前回の話はこちら↓
国境を越えスペインへ
いままでゆるい文章をしたためてきたのに、
ここへ来て大仰なこのタイトルは何なのだ。
しかし実は、これこそが今回の旅で一番強烈な体験だったといえるかもしれません。
モウラオンで動けなくなるほどたらふく食べた私たちを乗せた車は、
東へと進んでいた(満腹すぎてその方向にさえこの時には気づいていなかった)。
すると見えてきたのがタイトル画像の看板だ。
「サプライズでスペインに連れてきたよ。」とジョルジェ。
高校生の時にも何度かポルトガル国境を越えてスペインに入ったことがあったけれど、確かその時には国境にブースがあって、身分証ぐらいは提示させられたような気がする。
しかし、今ではもう関門らしきものは何もない。シェンゲン協定の実施により90年代からこうなったらしい。
スペイン側に入っても景色はほとんど変わらない。コルク樫農場に牛や豚の放牧といったアレンテージョ的風景が続いている。
看板がなければ国が変わったことにも気づかないのでは、とさえ思いそうになるが、国境を感じさせてくれるものが二つあった。
一つは道路の路面の材質の違いだ。
なぜかスペイン側の道路は少し赤みを帯びた色をしている。
ポルトガル側から見たスペイン国境
道路の色が違うもう一つはすぐにはわからない。
「スマホを見てて。」とマティ。
おおっと。14:30が15:30になった!
そう、ポルトガルとスペインの間には1時間の時差があるのだ。
(しかしiPhoneもすごいな~。)
ビジャヌエバ・デル・フレスノ
国境を越え、平原を10分と走らぬうちに町に入った。地図で見るとここはビジャヌエバ・デル・フレスノという町だ。
しかし通りにはひとっこ一人歩いていない。
さてはこれが、かのスペイン人のシエスタか。みんなお昼寝中なのだ。
ビジャヌエバ・デル・フレスノの街並み「この先にウンベルト・デルガードのモニュメントがあるんだ。」
今までとにかく、私たちに面白いところを見せて回ってくれていたジョルジェだったが、ここには自分自身が行きたいところがあるのだという。
ウンベルト・デルガードと言えば、リスボンの空港の名前だ。
以前はもっとシンプルだったのに、いつからこんな長い覚えにくい人名になっちゃったんだろう。
気になりつつ、調べることもなかった。
戦前から40年以上にわたり、ポルトガルではアントニオ・サラザールによる独裁政権が続き、その間、多くの政治犯が捕まったこと。人々は長いこと言論の自由を封じられ、恐怖の中に身を置いていたこと。その後革命がおこったこと。
恥ずかしながら、私はそれぐらい大雑把にしかポルトガル現代史を知らなかった。
そんな私にジョルジェの講義は続いた。
軍人だったデルガードは、サラザール独裁に反対して大統領選(1958年)に立候補した後、サラザール側の抑圧にあって国を出ざるを得なくなった。ナイジェリアを拠点に反体制運動を行っていたけれど、サラザール側から対話を求められてスペイン国境近くまでやって来た。ところがそれは罠で、そこで秘密警察に暗殺されてしまう。秘密警察はその事実を隠すために、このビジャヌエバ・デル・フレスノ郊外の藪の中に、デルガードの遺体を隠した。
そして、その場所に今、モニュメントがあるという訳だ。
ここに遺体が隠されていた
スペイン・ポルトガル両国語で説明されている
「自由のために死ぬ覚悟はできている」
選挙期間中の演説でデルガードが残した言葉が刻まれている
「自由のために死ぬ覚悟はできている」
思想の右左を問わず自由に言いたいことが言えないことほど苦しいことはない。為政者の意思で国民が抑圧される国家ほど残念な国家はない。
自国を含めいくつかの国々に関わってきた中で、私がこれまで痛切に感じてきたことだ。
ゆえに、この言葉には打ちのめされた。強烈な意志が時代を超えて響いてくる。自らの希望で訪れた場所ではなかったのに、いわばジョルジェのお付き合いだったというのに、雷に打たれたようだった。ウンベルト・デルガードと彼の行動を知らなかったことを恥じた。
しかしながら、所詮その背景となる歴史をろくに解さない段階での感傷的な思いだもある。帰国したらポルトガル現代史をしっかり勉強しようと心に誓って、ビジャヌエバ・デル・フレスノを後にした。
ちなみに、1970年のサラザールの死後も続いた抑圧的な政権は、1974年4月25日、ついに軍事クーデターによって覆される。このクーデターはほぼ無血で完結し、市民に囲まれた軍人たちは銃口に赤いカーネーションを指したため、「カーネーション革命」と呼ばれている。
広々とした大地で
どんぐりを食むイベリコ豚
ポルトガルに戻ってきました4月25日橋
車は一気に帰り道を突っ走る。モニュメントに感化された私たちが、小難しい質問を運転手ジョルジェに浴びせ、それに身を乗り出して答えてくれるジョルジェが片手運転になってヒヤヒヤしながらも、気づけばもうリスボン対岸まで戻ってきた。
再びテージョ川を渡ってリスボンに入るわけだけれど、今度は行きに通ったヴァスコ・ダ・ガマ橋ではない。昔私もたびたび通ったことのある「4月25日橋」だ。
もちろん、これは「カーネーション革命」の日を記念したネーミングで、1966年の開通から革命の日までは「サラザール橋」と呼ばれていた。
長さは2㎞ちょっと。ヴァスコ・ダ・ガマ橋とはずいぶん趣きの異なる吊橋だ。
赤い色が特徴的な4月25日橋
ポルトガル現代史
今(2月末)、夢中になってポルトガル現代史の書籍を読みまくっている。(とはいえ、日本で刊行されている本は数えるほどだ。)
思えば私の暮らした1987年は、独裁政権下の抑圧からはとっくに解放されていたけれど、それでもカーネーション革命からまだ十数年しか経っていなかった。実は日常の中に、まだサラザール時代の政策の名残や、政権が倒れる一因ともなったアフリカ植民地の独立戦争の影が残っていたのかもしれない。少なくともそんな視点ももって今一度あの時代を捉えてみたいという気になってきた。
当時の大統領はマリオ・ソアレス(1924‐2017)。世界各国からその年にポルトガルにやって来た私たち高校留学生40数名は、帰国前にベレンの大統領官邸にてソアレス大統領に謁見する機会を得た。どっぷりとした体形の優しそうな初老のおじさんというイメージだった。珍しい東洋からの留学生の私に、日本とポルトガルの間には400年以上に渡る交流の歴史があるね、と声をかけてくれた。
その「優しいおじさん」は、かつてサラザールに抵抗して12度も逮捕され、追放され、フランスに亡命し、革命直後に帰国、国内の混乱収拾に尽力したあと、首相を経て、私たちが謁見した前年の1986年に大統領職に就いたばかりだった。
そんなことも今になってあらためて知った。
市之瀬敦著『ポルトガル 革命のコントラストーカーネーションとサラザール』(上智大学出版、2009年)には、1939年から2009年までのポルトガル年表が付されている。
思わずラインを引いてしまった個所に至極個人的疑問を加えて、少しだけ書き記しておきたい。
1940年 「ポルトガル世界博覧会」開催。植民地帝国の称揚。「大航海記念碑」の建設。
※当時サラザールの「称揚」はどれだけ人心を掴んだのか。その影響はいつまで?今もある?
1942年 日本軍が東チモール侵略。
※日本もそんなに手を広げるとはなんと身の程知らずだったことか。
1943年 アゾレス諸島の基地使用をイギリスに認める。日独が抗議。
※大戦中のポルトガルの振る舞いはなかなか巧妙なり。
1945年 東チモールの日本軍がポルトガル総督に降伏。
※日本統治期のポルトガルとの関係を知りたい。
1949年 NATO創設メンバーとなる。
※これは小国にとってかなり重要なことだったのでは?
1951年 憲法改正により植民地が「海外県」となる。
※世界と認識がずれ始めた。?
1960年 アルバロ・クニャルがペニシェ刑務所から脱獄。
※クニャルはポルトガル共産党党首。ソアレス同様サラザールの抑圧にあい、通算15年監獄にいた。革命後、ソアレスの政敵となる。ソアレスとの論争がYoutubeで見られる。シュッとしたイケメン。
1965年 スペイン国境付近でウンベルト・デルガード将軍、ブラジル人女性秘書とともに暗殺される。
※本当に自由のために死んでしまった。
1969年 「69年の大学危機」
※ポルトガルの学生運動とはいかなるものだったのか。めっちゃ興味ある。
1974年 中国にヒントを得た「文化動員キャンペーン」の発表。人民の「洗脳」とみなされる。
※って、文化大革命のことか?だとしたら一体どんな風にどんな情報が運ばれてきたの?
1986年 ポルトガル、欧州共同体(EEC)加盟。
※私の滞在前年。実は大きく変わろうとしている時だったのだ。
1987年 中国政府とポルトガル政府がマカオ返還で合意。返還は1999年12月20日。
※10年前の見聞では、返還後のマカオは莫大な金を生み出すカジノの集積地として、恐ろしくギンギラギンの都市になっていた。古き良きポルトガルの名残も、いまや錬金の観光地にしか過ぎないのだろうか。
1995年 マカオ国際空港開港。アジアでポルトガル人が実行した最大の公共事業。
※ポルトガルの出資だとは知らなかった。返還の合意内容に含まれていた?
2003年 アゾレス諸島でジョージ・W・ブッシュ大統領、トニー・ブレア首相、ホセ・マリア・アスナール首相が会談。ドゥラン・バローゾ首相がホストとなる。4日後、イラク戦争が開始、「戦争サミット」と呼ばれる。
※大戦中しかり、アゾレスってそういう役回りなのか。あんなところ(大西洋上にポツン)にあるのだから、そりゃ。。
おまけ
この日の晩は、近所に住む友人のアナを訪ねた。アナは高校生の頃からの友人で、9年前に観光のために来日し我が家に1週間滞在した。日本での思い出を語りあいながら美味しいお手製スープをいただく。
彼女の家のベランダから目を凝らすと、さっき通った4月25日橋のメインケーブルが、はるか向こうに光って見えたのだった。
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