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誰かがルールを破った。すると、なぜか全員が同じペナルティを受ける。違反した当人だけに責任を問えばいいはずなのに、「もうみんな使えません」「全体の利用を中止します」「制度自体を撤廃して規制します」と、巻き込まれた側まで不利益を被る。

この「集団罰ゲーム」のような構造に、どこか見覚えがある人は多いはずだ。学校でも、会社でも、役所でも、街中でも、日本という社会はなぜこうも「一部の違反者の存在」を理由に「全体の自由や機能」を排除するという選択を取りがちなのか。

もっと言えば、なぜそれが「仕方ない」「当然」として受け入れられ、むしろ歓迎すらされてしまうのか。

この問いの奥には、日本人に特有の「正しさ」に対する過剰な信仰と、その裏に潜む「ズルされたくない」「損したくない」「出る杭は叩け」という根深い心理がある。

この記事では、その背景を、徹底的に言葉にしていきたい。

「全員で損すれば平等」:なぜそんな論理が受け入れられてしまうのか

まず前提として、日本では「誰かがルールを破る」ことよりも、「誰かだけが得をする」ことの方が強く嫌われる傾向がある。

たとえばNEXCO中日本がパーキングエリアのゴミ箱を撤去した件。理由は「不審物が投棄されたため」「持ち込みゴミが多すぎるため」だった。これに対してSNSでは、「もっとやってほしい」「罰則を強化してほしい」「他のパーキングエリアも全部撤去すべき」という声が多数寄せられた。

NEXCO中日本が、東海地方の一部PAでゴミ箱を撤去した。「不審物や家庭ごみの投棄が相次いだため」とされている。この決定に対して多くの人が「当然」「むしろ遅すぎた」と肯定的な反応を示している。だが、その反応にこそ今の社会の危うさを垣間見ることができる。…https://t.co/2DFHGLyBG1

— ハトリコ (@hatolico)November 8, 2025

しかし冷静に考えてみてほしい。問題を起こしたのは、ほんの一部の利用者だ。にも関わらず、なぜか「全員が不便になる」という対応が正当化され、その不便さを甘んじて受け入れる側までが、それを「正義」として称賛している。

この一連の流れには、単なる公共マナー意識の高さや秩序志向では説明しきれない、もっと深く、もっと感情的な「出し抜かれたくない」という本能的な拒否感がある。

「誰かが得をするくらいなら、みんなで損した方がマシ」:その感情の正体

大阪大学社会経済研究所で行われた社会経済実験に、興味深い結果がある。参加者同士がペアになり、それぞれが自由に金額を出資し合う。出した金額は1.5倍になって均等に配分されるというルールだ。

最も合理的なのは、双方が全額出資して、協力して利益を最大化する戦略。だが日本人の被験者は、自分が損をしないように出資額を抑えたり、相手に多く得させたくないがためにゼロ出資を選ぶケースが非常に多かったという。

つまり、「自分が損をすること」よりも、「相手だけが得をすること」に耐えられない。「ズルをされるくらいなら、自分も損してやる」そんな心理が、合理性や協調よりも優先されてしまう。

この思考パターンは、まさに集団罰の受容と同根だ。「誰かだけが得をする」ことへの異常なまでの嫌悪と、「みんなで苦しめばフェア」という倒錯した平等主義が、僕たちの公共空間を、静かに蝕んでいる。

「正しさ」の名のもとに、共生の余地が消えていく

ベンチが傾斜をつけられ、寝転べないように設計される。公園からホームレスが姿を消す。学校のルールは年々細かくなり、違反すれば連帯責任。駅には「迷惑行為を発見したら通報を」と書かれたポスター。住民説明会では「騒ぐ子供がいるので広場を閉鎖してほしい」という声が採用される。

ベンチなんて、ありふれたものだ。
でも、日本の多くの都市に設置されたベンチは、本来の目的である「座ること」自体が制限されている。
寝られないように仕切りがつけられ、長居できないように傾けられ、「誰にも迷惑をかけない人間」だけが腰掛けることを許される。1/https://t.co/A0Diw84t1V

— ハトリコ (@hatolico)October 13, 2025

路上生活者たちを強制退去させるのであれば、本来、行政がきちんとした受け入れ先施設や福祉を用意すべきですよね。それをすっ飛ばして彼らを排除する行政の粗暴さは、いつか僕らにも向けられる可能性を多分に秘めています。僕らが収めた巨額の税金は、社会正義のために正しく使ってほしいものです。

— ハトリコ (@hatolico)November 4, 2024

ーーこうした風景は、何を意味しているのか。

それは、「誰かが自由に振る舞える余地」を削り取ることで、全体の「正しさ」と「安心」を保とうとする解決策だ。日本では「自由」とは何かを問う前に、「迷惑にならないこと」が最優先される。そして、何が迷惑かは制度ではなく、場の空気が決める。その空気の正体は、「多数派の感情」であり、「黙っている者の暗黙の同意」だ。

つまり、日本における「正しさ」とは、理性によって決まるものではなく、同調圧力の強さによって可視化される感情の形なのだ。

日本社会は「違反者を処罰すること」より、「不公平感を潰すこと」を優先する

たとえば、学校でひとりが校則を破ったら、その子を叱る代わりに「じゃあ、もうこのルール自体やめよう」とか、「みんな一緒に自粛しよう」となる。制度の側が、個別に指摘して角を立てるより、全体を巻き込んで「丸く収める」ことを選びがちなのだ。

でもそれは、違反そのものが問題だというより、「誰かが得をする」ことへの苛立ちが出発点になっている。ズルを許したくない。抜け駆けは見逃したくない。だから「みんな損をしてでも、平等にしよう」という方向へ舵が切られる。結果、違反者に厳しくするより、「全員が損する仕組み」に落ち着いてしまう。冷静に考えれば、それは罰じゃない。ただの巻き添えだ。

しかも不思議なのは、こうした判断が「冷酷」や「不合理」とは受け取られず、むしろ「公平」で「やさしさ」すら感じさせてしまう。ルールを守った人も、破った人も、同じように不便になるなら、それでいいじゃないか、と。

だが、そのやさしさの裏で、自由や柔軟さや倫理はそっと排除されていく。誰も責めない代わりに、誰も得しない世界。そうやって、首を締めているのは他でもない、僕たち自身かもしれない。

正義が社会をダメにする瞬間

正義とは本来、「何が正しいかを問う」ためのものだった。だが現代の日本では、正義は「何が迷惑かを裁く」ための物差しに変質してしまった。そしてその物差しは、本質からズレていても問われず、更新もされない。

むしろ、「誰かが不快に思った時点で、それは迷惑になる」ーーそういう無言の了解が、公共のルールを作っていく。

このとき、正義は不寛容さに姿を変える。

「マナーを守らない人がいるから、サービスを終了します」
「長時間座る人がいたから、ベンチを撤去します」
「不審物の恐れがあるから、ゴミ箱を廃止します」

ーーそれは、はたして本当に正義だろうか?

「誰もズルできない社会」が息苦しい理由:正義という名の意地悪に気づくとき

この国では、突出した者は目立ちすぎると潰される。ルール違反を犯した者は、処罰される前にノリと空気で排除される。問題提起をする者は、「場を乱した」として距離を置かれる。

正しさとは何かを問う前に、「誰かが迷惑しているから」「そういう声があるから」と、空気が先に判断を下す。

僕たちは、そんな社会の中で、「誰も困らない」ために、「誰も自由でいられない」仕組みを、自ら望んで作ってしまっている。

「ズルされたくない」という怒りを、正しさで誤魔化さない

違反を見たとき、多くの人が腹を立てるのは「ルールが破られたこと」そのものじゃない。本音では、「自分は我慢したのに、なんであいつは得してるんだ?」という感情が先に立っている。

それを正面から言うのは大人げない気がするから、代わりに「ルール違反はよくないよね」「みんなに迷惑がかかるよね」と、もっともらしい言葉で包む。けれどその包み紙の下にあるのは、「損した自分」の悔しさと、「ズルした他人」への妬みだ。

そして恐ろしいのは、この怒りが、当の違反者ではなく、制度や仕組みそのものを壊す方向に向かうことだ。

「こんな自由があるから悪用されるんだ」
「こんな抜け道があるのが悪い」

そうして、ひとつの自由が消え、ひとつの余白が塗りつぶされる。その結果、誰もズルできなくなる。でも同時に、誰も快適に過ごせなくなる。それなのに、「誰かが得をするくらいなら、誰も得しない方がいい」と思ってしまう。その判断は果たして、「正しさ」と呼べるのか?

僕たちはしばしば、感情の奥にある嫉妬や敗北感を、「正義」という名で言い訳する。まず問うべきなのは、「その怒りは、誰に向けているのか」だ。違反者なのか、自分を抑えつけた社会なのか。それとも、自分自身の我慢なのか。怒りの正体を見失えば、守るべきものすら見えなくなる。

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初代フィンたん👦🇫🇮中の人だった、ガチADHDおじさん。美味しい料理と楽しい会話が大好物。無益なことをゆるゆる投稿します。

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