
(本稿は2016年3月10日に「ASREAS」様に出稿した原稿を再編集したものです。)
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」がアカデミー賞最多の6部門賞を受賞した。心から祝福したい。僕の中で「マッドマックス」は2015年の作品の中では明らかにベスト・オブ・ベストだし、火を噴くギターをかき鳴らしながら監督・脚本・出演者・美術技術あらゆるスタッフを祝福したい気持ちでいっぱいだ。
さて、「マッドマックス」が最高の映画であることは既に論を待たない自然科学的な事実として広く人類社会に知られているが、その内包するテーマに関する理解はいまいち社会全般に──特に日本においては広まっていないように思える。
無論「作者の死」などという概念を持ち出すまでもなく、作品の解釈は観た人たちひとりひとりが見出していくべき自由なものであるわけだが、一部の党派的思想に偏った解釈があまりに幅をきかせており、作品の内包している強いメッセージが必ずしも広く共有されていないのではないか、という危機感を覚えなくもない気がしなくもないわけである。
つまり、ぶっちゃけてしまうと僕が批判しているのは
「マッドマックスはフェミニズム映画だ」
というごく一部の界隈における解釈であり、
「んなわけねーだろそれは解釈が狭すぎるわ」
というのが僕の主張である。
本稿では
「マッドマックスは本当にフェミニズム映画だったのか」
「女性のエンパワーメントのみを主題にした作品だったのか?」
という視点、つまりジェンダー的な視点からマッドマックス評を行う。
火を噴くギターがいかにCOOLかの描写は行わない。
人喰い男爵の乳首と火を噴くギターのみを愛する諸氏は、左上の「戻る」を押して退席しても良い。
マッドマックスは父権主義的男性社会のおぞましさを描いた作品である
本編を見て多少なりともジェンダー的な知識が有る人なら、恐らくほとんど疑問に思わない意見だろう。
「マッドマックス」の世界では、綺麗な女は性奴隷(子産み女)にされ、それほど綺麗じゃない女(ミルキング・マザー)は乳搾り機に固定され母乳を搾り取られる。
これは現実社会の女性に対する父権的社会の抑圧、つまり「女は子育てという責務を押し付けられ、美しい容姿を持った女もその身体を権力者の男に搾取される」という構造を、映像的なメタファーで表現したものだろう。
乳を搾り取られる女は一様に太っており、拘束式の椅子に縛り付けられている。これは椅子(家庭)に縛り付けられ、自由を剥奪され、母乳(母としての役割)を無理やり搾り取られている専業主婦的な女性の姿、と見れる。
イモータン・ジョーの女達においてはもっとわかりやすい。彼女たちは「貞操帯」をつけられ、要塞の一室に囲われている。そもそも彼女たち全員がはっとするような美人だ。
こうした女性に対する抑圧の描写において、今回のマッドマックスは余念がない。
彼女たちには自由がなく、なによりも「尊厳」を奪われている。
マッドマックスは『戦う女性』の勇ましさ・強さを描いている
これも論をまたない視点だろう。
マックスと並ぶ女主人公であるフュリオサはマックスと同じかそれ以上の戦士であり、後半登場する「鉄馬の女たち」もイモータンジョーの兵士たちに勝るとも劣らない卓越した兵士として作中で活躍する。
特に中盤、狙撃銃で敵を狙撃するシーンはこの映画の中での屈指の名シーンのひとつだ。
マックスはライフルで敵を狙撃するが、射撃が下手なのか全く当たらない。そこでマックスは今まで自分が独占していた銃をフュリオサに渡し、銃の台座として自分の肩を預ける
「銃を撃つ男を女がサポートする」という絵面は今までの映画に溢れていた構図だが、「銃を撃つ女を男がサポートする」という絵は今作がもしや始めてではないだろうか。
男だけがヒーロではない、女だって戦える。
こうした面が強く強調された今作は、男性中心のきらいがある英語圏の映画文化の中では特に際立っている。
…さて、ここまでの描写を読むと
「マッドマックスってやっぱ女性のエンパワーメントを主題とした映画なんじゃないの?」
という感想を抱くと思う。それは正しい。しかし間違っている。
実際、この前者2点はこれでもかというほど作中で強調された部分であり、いわば「表テーマ」としてマッドマックスを彩っている。
しかし、マッドマックスには「裏テーマ」がある。
上記2点のように強調はされていないが、さりげなく画面の中に盛り込まれた視点が数多くあるのである。
まぁマッドマックスに限らず英語圏の映画の製作方式として「誰にでもわかる面白さ」と「よく見なければわからない面白さ」を盛り込んで一見さんと映画オタクどっちも満足させよう、みたいな方式があるのだが、マッドマックスはそれがさらより強く練りこまれた作品だ。
「パッと見て面白い超解像車や火を噴くギターや大爆発」の裏に「父権主義的男性社会への批判とフェミニズム的女性のエンパワーメント」という表テーマが隠れており、さらに奥深くにこれから説明する「裏テーマ」が隠れている。いわば三重構造だ。
順を追って説明していこう。
マッドマックスは男性社会の「男にとっての」息苦しさも描いている
「男が女を虐げる」描写において余念のないマッドマックスだが、実は「虐げる側の男たち」の苦悩も合間合間に描写されている。
マッドマックス世界において虐げる側の男といえば我らが不死身の英雄イモータン・ジョーだが、彼こそがその最たる例だろう。
まずはイモータンジョーの鎧に注目したい。
ジョーの鎧は「筋肉」なのである。半透明なウォーボーイズの肌のような色でできており、これを着るだけで(ウォーボーイズからは)常人を超越した肉体を持っているように見えるのだ。
しかし、そんな筋肉鎧を着ているジョーは、まったく嬉しそうではない。
序盤、鎧をつけるシーンが特に示唆的なのだが、ジョーの病んで老いさらばえた肉体と、筋肉鎧の逞しさの「差」が強く描写されたカメラワークになっている。ジョーの表情も疲労感が強く「またこの鎧を着なきゃならんのか…」とでも言った表情に満ち満ちている。
イモータンジョーは、作中のあらゆるシーンで全く楽しんでいない。
人喰い男爵のように「最高だぜぇ」みたいな顔は作中では一度も覗かせず、発生し続ける問題に対処しようと、常に渋い顔をし続けている。
つまり、イモータンジョーによって、権力とは「責務」であって「愉しみ」ではないのだ。
荒廃後の世界は極めてタフな世界で、そんな中で秩序を保つためにジョーは常に「強さ」を演じなければならない。
不死の英雄ように振る舞わなければならないし、並外れた肉体を持っているように偽らなければならない。デブの乳首ピアス野郎では、荒廃後のタフな世界で秩序を保つことはできないのだ。
父権主義的男性社会においては、男性支配者にも多くの苦しみがある。
「権力」の果実は「責任」という対価を求める。そしてそれは権力者である限り死ぬまで続くのだ。
そしてもちろん、ウォーボーイズたち。
マッドマックの世界では、男は全員「兵士」としての責務を押し付けられ、教育は与えられず、雄々しく死ぬこと、支配者に従うことのみを教えられる。
彼らはみな一様に同じ格好をしており、髪型や服装にも全く個性というものがない。
これは明らかに「同じ格好をして大義のために戦う」男たち、つまり今なお世界中の戦場で命を散らし続けているアメリカの男性兵士たちや、企業社会で神経と命をすり減らしている男たちを描いていると言ってよいだろう。
彼らは「尊厳」だけは与えられているが、健康や命は文字通り致命的に損なわれている。
マッドマックスは、男性社会の功罪の『功』の部分も強く描いている
台詞としては全く描写されないが、マッドマックス世界のおいては男性社会がもたらした肯定的側面が所々で描かれている。
最も鮮烈なのは水耕栽培のシーンだろう。
水耕栽培についてはこちらのブログに素晴らしい洞察があるのでぜひ読んでほしい。
水耕栽培農家の視点から見る「マッドマックス 怒りのデス・ロード」
つまりイモータンジョーは恐怖と支配と性の搾取を行う恐ろしい邪悪な存在であるが、そのイモータンジョー(≒父権的支配者)だけがこの荒廃した世界で「生産」を司ることができるのである。
これは中盤、鉄馬の女たちの言う
「種を植えたけど育たなかった」
という台詞の明らかな対比になっている。
またこれも一瞬しか映らないシーンだが、序盤、ジョーが子産み女たちの部屋に押し入るシーンで、女達の部屋にはなんと「グランドピアノと本」が存在するのだ。
木を見ても「でっぱり」としか表現できないニュークスが普通の世界で、これは明らかに卓越した文化的遺物である。
もちろんそれは女たちのことを考えてではなく、彼女たちが将来生む自分の跡継ぎを教育するための投資なのであろうが、少なくともイモータンジョーは文化という貴重品を守り・引継ぐ役割も負っているのである。
男性社会は確かに女性を(そして男性も)抑圧する。
しかし、「生産」「秩序」「文化」などの肯定的な産物も生み出している。
表テーマほど雄弁には語られないが、マッドマックスにおいてはこういった主張も確かになされているのである。
マッドマックスは『女性たちの欺瞞』も描いている
マッドマックスは戦う女たちのある種の「欺瞞」をも描いている。
もちろん前述したとおり、戦う女たちの勇気や強さ気高さも強く描かれている。しかし、そこにある種の欺瞞があることもマッドマックスは指摘するのである。
マッドマックスが描く欺瞞には2つの種類がある。
「搾取された女たち」の欺瞞と「戦う女たち」の欺瞞だ
「搾取された女たち」の欺瞞については、作中でかなり長い尺を取って描かれている。
逃走の途中、過酷な道中に挫けそうになるフラジールの台詞だ。
スプレンディド(リーダー格の妊娠していた女性)が死んでしまったあと、フラジールはこう叫ぶ、
「私たちは守られてた!私たちはジョーのおかげで良い生活ができた、それの何がいけないの!?」
(We were protected! He gave us the high life. What’s wrong with that?)
もちろんこのすぐあとに、他の女性たちの
「私たちはモノじゃない!」
(We are not things!)
という言葉でフラジールも逃走の意志を取り戻すのだが、これは示唆的なシーンだ。
ジョーの妻たちは、繰り返しになるが貞操帯を付けられ自由を剥奪されていた。つまり「尊厳」を奪われていた。
しかし彼女たちは明らかにこの荒廃した世界の中で特権的な「良い生活( high life)」を送っていたのであり、ある種の特権階級と言えないこともなかったのだ。
それは序盤、彼女らが貞操帯を外したあと、足を洗うために貴重な水を潤沢かつ粗末に使うシーンでも示唆されている。
「私たちはモノじゃない!」確かにその通り、人間には守るべき尊厳がある。
しかしその悩みは、生きるために汲々とする人間が大半のこの世界において、相当な贅沢品じゃないのか?という視点も、マッドマックスには確実に盛り込まれているのである。
「戦う女たち」の欺瞞は、鉄馬の女たちの初登場のシーンで見られる。
彼女たちは砂漠のバイク戦士で、ジョーのウォーボーイズに勝るとも劣らない戦いの専門家である。
僕は「鉄馬の女たちの戦いぶりに勇気づけられた」という女性のコメントをSNSで多く見かけた。
気持ちはわかる。しかし、彼女たちの「狩り」の方法を覚えているだろうか。
鉄塔の上に「裸の女」を置き、道行く人に向かって「助けて!!!」と声をかけさせる。
それに釣られてやってきた(恐らく)男たちを包囲して一網打尽にする、というのが彼女たちの方法である。
彼女たちの狩りの方法は、明らかにダーティだ。
男たちの性欲と、「女性を守るべき」という男性の性規範を利用している。
それはある意味で「女は家庭に留まるべきだ」という女性の性規範を利用する男たちと何ら変わる所がない。
「女でありながら男の土俵で戦う女戦士」は、実は「女の武器」に依存しているのだ。
これは深読みすれば、現代の女戦士たち、つまり日本で言う「バリキャリ女」的な女性の生き方への風刺と見ることもできる。大企業や官庁などのタフな戦場で戦う女性は、いつもフェミニストの羨望の的だった。しかしそんな彼女たちは「女の武器」と全く無縁に活躍できているだろうか。
女性作家である安野モヨコさんの作品「働きマン」などでも、主人公の女性編集者は「女の武器」を使うことへの躊躇いや、それを躊躇なく使う同僚への複雑な感情が描かれていた。またワシントンを舞台に政治劇を繰り広げる米国のドラマ「ハウス・オブ・カード」でもキャリアを得るために身体を使う新人女性記者の葛藤が描かれている。
「バリキャリ女性」を取り巻く環境は日本もアメリカもそれほど変わらないのだろう。
マッドマックスは「女戦士」たちの強さを描くとともに、その「欺瞞」も描き出している。
鉄馬の女たちは現代の女戦士たちのカリカチュアであって、決して「性別を超越した強い女性」という理想像ではない。
フュリオサはどこへ向かうのか
ラストシーン、フュリオサは砦に新たな英雄として迎えられ、エレベーターで上昇していく。
しかしフュリオサの表情は決して華やかではない。喜んでもいない。強い不安と戦っているようだ。そんな不安げなフュリオサの表情で、「マッドマックス」は終わる。
マッドマックスは確かに父権主義的男性社会との闘争の物語だった。
女たちはまず逃れ、しかし辺境への逃避ではなく正面から対決することを選び、見事イモータンジョーという男性社会の権化を打ち破り、新たな社会の支配者となる。
ハッピーエンドだ。いや、本当にハッピーエンドだろうか?
ここまで見てきたように、イモータンジョーは、いや男性社会は、多くのものを作り、守り、維持してきた。
生産、文化、秩序、人間が生きる上で最低限必要な全てのものだ。
それらを司っていた指導者、イモータンジョーはもういない。「砦」の連中は新しい指導者に迎合するばかりで、新しい国造りになんの役にも立たなそうだ。
仲間の「妻たち」は美しく勇気ある女性たちだが、支配や生産の方法は何も知らない。「鉄馬の女たち」だって戦い方は知ってるが種を育て育むことはできなかった。マックスは、どこかに消えてしまった。
フュリオサは独りだ。独りでこの帝国を支配し、維持し、守らなければならない。
フュリオサが今後イモータンジョーのようにならないという保証はあるのだろうか?
マッドマックスのこのラストシーンは、女性社会の未来について明らかに強い懸念を示している。
男性社会を批判し、打破することは出来るかもしれない。しかし、女性たちは今の男性社会以上のより良い社会を築くことはできるのだろうか?そのためのビジョンや人材はあるのだろうか?イモータンジョーのように、「責任」を果たせるのだろうか?
これは明らかに現実のフェミニズムの抱える問題に切り込んでいる。
「フェミニズムが格差を拡大させる」という主張は、日本においてもはや耳慣れたものになってしまった。
かつて「急進的フェミニスト」などと呼ばれたヒラリー・クリントンは、大統領選において特に中間層・低所得者層からそっぽを向かれ始めている。
ラスト直前、ニュークスは「俺を見ろ」と言って自爆して果てた。
これはもちろん一義的にはケイパブルに対する愛の言葉であり、「自分のことを覚えておいてほしい」という意味だが、深読みすれば「支配者となる女性たち」へのメッセージと読み解けないこともない。
ニュークスが明らかに「男性社会において使い捨てられた男」としての属性を付与されていることを思えば、こういった読み方は必ずしも間違っているとも言えないように思う。弱者男性は死の直前に「俺を見ろ」と残し死んでいく。
ところでマッドマックスのサブタイトルの原題は「Fury Road 」つまり「怒りの道」である。
そして女主人公フュリオサの名前が「Furiosa」これも「怒り」を表す言葉だ(Furyが名詞形、Furiousが形容詞系)。
つまりサブタイトルの「怒りの道」は「フュリオサの道」と読むこともできる。
道は続く。イモータンジョーを倒し、砦にたどり着いてもフュリオサの道は続くのだ。
男性社会を倒した後、フュリオサはどんな道を拓くのか?
これはマッドマックスを女性側から観た時、本作が我々に問いかけるテーマのひとつと言えるかもしれない。
マックスは何処へ向かうのか
マックスは、男性社会においてイモータンジョーのような「支配者」でも、ニュークスのような「搾取される弱者」でもない。
知恵と力を持った独立した男であり、女性たちを搾取することもない。
作中では彼女たち(特にフュリオサ)と友情を育み、彼女たちとジョーの戦いに協力する。
マックスは男性社会の中で、搾取することも搾取されることもない独立した存在として作中に存在する。序盤、「血液袋」にされかける(男性社会秩序に組み込まれかける)が、マックスは自力でそこから脱出する。
しかしそんなマックスも自由ではない。罪悪感という過去からの亡霊に苛まれ続けている。
作中、幾度と無くマックスを幻覚が襲う。女の子のビジョン。「あなたのせいで死んだのよ」。ビジョンを見るたびマックスは苦しむ。
作中ではこのビジョンの原因となった事件について全く触れられていない。
これは何を象徴しているのだろうか。もしかしたらこれは、メイル・フェミニスト(男性フェミニスト)が悩み、苦しみ、そして戦いの原動力とする「罪悪感」を描写しているのかもしれない。
男性の側から女性のエンパワーメントに助力する「メンズリブ」「メイル・フェミニズム」という運動は、アメリカでは80年代くらいから一定の影響力を持っていた。
そこで展開されている思想は「男性よ、女性に対する加害者であることをやめよう、そうすれば男性は開放される」といった内容だ。女性を被害者、男性を加害者として規定し、「男性よ、加害者ではなく女性の友となろう」と呼びかけたのである。
その結果、ジェンダー運動に親和的な男性には宿痾的に「罪悪感」がつきまとうことになった。それは資産家がコミュニズム運動に参加する時、人種差別運動に白人が参加する時、大戦中の戦争犯罪問題に日本人が参加する時、それぞれが心のなかに抱くものと同質のものだ。
「私は構造的な加害者だった。それを償わなければならない」
ラストシーン、マックスはフュリオサたちと袂を分かつ。もちろん喧嘩別れではない。砦には水も食料もある。絆を共にした仲間たちもいる。なぜマックスは砦を出てしまったのだろうか。「自由を求めた」はひとつの安易な答えだが、フュリオサたちに周辺への逃避を拒絶させたのはマックスだった。
恐らくマックスは知っていた。フュリオサたちの未来には多くの苦難が待ち構えていることを。そして、フュリオサたちの社会では自分(男性)は恐らく生きてはいけないことを。
マックスの道も続く。
マックスは、イモータンジョーの社会、つまり権威的男性社会を拒絶する。
しかしそれを乗り越えたフュリオサの社会、女性たちの社会もまた拒絶するのだ。
「今より良い社会」は何処にあるのか。このタフで残酷な世界の中で、イモータンジョーを拒絶し、またフュリオサたちと同化もできない男たちはどう生きれば良いのか。
これは男性側から本作を観たときのテーマと言えるだろう。
まとめ
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は映像的音響的演出的に最高の映画であるばかりか、ジェンダー的な主題に深く切り込んだ作品でもある。
今まで英米圏で軽視されがちだった「女たちの戦い」を意欲的に取り入れ、現在顕現している「男たちの社会」の残酷さや抑圧を鮮烈に表現した。
しかしその一方で、「男たちの社会」の肯定的側面や、「男たちの社会」と戦う女戦士たちの抱える欺瞞も表現し、男女という枠を超えて「我々はどのような社会を築くべきなのか」というテーマにまで切り込んでいる。
単なるアクション・ムービではなく
単なるフェミニズム・ムービーでもない
全人類的な映画である。
なのでこれを読んだ君は今すぐにDVDかブルーレイを複数枚買ってご近所のポストに投函しなければならない。
以上!
“我々はどこへ向かうべきなのか
この荒廃した地をさまよい
より良い自分を求めながら”
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