S子:ねえN氏、飯田一史さんの「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」と、それに対する三宅香帆さんの反論、両方読んだけど……正直、どっちが正しいの?って混乱したんだけど。
N氏:うん、その混乱はかなり自然だと思うよ。というのも、この二つ、実は「同じ問いを巡っているようで、見てる場所が違う」んだよね。
S子:見てる場所?
N氏:飯田さんは徹底的にマクロ。国全体、日本人全体の読書統計を見て、「そもそも働き始めたから本が読めなくなった、というデータは確認できないよね?」って言ってる。
S子:ああ、平均的には、社会人になっても読書量はそんなに変わらない、って話だよね。
N氏:そうそう。しかも、「出版不況=読書離れ」と短絡するのは危険だとか、「雑誌と書籍を一緒くたにするな」とか、データの扱いとしてはかなり堅実なツッコミを入れてる。
S子:確かに、読んでて、「あ、ちゃんと統計の話してるな」って感じはしたね。
N氏:一方で三宅さんは、そこに違和感を覚えたわけだね。「いやいや、その平均の話、私たちがしてる話とズレてない?」って。
S子:なるほど。三宅さんは「もともと本を読んでた人が、働き始めて読めなくなる」っていう、もっと限定された人たちの話をしてるんだよね。
N氏:まさにそこ。全体平均では変わらなくても、「月に3〜4冊読むような層」だけを見ると、社会人期にガクッと落ちる傾向がある、という指摘は重要だと思う。
S子:それ、体感としてはすごく分かるかも。学生の頃は読めてたのに、社会人になったら急に集中できなくなった、みたいな話。
N氏:そう。三宅さんはそこを「統計で見えないから存在しない、にしないでほしい」と言っている。これは統計否定じゃなくて、統計の使い方への問いなんだよね。
S子:でも飯田さんの言い分も分かる気がするんだよね。「それって個人の感覚じゃない?」って言いたくなるもん。
N氏:そこがこの議論の面白いところで、どっちも間違ってない。飯田さんは「社会全体の構造」を見てるし、三宅さんは「特定の読書者の経験」を見てる。
S子:つまり、ズームの倍率が違う?
N氏:うまい表現だね。飯田さんは引きのロングショット、三宅さんは寄りのクローズアップ。
S子:あと三宅さん、「読む量」だけじゃなくて「読む質」の話もしてたよね。
N氏:そこも大事なポイント。仕事に役立つ情報を拾うための読書はできても、小説や人文書を腰を据えて読む力が落ちてるんじゃないか、という問題提起。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中では「ノイズ」って表現してたところだね。
S子:それって数字にしにくいけど、確かに「分かるわぁ」ってなるよね。そこらへんが共感されたからこそ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はヒットしたんじゃないかって思うわ。
N氏:逆に飯田さんは、「質の話をするなら、まず量や行動の事実関係を正確に押さえよう」という立場。学術的にはかなり真っ当だよね。
S子:じゃあ、この論争って、勝ち負けをつけるものじゃないってことかな?
N氏:僕はそう思う。「働くと本が読めなくなるか?」という問いに対して、
・社会全体では単純にそうとは言えない
・でも、ある読書者層では確かに起きている
この二つは両立するよね。
S子:平均値の安心感と、個人の実感のズレ、って感じだね。
N氏:うん。そしてそのズレ自体を可視化した、という意味で、どちらの文章もちゃんと役割を果たしていると思う。
S子:なんか、読書論というより「データの読み方」と「経験の扱い方」の話でもあるんだね。
N氏:この両者の言い分は、同じデータを使ってるのに結論が違うという点も面白い所だよね。データはデータとして正しくても読み解く人の思惑で結論が変わってしまう。
S子:だからこそ三宅さんの反論の方でダレル・ハフ『統計でウソをつく法』が紹介されてるの親切だなって思ったわ。
N氏:そうそう。データ自体は嘘をつかないけど、「どこを見るか」「何を問いにするか」で、いくらでも違う物語が立ち上がる。飯田さんは平均と全体像を重視するし、三宅さんは分布や少数派の変化に注目する。その違いが、そのまま結論の違いになってるんだよね。
S子:同じ数字を見てるのに、「だから問題ない」と「だから見逃されてる問題がある」になるの、ちょっと怖くもあるよね。
N氏:うん。だから三宅さんが『統計でウソをつく法』を引いてきたのは、かなりメタな一手だと思う。飯田さんを「統計が間違ってる」と批判するんじゃなくて、「統計はどう使われうるか」という地平に議論を引き上げてる。
S子:あれ読んで、「これは飯田さん個人への反論というより、読み手への注意喚起なんだな」って感じたよ。
N氏:その通り。どちらか一方を信じればOK、じゃなくて、「自分は今、どの切り取り方に納得してるんだろう?」って考えさせる構造になってる。
S子:そう考えると、この論争って「読書が減ったかどうか」以上に、「データをどう信じるか」の話でもあるんだね。
N氏:うん。そしてもう一歩踏み込むと、「数字で語れること」と「数字にしにくい実感」を、どう並べて扱うかの問題でもある。
S子:読書体験そのものが、まさにそこにあるから余計にややこしいよね。
N氏:結局、この議論を読む側に求められてるのって、「どっちが正しいか決める力」じゃなくて「どっちの前提に立っているかを自覚する力」だと思うよ。自分は平均の話をしてるのか、それとも自分みたいな読書好きの話をしてるのか。その切り替えができるかどうか。
S子:それって、意外と難しいけど、大事な読み方だね。
N氏:うん。だからこの往復書簡は、内容そのものより、「読み方の教材」としても、かなり出来がいいと思うんだ。
S子:あと、これは今回の議論とはちょっとズレるんだけど、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』って良くも悪くも「タイトルが強い」からか議論の的に挙げられがちな気がするよね。
N氏:それは確かにあるね。あのタイトル、問いとしてはすごくキャッチーだし、多くの人が「分かる気がする」って即座に感情移入できる。その分、内容以上に主張が断定的に見えてしまう。
S子:うん。中身をちゃんと読む前に、「働いてるせいで本が読めないって言い切ってる本」みたいに受け取られがちというか。
N氏:まさにそこ。タイトルは編集上の戦略として成功してるけど、同時に議論を呼び込みやすい構えにもなっている。飯田さんの批判も、ある意味では「その強い問いに真正面から答えにいった」結果とも言えるし。
S子:なるほど。内容よりも先に、タイトルが論争の火種になってる感じか。
N氏:そう。しかも「なぜ〜なのか」という形は、原因を一つに求めているように読めるからね。本当は多因子的な話なのに、「働くことが原因なのか?」と一点突破で突っ込まれやすい。だからこの本が議論されやすいのは、内容がどうこうというより、「議論しやすい形で世に出た」からなんだと思う。
S子:タイトルが優秀すぎた、って言い方もできるかもね。