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#2139 教育書は教員のノイズを除去するが…

私たち教師は、なぜ「ハウツー本」という名の教育書を読み込むのだろうか?

それは、「教育」という仕事において発生する「ノイズ」を除去するためである。

教師というのは、直接的に「子ども」と、間接的に「保護者」という他人を相手にする職業である。

また、「同僚」や「管理職」という他人とも良好な関係を築かなければならない。

しかし、自分とは異なる「他人」を相手にするので、
「うまくいかない」
「思った通りにいかない」
「相手と馬が合わない」
「話が通じない」
という問題が発生するのは当然のことである。

そして、このような悩みや問題が日常茶飯事となり、それが「ノイズ」という形で教師たちを襲うことになる。

このような「ノイズ」を除去するためには、その解決方法を見出さなければならない。

けれども、毎日「多忙」に追われている教師たちにとって、「ノイズを除去するための方法」を模索する余力など残っていない。

かといって、「同僚」や「管理職」に相談することのできるメンタル強者はあまり存在しない。

そこで、教師たちが求めるものこそ、「ハウツー本」という名の「教育書」なのである。

「ハウツー系の教育書」は、読み手が読みやすいように構成が工夫されている。

少し目を通すだけで、明日の教室に生かせそうな実践がすぐに手に入る。

とても「インスタント」で、「コスパ」が良いのである。

このような「ハウツー系の教育書」は、他人である「子ども」や「保護者」に関するノイズを除去してくれるのだ。

しかし、手っ取り早く「ハウツー」を手に入れることのできないような「理論書」や「分厚い教育書」は、教師たちに敬遠されやすい。

それは、そのような教育書自体が「ノイズ」になってしまうからである。

なかなか「ハウツー」や「明日に使えそうな実践」に辿り着けないような「まどろっこしさ」こそが、教師たちにとって「ノイズ」になってしまうのである。

また、「ハウツー系の教育書」さえも読まない教師にとっては、それさえも「ノイズ」と化す。

「読書」という行為自体が、「めんどくさい」と感じている層である。

このような層の教師たちは、とりあえずは「ハウツー系の教育書」でもよいので、「教育書」を読むことをおススメする。

いずれにせよ、「ハウツー系の教育書」だけを読んでいては、教師として成長することができないと言える。

「ハウツー系の教育書」で得られるものは、単なる「情報」に過ぎない。

そこには、著者がその「ハウツー」を生み出した「文脈」が省略されていることが多いからだ。

しかし、そのような複雑な「文脈」こそ、「ノイズ」として片づけるのではなく、それをじっくり読み込む必要がある。

著者が過去に経験した複雑な「文脈」は、他者にとっては確かに「ノイズ」かもしれない。

しかし、そのような「ノイズ」から「情報」は抽出されるべきであり、それらをまとめて「知識」と呼ぶのだ。

つまり、「知識=ノイズ+情報」なのである。

この構造を無視し、手っ取り早く「情報」を収集してもダメだ。

それでは、「知識」を受け取ることにはならない。

「情報」には、そこに至るまでの「文脈」という「ノイズ」が必要であり、それらをまとめて受け取ったときにはじめて「知識」となるのだ。

したがって、「文脈」という名の「ノイズ」が省略され、手っ取り早く「ハウツー」が手に入るような「コスパ重視の教育書」はあまりおススメしない。

その著者だけが経験した複雑な「文脈」が書かれているような教育書を読むべきであり、そこに存在する「ノイズ」を敬遠してはいけないのである。

私はこれからも、「ハウツー系」ではなく、「ノイズ系」の教育書を手に取るようにしていきたい。

参考文献:『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)

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「教育狂」を自称する現場教師。デューイやヴィゴツキーの理論を現代の教室に実装し、「概念型×自由進度学習」で子どもが勝手に学び出す授業を展開。読破した教育書は数千冊に及ぶが、「知識は代謝させるもの」として即手放すため、自宅の本棚は空っぽ。note記事数2,200本超。

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