INTJの視点:その違和感は正しいー第2回「なぜ日本人の運転は下手なのか」
運転とは、自由の縮図だ。
だが、日本の道路ではその自由が、奇妙な形で歪められている。
日本で車を運転していて、ある種の「違和感」を感じることはないだろうか。
危険でもなく、違反でもないのに、なぜか不自然。たとえば、向こうが優先道路で、こちらは「止まれ」で停止しているのに、なぜか向こうが止まり、お先にどうぞと譲られる。
表面的には親切に見えるかもしれないが、INTJの私にとっては「なぜ?」という疑問と、「止まらないで早く行ってほしい」という思いが先に立つ。正直、ありがたいとは思えない。
そうした「違和感」が、日本で運転していると非常に多いのだ。
これは単なるマナーや技術の問題ではない。もっと根深い、日本社会全体に通底する構造の反映ではないかと、私は考えている。
なぜなら、運転とは、「自分で判断し、責任を引き受けながら目的へと向かう」極めて自由な行為のはずだからだ。
つまり、運転の仕方には、その社会が個人にどれだけ判断と責任を委ねているかが如実に現れる。
そこで現れる「違和感」は、実は日本社会そのものの構造的未熟さを映し出しているのだ。
この構造を、INTJの視点で解き明かしていく。
1. INTJ的違和感:「下手」とは何か?
これは単なるハンドルさばきや駐車技術の問題ではない。むしろ日本人は、車の操作そのものは上手な部類に入るのではないか。狭い都心部での縦列駐車なども器用にこなす。
しかし問題はそこではなく、運転行動の随所に「なぜ?」と感じる非合理さが溢れている点にある。
たとえば、高速道路で走行車線が空いているのに追い越し車線を塞ぎ続ける。あるいは、割り込むスペースがないにもかかわらず、ウインカーさえ出せば後続車にブレーキを踏ませてでも強引に割り込んでくる。
こうした運転は海外ではまず見かけない。これは明らかに日本独自の運転文化といえる。
なぜこのような運転が横行するのか。それは、状況判断を放棄し、最適な行動を選択していないからである。
「追い越し車線を塞いでも制限速度内だから問題ない」「ウインカーさえ出せば入れてくれるだろう」といった自己都合のルール解釈が蔓延している。
しかし、運転の本質は規則を守ることではなく、状況を適切に判断し、安全かつ円滑な交通を実現することである。
彼らが言う「ルールを守っている」という認識も表面的である。
追い越したら走行車線に戻るのが原則であり、後方に車両が接近していれば道を譲らなければならない。ウインカーを出す以前に後方確認と安全確保が求められる。
つまり、「都合のいいルール」だけを守り、合理的判断を放棄している。この思考の貧しさこそが、「運転が下手」の本質である。
2. 表面的ルール遵守 vs 本質的安全理解
日本では「ルールを守ること」が美徳とされている。確かに社会の秩序維持という観点では重要だが、私にはそれが思考停止にしか見えない場面が多い。
たとえば、歩行者が青信号で左右を全く確認せずに横断を始める。あるいは、赤信号で交通が皆無でも律儀に停止する。たしかにルールには従っているが、そこに判断はない。
もちろん、判断力に乏しい子供にとって信号を守るのは合理的である。
しかし、判断力を備えた大人が同じように「思考を放棄」してよいとは限らない。
むしろ、状況を正確に判断し、柔軟に行動する力が問われる。
判断を放棄しルールに寄りかかる。
それは楽であり、責任を取らなくて済む。ルールを守った結果が悪ければ「ルールを守ったのに」と言い訳できるからだ。
こうして楽な方向に逃げているうちに、いつの間にかルールを守ること自体が目的化する。
運転の本質は、変化する状況の中で適切に判断し、安全かつ円滑に移動することにある。そのためには、ルールを「利用して」判断を下す力が必要である。
ルールに盲従し判断を放棄することも、ルールに縛られて柔軟性を失うことも、どちらも未熟な姿勢である。
運転とは命を預かる行為であり、成熟した大人であれば、自らの判断で安全を確保せねばならない。
3. なぜこうなったのか:交通教育・行政の問題
日本人はなぜこのような運転をするのか。
やはり一番大きな原因は、教習所の教育にあるのではないかと思う。教習所ではとにかく手順や規則にこだわり、それらをミスすると単位がもらえない。
はじめに、いわゆる「型」として形式や規則に従うことを教育するのは、最低限必要なことである。それ自体を否定するつもりはない。
問題なのは、規則や手順の教育が大半を占め、状況判断や円滑さなど、重要な教育が欠落している点である。
本来、安全かつ円滑な交通を教えるべきなのに、「円滑」という視点が抜け落ち、規則と形式ばかりを重視する。
本質理解のない「安全原理主義教育」になっているのである。
交通を指導する立場である行政の対応も、お世辞にも十分とは言えない。
先日、免許更新のために講習を受けたが、その内容は「事故は悲惨です」ということをことさら強調し、「だから規則を守りましょう」というものであった。
感情に訴えて規則を守らせる。まさに日本社会の縮図そのものである。
そして、講習の最後の決め台詞が「運転はテクニックではなく心です」というものであった。
「心」の具体例は示されなかったが、おそらくマナーや思いやり、譲り合いなどを指しているのであろう。そして、それがスキルよりも大切だという主張であった。これは、いくら何でも無理があるのではないか。
運転において大切なのは、周囲の状況に応じた判断力であり、それを支える規則に対する本質的な理解である。
これらは間違いなく運転スキルの一部であり、それよりも「心」が大事だというのは、意味不明な感情論の押し付けに過ぎない。
こうした非論理的な価値観を当然のように教えるのは、日本の悪しき特徴であると感じる。
言うまでもなく、交通行政の主役は警察である。警察はとにかく事故を減らしたがる。
それが職務であり、わかりやすい実績となるし、事故対応という実務も減らせる。
そういった意味で、事故を減らしたいという意図は理解できる。
また、法執行機関としての責任から「規則を守れ」と強調することにも、一定の合理性はある。
だからこそ、事故の悲惨さを強調し、規則を再認識させることで人々をある意味で萎縮させ、控えめな運転を促す。そして「心」を強調することで、さらに控えめで譲り合いを重視する運転を強要する。
事故を避けたいという感情と、規則を順守させる仕組みが結びつき、結果として人々を萎縮させる構造が明確に浮かび上がる。
率直に言えば、これらは警察にとってのポジショントークなのではないか、とさえ思う。事故さえ減ればそれでよく、それが実績にもなり、事故対応も減るからである。
もちろん、現場で真摯に職務に向き合っている警察官が多くいることも事実である。問題なのは、組織としての価値観の偏りである。
このような価値観に立つ限り、たとえ時速20キロで走っても、優先道路を無視して交差点で譲り合っても問題ではないのである。
つまり、円滑な交通の実現など、最初から重視されていないということだ。むしろ、安全に全振りした教育を徹底することこそが、彼らにとって最も「合理的」な選択となっているのである。
そこには、安全かつ円滑な交通を実現するという、本来あるべき交通行政の責任感は見られない。
このような交通教育や行政の指導が、成熟した交通文化を生み出すはずもなく、結果として、現在のような「運転が下手な日本」を作り出しているのである。
4. INTJから見た理想の運転とは
大切なのは、常に「目的(安全・円滑)」を意識しながら、状況に応じた適切な判断を下すことである。
形式的にルールに従いながらも、判断は自分で行い、他者に責任を押しつけない。
命を預かる運転者として、成熟した大人として、自分の判断で行動する。これが理想である。
あなたを守るのはルールではない。あなた自身である。
「心」は大切かもしれないが、それはまず必要なスキルと本質理解が備わった上での話である。
5. 制度は変わらない。ならば思考を変えよ
交通教育や行政の構造を変えるには長い時間がかかる。
前例踏襲、思考停止、変革に弱い日本社会では、制度を変えるアプローチは現実的ではない。
だが、私たち一人一人が「なぜこの行動が求められているのか?」を考えることは、今すぐにでもできる。
赤信号で止まるとき、「なぜ止まるのか」を考える。それを繰り返すことで、「自分で判断する力」が養われていくのである。
行動には意味がなければならない。
形式だけをなぞるのではなく、行動の背景にある意味を理解することが大切である。
INTJとしては、「意味のある行動」を社会全体で共有していきたいと強く感じる。
ちなみに、私は自衛隊でパイロットを務めていた。
航空機の操縦では、進路・速度・高度という「飛行諸元」を、規則や気象条件などの制約の中で合理的に選択することが重要視される。
それを意味づけできずにただ操作していると、「飛行機に乗せられているだけ」と見なされてしまうのである。
日本の運転はまさにそれと同じである。
マナーや形式に従っているだけで、主体的な判断が欠けている。
「車に乗せられている」だけに見える人があまりに多すぎるのである。
6. 結論:自分の命は、自分の判断で守れ
単なるスキル不足ではなく、状況判断力と本質理解の欠如が問題
日本の運転は「形式主義」「思考停止」「責任回避型」であり、合理性が著しく欠如
教習所教育と交通行政が、安全原理主義と感情論に偏りすぎている
「ルールを守ればいい」という思考は、本質的な安全・円滑を損なっている
改善の鍵は個々人の思考と行動の意味づけ
自分の命はルールではなく、自分の判断で守るという意識が必要
最終的には、「乗せられる運転」ではなく、意味ある主体的運転が求められる
7.結言:「乗せられる」人生をやめるために
運転とは、自由の縮図だ。
判断し、責任を持ち、目的に向かって進む。
だが、いまの日本の運転文化には、その「自由の条件」がすっぽりと抜け落ちている。
ルールに従っているつもりでも、実態は「乗せられているだけ」。
自ら判断せず、責任を避け、無意味な形式に従う。これは交通に限った話ではない。
学校教育、企業、行政、政治、すべてに共通する構造だ。
私たちは、考えないように訓練されてきた。
判断しないことに慣らされてきた。
だが、それでは自由など手に入らない。
自由とは、「意味のある判断」の連続からしか生まれない。
自衛隊で私は空を飛んでいた。飛行中、特に戦闘行動中は、判断を放棄すれば、たちまち命を失う。
同じように、私たちが生きるこの社会でも、判断を放棄すれば、いつしか生き方そのものを見失う。
私はこう問いかけたい。
あなたは、運転しているのか。それとも、乗せられているだけなのか。
そしてそれは、人生においても同じ問いだ。
次回は
INTJの視点:その違和感は正しい 第3回(前編)なぜ日本人は「考えなくなった」のか―4S理論が示す支配の構造(1)「考えさせない装置としての4S」

