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初出:京都新聞夕刊1面、京都ピックアップコラム「現代のことば」、2025年10月7日


「お父さんはチンパンジーの研究で何かわかったことあるの?」

小学1年生の息子が無邪気に聞いてくる。素朴な問いが、思いのほかズシリと重く響く。私はチンパンジーについて何かわかったことなどあっただろうか?

自分の研究成果を噛み砕いて教えることはできる。チンパンジーを観察している現場で経験的にわかるようになったこともたくさんある。チンパンジーはこういう果実をよく食べるとか、離合集散する父系の集団で暮らしているとか、図鑑に書かれているような知識を答えることで満足してもらえるかもしれない。でも息子が知りたいのは「そういうことではない」のかもしれない。「チンパンジーってどういう生き物なの?」という素朴かつ深遠な問いに正確にわかりやすく答えることは、専門家にとっても思いのほか難しい。

研究者にとって、学会などで研究内容を発表したときに聴衆から発せられる「素人質問ですが…」という前置きは、ある種の恐怖体験として語られることがある。というのも、重鎮と言われるようなベテランの研究者が、謙遜を込めて、また自分の専門分野とは異なる研究内容に対する素朴な実感として、「素人質問」を投げかけることがあるからだ。駆け出しの若手の発表に対して、重鎮が「素人質問」する、という一見矛盾した構図がしばしば生まれるわけだ。深い学識を持った重鎮は、自らの知の境界を自覚しつつ、いわば「プロの素人」として、素朴だが本質を突いた質問を投げかけてくる。若手ならずとも研究者が「プロの素人質問」に震え上がる事情は、わかっていただけるだろうか。

もちろん素人質問は学会などよりも、日常生活の中でより頻繁に、また気軽に投げかけられる。我が家の子供たちも、こちらが震え上がる暇もないほどの素人質問の嵐を毎日のように浴びせてくる。「春休みと夏休みと冬休みはあるのに、なんで秋休みはないの?」、「なんで東山今出川じゃなくて百万遍なの?」、「戦争がなくならないのはなんでなん?」などなど、確かに!と共感しつつも、かんたんには答えられそうもない問いが次々と生み出されてくる。子供たちは、世界のあらゆる未知や不思議に好奇心の手を伸ばそうとしているかのようだ。素朴な疑問をつねに持ち合わせているという点で、子供たちはいわば「素人のプロ」と呼べるかもしれない。適当な返答で物分かりよく引き下がってはくれないという点で、「素人のプロ」もやはりかなり手ごわい相手である。

素人質問は、自分がわかっているはずと思いこんでいた世界に、小さな亀裂を生じさせる。自分が実はよくわかっていなかったかもしれない、という気づきは、ある意味では恐怖かもしれない。しかし、その小さな亀裂を押し広げ、深く潜っていくことで、「素人」として世界の深遠に繰り返し出会い直すことができる。物分かりのよい専門家や大人のフリをして適当な答えに安住するよりも、もっと素人質問を一緒に楽しめばいいのかもしれない。

さて、人間はなぜ戦争をやめられないんだろうね?

(京都大研究員、京都工芸繊維大研究員、人類学、「現代のことば」2025年10月7日夕刊掲載)


元記事はこちら。


動物研究者の自叙伝シリーズ <新・動物記> を編集しています。

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野良チンパンジー研究者。〈新・動物記〉シリーズ(京都大学学術出版会)共編者。京都新聞夕刊コラム「現代のことば」寄稿。https://researchmap.jp/hnishiehttps://www.kyoto-up.or.jp/series.php?id=157

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