Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


見出し画像

序章:推し活という「現代宗教」

2020年代の日本社会を象徴する風景、それは「推し活」という名の祝祭である。
駅の巨大広告、書店の特設コーナー、SNSのタイムライン。特定の対象、例えばアイドル、キャラクター、俳優、あるいはスポーツ選手を熱烈に応援し、そこに情熱と金銭を注ぎ込む行為は、もはや一部のサブカルチャー愛好者による奇行ではない。それは市民権を得たライフスタイルであり、現代人の精神を支えるインフラストラクチャーとして定着した。

株式会社インテージの調査[1]によれば、15歳から79歳の3人に1人が推し活を行っているという。しかし、この熱狂的な祝祭の光が強くなればなるほど、その影もまた色濃くなる。推しを持つことを社会全体が推奨し、推しがいない人生をあたかも「彩りのない余生」であるかのように語る風潮に対し、静かな、しかし確固たる違和感を抱く層が存在する。
それが本稿で焦点を当てる「推し活をしない高学歴・高所得層」である。

彼らはなぜ、大衆が熱狂する「推し活」の輪に加わろうとしないのか。
「冷めているから」ではない。理由はもっとシンプルで、残酷なほどに構造的だ。

それは、他人の人生に関心があるか、自分の人生に関心があるかの違いである。

能力が高く、社会的成功を収めている人間ほど、自分の人生に対し強い興味と関心を持ち、それを切り拓くことに多くの時間と精神力を費やすことになる。その結果、相対的に他人の動向への関心が減少する。彼らにとって、人生の主人公はあくまで自分であり、他者を応援する観客席に座っている暇などないのだ。

本稿では、この「関心の所在」という観点から、高学歴層と推し活の関係を解剖する。

第1章:「関心」は有限の資源である

1.1 人生という「コンテンツ」の質

なぜ、人は推しを作るのか。それは多くの場合、自分の人生よりも、推しの人生の方がドラマチックで、輝いていて、見る価値があるからだ。
平凡な日常、代わり映えのしない仕事、先の見えた将来。そうした退屈な自分の物語から一時的に離脱し、天上へと駆け上がるアイドルの物語や、世界を救うキャラクターの物語に没入する。これは、エンターテインメントとして極めて正常な消費行動である。

しかし、高学歴・高所得層にとって、この前提は成立しない。
彼らの多くにとって、自分の人生が、スリリングで、予測不能で、投資しがいのあるコンテンツだからだ。

難関試験の突破、ビジネスでの競争、資産の形成、社会的地位の獲得。彼らの人生は、自らの努力と才覚によって状況がダイナミックに変動するプレイヤー視点のゲームである。自分がレベルアップし、強敵を倒し、報酬を得る。そのフィードバックループの快感を知ってしまった人間にとって、他人がプレイしている画面を眺めるだけの推し活は、どうしても刺激が足りない。

1.2 リソース配分の最適解

経済学的に言えば、これはリソース配分の最適化の問題である。
時間、金、そして精神的エネルギー(関心)。これらはすべて有限な資源である。

高学歴層は、これらの資源を自分に投下した際のROI(Return on Investment: 投資対効果)が極めて高いことを経験則として知っている。自分が勉強すれば成績が上がり、自分が働けば年収が増え、自分が筋トレをすれば肉体が変わる。自己への投資は、確実かつ高いリターンをもたらす

一方で、推しへの投資はどうだろうか。CDを何百枚買おうが、投げ銭をしようが、推しが自分を認識してくれる保証はなく、推しの成功が自分の人生を直接的に好転させるわけでもない。彼らにとって、それはリターンのない消費であり、非合理なリソースの浪費に映る。
能力が高い人間ほど、自己投資の効率が良い。だからこそ、彼らはリソースを他人(推し)から引き揚げ、自分へと集中させる。あまりにも合理的なのだ。

第2章:観客席に座らないエリートたち

2.1 主導権への渇望

高学歴層の心理的特徴の一つに、強い自己効力感と高い自律性がある。彼らは、自分の人生のコントロール権を自分で握っていたいと強く願っている。

推し活の本質は、他者への依存である。推しの活動休止、スキャンダル、引退。ファンの感情は、常に推しという他者の動向に左右される。自分の努力ではどうにもならない外部要因によって、自分の幸福度が乱高下する状態。これは、自律性を重んじるエリート層にとって、耐え難いストレスであり、リスクである。

彼らは、生殺与奪の権を他人に握らせない
彼らが好むのは、自分のスキルや知識が結果に直結する領域だ。仕事、投資、あるいは高度な趣味。そこでは、成功も失敗も自分の責任であり、だからこそ納得感がある。彼らは観客として他人のドラマに感動するよりも、演者として自分のドラマを生きることを選ぶ。

2.2 「メタ認知」による主体性の獲得

高学歴層がサブカルチャーに触れる際、しばしば、外側からメタな視点で分析や批評を行うことを、冷笑的な態度と捉える向きがある。しかし、これもまた主体性の確保の一形態である。

彼らは、コンテンツを無批判に受け入れ、感情的に没入することを主導権の放棄と感じる。だからこそ、構造を分析し、文脈を読み解き、批評的な言語を与えることで、対象をコントロール可能なものとして再構築しようとする。
推しが尊いとひれ伏すのではなく、この現象は社会学的に見て…と語る時、彼らは対象の上位に立ち、主導権を握り返しているのだ。これは防衛機制であると同時に、彼らなりの知的な遊びなのである。

2.3 「志ある卓越」

フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、文化資本が高い層、すなわち高学歴層や富裕層の好みは、大衆的なものを俗悪だとして拒絶することによって成立すると説いた[2]。
彼らにとって重要なのは、高級なものを好むこと以上に、他者(大衆)と自分は違うという「距離」を誇示することである。ブルデューの論理では、趣味とは、何を好むかではなく何を嫌うかによって定義される階級闘争の道具なのだ。

この論理を適用すれば、高学歴層が推し活を冷ややかに見るのは、推し活が持つ熱狂、感情的没入、商業主義への追従といった要素を理性的でない、すなわち俗っぽいとして切り捨てるためである。
彼らは、東京大学のキャッチコピーにもある「志ある卓越」を体現する存在であろうとする。彼らにとっての卓越とは、単なる優秀さではなく、俗世の流行に流されず、高邁な目的のために自己を律する態度を指す。したがって、彼らが推し活を拒絶する態度は、単なる好き嫌いではなく、自らの高い文化資本(知性や教養)を証明する勲章として機能する

第3章:エリートたちは「自分」を推す

彼らは推し活をしないが、決して無趣味でも、情熱がないわけでもない。
彼らの情熱は、自分自身を拡張し、飾り立て、強化することに向けられる。いわば、自分自身を推す活動である。

3.1 勉強・読書:OSのアップデート

彼らにとっての最大の娯楽は知ることである。
しかし、それは単なるトリビアの収集ではない。新しい概念、思考のフレームワーク、歴史的文脈をインストールし、自分という人間のOSをアップデートする行為である。
難解な専門書を読み解き、資格試験に挑み、語学を習得する。これらは決して苦行ではなく、RPGでキャラクターのステータス画面を確認し、新しいスキルを習得する瞬間に似た快楽をもたらす。彼らは、昨日の自分よりも今日の自分が「賢くなっている」ことに、何よりの興奮を覚えるのだ。

3.2 運動による健康管理:ハードウェアのメンテナンス

高学歴・高所得層ほど、ジム通いやランニングの習慣を持つ割合が高い。
彼らにとって肉体とは、高度な知的生産活動を行うためのハードウェアである。どんなに高性能なソフトウェア(知性)を積んでいても、ハードウェア(肉体)がポンコツではパフォーマンスを発揮できない。
だから彼らは、食事を管理し、睡眠を最適化し、定期的に負荷をかけて筋肉を維持する。引き締まった肉体は、単なる健康の証ではなく、自己を律することができるという精神的規律の可視化であり、それ自体が強力な社会的ステータスとなる。

3.3 美容による外見のアップデート:UI/UXの最適化

そして近年、急速に市民権を得ているのが、男性を含めた美容医療や身だしなみへの投資である。
これを色気づいたと見るのは浅薄だ。彼らにとって外見とは、社会というプラットフォームにおけるUI(ユーザーインターフェース)である。
肌が綺麗で、歯並びが良く、清潔感があること。これは、対人コミュニケーションにおけるUX(ユーザー体験)を向上させ、ビジネスや人間関係のROIを最大化するための合理的な戦略なのだ。彼らは鏡の中の自分を、愛でる対象としてではなく、磨き上げるべき作品あるいは商品として冷静に管理している。

3.4 人脈への投資:相互利益のネットワーク

そして彼らが最も熱心に投資するのが人間関係である。
ただし、それは推しのような一方的な関係ではない。彼らが求めるのは、互いに刺激を与え合い、ビジネスチャンスを創出し、人生を豊かにし合える双方向なネットワークだ。
彼らは、尊敬できるメンターや、切磋琢磨できる友人との会食には、惜しみなく時間と金を投じる。それは消費ではなく、将来的なリターンを生む確実な投資だからだ。彼らにとっての他者とは、崇める対象ではなく、共に走り、高め合うパートナーなのである

結論:「推さない」という、生への熱狂

高学歴が「推し活」をしない理由。
その正体は、人生のスポットライトを他人に当てるか、自分に当てるかという、根本的なスタンスの違いであった。

しかし、誤解してはならないのは、彼らが孤独を愛しているわけではないということだ。
むしろ、彼らは社会的な成功者であるがゆえに、人脈やネットワークの重要性を誰よりも熟知している。彼らは、互いに刺激し合い、高め合える仲間との交流には、惜しみなく時間と金を投資する。

彼らが拒絶しているのは他者そのものではなく、一方的な関係性である。
推し活は構造的に、ファンから推しへの一方通行であり、どれだけリソースを投じても、対等な人間関係は成立しない。
対して、彼らが築くのは双方向な関係だ。ギブアンドテイクが成立し、相互に尊敬できる関係性においては、彼らは積極的に他者と関わる。

彼らは、画面の向こうのアイドルに愛を叫ぶ代わりに、目の前の友人と議論し、ビジネスを語り合う。
それは冷たい合理主義などではない。限られた人生の時間を、生涯交わることのない誰かではなく、実在する大切な他者と、そして何より自分自身のために使いたいという、切実な「生への熱狂」なのだ。

ゆえに、彼らは今日も推し活をしない。
その情熱はすべて、現実の世界で、尊敬できる仲間たちと、未踏のフロンティアを切り拓くために注がれているのだから。


引用文献

[1] 「推し活」3人に1人。- 株式会社インテージ https://www.intage.co.jp/news/6144/

[2] 『ディスタンクシオン Ⅰ ――社会的判断力批判』ピエール・ブルデュー著, 石井洋二郎訳, 藤原書店, 1990年

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集

外資系企業でエンジニアとして働きながら、東京大学医学部医学科に通っている社会人学生です。資格試験を取る目的やその最適化手法、人生やキャリアの設計などについて執筆します

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp