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2010年代に南アフリカのジャズが盛り上がり始めた頃、シャバカ・ハッチングス率いるシャバカ&ジ・アンセスターズが注目を集めた。シャバカが南アフリカの精鋭たちと結成していたこのグループの中心人物こそが、ピアニストのンドゥドゥゾ・マカティーニだった。2016年の『Wisdom Of Elders』では、彼が多大な貢献を果たしている。その後、南アフリカのジャズ・シーンの全貌が明らかになるにつれ、ンドゥドゥゾがその中核を担う存在であることが見えてきた。

そうした流れの中で、2017年には『iKhambi』でメジャー・デビューを果たし、名門ブルーノートと契約。2020年には『Modes Of Communication: Letters From The Underworlds』を発表し、今やアフリカを代表するジャズ・ミュージシャンとして、世界中のフェスティバルに引っ張りだこの存在となっている。

アブドゥーラ・イブラヒムやベキ・ムセレクといった南アフリカのレジェンドの系譜に連なりつつ、ジョン・コルトレーンやマッコイ・タイナーのスタイルを受け継ぎ、それを発展させた音楽性も特徴的だ。それゆえに「スピリチュアル・ジャズ」という言葉で語られることもあるが、ンドゥドゥゾ・マカティーニの魅力は、それだけにとどまらない。彼の音楽の独自性は、南アフリカ(あるいはアフリカ)を取り巻く多層的な歴史や文化的文脈が巧みに織り込まれている点にある。

かつてオランダとイギリスの植民地であり、さらに悪名高いアパルトヘイト政策が敷かれていた南アフリカ。その歴史的背景、そして脱植民地化への渇望や展望が、彼の音楽には刻み込まれている。ズールーの出自を持つ彼は、ズールーの文化、宗教、哲学を尊重し、それらの文脈を音楽として響かせている。

ンドゥドゥゾの音楽は、アフリカの人々が植民地主義を乗り越え、自らの表現を取り戻すためにどのような探求を重ねてきたのかを示す、極めて重要な例となっている。それは音楽にとどまらず、アフリカの人々が自身の「あり方」を模索しながら行うあらゆる表現の中でも、特筆すべきものと言えるだろう。だからこそ、シャバカは自身のソロ作にンドゥドゥゾの力を求めた

本稿では、彼の音楽を起点に、南アフリカの歴史、文化、宗教、さらにはズールー族の視点からの哲学や宇宙論にまで踏み込んでいる。ここまで徹底的にンドゥドゥゾ・マカティーニに迫った記事は他に類を見ないはずだ。

そして、『ブラック・カルチャー──大西洋を旅する声と音』が刊行された今だからこそ、あの本に書かれている内容と照らし合わせながら、ぜひ読んでほしい。

https://www.bluenote.co.jp/jp/artists/nduduzo-makhathini/

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 通訳:丸山京子 | 協力:ブルーノート東京



◎ 『uNomkhubulwane』とズールーの創世神話

――今日はアルバムや音楽だけでなく、あなたの哲学や考え方、音楽や人生そのものについて掘り下げたいと思っています。

ありがとうございます。私がリリースした最後のアルバムのタイトルは『uNomkhubulwane』で、これはアフリカ、特に南部アフリカに暮らすNguni(ングニ)というバントゥ系グループの人々の創世神話に基づいています。アルバムのテーマは、神話に出てくる雨の女神です。uNomkhubulwaneは、死や誕生、または豊穣に関するあらゆる思考を司る存在とされています。たとえば子供が生まれるときや飢饉が訪れるとき、人々は山へ行き、祈りを捧げ、uNomkhubulwaneへの献酒(libation)を行い、雨と加護を願います。

現代の南アフリカでは、多くの人が自分たちの民族の記憶を取り戻すための試みを行っています。南アフリカは植民地主義アパルトヘイトといった歴史に深く傷つけられてきました。そうした中で、先住民たちの記憶は著しく損なわれてきました。そこで私たちは今、音楽を「記憶の回復のための戦略」として用いようとしているんです。神性に関する我々自身の概念や、霊性に関する世界観、そして「音」がいかにして人間と宇宙をつなぐ媒介となりうるのか――そういったことを思い出す手段として。

私が考えているのは、人類は時を経るなかで「調和(tune)」を失ってしまったのではないかということです。そして私は、特に即興音楽にこそ、私たちがふたたび「調律された状態(in-tuneness)」に戻るための呼びかけが宿っていると信じています。それが、このアルバムの哲学的な土台となっています。

アルバムには、3つの楽章からなる組曲が収められています。この「3」という数字はアフリカのフラクタル構造や幾何学、さらにはピラミッドにも表れているように、非常に霊的な意味をもっています。音響的にも3という構成(※3和音=トライアドなど)はよく登場しますし、神性の概念においてもこの数字が多用されます。私は、土着の知識体系を取り入れて、人々が「調和」あるいは「宇宙意識のためのハーモニー」(harmony for the universal consciousness)へと招かれるような音世界を創造しようとしたんです。

◎ ズールーの儀式と音楽の関係

——アルバムの曲名を見ると、ズールーの儀式のプロセスそのものを音楽で表現しているようにも思えます。その「儀式」とは、具体的にどのようなものなのでしょうか?

そもそもアフリカ大陸のあらゆる人たちは宇宙的な出来事に応答するかたちで音楽のレパートリーを作っていました。つまり、アフリカにおいて音楽はカレンダー的な出来事に対する応答だったんですね。

雨乞いの儀式もそうですね。雨を呼ぶ人々(レインメーカー)は山に登り、雨を請い願うんです。また、誰かが亡くなった時には、特定の儀礼のために歌われるレパートリーが存在します。

現代の人々は必ずしも文脈なしには音楽を演奏しないというわけではなくて、ただ音を奏でることもあります。でも、私は、音を文脈の中で捉えなおして、形而上的な次元を開くための試みとして演奏されるべきだと考えるようになりました。

このアルバムで喚起されている儀式は、沐浴の儀式であり、子宮を想起させるような儀式であり、雨の儀式です。それらはアフリカに常に絡みつくように存在してきた「欠乏」(lack)という観念にまつわる儀式です。

でも私が考えるのは、アフリカには本来「豊かさ」があるということです。にもかかわらず、私たちはアフリカが「欠けている」「不足している」と思い込むように社会化されてしまっているuNomkhubulwaneは、アフリカは本当は欠けていないということを思い出させてくれる存在です。アフリカに属していたものが、ただ「ずらされて」(displaced)しまっているだけなのです。だから、音楽はそうしたことすべてを語ろうとする行為でもあるんです。

そしてアルバムの最後の組曲では、「到達」や「成就」という概念について考えています。「社会的な問題を超えていくとはどういうことか?」「ジャズという音楽を使って「民主主義」や「自由」や「平等」や「愛」といったものを提示するとはどういうことか?」。そのような問いがこの最後の組曲にすべて込められていて、アルバム全体における高揚の瞬間を形づくっています。

――曲のタイトルの意味を調べてみたんです。たとえば「libations(献酒)」「Izinkonjana(器)」のように儀式中の行為や道具の名前がありました。そのようなものを使う儀式は今も行われているのでしょうか?

実際に、そうした儀式は今でも行われています。南アフリカでは――これはたぶん日本や、他の先住民を持つ社会にも当てはまることかもしれませんが――都市に出ていった人々は、どんどん近代化されていって、特定の文化を置き去りにしていく傾向があります。

でも、田舎に行けば、アジアでは今でも禅的な神秘主義(Zen mysticism)を実践している人々がいるように、我々にも同じようなものがあるんです。つまり、近代性は都市生活をすっかり覆ってしまいましたが、農村地域に行けば、そこにはまだ人々の記憶や文化が残っているんです。

だからこのアルバムで私が提案しているのは「自分たちの儀式や知識を“再パッケージする”とはどういうことか?」という問いなんです。それらを現代性から排除されるものではなく、現代性に含まれるべきものとして再構成するにはどうすればいいか。

たとえば私がクラブに行って、こうした考えを提示するとします。クラブに来ている人たちは、たいてい音楽だけを聴きに来ていて、こういうことには興味がないように見えます。でも実際にそれを耳にすると、人間の本質的な部分――人間性の内側にある何か――が触発されて、意識が変わっていくんです。

都市では儀式は実践されていないかもしれませんが、農村ではいまも実践されています。そして、私たちは都市の人々に向かって「私たちの記憶をいっしょに運んでいこう」と呼びかけているんです。

◎ 宇宙的な音楽を奏でること

——そういった儀式的、もしくは宗教的な要素を、アルバムの中でどのような音で表現しているのでしょうか?

私は曲ごとに異なる戦略を用いています。たとえば冒頭曲の「Omnyama」は、神々や神性を招き寄せるための歌です。この曲では、土着のコミュニティによく見られる非常にシンプルなペンタトニックスケールが使われており、これは歌詞と神々の呼び出し(invocation)を中心に据えるため、あえてシンプルな音空間にしています。

Iyana」はチャント(詠唱)の形式に基づいています。この曲は東洋音楽にも非常に近いんです。特に東洋のフルート音楽には共通する要素が多いと思います。私が目指していることの一つは、音をズールー音楽という「地域性」から解き放ち、宇宙的な音楽(cosmic music)として響かせることなんです。

そして宇宙的な音楽の中では、音は「関係性」に基づいています。つまり、ある音が何かに似て聞こえるんです。

以前、ポルトガルで演奏したときのことです。コンサートの後、観客の方々が言ったんです。「私たちのフォークミュージックを演奏してくれてありがとう」と。私は驚きました。「えっ、これは私自身の曲なんですけど」と言ったら、彼らは「いや、これはこの地方に昔から伝わる、とても古い伝統的な民謡です」と。

それは、私にとって非常に象徴的な瞬間でした。というのも、世界は「差異」にとらわれがちですが、音楽は私たちに「共通性」を思い出させてくれるものだからです。私たちが同じように何かを感じるとき、私たちは地域性や言語といった、人間がつくりあげた区分を超えて、「宇宙的記憶(cosmic memory)」の源に立ち返ることができる。

そして私が思うに、この宇宙的記憶こそが、ジョン・コルトレーンが呼び起こそうとしていたものであり、アリス・コルトレーンファラオ・サンダース、そしてモーダルな音楽に関心を持っていたすべてのミュージシャンたちが探求していたものなのです。彼らはもはや「ジャズ」ではなく、「人類すべてに属するフォークミュージック」を奏でていたと私は思っています。

◎ ズールーの宇宙論

——「宇宙的(cosmic)」とは実際にはどういうことなのか教えていただけますか?今、あなたが話してくれたズールーにおける「宇宙」の考え方は、私たちが思い浮かべるような「惑星が浮かぶ空間」についての話とは異なるものですよね。

はい。宇宙の哲学は、「宇宙論(cosmology)」という分野に基づいています。これは文字通り「宇宙の研究」ですね。より簡単に言えば、「世界の見方」のことです。

そして、存在に関するさまざまな考え方のなかで、人々はそれぞれの神話に基づいて異なることを信じています。ズールーの神話では、私たちは葦(reeds)から生まれ出たと語られています。私たちには「カ(qa)」という音があります。この音は、このアルバムでも非常に重要なもので、神に関する音として繰り返し登場し、「はじまり」や「すべての起源」を指します。

たとえば、「uMvelikuqala (uMvelinqangi)」(※ズールー神話における至高神の名前で「最初に現れた者」「最初の存在」という意味)には「qa」の音が含まれていますし、「uQamata」(※コサ族の信仰における創造神(至高神))にも「qa」があります。そして「はじめに」と言いたいときには「ekuqaleni」という言葉を使います。

これは必ずしも「人間の言語」ではなく、宇宙的な出来事に基づいているのです。つまり、「はじめに音(sound)があった」という考え方。水が跳ねて「カ(qa)」という音が出て、それを感知した人々がそれを「言語」に発展させていったのです。

かつてのバントゥの人々(Bantu people)の言語は、人間だけでなく、動物や植物、時間の概念、そして天界とも交わされる言葉でした。つまり、それらは人間だけの意味に限定されたものではないんです。そうした言語は、音楽性(musicality)に基づいています。言語の音楽性――つまり擬音語(onomatopoeia)の起源は、人々が日々の観察を通して築いてきたものなんですよね。朝起きて太陽を見て「わあ、これは何だろう」と驚き、そこから歌が生まれる。翌日には雨が降って、「わあ」とまた感動する。そうした驚きと感嘆からすべてが始まっているんです。だからこそ、自然の中でこれらの音を発すると鳥が反応し、動物たちが理解してくれます。私たちはまさに宇宙の言語(language of the cosmos)を話しているんですよ。

オーストラリアに行ったとき、私は先住民の人たちと出会い、彼らも似たような音を使っていました。私はその音の意味を尋ねましたが、意味はズールーのそれと同じだったんです。つまり、ズールー語は「特定の人々のための言語」というだけでないんです。そもそもズールーの人々自身が「天から来た存在」だと考えられていますから。実際、「ズールー」という言葉は「天(heaven)」を意味します。私の姓「Makhathini」も「宇宙から来た者」という意味です。私たちの歴史を深く調べていくと、人々が星や惑星に名前をつけていたことがわかります。それは私たち自身の言葉です。現代的なテクノロジーがなくても、どうやってこれほど多くを知っていたんだろう。びっくりですよね。つまり、現代の人類は「技術」は手にしたかもしれないけれど、「感じる力」や「理解する力」を大きく失ってしまったんだと思います。だからこそ、私たちが音を奏でることが人間の共通性(sameness)を思い出させる行為になるんです。そして私はそれを「関係性のフィロプラクシス(relational philopraxis)」と呼んでいます。

その核心には「NTU」という概念があります。「NTU」は「生命の力(vital force)」を意味し、音は私たちをそのNTUに向かわせてくれるのです。そしてこのNTUの理解は、限られた人々のものではなく、全人類に共通するものです。

ここで私が語っていることは、「ズールー的であること(zuluness)」に限定された話ではなく、「世界における存在の在り方(a study of being in the world)」を、もっと繊細なやり方で捉え直す試みです。つまり、耳と感覚を開いて、世界で起きているすべてのことを感じ取ること。そして音楽とは、その「感覚すること(sensing)」の表現なんです。これは私自身の哲学というより、祖母から教わった人生哲学であり、世界のなかで「在る」ということへの理解なんです。

――ところであなたはデビュー作の時点からズールーの宗教や儀式の要素を作品に取り入れてきました。最近のブルーノートの3作品ではそれがアルバム全体で一貫して表現されているように感じます。

2015年に『Listening to the Ground』というアルバムを出した頃から、私は植民地主義や強制的な移動(displacement)を超える「存在の在り方」を追求したいと思うようになりました。私自身はキリスト教の家庭で育ったんですが、(キリスト教をベースに考えると)世界を理解するのはとても難しいなと感じたんです。

2015年には、椅子(chairs)と強制的な移動(displacement)について強く考えるようになりました。というのも、椅子という存在は、トランスアトランティック奴隷貿易(大西洋奴隷貿易)に起源があり、故郷から引き離され、記憶を消し去られた人々の歴史に根ざしているからです。記憶を奪われた者は、自分が誰なのかを忘れるように仕向けられる。その中で私は、「ジャズとは、引き離されてもなお、自分自身の歌を歌おうとする魂の抗議」だと考えるようになりました。そして「宇宙論(cosmology)」という視点が、自分たちの起源を追い求める手がかりになると思ったのです。

興味深いのは、ジョン・コルトレーンのような人々がアフリカへのルーツを探る過程で、東洋に向かったということ。彼らは禅の神秘思想を探求し、ウェイン・ショーター仏教を学びました。これらのスピリチュアルな形式は「東洋に限定されたもの」ではなく、宇宙的な概念(cosmic concepts)なんです。私にとって「無の心(no-mind)」になること、「手放すこと」、それらは私のスピリチュアリティの理解の一部でもあります。

私は、自分がヒーラー(healer)であり、サンゴマ(sangoma:南アの伝統的ヒーラー)であるという自覚を持っています。だから、音の背後にある「音が生まれる場所」までをも探ろうとしています。つまり、音は別の次元で鳴っているという感覚があるのです。

サン・ラーは「space is the place」と言いました。この考え方も、即興の瞬間に語彙を超えて何かを引用し、予言的な実践(prophetic practice)を行うこととつながっていると思います。私は、自分の知っていることから「手放すこと」を練習しています。つまり、空(emptying)になることを目指すんです。私のリハーサルは「蓄える」ためではなく、「解き放つ」ための訓練です。その変化の根底にあるのは、「空(emptiness)」と「独自性(originality)」の探求です。

偉大なウェイン・ショーターが語った言葉があります。「世界がすでにすべてを持っているとしたら、人間が世界に与えられるものとは何か?」。これは非常に深い問いです。そして彼自身がその問いに答えました。「人が世界に貢献できる唯一のものは、“オリジナリティ”である」

つまり、あなた自身の物語や音のオリジナリティこそが、アーティストとして世界に持ち込むべき唯一のものなんです。私はただ、その問いに向き合っています。どうすれば、自分自身の唯一無二の声を、「宇宙意識(universal consciousness)」への貢献として響かせることができるのか――それを考えているんですよね。

◎ ズールーであることとキリスト教の共存

——あなたの音楽はズールーの伝統とキリスト教を融合させていますが、この二つはかなり違うようにも見えますし、時に対立しているようにも感じます。両者についてはどう説明しますか?

キリスト教が入ってくる前から、アフリカには宗教性(religiosity)があったんです。そこに後から聖書(scripture)が導入された。そして、キリスト教の聖典が入ったことで「それ以前のアフリカには聖典がなかった」と言わんばかりの主張がなされるようになってしまった。

でも、私が面白いなと思うのは、キリスト教の最古の形、最古の文書がエチオピアにあることなんです(※エチオピアでは4世紀には現地の言葉のゲエズ語に聖書が翻訳されていた。5世紀ないし6世紀に作られた「ガリマ写本」は世界最古の福音写本。西洋のものよりも古い)。これは、植民地主義のシステムやその戦略にヒビが入るような出来事のひとつだと思っています。

私のキリスト教体験を話すと、私は子どもの頃、農村地帯で育ちました。田舎の環境にも(キリスト教の)教会がありました。アフリカ、あるいは少なくともNguni系の建築様式というと、それはハット(hut)なので、草などすべて自然のもので作られていたものです。一方で教会はヨーロッパ的な構造の異様に大きな建物で、パイプオルガンを使っていて、その音を拡声していました。

当時、土着の楽器にはアンプなんてなかったんです。フルート、ドゥンビラ、マリンバ……すごく柔らかくて、優しい音ばかりでした。だからパイプオルガンの登場は、私にとって意識への侵入(invasion of consciousness)みたいなものだったんですよ。その音からは逃れられなかった。家にいたい時も、狩りに出かけたい時も、関係なくオルガンの音が村を支配していた。ここで私が言いたいのは、私はそこから逃げられなかったということなんです。少なくとも、教会の音からは逃れられなかった。

そうやって逃れられないなかで、音楽としての教会の響きを受動的に吸収していったんですよね。そこで面白いのは、(南アフリカのジャズ・ピアニストのアブドゥーラ・イブラヒムのような人は、あの音を教会音楽のベースから南アフリカ的な音に作り変えたんです。だから、私も同じようなことをやろうとしています。つまり、たとえ「外から来た音」によって息苦しくなっても、その環境の中でその音を自分のものにしていくって、どういうことなんだろうって考えているんです。

だから、私は教会音楽を使って、そういうことをやろうとしています。だってそれはもう私の頭のなかで歌っているから。教会音楽をたくさん聴いてきたし、消し去ることなんてできません。でもその音を、自分の物語に応答するかたちで演奏するとどうなるのか。そこに自分の感情を込めると、まったく別のストーリーを語る乗り物(vehicle)になるんです。

——つまり、ズールーの伝統とキリスト教は非常に異なるものではありますが、それでもあなたはそれらを音楽の中であえて組み合わせていますよね?「純粋性」を目指すのではなく、エドゥアール・グリッサン(Édouard Glissant)が言うクレオール化(créolisation)のような考え方とも通じるものに見えますね。

もし私たちがこの世界で調和的に生きるとするならば、存在の「純粋なかたち」という考えを超えていく必要があるかもしれません。

ただひとつの課題は、「植民地主義の論理(coloniality)」は協働を求めていないということです。でも、人々はずっと昔から協働に関心を持ってきたんです。人々は植民地主義が始まる以前から旅をしていました。世界中を旅して、さまざまな影響を受け取ってきた。たとえば仏教を思い浮かべてみてください。その広がり方は、キリスト教と比べて、もっと優雅でおだやかな方法でした。つまりこれは、人間が他者の影響を受け入れることに対して本来的に「開かれている存在」だということを示しているんです。だから、私は影響を受けることに対しては賛成なんです。

ただ問題なのは、「植民地主義」に伴ってやってくる暴力です。それは私たちに、反発せざるを得なくさせるもの。つまりは抗議せざるを得なくなる。私が言いたいのは、これらの音(=キリスト教の音)――つまり自分の意識に入り込んできた音たち――は、友好的なかたちで「提案」としてやってきたのではなく、「侵入」としてやってきたということです。だから、そうした音に向き合うとき、僕はそれらを特定の文脈に基づいて扱いながら、自分の音楽にどのくらい取り入れるかを慎重に調整しています。

そして、私の音の中心はズールーの先住的なもの(indigenousness)であるべきです。影響を受けること自体には何の問題もないと思っています。でも大事なのは、それをどう受け取るか。自分の神々や宇宙観、自分なりの「世界での在り方」に照らして、音をどう捉え、どう位置づけるかが重要なんです。

本質的に言えば、私にとって、今の教会音楽は、もっと広い「世界における在り方」に関するプロジェクトに応答するようになってきています。つまり、音としては以前よりも宗教的ではなくなっていて、むしろアーティストとしての自分自身の表現を追求する手段になっています。だから最終的には、それはもう「教会音楽」ではないんです。それは、私が非常に明確な意図を表現するために使う語彙の一部になっているんです。

◎ アフリカンとキューバンとアフリカン・アメリカンの集合的記憶

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79年、島根県出雲市生まれ。音楽ライター。昭和音楽大学ジャズ科非常勤講師。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本「Jazz The New Chapter」シリーズ監修者。共著に鼎談集『100年のジャズを聴く』など。

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