
普通の会社員が新しい図形を発見したのでハンガリーのポスドクの助けを借りてarXivに論文を投稿した話
はじめまして、平野たいる(@tairu_mk)と申します。
すっかり年の瀬ですね。今年はちょっとユニークな体験をしたので、振り返りがてらnoteを書きます。表題の通り、「普通の会社員が新しい図形を発見したのでハンガリーのポスドクの助けを借りてarXivに論文を投稿した話」です。なお本稿(の公開部分)では、筆者自身の活動への直接的なリンクは張らない方針とします。
タイリングとは?
まず前提として、数学的タイリング(Mathematical Tiling)という数学の分野があります。
現実世界においてタイルといえば、タイル張りされた床や壁などに見られる、陶器などでできた板でしょう。最も単純なタイル張りは正方形を並べたものですが、たとえば正六角形を蜂の巣状に並べるなど、タイルの形状とその並べ方について、様々なバリエーションが存在します。
さて、このタイル張りの本質として「敷き詰める/充填する」という行為ないし概念が考えられます。正しく表面を敷き詰めるとき、タイルどうしを重ねて置くことは出来ませんし、隙間が残ってもいけません。この、「重なりなく、隙間なく」図形を配置する、ということを数学的に考えるのが数学的タイリングという分野であり、今日まで様々な研究がなされてきました。
数学的タイリングの分野でとくに有名なものとして、ペンローズ・タイルやアインシュタイン問題が挙げられます。
このうち、アインシュタイン問題は「平面を充填可能な単一の図形で、かつどのように敷き詰めても全体が周期的にならないものは存在するか?」というものなのですが、こちらの解決は2023年とつい最近のことでした。これは数学史に残る大発見であり、“The Einstein Problem” で検索するとありとあらゆるメディアで言及されている様子が確認できます。ITmediaからも以下の記事が出ていたので、見覚えがあるという方も多いかもしれませんね。
逆に言うと、これが解かれてしまったことでタイリングの分野でやることがひとつ減った、という解釈も出来るかもしれません。筆者もアインシュタイン問題を解こうとしていた──わけでは全くないのですが、趣味のプログラミングでタイリングパターンを生成して遊ぶことがあり、問題の存在くらいはなんとなく知っていたので、タイリングという分野がひとつの終わりを迎えたなあ、などと(素人ながら勝手に)思ったものでした。
さて、Facebookには数学的タイリングのための専門的なグループ、その名もMathematical Tiling and Tessellation(数学的タイリングと平面充填)が存在し、意外に思われるかもしれませんが12万人を超えるメンバー登録を誇ります。このグループにはタイリングパターンが日常的に投稿されており、筆者も生成したタイリングパターンを主にこのグループに投稿しています。
タイリングでバズる
さて、そんなグループに5月末に投稿した以下のパターンがプチバズり、6700回のリアクションと400件超のコメントを集めます。「万バズだって日常的に見るんだから大したことないじゃん」と思われるかもしれませんが、マニアックなグループに幾何学図形による純粋なパターンを投稿した結果としては相当な快挙です(自分で言うな)。

これは以下に示す図形による平面充填になっています。

この投稿はX、Threads、LinkedInなど他のプラットフォームにも転載され、なかでも海外コミュニティサイトのRedditに転載された投稿は2000以上のupvote(高評価)を集め、r/math(匿名掲示板でいう「数学板」みたいなもの)を開くとトップに本パターンが表示される、という状況がひと月近く続いていました。最も多くの人の目についたのは、おそらくこのReddit(への転載)だったのかなと思います。
さらに重要なこととして、上記のパターンおよび図形は定式化されたうちの一例に過ぎず、パラメータを変えることで様々なパターンを生成することが可能です。

arXiv投稿に至るまで
先述の投稿に続けて、さらにいくつかのバリエーションを投稿していくうちに、「これの数学的背景を解説してほしい」といったコメントをよくいただくようになりました。
ただ、この定式化が学術的にも既知のものではなさそうな雰囲気をなんとなく感じていたので、筆者としてはFacebookのような濁流ではなく、いつサ終するかわからないブログサービスでもなく、もう少しちゃんとしたところに書きたいと考えていました。
そこで、ひとまずarXivへの投稿を目指すことにしました。
ここで、私の場合は投稿に進む前にendorsement(推薦)を受ける必要がありました。endorsementは投稿したいカテゴリと同じカテゴリへの投稿実績がある方から受ける必要があり、しばらくendorser(推薦者)探しに奔走します。タイリング関連の著書がある方などにメールを送ってみるも返信は来ず、グループに投稿しては誰かendorseしてくれと言い続け、「endorseなんて誰でも出来るでしょ」などとコメントされるも、見つからないものは見つかりません(誰も…endorsementをしてくれないのである!!!)。
そんな中、私の投稿にインスパイアされたパターンを(私に言及しつつ)投稿した方がグループに現れました。お名前で検索したところ、ハンガリーでポスドクをされている研究者の方で、この方がまさに投稿したいカテゴリへの投稿歴をお持ちだったので、こちらからメッセージを送ってみることにしました。インスパイアされたパターンを自前で構成して投稿するくらいですから、endorsementも快く引き受けてくれるかもしれません。
しかしそう一筋縄では行かず、「過去に同様のケースでendorseした人がひどいものを提出しまくるという苦い経験があり、以来endorsementには慎重に判断することにしています(意訳)」とのメッセージが返ってきました。もちろん意地悪で渋っているわけではなく、「この分野でちゃんとした体裁で書かれた論文というのは、たとえばこういうものです」といっていくつかの参考文献を挙げてくださったり、「大丈夫だと思えるまではendorseすることはできないが、下書きをもらえたらフィードバックを返すし、クオリティを満たすまでサポートする」とまで言っていただきました。
というわけで、まずこの方に論文の下書きを共有し、お墨付きが得られた段階でendorsementをしていただく、という流れになりました。筆者はまともに研究活動をした経験こそないのですが、一応は理系分野で修論を書いた身なので、TeXで論文を書くくらいの心得はギリ残っているはずです。
いざ執筆!
本職の研究者の方からすればarXivに投稿するくらい(業績になるわけでもないし)なんてことないのかもしれませんが、一般人の私にとっては全てが一大事です。そのときとくに喫緊の課題もなかった(たぶん)ので、6月最初の週は有休をとりまくって論文執筆に充てました。こんな動きが出来る会社もそうないと思うので、自由な環境で働かせていただいていて本当にありがたい限りです。
書き始めるまで、どんな形式での投稿が求められるとかあるんだろうか? などとあれこれ気にしていたのですが、調べてみると制約という制約はなく、たんにTeXファイルを含めたzipアーカイブを提出するだけでした。
というわけで、6/2に流れが決まって間もなく書き始め、先方にドラフトを共有したのが6/7なので、執筆期間はだいたい5日でした。全13ページ、図の掲載も多いので純粋な分量としては10ページ弱でしょうか。筆者は一応英語も書けなくはないのですが、このペースで全文自力で書き上げるのはたぶん無理だった気がします。このあたりはAI時代の恩恵を受けたといえますね。
先方にも本当に熱心に対応していただき、共有翌日にはレビューコメントをいただきました。さまざまなご指摘をいただいたんですが、結論としてはendorseしていただけるということで、「もう投稿してもいいんじゃない? 修正はあとからいくらでも出来るんだし」とも言っていただけました。自分が理解している内容を真っ当なクオリティで論文化できる程度の心得が残っていてよかったです。間もなくサイト上で操作を完了していただき、投稿画面に進めるようになったときは本当に嬉しかったですね。

修正事項を反映して、いよいよ実際にsubmit(提出)します。arXivのsubmitページはわりと簡素なつくりなんですが、送信したファイルが向こう側で処理されて、エラーがあればログが表示されるし、最終的なPDFもプレビューできる(というかプレビューしないと進めないようになっている)ので、そこは最低限の安心感がありました。また、論文が掲載に回されるスケジュールなども透明性高く公開されており、いつ何が起こりそうか予見しやすかったのもよかったです。
投稿してよかったこと
論文は6/9にsubmitし、6/11に公開されました。arXivには、投稿カテゴリが不適切と判断された場合には適切なカテゴリに振り分けられたり、基準を満たさない場合には掲載を却下されたりするmoderationという仕組みがあります。今回は学術機関に属さないユーザーによる最初の投稿だったため、moderationのプロセスに時間がかかる可能性もあると考えていたのですが、結果としてはあっけないほど早かったですね。
論文公開後の反応としては、数学者の方にLinkedInで言及していただいたり、先行研究を調べたときに見かけた著者の方から直接メールをいただいたりもしました(これは相当ありがたいことです)。あとはアルゴリズムを公開したことで、自前で実装してみたという報告もちらほら受けました。取り立てて具体的な何かが得られたというわけではないのですが、少なくとも当初の目的である「ちゃんとしたところに書きたい」という点については、一定達成できたのかなと思います。
また、何より楽しかったですね。完全に個人的な文脈で、気合いを入れて何かを書いたり仕上げたりする機会ってそう多くはないと思いますし、ふつうなら出会うことのなかった方とつながって協力を受け、障壁を取り除いて公開まで漕ぎ着けたのは本当にいい経験になりました。
これからのこと
さて、「論文をarXivに投稿して公開する」というゴールは無事に達成できたのですが、まだまだやりたいことは色々あります。
まずは学術的な方面について。arXivへの投稿によって一般的な意味での著者性はある程度示すことが出来たと思う一方で、arXivに投稿しただけでは業績とは言い難いのもまた事実です。したがって、願わくばもっとちゃんとしたところに書きたいという思いがあります。
本構成は初等的なものであり、ガチの数学論文として勝負するのは無謀かもしれません。ですが、数多あるジャーナルやカンファレンスの中には、数学とアートの境界領域のような分野をカバーするものもあり、そこでなら採録も不可能ではないと考えています。実際、先行研究を調べる過程で様々な論文にあたりましたが、それらの多くはなんらかのジャーナルないしカンファレンスに採録されたものなわけですからね。
具体的には、Bridgesという団体のカンファレンスが候補として挙げられます。この団体は数学と芸術の学際的研究を促進することを目的としており、必ずしも数学的な高度さを重視するものではないため、本構成でも通過可能性はそれなりに見込めるでしょう。しかし、自費で現地(次回はアイルランド)に渡航・滞在するとなるとかなりハードルが高く、どうしたもんかなあと思っています。Bridgesやそれに近い分野のジャーナル・カンファレンスに詳しい有識者の方に、ご意見を伺えたら嬉しいです。
つぎに、卑近な話として。にわかにグッズ制作に取り組むようになりました。これまでにパターンをプリントしたTシャツやパーカーを制作・販売したり、アクリル板をタイルの形状でレーザーカットしたものを試作したりしています。現在はまだ身の回りの人に売りつけている買っていただいている程度であり、ネットショップのプラットフォームもとっ散らかってしまっているのですが、ここはもう少し方向性を整理して、それこそちゃんとしたいところです。
そして、このnoteについて。そもそも論文執筆以来ずっと「この経緯を日本語の文章としてまとめておきたい」と思っていたので、本稿を公開すること自体がやりたかったことのひとつでした。ただ、本稿には含めなかったこともたくさんあるので、それらについてはまた折に触れて書いていきたいと考えています。いくら局所的なものであっても、それなりに人の目に晒されると色々と積もる話もあるものです。
さらに、筆者自身の話だけではなく、他の方々のご活動についても言及していけたらいいなあと考えています。偉そうに紹介する立場でもなんでもないんですが、自分と近い領域で活動している方々について調べて書くことは少なくとも自分にとって参考になるでしょうし、それで微力ながら界隈の盛り上がりに貢献できたら言うことないでしょう。
以上をまとめると、「興味のあることを追い続けているとたまには面白いこともあるものですね。探究も物販も執筆も自分なりにやっていきます。『タイリング』覚えて帰ってね。数学と人生を楽しもう!」ということになります。拙文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
追伸:Xのアカウントも開設したので、よろしくお願いします。
脚注
1)本稿は日曜数学 Advent Calendar 2025の14日目の記事として書かれました。登録時点ではそこそこ空きがあったので、拙稿でも賑やかしくらいにはなるかと思ったのですが、いま見たら全日埋まっていますね……。とんだ手前味噌で恐縮ですし、テイストも他の記事とは異なるかもしれませんが、大目に見ていただけたら幸いです。企画者のtsujimotterさんは「日曜数学者」として「趣味で数学を楽しむ」ことを軸に発信を続けていらっしゃる方で、陰ながら拝見しています。
2)「新しい図形を発見」というのは結構あやうい表現なんですが、総合的に考えてまあ大丈夫だろう、と判断して採用しました。穏当に言うなら「新しいパターンの構成方法」ですし、タイトルも「SNSに投稿した幾何学図形によるパターンがプチバズったので〜」などがより正確な表現でしょうか。このあたりの詳細はウラ注で。
なお、注を全て掲載するとあまりにもくどく、記事全体のバランスを損ねると思われるため、一部を除き非公開・有料エリアでの掲載とさせていただきます。酔狂な方のみご笑覧ください。
4)これは出し惜しみしているとかではなく、note人格と外部での活動があまりにも直結しないようにしたい、という意図によるものです。また、今回の題材はほどよく初等的なので、「これはどうなっているんだろう」と考え、わかるまでのプロセスを、可能であればみなさんにも追体験していただきたいという思いもあります。有料部分には関連情報を記載しておきますので、ここで見たいという方は投げ銭ついでにご覧ください。
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