おばさんになって良かったことは、ルッキズムの呪いから少しずつながら解放されていったことだ。10代に美しくないが故に地獄を見た者としては有り難い。
親族にからかい交じりに言われたことは「ミキの全盛期は3歳まで(笑)」。
自分で言うのもなんだが、3歳の頃の私はエプロンドレスが似合う大きな瞳の愛らしい童女だった。
そんな私を父はよく抱っこしては街を歩き、皆に見せびらかして、私の愛らしさを誉めそやす道行く人にドヤ顔するくらいだったのだ。
ちなみに、父親はオキナワンロックドリフターにも書いたとおり、高身長で藤岡弘、や寺脇康文に似ていると褒めそやされる容姿を持った男で、面食いの母親は父親に恋し、社内での争奪戦のうえに父を勝ち取り、父と結婚した。
外面のいい、ギャンブル狂のDV野郎と知らずに。
が、父親の転勤で宮崎に引っ越してから体型が変わった。熊本と違う気候や環境、テレビ局が2局しかないという環境で娯楽が少なく、ストレスからなのかよく食べるようになり、瞬く間に私の体型は綿を詰め過ぎたぬいぐるみのようになり、むくむく太りだし、父親は事あるごとに私を罵りだした。母親はため息つきながら痩せなさいと叱咤。さらに父の弟(これまたデビュー時の竹内力を思わせるルックスのハンサム)の娘である従妹が伸びやかな手足を持ち、ローカル誌の読者モデルとなった美少女だったから、父は彼女ばかりを可愛がり、私はさらに劣等感を拗らせた。
小学校時代〜高校時代はブスの代名詞扱いされ、取り分け、小6で好きになった同じクラスの男子を修学旅行の恋バナで打ち明けたら、その場にいた勝ち組女子に修学旅行明けにクラス全員にアウティングされ、それを聞いた男子から「お前みたいなブスに好かれても迷惑!」と詰られ、クラスメイトほぼ全員に嘲笑されて以来、同い年の男性が苦手になり、近づかれると嘔吐しそうになるレベルの拒否反応を起こし、ますます好きなゲームやアニメ、口にしている時はフラッシュバックを回避できるお菓子に逃げた。ちなみに、好きだった男子は私の淡い想いをアウティングしやがった勝ち組女子と付き合ったことがさらに私の心に深い傷を与えた。
1990年〜1996年が美少女ブームなのも私を居心地悪くさせた。
牧瀬里穂、観月ありさ、内田有紀、小嶺麗奈、小田茜、宮沢りえ、池脇千鶴等。著名な写真家たちがこぞって彼女らを被写体にし、その美しさを称えた。
運悪く、小6の時に同じクラスに、私と背格好、声質が似ているものの、内田有紀を思わせるボーイッシュな美少女、しかもスポーツ万能な子、ヤマダさんという女の子がいて、私は彼女と事あるごとによく比較され、彼女はよく勝ち誇った顔で私を見下し、さらに彼女の取り巻きと化した男子たちは「何もかもコサイはヤマダに負けているよな」、「完全敗北」とせせら笑うので、息苦しい毎日を送った。ちなみにその恨みか、卒業アルバムは泣き叫びながらクラス全員と担任の写真をカッターで切り裂き、渾身の勢いでバラバラにしてからゴミに出し、中学、高校の卒業アルバムは見ずにゴミ袋に投げ捨てた。
熊本でも、地元の写真家が立ち上げたローカルティーン向けオピニオン雑誌の主力コーナーである『熊本美少女写真集』というコーナーが人気を集め、高校時代に「〇〇ちゃんがあん雑誌に乗っ取らす!」、「やーん、××ちゃん、やっぱかわいかー!」と同じ学年の女子たちが掲載された同級生の写真を見ては羨望とほんのりとした嫉妬交じりで彼女らを称えていた。
私はただ、吐き気を堪えながら目を逸らし、聞こえない振りをした。この世のすべてが当時の私には敵にすら思えた。
なのに、ルッキズムに苦しんでいる癖に、私が当時執着していた推しは都会的なハンサムなおじさまとなっていた某元特撮俳優だったのだから笑うしかない。
美しくない故に美しさに渇望し、美しい男の人(ただし、10以上年上)を追い求めた。
その後、19の時に彼氏(17歳年上!)ができたものの、その男は私のコンプレックスに漬け込み、マウントしたり、自分の思い通りにしようとする奴だったので私のメンタル状態はさらに悪化し、02年にその男と別れてもメンタルバランスは崩れたままだった。
すこしずつ呪いが解けたのは2003年。
前年の暮れに職場によるストレスから貪るように聴いた沖縄のロックバンド、紫への想いが再燃し、2003年の9月に初来沖した。
ホテルにチェックインし、しばらく涼んでからタクシーに乗り、向かったのは、紫のリードギターである比嘉清正さんが2024年12月まで営んでいたビーチバー『ココナッツムーン』。
オリジナル紫時代から、彫りの深い顔に、カーリーヘア、たくわえられた口髭、スラリとした長身と寡黙さがエキゾチックな魅力があり、人気のメンバーだった清正さん。03年当時の清正さんはカーリーヘアはさらに伸び、口髭の他に顎髭を生やし、その髪と髭には白いものが増えたけれどますます魅力的なイケオジと化していた。
清正さんはテンパりまくりな私に苦笑しながらも親切に応対してくださった。
さらに、清正さんはココナッツムーン近くにある、ルネッサンスリゾートオキナワが観光客向けに行っているレーザーショーがココナッツムーン間近の浜辺で見れるからと私を窓際の席にエスコートしてくださった。
夜の海に煌めくレーザーの光が幻想的かつ、清正さんにそっと肩を抱かれた私は心を熱くし、目を輝かせた。
すると、清正さんは私をじっと見ると微笑まれた。
「君、可愛いね」と呟きながら。
思わぬ言葉に泣きそうなのを堪えて微笑むしかなかった。
いつか、誰かに、いや、夢のように美しい誰かに言われたいと祈るように切望したその言葉。
清正さんは戯れに言ったのだろう。
でも、私には長年の呪いを解く魔法の言葉だった。清正さんに容姿を肯定されたあの日は私の宝物となった。
さらに、それから10年後、紫、アイランドのボーカリストだった城間正男さん宅にお邪魔し、2011年に他界された城間俊雄さんの仏前に線香をあげ、正男さんが淹れてくださった麦茶を飲みつつ雑談していた時のこと、正男さんはぽつりと仰った。
「まいきーは綺麗な瞳をしているよね」
ルッキズム乙、自慢かよと言われそうだが、100の有象無象の罵倒よりひとりの推しの賞賛である。
その言葉は少しずつ私にとって肯定する力を与えてくれる灯火となった。
それから、色々あり、職場環境からのストレス等で激太りや肌荒れなどを経験したものの、最近は経年からか味覚が変わったのかスナック菓子が欲しくなくなり、休憩時間に食べるものがプチトマトやコンビニの割引で買った根菜サラダ等渋いものになった(笑)、「うわ!酸っぱ!」と苦笑しつつも日に2回リンゴ酢をルイボスティーで希釈した飲み物を飲むようになってから体重がすこしずつ減り、肌荒れが改善された。
それは、美容というより過食やセルフネグレクトに陥っていた自分自身への労りとメンテナンスなのかもしれない。そして、いつの間にやら、何かあり、フラッシュバックに苛まれると食べることに逃げる悪癖がだんだん減りつつあった。
過去の傷は未だに私を苛み、それは極端に暑い日や寒い日に悪夢という形できて襲い、魘され、目を覚ますと冷や汗が伝うものの、それでも私は生きているし、オキナワンロッカーたちや大事な友達がくれた言葉が私をリカバリーしてくれる。
そして、それでも過去の呪いが私を苛む時、私は私を肯定することにした。
大丈夫、そう悪くない人生だし、紫オリジナルメンバーや大鷲龍介の中の人と会いたい人に会えたんだからかなりのスコアじゃん、更年期にしてはだんだん体型改善されてるし、お洒落に気を使うようになったじゃないか。
オキナワンロッカーや、マリエちゃんがお前を褒めていたじゃないか。だから、自分が思っているよりずっとお前は悪くない素材なんだよと。大丈夫と心の中で肯定の呪文を唱えた。
その甲斐あってか、コンビニに行ってもジャンクフードをバカ買いせずに済み、その分のお金を服代に費やせるようになり、だんだん着れる服から似合う服を見つけられるようになった。
変わったな、私と苦笑いしたくなる。
そして、今は、周りの嘲笑とコンプレックスによる自縄自縛からできなかった青春リベンジの幕開けなのかもしれない。そう思えるようになった。
(文責・コサイミキ)