも彼らは自分たちこそが誹謗中傷や脅しの被害者だと喚き立てる始末。これは私の怒りの導火線に火をつけた。そしてXのアカウントを鍵垢で運用しながら、彼らの情報も調査保存して、彼らが人生の底の底にある時、この導火線に着火してやろうと決めたことから始まった。(もっとも今その思いがあるかどうかは疑問だが)
そして世の中の風潮の変化の只中で、それらの怒りは多方面への怒りとなって私の中で肥大化していったのだった。結果的にこのことで全く今まで接点がなかった方々との交流が芽生えたり、お仕事につながったり、そもそもの発端であった弟子のYouTubeチャンネルはいまや、この誹謗中傷野郎どもを一息で吹き飛ばせるほどに力のあるものになったのだから、なんとも時の流れと知力というものは皮肉なものであると言えるだろうが。
ここまでに2作「コロナ禍」をテーマとした作品を発表してきた私は、こんな頃に名古屋作曲の会の第7回演奏会の作曲を抱えていた。上述のように人に対する怒り、知力なき者への強力な嫌悪、そして責任のない行動を主とする連中への殺意と言っても良いものに加え、複雑な関係であった父が他界したことへの対処しきれない思いなどが錯綜している時に、芸術の命題を考え始めたことがこの曲の背景には確実に存在している。
これらの思いを一言で言うのは当時は難しかったが、今ならはっきりと分かる。
-虚しさ
私は当時これを感情的な反応で感じ取っていたのだろうと思う。弦楽四重奏での作曲であるということは決定していたので、以下のことを創作にあたって決定した。
・コロナ禍をテーマとする締めくくりの作品
・馬鹿になった人々への怒りと嘲笑
・バカの成れの果ては、実態なき概念と化した存在なのではないかという想像上の仮定(これは山月記の李徴が虎になったことと強く関係する)
・社会分断を文化側面からテーマにする
・全面を虚しさで覆い尽くす、一種のレクイエムにする
このようなテーマを導き出せたことは、今考えれば私に中傷を浴びせかけて来た、プライドの塊と言える「バカ」の存在なくしては成立しなかったし、自分の根源的な怒りが何に対して強く向くのかということを、はっきりさせてくれたという意味で、その人達にはある種の感謝の念さえ覚えている。なるほど先人が言う通り、自分以外すべての人が教師ということだろうか。当然彼らのような「概念」に身を堕とそうとは思わないが、それでも怒りと感謝が同居する気持ちにはなっているし、そういう存在や考え方があることを知れたことは私の人生における大きな知見となったということである。
ここからが難しい、この個人的な「虚しさ」を音にすることに、理論がある意味邪魔をしてしまう。しかし現代芸術を書くときにそのコンセプトと、それを具現化するモデルの間には強く理論的なつながりがなくては成立せず、十年一日のバカバカしい調性音楽で済む本邦吹奏楽界隈のようにはいかないのは間違いない。
なぜならその作品を芸術たらしめるのは、他者の評価と歴史であり、それらに問うためにはそれなりの覚悟とフォーマットを必要とするからである。そこで今回はこの感傷的な個人的な感情というセオリーなき存在をまず肯定できるモデルを作る必要があるということが急務であった。
私はこの感情に寄り添い、注意深く近藤譲先生が「次の音を探る」かのような態度で、自分の感情と呼応する和音群を探し続けた。これは感覚的操作であり、逆にあらゆる理論を遠ざけて単なる音群に耳を澄ませ、自分の反応と比較するだけという作業になるように気をつけた。他者の影響も欲しくないので、夜中の家族の寝静まったときに、誰もいない部屋でじっと胸の中の音に耳を澄ましてそれを一つずつ書き取る作業を行った。実はこのときに絶対音感が極めて役に立ったことは言うまでもなく、ピアノなどを叩きながら探すとどうしても、バランスを考えたり、Fixを試みてしまうという一種の性からも離れる必要があったからである。
結果として以下の八個の音群が得られた。これを仮に「虚無の自由音群」と言うことにしよう。
しかし自己の感情だけで曲を書き切ることにはいささか抵抗もある。なぜなら、それが公知のものとなった時に幾ばくでも共感や反感を喚起しなければ歴史への提案とはなり得ないだろうと思うからだ。そこである程度多くの人がコロナ禍の影響で出現した現象に、違和感を持つものとして「文化の分断」を選んでみようと思った。
これは「コロナ前には女人禁制だった祭が、コロナで中断したことから復活する際に人手不足となり、長い間の伝統を打ち破って女人禁制を解いた」というニュースへの各人の反応と、そのニュースのコメント欄における喧々諤々のやり取りを目撃し、たしかにそれではもう「その文化は伝統たり得ない」と思ったことによる。
そこで祭の成れの果てを作ってみようと考えた。この方法にはちょうどいい先例がある。新民謡運動である。日本的なペンタトニックメロディに西洋的和声を付した作り方で、流行歌の原型となって行き、いまの演歌の源流となったものと極論すればわかりやすいだろうか、本来ある日本の伝統音楽が分断と改変を経て全く違うものになってしまったのに、今やそれらを日本の心だとか懐かしい音楽などといわれるに至った実に忌むべき日本近代音楽史上の出来事だ。
私はそれに倣って、民謡調の創作メロディーの断片を作ってみた。しかも陽音階と陰音階というニ種類の日本的なペンタトニックを用いて。
このように陽音階と陰音階はいまではまだ明確に区別されているが、分断や変質を更に繰り返し、民謡が文化ではなく単なる概念に成り果てたことにこの違いは果たし残っているかは甚だ疑問である。そこでこれらの音階と合成音階をピッチクラスセットにて検証してみる。
音階を定めればこの音階が用いなかった音による、影の音階(コンプリーメント・スケール)も同時に得られるのでこれも検証しておく。
ここに、感覚で得られた響きと、論理的プロセスと思考を結びつけることで得られた素材が出揃ってくる。あとはこれにこの曲の真の主人公である「ニンゲン」というものをどう表現するかを考えるだけである。
人もまたコロナ禍によってその強固なコミュニティ意識は分断し、様々な格差を露呈することで、互いに自分の優位性を他者に吠えるだけの「概念」に成り下がりつつあるわけで、これらを音の亡霊として描くには「音のふりをしたなにか」が必要だ。そこで私は現代音楽の主戦場である「ノイズ」をこれに適応した。無音に近い噪音を得るためだけに様々な特殊奏法を駆使し、無意味な努力から類似したさして差のない、聴こえにくいなにかを取り出すという手法を思いつき、それぞれの双方を合併して、スペクトル解析を行い、近しいノイズを散りばめるという手法を考えた。またこのノイズは率直に言って虚しさとも強く呼応する。結果冒頭部からほとんど音にならない特殊奏法を多用することになった。
この噪音の中から感覚的に得た音群を様々なフィルタリングによって変性させて登場させていくのを一種の提示部として書き始めた。そしてそのやり取りには文化の分断、人間集団の分断を意味する多くの音楽的中断を挟むことにした。
このやり取りを伴奏に、民謡調のメロディをを断片的に挿入し始める。これは日本人の名残でもあるだろうし、概念化したニンゲンの想像するすでに伝統とは切り離された謎の「ノスタルジー」でもある。
そしてこれらが明らかに伝統を離れたと多くの人に知覚してもらうための小細工として、陽音階の旋律断片と陰音階の旋律断片を同時に鳴らすという方法を採用してみた。これは響きとしては今の私達にはまだちゃんと違和感のある気持ちの悪いものと認識されるが、いずれこれも「伝統文化」の顔をして歩き出すだろうという予言を意味している。
上記の提示によって混沌を深めていった先に、陰陽混合の音階を原型のまま登場させることにした。響きは感覚的には現代的だが、将来、ニンゲンのさらに成れの果てはこの恩恵にすらノスタルジーを感じるのかもしれない。
最後にこれらがもともと個人的な怒りや、疑問、悲しさや虚しさに立脚していたという原点に立ち返る必要が出てくる。この部分をこの曲の中央部分に配置する高頂点にしたい。そこで今までの要素を合併し、陰陽混合音階から得られる音と、感覚的音群を並列に並べ、ここに恣意的操作、新民謡運動が恣意的に西洋和声を使ったことになぞって、それらの音が機能和声的に動くような配列を模索し、これにより感覚と論理と伝統と恣意性の混合した謎のコラール部分を作ることにした。徹底的に西洋的な書き方を全く関係ない素材たちに施すことで、中心性を生じさせ、響きとしては聴きやすいものになるというのがこのシーンに込められたニンゲンへの強い皮肉である。
高頂点を迎えた音楽は減衰し、再びノイズに回帰するが、この際にも変質を加えたいので、スペクトル比較によって近しい音になるように、発音によって生じる音に置き換えていく操作を行った。これはニンゲン自体が更に概念化した存在へと変質していったことを表している。
これがこの曲のコンセプトと全体のあらましである。私の個人的な経験と怒り、そして社会的な問題を並列にして、シニカルに、そしてリアルな問題として書き出してみたつもりだし、リアリスト、シニカリストとして折衷主義を貫く一人の作家としてやれることはやったのではないかと思う。
残念ながら2023年の時点で演奏するのが最も理想だったが、様々な問題で初演は2025年となってしまったが、それでもこの曲に私が込めた皮肉は色褪せていたないどころか、更に現実性を増して不気味に響くのではないかと期待している。
また蛇足だがこの曲には隠された小さな引用があることもせっかくなので末尾に紹介したい。
チェロが歌い出す民謡調のメロディにトーン・クラスターで応じるこのシーンは小山清茂の「管弦楽のための木挽き唄」へのオマージュである。本来の日本音楽を捉えようと研究された小山先生らの思いに、残念ながら日本人はそれを忘れていっていることを報告しているという意味である。
ズレを多用しすぎて、トーン・クラスターとなった音だが、還元すれば単純な完全五度になるこの響きはヘンリク・ミコワイ・グレツキへのオマージュであり、氏の弦楽四重奏曲第1番「すでに日は暮れて」を意識したものだ。意味合いはホーリー・ミニマリズムと呼ばれた氏の作風の根底にある、強い個人的悲しみと民族的怒りへの共感である。
四度のハモリを伴ったオリエンタルなメロディと、Popがかった和声付が一瞬現れるこの部分には坂本龍一へのオマージュを込めた。具体的には氏のラスベガスオリンピックのために書かれた「El Mar Mediterrani」を意識した部分で、ナショナリズムの高揚を嫌って断った氏が、結局オリエンタリズムでその仕事に応じたというストーリーに、新しい日本への反抗と忌避の意味を込めてみた。
この音型は武満徹へのオマージュであり、これは私の個人的な尊敬と、現代の諸問題を愛の欠如として描き出した氏の晩年作への共感を示したものである。
様々なぶつかりが合ったこの曲の最後は以下のような表記で閉められる。
これは「ため息をつけ」という意味であり、私の嘆息でもあるし、先人の嘆息でもあるのだが、この裏で「S」の発音も同時に鳴らされており、いわば「Ha」+「S」の合音となるようにしてあるのだが、これはベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」からの死者の声の引用でもあり、ここで言う死者とは過去を知る先人たちの亡霊でもあり、概念と化した未来のニンゲンそのものでもある。
「分断されたものは伝統であるか」-私がこの曲のライナーノーツに書いた文章のタイトルだ。私は分断されたものは伝統などではないし、それは新しさですらもないと思う。将来のニンゲンへなんの期待もなく、そしてここにそれを生んでしまった自分の時代への後悔と懺悔、怒りと虚しさを感じるだけである。
そんな嘆息を聴きたくないという意見もあるだろうし、その気持もよく分かるが、旧人として書かずにはいられなかったのだ。私の咆哮、慟哭と受け取ってもらっても良いし、ただ慢心した年寄りの、若者への無理解と受け取っていただいても構わない。ただそこに音があるだけなのが音楽なのだから、私がいくら力んでも音は音でしかない。ただそれだけである。
ということで、この曲が初演されるコンサートが間近に迫っております。コンサートの詳細は以下のページをご覧ください。
そして、すでにたくさんの支援をいただいて当初の目標達成となりましたクラウドファウンディングですが、ひとまずの達成に対し御支援いただいた方に心より感謝をさせていただくとともに、実はこれ演奏会の費用なごく一部を御支援お願いしたもので、さらなる追加支援をいただけますと、演奏会自体のクオリティやお客様にご用意できるものもの変わってまいります。
引き続き御支援くださいましたら、これ以上に嬉しいことはありません。詳細は以下のサイトでご確認いただき、ぜひとも重ねて御支援をお願い申し上げます。
どうか、若い創作者へ皆様の温かい御支援と、芸術文化の灯火を絶やさぬための活動に応援いただけましたら、これより嬉しいことはございません。
どうかよろしくお願いいたします。
本当に前代未聞の弦楽四重奏コンサートを、名古屋でやります!!!みんな来て下さい!!!
そして現在、開催のためのクラウドファンディングに挑戦中です!!!
大変有難いことに皆様からの温かいご支援を頂き、第一目標金額は無事達成出来ました。
ですが、第一目標金額はコンサートを最小規模でなんとか開催出来るギリギリ金額であり、より充実したコンサートを開催するためにはより多くの資金が必要となります。
そこで現在、ネクストゴールである ¥300,000 に向けて、挑戦を再開しております。
新曲の楽譜や優待券など魅力的なリターンを多数ご用意しておりますので、ぜひご支援をよろしくお願いいたします。
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どうも、なんすいです!
そろそろ本名名義に変えようかなと思っています。
皆さんは普段音楽を聴くとき、どんなサービスを使っていますか。
私は大学に入って初めてスマホを使い始めたんですが、その際に初めて音楽ストリーミングサービスを契約しました。
AppleMusicでした。
それからAppleMusicを3年くらい使っていたんですが、2022年にSpotifyに乗り換えました。
なんでかというと、AppleMusicがめっちゃ値上げしたからです。
まぁ良い機会だべと思い、それからSpotifyを2年くらい使ってみました。
…気がする。
例えば、JinjaSafariというアーティストのディスコグラフィを見てみましょう。
「Toothless Grin」というEPが、AppleMusicの方にはありません。
そして、JinjaSafariの中でも一番良いと思う曲が、この「Toothless Grin」の中に入っている!
ということがあったりするわけです。
もちろん、Spotifyに無くてAppleMusicにある曲もあります。
ただ私自身の経験としてはやはり、Spotifyの方が充実して曲が入っている印象があります。
これも一般に言われている通り、Spotifyの方が新しい曲を開拓しやすいです。
そもそも曲数がやっぱり多いんだなと感じます。
ただ、開拓しやすいといってもAppleMusicと比較しての話であって、そんなにスムーズに新しい曲やアーティストを見つけられる訳でもないです。
大体同じようなジャンル、アーティストばかりがレコメンドされ、すぐ堂々巡りになってしまいます。
おすすめできるdig方法はやはり、ランダムワードで検索して出てきた曲を下の方から聴いていくことくらいです。
空前絶後の差があります。
音質って良い方が良いという方は迷わずAppleMusicです。
私は音質が良い方が良いのかよく分からないので、迷っています。
なんで?
名作会の人達も大体AppleMusicだし、その他周りの人も、AppleMusicやAmazonMusicとか使ってる人ばかりです。
たまたまなのかと思うんですが、意外とSpotifyは使われてないのかなと感じました。
良い曲見つけた時に共有しづらいし、なんか寂しいです。
そして最近、Spotifyにも飽きてきたのでまたAppleMusicに乗り換えました。
しばらくぶりのAppleMusic。再び使ってみた結果、次のようなことが分かりました。
良すぎる!!!!!耳を新品に換えたみたい。
寺尾紗穂というアーティストの曲の歌詞がSpotifyに無かったのが凄く悲しかったんですが、AppleMusicにはあって嬉しい。
分かっていたことですが、Spotifyに比べて曲数が少なくなりました。
今まで好んで聴いてた曲が結構聴けなくなり、一度Spotifyを通っただけに凄く不便に感じました。
AppleMusic、Spotifyどちらにも、ボーカルの音量を調整してカラオケ音源に出来るカラオケモードがあるんですが、AppleMusicの場合iPhoneにしか対応していないようです。
私はAndroid使いなので、カラオケモードはSpotifyでしか利用出来ないということになります。
Appleのアプリは、往々にしてiPhone以外の機種に厳しいですね。
メリット・デメリット、そして値段を鑑みた上で、やっぱりSpotifyに戻ろうかなという気持ちが強くなってきました。
Spotify最高!!
でも、再生中にMVの短い切り抜きがループ動画で流れる機能は、目が回るのでやめてほしいかもです。
それはYouTubeです。
YouTubeは、曲数で言えばAppleMusicとSpotifyどちらをも凌駕しています。
あと純音楽聞くなら絶対YouTubeが便利です。
欠点は、動画サイトなので音楽以外がメインであるということです。
YouTubeで再生回数の少ない曲を何度か聴いていると、勝手に再生数の少ない曲をレコメンドしてくるようになります。素晴らしい学習機能です。
せっかくなので、ここ最近YouTubeで見付けて良かった曲をいくつかご紹介しようと思います。
誰にも教えたくないレベルの良曲です。
私の「歌唱行為」に対する考え方に大きな変化をもたらしました。
「あたしンちグラグラゲーム」を用いたパフォーマンスアート作品。
奏者はあたしンちグラグラゲームをプレイし、その操作音と立花母のモーション情報を元に音声が出力されます。
イカしたボカロ曲です。
チグハグにまとまった構成も素敵です。
熱い歌詞のボカロ曲です。
おじいちゃんが多重録音で歌っています。普通に凄いしかっこいいし沁みます。
基本的にYouTubeでのdigは非常に効率が悪いし偏りも激しいですが、以上に紹介したように思わぬ名曲を見つけられることがあります。
今更感がありますがSoundCloudです。
使いにくい感じがしてあんまり今まで触ってこなかったので、しばらくSoundCloudに籠ってみようかなと思っています。
良い曲が見つかったら共有したい。
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