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 なぜ日本のマンガの登場人物が「黒人」(現実世界のアフリカ系アメリカ人)からみて「白人に寄せている」ように見えるかについて考えてみよう。あるいは、以下の図はよくSNSなどで参照される図(初出は不明)のような事態がなぜ起こるのか、ということについて考えてみたい。

 社会学とか文化人類学の視点では、マイノリティであるということは「有徴」である、と言うことである(全ての「徴」が差別的に取り扱われるわけではない。例えば王権などは権威を付与する「徴」である。そのため、特に差別的に扱われる「徴」を「スティグマ」と呼んだりもする)。逆に、社会的にマジョリティであるということは「無徴である」ということである。
 さて、図像という観点からこれを考えると、例えばピクトグラムの棒人間がある。(最近ではそういう批判も増えてきたので少し工夫するところも増えてきたが)依然として多くの場合、例えばトイレ表示で単なる棒人間であれば男性であり、スカートを履いているように腰の部分を広げてあれば女性であったりする。

 このことからも分かる通り、「にんげん」であることだけを示し、社会的属性については無徴のサインがあった場合、我々はそれを「マジョリティの側(この場合は男女の男性)を示す」と認識するのである。同様に、エスニシティが問われている状態では、例えばアフリカ系をアフロヘアにしたり、アメリカ先住民に鳥の羽の冠を被せたりといったピクトグラムが描かれるだろうし、それらに並んで「無徴の」ピクトグラムがあれば、アメリカ社会の文脈ではそれが白人を示すと認識されるだろう。
 同様に、漫画の中でも特に民族的な指標が与えられない場合は、その社会の(あるいは舞台になっている社会の)マジョリティと認識される。わかりやすいのは手塚治虫で、ロックやアセチレン・ランプなど同じ顔のキャラクターが様々な作品に登場する(「スターシステム」と呼ばれたりする)。これらの人物は時に日本人だったり、時に西洋人だったり、時に我々のそれとは全く異なる時空に存在する人物だったりするわけだが、我々はそのことに違和感を抱くことなく物語を受け入れる。

 他の漫画家でもこれは大同小異であり、「主人公っぽい顔」「ヒロインっぽい顔」「悪役っぽい顔」というような役割によって書き分けられる方が、アジア系かヨーロッパ系かを書き分けるよりも、大抵の場合は重視される。一方、サハラ以南のアフリカ系の人々を描く場合、おそらく肌の色を強調しないという選択肢はほぼないように思われる。これは、ややデフォルメされた(記号的な)絵を使うというマンガ表現の必然のようなものであり、誰が悪いといった話ではない。しかし、そういう意味ではマンガ世界では現実世界の人種あるいはエスニシティの境界線とはずれたところに「肌の色で有徴の人」と「無徴の人」がいるということになる。先にあげた図を見る限り、アフリカ系の読者が認識している White-Black の二分法は、必ずしも現実世界の人種に対応しているわけではなく、この「肌の色で有徴/無徴」に対応している(ポストモダン的な批評をするなら「ずれ」が生む表現の多様性を再解釈することを楽しんでいる、というようなことになるのかもしれない)。では、なぜそう言う読解になるのだろうか?

 最近では、表現世界での格差に対する反省から、マイノリティに属する主人公が描かれることも増えてきた。こういった物語には、マイノリティ特有の社会問題や悩みを反映した、あるいはマイノリティ故のロールモデルになることが企図されていることが多い。この辺りは当事者になってみないと本当のところはわからないが、この「文化や社会情勢を反映したマイノリティ主人公」は必要であり当事者へのエンパワーメントになる一方で、当事者にとってしてみればあまり過剰だとそれもうざったいということがあるのかもしれない。というのも、もちろん「敬虔なムスリムの両親の常識と、10代の平均的な世俗的クリスチャンである学校の友だちの価値観の違いに悩む若い主人公」は一定の共感を呼ぶとしても、一方で「別に両親がムスリムであることに依存しない、より一般的なティーンエイジャーの悩み」というのもあるわけである。しかし、多くの場合そういう悩み(サッカー部でレギュラーが取れないとか、彼女の気持ちがわからないとか、数学の成績が伸び悩んでいるとかいった…)は「無徴の」キャラクターによって担われることが多いだろう。
 
 そんなわけで、「有徴の、文化的に特徴づけられた」キャラクターは増えてきたが、「有徴の、しかし普遍的な悩みへの共感やロールモデルを提供する」キャラクターは、まだまだ少ないというのが実情かもしれない。マンガ『映像研には手を出すな!』にはサブキャラの一人として肌が黒く、アフリカ風の名前を持ったさかき・ソワンデが登場するが、特にアフリカ・ルーツを強調した性格設定がされているわけではなく、それに由来したエピソードが挿入されるわけではない。作者の大童澄瞳氏は朝日新聞の記事で、「この人は外国にルーツがありますよ、という描き方や、そのことを『仕掛け』にするのではなく、ただその人がそこにいるということにしたかった」と語っているが、マイノリティがそのように扱われるのは、まだ珍しい(だからこそ新聞が記事にしているわけである)。

『映像研には手を出すな!』第1巻 p.140

 『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王が Black Character になる理由は、私は米国のマイノリティでもないし、どちらかと言えば架空のキャラクターに感情移入したりロールモデルを求めたりするタイプでもないので、推測することしかできないが、上記の「有徴の、しかし普遍的な悩みへの共感やロールモデルを提供する」キャラクターがまだ少ないという事情は少なからず関係しているように思われる。ピッコロは(作者がマイノリティのキャラクターを描いていると思っていないので、当然と言えば当然だが)マイノリティ的なバックグラウンドや悩みを仮託されたキャラクターではない。物語序盤の「ボスキャラ」として登場するが、主人公たちの強さがハイパーインフレを起こすストーリーの中で、強さという意味では見るところがなくなっていくし、そのことに苛立ちを感じている様子も描写されている。一方で、物語の最終局面まで、知識や戦略を提供することで、主人公チームに貢献する役どころを与えられている(ピッコロの戦略が功を奏しているかというと、そこはまた別の話であるが…)。
 リオネル・メッシやネイマールのようなスターが悟空のファンだと報じられたが、たいていの子どもは社会が広がるにつれて幼児期の全能感は崩れ、自分が悟空ではないことを認識し、自分なりの社会的役割を得ようと模索する。そういう意味で、学校生活などの「社会」に直面した(『ドラゴンボール』の主要な読者層と想定される小学校高学年から高校生ぐらいまでの)子どもたちの中で、ピッコロを感情移入しやすいキャラクターだと認識する層が一定いることは驚きではない。これはおそらくエスニシティを超えて共有される「ティーンエイジャーの悩み」であろう。これはおそらく「有徴の」キャラクターが「普遍的な悩みへの共感やロールモデルを提供する」役割を(著者の意図を超えて)担わされた事例なのであろう。
 おそらく、「有徴のキャラクターが普遍的な悩みへの共感やロールモデルを提供する」事例は、今後アフリカを含めた第三世界の経済が成長し、そういった地域で独自のティーンエイジャー向けエンターテインメントが提供されるようになれば、自ずと増えていくだろう。一方で、米国では白人人口が減少気味であるとはいえ当面は最大のエスニック・グループの座を維持するだろうし、購買力格差も簡単には埋まらないだろうことを考えると、マイノリティ向けのマーケットが飛躍的に成長し、多様なキャラクターやコンテンツが提供されるということにはならないかもしれない。
 米国のマイノリティ読者が、日本のアニメの主要キャラが白人であること(無徴であること)に怒りを感じ、肌を黒くする(有徴にする)のも、「日本人は有色人種であり、経済力があるから名誉白人扱いされているかもしれないが、グローバルに見れば黒い(有徴の)側じゃないか」と言うメッセージということかも知れない(日本の読者からすれば「日本社会に対して無知も甚だしい。大きなお世話だ」と言うことになろうが…)。
 コンテンツ提供者がビジネスとしてこれらの事情をどう考え、どう権利行使するかと言うのはそれぞれの戦略があるだろうが、単なる一読者としてはグローバルな状況下で日本固有の文脈から発せられたメッセージがどのように伝わるのか、ということに想像力を巡らせるのも面白いのではなかろうか。

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「科学・技術と社会」および文化人類学。非常勤講師。https://researchmap.jp/skasuga※書名・書影はAmazonにリンクされており、アソシエートプログラムによってブログの著者に収入が発生することがあります。

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