
エンタメに社会的メッセージ性を求めるのは、なぜ愚かなのか
注:この記事は最初から最後まで「作家は社会的メッセージを含めることを含め好きにやるべきで、批評家がこれを強制するのは間違っている」という趣旨なんですが、正しく読めている人が最初からずっといる一方で、誤読する人が後を絶たないのはなぜなんでしょう
エンターテインメント作品に対し、「高尚であるべきか」「社会的メッセージを含ませるべきか」という議論は、いつの時代も絶えることがない。
批評家や一部の愛好家は、しばしば単純な娯楽作を「低俗」「子供騙し」という言葉を用いて批判の俎上に載せたがる。しかし、歴史を振り返れば、そうした《高尚さ》への傾倒こそが、時に大衆を置き去りにし、業界そのものを衰退させかけた事実があることを忘れてはならない。
スター・ウォーズの時代
《高尚さ》への傾倒をやめることで成功した顕著な例が、映画史における金字塔『スター・ウォーズ』の誕生と、それが覆した当時の映画界の状況である。
「リアルで高尚」な映画に疲弊した時代
1970年代のハリウッドは「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる潮流の只中にあった。ベトナム戦争や政治不信といった社会背景を反映し、映画はリアリズムを追求していた。アンチヒーローが主人公となり、救いのない結末や、難解なテーマを扱う作品が「良質な映画」として評価されていた時代である。『タクシードライバー』や『ゴッドファーザー』といった傑作が生まれた一方で、映画館からは《夢》や《希望》、そして純粋な《ワクワク感》が失われつつあった。
批評家たちはそれらを《芸術的で高尚だ》と称賛したが、現実はシビアだった。重苦しい現実に直面している観客たちは、スクリーンの中でまで説教臭い現実を見せられることに疲れ果て、映画館から客足が遠のくという現象が起きていたのである。
「子供騙し」と嗤われた挑戦
そんな閉塞感漂う時代に、ジョージ・ルーカスが企画したのが『スター・ウォーズ』だった。彼が目指したのは、高尚な芸術ではない。かつて自身が子供の頃に夢中になった冒険活劇「フラッシュ・ゴードン」のような、単純明快な勧善懲悪であり、科学的考証など関係ない冒険活劇のスペースオペラであり、騎士が姫を助ける剣と魔法の物語であり、時代劇のような痛快なチャンバラが繰り広げられる――つまり《エンタメ全振り》の作品だった。タイトルすら一切ひねりがなく余計な考察は不要である。
製作当時の前評判はそれは散々なものだったと言われている。「今さら〔フラッシュゴードンのように戦間期に全盛だった〕宇宙戦争など流行らない」「子供向けのB級映画」「低俗な漫画映画」といったものだ。当時の映画関係者や批評家の多くは、この作品を冷ややかな目で見ていた。配給会社ですらヒットを疑問視し、ルーカス自身も公開当日は失敗を恐れてハワイへ逃避していたという逸話はあまりに有名だ。当時の論壇で、高尚なテーマを持たないSF活劇は、取るに足らない《低俗な見世物》に過ぎなかったのである。
エンタメが「高尚」を凌駕した日
しかし蓋を開けてみれば、 1977年に公開されるや否や、劇場には長蛇の列ができ、世界中で社会現象を巻き起こした。正直、スピルバーグやルーカスが円熟した時代の作品に比べてもエンタメ性は粗削りだと思うが、それでも観客は並んだ。
観客は飢えていたのだ。難解なメタファーや社会風刺ではなく、ライトセーバーの唸る音に、宇宙船のスピード感に熱狂した。そこには、理屈抜きに楽しめる面白さがあった。
低俗という誹りを受けたその作品は、結果として映画産業そのものを救い、今日に至るまでのブロックバスター映画の礎を築いた。もしあの時、ルーカスが批評家の顔色を窺い、《高尚なSF》を作ろうとしていたら、今のポップカルチャーは存在しなかったかもしれない。
現代のロシアに見る「社会的メッセージ性」の末路
この《歴史の教訓》は、何も半世紀前のハリウッドに限った話ではない。驚くべきことに、現代のロシアにおいても、全く同じ構図が皮肉な形で再現されているという報道がある。

プレジデントオンラインの記事によれば、ウクライナ戦争向けのプロパガンダとして作った2022年の戦争ドラマは興行収入/製作費で示す回収率が21%どまりだった。さらに翌2023年のプロパガンダ作品は回収率2.5%、2025年最新の作品は公開週末でも1上映あたりの平均観客数はわずか3人で、回収できたのはせいぜい20万円という惨憺たる状況を報じている。
これについて、ロシアの映画制作会社の幹部が現地の興味深い映画事情を語っている。彼は「ロシア人はどこに行ってもプロパガンダを強制的に観せられます。国営テレビで、街頭で、そして学校や大学でも」「多くの人は、現実を一瞬でも忘れさせてくれる映画を見たいのです。ウクライナ関連の暗いニュースを忘れたい。戦争を思い出すなど、彼らが最も望まないことです」と語り、自分でお金を払ってまでプロパガンダ映画を見たがらないのは当然だ、と指摘している。
これは、かつてベトナム戦争の影に疲弊し、ニューシネマのリアリズムや説教臭さに背を向けた70年代のアメリカ観客の姿と重なる。社会的メッセージ性――プロパガンダの烈度は今のロシアのほうが高く、なおさらひどい状況であろう。
「社会的メッセージ」の質が作品を殺す時
ロシアのプロパガンダ映画の失敗は、ある一つの残酷な事実を我々に突きつけている。「社会的メッセージを含ませれば高尚になる」というのは幻想に過ぎず、そもそも、そのメッセージ自体の質が低ければ、作品の価値は下がるということだ。
日本でも、新興宗教系の団体が制作した書籍や映画が、組織票によってランキングの上位を席巻することがある。そこには極めて明白かつ強烈な《メッセージ》が込められているが、それが映画史に残る傑作として一般大衆に評価されることはまずない。布教のためのメッセージは、一般にエンターテインメントとしての面白さや、芸術としての深みには何ら寄与しないからだ。
作家の経験や知識という限界
さらに、作り手が《社会派》を気取ろうとした時、どうしても作家自身の経験と知識の限界という壁にぶつかる。
かつてより「作家は自身の経験した以上のことは書けない」という論説はあったが、エンタメ全振りとすればそれは問題ない。たとえば大統領を主人公にしつつ、ポストアポカリプスでの活躍を描いたり、異世界に飛ばして現世での仕事の苦悩などスパイス程度に使っている作品など普通にある。
しかし、社会的メッセージ性を売り物にするならばそれは問題になる。漫画や小説において《リアリティのある社会描写》を追求しようとすればするほど、取材や作者の実体験の範囲外に出た瞬間にボロが出るという問題は今までも指摘されてきた。
例えば、ビジネス漫画の金字塔『島耕作』シリーズですらこの批判からは逃れられない。主人公が課長であった初期は、作者のサラリーマン経験が生きた生々しい描写が魅力とされた。しかし主人公が出世の階段を登り詰めるにつれ、作者自身が経験したことのない世界を描くことになり、経営判断や役員としての描写におけるリアリティの欠如、政治的・経済的な視点の浅さは隠せない領域まで来て、もはや読者はネタにして擦るために読んでいると言われる始末である。 偉大なベテラン作家ですら、未知の領域において《高尚な社会派》であり続けることは至難の業なのだ。

SNS時代における「高尚」の生き残りの難しさ
現代においてさらに状況を悪くしているのは、インターネットによる言論の可視化だ。 作り手が作品に込めた《社会への警鐘》や《高尚な哲学》が、実は𝕏(旧Twitter)でポストすれば「いいね」もつかず、リプライ欄でボコボコにされて終わる程度の浅いメッセージでしかない、というケースは後を絶たない。
もちろん綿密な取材や専門家の監修、作家本人の深い経験をもとに、その社会的メッセージを作品性の中心に据えるなら、なにがしか評価されるだろうし、そこの良さで成功した作品もある。
しかし一方で、《社会的メッセージがなければならない》という強迫観念だけで、専門家でもないエンタメ作家が、生半可な知識で社会を語ることほど危険なことはない。観客は敏感だ。物語の展開上、不自然に挿入された説教や、作者の独りよがりな思想が見えた瞬間、急速に白けてしまう。それがSNSで袋叩きにされるような程度の低いメッセージであるなら、それは作品にとって「ノイズ」でしかないのだ。
クリエイターを社会評論家もどきにするな
もちろん、芸術性の高い作品や、社会派の作品を否定するものではない。それらもまた、文化には必要不可欠な要素だ。また、売上や評価を気にせずに自分のメッセージを出したいという動機も、出資者に見限られない限りはまた問題ないだろう。表現は自由であり、好きにしたらよいのである。
しかし、エンタメは高尚であるべきという強迫観念が、創作の幅を狭めるのであれば、それは害悪でしかない。言い換えれば、「作品は社会的メッセージを持つべき」という主張は、エンターテインメント作家に対し、過度な役割を期待しすぎている。
かつてのマスメディアが一方的に情報を発信するだけの時代であれば、クリエイターが安全圏から社会批評を行い、それを大衆が有難く拝聴するという構図も成立したかもしれない。しかし、今は違う。SNSを通じて、読者や視聴者から瞬時に、かつ鋭利な反論が飛んでくる相互監視の時代だ。そんな殺伐とした環境下で、純粋な娯楽の提供者に対し、専門外である社会評論家としての役割を要求するのはあまりに酷だろう。
『スター・ウォーズ』が証明したように、あるいはロシアの観客が求めているように、《現実を忘れさせ、ワクワクさせること》は、エンターテインメントの原点の一つだろう。創作者がそれに専念するのは何も悪いことではないし、それに異議を唱えるのは、あまりにも傲慢ではなかろうか。

