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序章

このテキストは、2020年代(以降)の文化、特に音楽やファッション、デザインを中心とした領域で大きなウェーブとなっている「ジャンルから美学へ」という動きについてまとめたものです。本稿ではそれを、仮に<Post-Genre Aesthetic>と置いたうえで論を進めていきます。

そもそも20世紀のポップカルチャーは、長らくジャンルの革新をエンジンとして進化してきました。ここで何の躊躇もなく「革新」「進化」といった表現を使い、恐らくそれがある程度違和感なく受け入れられてしまうことからも、20世紀のポップカルチャーとはやはりモダニズム的な価値観に立脚し歩みを進めてきたと言えると思います。実際のところ、たとえば音楽で言うと、ジャズ、ロック、ヒップホップ、テクノ……とそれぞれのジャンルが持つ文法や歴史は、その内側にまたサブジャンルを生み出していくことで、作品の進歩的評価軸やマーケティングにおける共通言語となっていきました。

しかし2020年代、文化の座標は決定的に変わりました。Simon Reynolds『Retromania: Pop Culture’s Addiction to Its Own Past』(2010)等で早くも宣言されていた通り、ジャンルを越えるというのはすでに2010年代から珍しいことではなくなり、今ではむしろジャンルシームレスというものが前提条件になったことで、問いは次のフェーズへと移行しています。つまり、ジャンルを相対化した後、人々は何を軸に作品をつくり受容するのか? ということです。

その答えのひとつとして、本稿では<Post-Genre Aesthetic>というタームを提唱します。これは、ジャンルの文法を背景に退け、美学(=Aesthetic)、つまり作者と受け手が共有する世界観を、固有の質感を前景化させたうえで表現する態度を指します。

とはいえ、特に若いアーティストやリスナーにとっては、今さらそんな話かと思う方が多いかもしれません。その通り、<Post-Genre Aesthetic>とは今すでに前提の価値観になっているため、とりたてて誰もそれを指摘はしません。ただ、世代間やコミュニティによる受容格差が大きく開いている昨今、意外とこの認識はなされていないことも多く、ゆえに、改めて本稿でまとめておくことにします。それに、近年のエンタメビジネスの多くは懐古趣味の流れに回収されているため、経済効果を生み出すのは今や往年の大物アーティストの復活や90sブリットポップリバイバルといったノスタルジックな文化であり、世間ではなかなか現行シーンのリアルタイムの変化にスポットが当たりにくくなっているようにも思います。また、外から見えている以上に、業界内の「ジャンル」のカテゴライズは強固です。ジャンルという概念は音楽ビジネスの発展に伴い20世紀後半に流通~販売を規定するラベリングとして構造化されましたが、それが産業に根を張りすぎているため、現行のアーティストや作品を紹介する場面においては大きな困難が生じつつあるようにも感じます。

定義

このウェーブは現在進行形の動きのため、いまだ流動性が高い状態ではありますが、とはいえ論を進めるにあたり一旦の定義をしておきます。まず、<Post-Genre Aesthetic>とは、2010年代に起きたジャンルシームレスの流れを踏まえたうえで、2020年代以降に顕著になった全体的な文化的傾向です。もちろんエリアによって強弱はありますが、特定のコミュニティの動きを指すわけではなく、そもそもシーン全体が概ねこの動きに沿って変化していると言ってよいと思います。作品は特定ジャンルの語彙を活用しながらもそれを核とせず、美学・世界観・質感を前景化させるため、多くの場合、映像・イラスト・衣装・舞台美術などの視覚的設計や物語設定が先行し、その美学に合わせて/並行して音楽や歌詞が構築されます。サウンド面においてはテクスチャやヴァイブス、ファッションではスタイルやムードが重視され、ジャンルは背景的要素となります。すでに海外メディアでも近い指摘はいくつか観察されており、たとえば2021年にTHE NEW YORKERはGenre Is Disappearing. What Comes Next?」という記事を公開しています。

分かりやすい例として、オンライン・ファッションリテーラーのDolls Killが挙げられるでしょう。Dolls KillsはK-POPグループのスタイリストたちにも愛用されているプラットフォームですが、サイト上でも美学によるカテゴリ分けがなされているので参考になるかと思います。

また、国内では若者向けアパレルショップ・spinnsのサイトも近い訴求を展開しています。ここでは、ジャンルは使われていても核ではなく、美学ラベルが主要コードとなっています。ウィッシュコア/フェアリーグランジ/バレエコア……といったカテゴリ名が並んでいますが、これらはジャンルラベルではなく美学ラベルです。

spinnsのサイトより

<Post-Genre Aesthetic>においては音楽とファッション、デザインなどが分かち難く密接に結びついているため、ファッションにおける美学ラベルが音楽の方へと流れていくことも珍しくありません。ただ、音楽の場合はアーティストに対する固定ラベリングの禁忌が働くため、安易な美学ラベルの付与が起きづらいという背景もあります。しかし実際のところ、ウィッシュコアな世界観を表現しているアーティスト、フェアリーグランジな世界観を表現しているアーティストは多くいます。そこでは、その人なりのウィッシュコアの世界観、映像や物語、衣装のコンセプトが先に設計され、それと同時に/その後に音が合流するため、SNSといったメディアも含めて世界観が貫かれています。

しかし、こういった反論も考えられるかもしれません——そもそも20世紀の時代から、マドンナやプリンスのように美学を武器にしたポップスターは存在したのではないか? と。確かに、マドンナもプリンスもジャンルを横断しながら、時にビジュアルや衣装も駆使したうえで本人のアイデンティティにもとづく美学を表現してきました。しかし、彼らは例外的カリスマであり、産業構造の中では依然としてジャンルとマーケティングが主導していた時代だったように思います。現在においては、美学先行型は特別な戦略ではなく標準的態度となっており、音楽とビジュアルの主従は転倒してきています。さらに今では美学ラベルがSNSにおける検索や発見の入口になっているケースもあり、やはりそれは以前では考えられなかったことでしょう。むしろ、だからこそマドンナやプリンスといったポップスターは、現行の<Post-Genre Aesthetic>の先駆者として今後ますます再評価されるに違いないと思います。近年だと、<Post-Genre Aesthetic>の流れにおいてビョークが再評価されているのも、それに近い現象に感じます。

同時に、実は日本は、<Post-Genre Aesthetic>的なクリエイティブについては馴染み深い環境にあるようにも思います。ジャンルを雑食的に取り入れながら特定の美学のもとに制作していく——そういった創作スタイルを1990年代から実践している例として、ビジュアル系が挙げられるでしょう。現行の音楽シーンはリラクシングな態度やアイロニー的感覚を主流に配しているため、ビジュアル系のようなモードが参照される機会はあまり多くはないですが、現在の文化に漂う空気を考えるにあたっては避けては通れない歴史のように思います。

背景

話を戻しましょう。そもそも、この潮流が2020年代に本格化した背景には、いくつかの文化的・技術的・社会的要因が重なっています。単純に「ジャンル融合が進んだから」というだけではなく、ジャンルそのものの価値構造が社会的に機能しなくなったことが大きいと言えるでしょう。

ひとつは、ジャンル革新の飽和です。2010年代までのジャンル融合やクロスオーバーは、すでに多くの領域で出尽くした感があります。ヒップホップ×ロック、ポップ×EDM、フォーク×エレクトロニカ……といった組み合わせは珍しくなくなり、融合そのものは価値として捉えられなくなりました。つまり、何を組み合わせるかではなく、「どんな質感・世界観を提示するか」が差異化のポイントになってきたのです。

もうひとつ、制作スタイルの変化も挙げられます。たとえば宇多田ヒカルや星野源の近作に顕著なように、個人によるDAWを使ったクリエイティブが可能になったことで、その人固有のフィジカルや心理状態が、サウンドと同期するかのような形で表現されるようになりました。2020年代にかつてないほど隆盛しているインディペンデントシーンは、多くがこの創作スタイルの発明によるものだと思います。そこでは、これまで以上にアイデンティティが作品へと跳ね返るようになり、政治やジェンダーといった個々の嗜好・傾向が美学と地続きになりました。たとえば、Yeuleのポストヒューマン美学やShygirlのフェティッシュ・クラブ像は、そういった背景の中で出てきたものだと捉えられるでしょう。もちろん、そういった美学が、SNSによって手軽に表現できるようになったという変化もあります。

また、ストリーミングとアルゴリズムの影響による、受け手側の変化も考えられます。SpotifyやApple Musicは、ジャンルよりもムードでプレイリストを編成します。「Chill」「Sad Vibes」「Night Drive」など、音楽の価値はジャンル名ではなく聴く場面・雰囲気でラベル化されるようになりました。これが制作側にも逆流し、ムード先行で作品を作る傾向を後押ししたように思います。

最近、この変化は私の肌感覚としても強く感じます。アーティストと話していると、制作の起点としてこれまで以上にイメージボード/ムードボードを整え着手していくアプローチが増えているからです。鍵盤を叩きながら、リフを弾きながら、ジャムりながら、という音楽起点ではなく、世界観を描いた上で起点にしていく。このイメージボード/ムードボードを作る手法は、元々は広告やファッション業界などのマーケティング・デザイン領域で使われていたものです。ブランドのトーンや方向性をチームで共有するために、ビジュアルを寄せ集めた雰囲気の可視化の手法として機能していました。もちろんそれは20世紀後半のアーティストの制作過程においてもアプローチとしては流通していましたが、ボード化というよりも、どちらかというと「アートワークやファッションの方向性の決定」として行われていたように思います。今では、デジタル環境の普及によって、PinterestやInstagramがそのままイメージボード代わりになり、制作チーム間で共有できるようになりました。その結果、現在は最初にイメージボードを作ってからアートワーク・音作り・スタイリングを展開するのが一般的なワークフローになっています。

一方でこの変化には、パンデミック以降の文化消費の変化も関係しているでしょう。コロナ禍でライブが中断し、オンラインでの表現が主体になったことをきっかけに、物理的空間での「ジャンルコミュニティ」に代わり、オンラインでの「美学コミュニティ」が結束点になりました。バレエコアやフェアリーグランジのように、物理的場所を共有しなくても成立する美学が台頭したのはコロナ以降のことです。

そう考えていくと、2020年代に入り本格化したユースカルチャーの2大トレンドである「hyperpop」と「Y2Kリバイバル」が、ただの一過性のトレンドではなく、<Post-Genre Aesthetic>を成立させる前提となった美学であることも理解できるのではないでしょうか。HyperpopとY2Kリバイバルはそれ自体が固有の美学でありながら、<Post-Genre Aesthetic>の浸透を強力に後押しした価値観でした。単にサウンドやファッションの新奇性に留まらず、アルゴリズム主導の音楽消費、SNS上での自己演出、さらにはクィアやフェミニンな価値観の可視化といった社会的条件とも結びついていたのです。そのため、この2大ムーブメントは、ジャンルの変化というよりも、「自身をどう受容し、どういう感性としてサウンドに表出させるか」という美学的な転回を担ったと言えます。HyperpopとY2Kリバイバルは、ジャンルから美学へという転回を支え、パラダイムシフトを起こした現象なのです。たとえば国内でもLilniinaなどは、Y2Kとハイパーな美学を両立している代表的な例として、今後ますます重要な存在になっていくかもしれません。海外だと、Ennariaなども、やや近いところに位置していると思います。

二次的影響

他方で<Post-Genre Aesthetic>は、思わぬ影響も生み出しました。それが、いわゆる「テキスト回避」です。この動きにおいては、世界観が重視されるため、説明的文章を避け、空気感や匂わせによるコミュニケーションが優先されることになりました。意味を固定せず、観客の発見感を守ることが重視されたのです。これについては、近年増加傾向にあるイベントやパーティのフライヤーを想起することでピンとくるのではないでしょうか。多くのフライヤーにおいてムードが重視され、テキストが避けられ、可読性を低くするようなデザインが主流になりました。テキスト化=言語による説明は、その世界観の外に立ったメタ視点を導入する行為であるため、美学を核に置いた<Post-Genre Aesthetic>においてはどうしても空気感を壊すリスクに繋がります。そこではジャンル名や歴史的背景よりも「質感の直接体験」が重要であるため、言語はそれを阻害する要素とみなされがちなのです。確かにそれは、世界観の外部化や意味の固定化を嫌い、観客の発見と空気感の優位を守るためとして、理解できる価値観です。

ただ、実はここに、2020年代の<Post-Genre Aesthetic>が界隈や世代を越えて広がりづらい要因があります。この動きは美学を重視するため、ある種の俗っぽいテキストやビジュアルを配した説明的/広告的アプローチとは相性が悪いのです。イベントやパーティのフライヤーから文字情報が排除されるのは、世界観の純度を下げるとみなされるからであり、それは単なるデザイン上の嗜好ではなく、世界観保護と受容構造の戦略と言えるでしょう。と同時に、<Post-Genre Aesthetic>とはジャンル進化論の終焉後に現れた新たな文化の基軸であるため、ジャーナリズムや批評もこの変化に適応する必要があるように思います。私は言語による分析は一部においては依然として有効であると考えているためこのようなテキストを記しているわけですが、その際は美学を壊さない内部からの語り/ジャンル史ではなく質感史としての記述/ビジュアルや世界観を含む総合的アーカイブ、といった点を意識する必要があると思っています。テキストを用いたアプローチは、ある局面では「作品を言葉で説明する行為」ではなく、「美学を記録し、横断的に接続する行為」へのシフトを迫られているのです。<Post-Genre Aesthetic>とは、その批評的転回を私たちに提案してくる概念でもあるということです。そしてご存知の通り、現行のメディアにおいてそれを半ば直感的に実践しているのがAVYSSです。実際、私自身も、AVYSS周辺の美学重視のメディアと、従来のジャンル史観重視のメディアにおいては、テキスト記述のスタイル選定を厳密にチューニングしています。

具体例

さて、最後に、<Post-Genre Aesthetic>の輪郭をよりはっきりと伝えるためにも、この潮流を象徴するようなアーティストをいくつか列挙したいと思います。せっかくなので、各アーティストが主に引用しているジャンルと、(半ば強引ですが)そこで表現されている美学を形容してみました。当然ながら、ここに書かれている美学はアーティストの表現全てをカバーするものではありませんし、私の主観が強いものもあるかもしれません。また、前述の通り、テキストでの説明的な記述は、世界観の純度を下げる行為でもあります。記載内容についてアーティスト側からの異議申し立てがあった場合は、修正・削除等も検討します。

そもそも、私がここに挙げたアーティストが本当に<Post-Genre Aesthetic>に当てはまるのか? というところから議論が必要なようにも思います。ひとつ補足しておくと、<Post-Genre Aesthetic>を考えるにあたっては、たとえばKali Uchisなどが分水嶺になる気がします。Kali Uchisはビジュアル表現が緻密で、非常に美学完成度が高いアーティストですが、基本的にR&B〜ソウル〜ラテンポップの系譜に立脚しており、ジャンル性がブランドの一部になっています。<Post-Genre Aesthetic>はジャンルの文脈を無化・溶解させる方向に動きますが、Kaliの場合はむしろ強化しているように感じるため、ジャンル型ポップスターに軸足を置きながら部分的には美学型アーティストでもあるという、ちょうど曖昧なところに位置しているというのが私の認識です。

では、なぜ特定のジャンルに固執しがちなPlayboi Cartiが象徴的な例として挙げられているのか?といった、さまざまな疑問も沸いてくるかもしれません。Cartiはサウンドもヴィジュアルもネットに拡散する断片的な快感と直結しており、ジャンルに固執しているように見えて、実はそのジャンルをインターネット的に変質させていると感じるため、美学重視の流れに含んでいます。このあたりは、解釈が非常に難しいところです。

Artwork:pelisha.


★<Post-Genre Aesthetic>に関連したトークイベントのお知らせ

ちなみに、今週末の8月24日(日)12:30~14:00に代官山蔦屋書店にてこのあたりのテーマについて語り尽くすトークイベントを開催します。インディペンデントファッション雑誌『STUDY』編集長・長畑宏明さんとの対談です。ご興味ある方は、ぜひいらっしゃってください。クローズドの場なので、もう少しリアルな話ができるはずです。

▼お申し込みは以下より

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文筆家。執筆・企画・監修など。著書に『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』等。 プロフィール画 illustration:hakuro   background:freepik

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