はじめに
2025年11月12日、神戸地検が兵庫県知事選に関連する7件の告発すべてを不起訴処分としました。普通ならここで一件落着です。
ところが、わずか2日後の11月14日。告発人である郷原信郎弁護士と上脇博之教授は、検察審査会に「起訴相当」の議決を求めて申し立てを行いました。
前回の記事では、神戸新聞が「悪魔の証明」を要求し続ける構造的問題を指摘しました。今回の検察審査会への申し立ては、まさにその構造を象徴する動きです。
真実の追求ではありません。疑惑を維持し続けることが目的化した政治闘争です。
異常に速い申し立て
注目すべきは、そのタイミングです。
神戸地検の不起訴処分:2025年11月12日
検察審査会への申し立て:2025年11月14日
わずか2日。これが何を意味するか、考えてみてください。
不起訴という結果を受けて、冷静に検証したわけではありません。事前に準備していた次の手段を、即座に発動したのです。
検察の判断がどうであろうと、最初から次の攻撃手段を用意していました。
検察審査会制度の本来の趣旨
検察審査会は、検察の不起訴処分が妥当かどうかを、一般市民が審査する制度です。
制度の基本:
本来の趣旨は、検察の判断に対する市民のチェック機能です。検察が政治的圧力や何らかの事情で不起訴にした案件を、市民の目で再審査します。
今回のケースでの問題点
神戸地検は1年近く捜査し、7件すべてを「嫌疑不十分」で不起訴としました。これは証拠不足ではなく、「選挙運動の対価とは認められない」という法的評価です。
検察が手を抜いたわけでも、政治的圧力に屈したわけでもありません。専門的な法的判断として「違法性なし」と結論づけました。
「起訴相当」の可能性は低い
法律の専門家でなくても、検察審査会が起訴相当の議決を出す可能性は低いと考えられます。
証拠不足ではない
郷原氏自身が認めているように、「検察官の証拠収集が不十分だとは考えていない」のです。
証拠は十分に集まっています。その上で、検察は「違法性なし」と判断しました。
法解釈の専門性
郷原氏は「法解釈、適用で十分に起訴できるレベルに達している」と主張しています。
これは検察の専門的判断に対する異議です。一般市民で構成される検察審査会が、法解釈の専門的判断を覆すのは困難でしょう。
7件すべて不起訴という重み
1件や2件ではなく、7件すべてが不起訴です。検察の判断が一貫していることを示しています。
PR会社社長の処分との矛盾
告発側自身が「社長については告発段階から寛大な処分を求めていた」と認めています。
社長の不起訴には異論がないのに、知事だけを起訴相当とするのは論理的に矛盾します。買収が成立するには、買収する側と買収される側の両方が必要だからです。
プロセス自体が目的化している
ここで本質が見えてきます。
検察審査会への申し立ての真の目的は、起訴相当の議決を得ることではありません。プロセスを引き延ばすことです。
検察審査会の審査には数ヶ月かかります。その間、ずっと以下のことができます。
「係争中」として報道できる
「疑惑は晴れていない」という見出しを維持できる
斎藤知事を「被疑者」扱いし続けられる
県政の正当性に疑問を投げかけ続けられる
7件すべて不起訴という結果が出ても、検察審査会に申し立てることで「まだ終わっていない」と主張できます。「市民の判断を仰ぐ」という大義名分もできます。自分たちの告発が「間違っていなかった」というスタンスを維持できます。支持者に対して「戦い続けている」姿勢を示せます。
これはまさに、疑惑を維持し続けるための装置です。
マスコミとの共犯関係
この構造を支えているのが、マスコミです。
告発段階の報道(2024年3月〜2025年11月)
大々的な報道
見出しで印象操作
連日の続報
専門家の「犯罪者扱い」の論評を増幅
不起訴決定後の報道(2025年11月12日〜)
小さな続報
検証報道なし
7件すべて不起訴という事実の軽視
「疑惑は残る」という論調の継続
申し立て自体がニュースになります。
「斎藤知事の不起訴、検察審査会に審査申し立て」「告発の弁護士ら『起訴相当』の議決求める」——こういう見出しが、また数ヶ月続くわけです。
前回の記事で検証したように、神戸新聞は不起訴後も「疑惑は晴れていない」という論調を維持しています。検察審査会への申し立ては、神戸新聞にとって願ってもない展開です。自社の報道姿勢を正当化し続けられるからです。
「検察は不起訴としたが、告発人は納得せず検察審査会に申し立て。疑惑の詳細はなお不明のまま——」
こういう記事を書き続けられます。
X(旧Twitter)のトレンドを見ても、望月衣塑子記者(東京新聞)が「本当の闘いが始まります‼️」と投稿しています。郷原氏と上脇氏の記者会見を宣伝し、検察審査会申し立てを「正義の闘い」として報道しています。
ジャーナリズムではありません。政治運動の広報です。
サンクコスト効果という病理
なぜ、7件すべて不起訴という結果が出ても、告発人は引き下がらないのでしょうか。
サンクコスト効果(埋没費用効果)です。
郷原氏は1年8ヶ月にわたって、7件の告発を行い、メディアで繰り返し発言し、「元検事」という肩書きで告発の正当性を主張し、支持者を動員し、百条委員会という最強の調査権限を発動させました。
今さら「実は根拠がなかったかもしれない」とは言えません。
上脇氏も同様です。大学教授という肩書きで、公職選挙法違反を告発しました。「専門家として告発したが、すべて不起訴だった」——これは専門家としての威信に関わります。
告発人には支持者がいます。1年8ヶ月、彼らは告発人を支持し、斎藤知事を批判してきました。今さら「実は間違っていました」とは言えません。支持者を裏切ることになるからです。
客観的な事実(7件すべて不起訴)が出ても、引くに引けなくなっています。だから、検察審査会という次の手段に進むしかないのです。
真実の追求ではありません。自己正当化です。
立花孝志氏逮捕との対比
ここで再び、立花孝志氏逮捕との対比を考えてみましょう。
立花氏は虚偽情報を発信した疑いで、名誉毀損で逮捕・勾留されました。通常は在宅起訴の案件なのに身柄拘束です。
一方、告発人・メディアはどうでしょうか。
7件の告発がすべて「嫌疑不十分」で不起訴
1年8ヶ月間の県政混乱を招いた
百条委員会という最強の調査権限を発動させた
関係者を社会的に追い込んだ
しかし誰も法的責任を問われていない
立花氏は虚偽情報で人を社会的に追い込んだとして逮捕されました。しかし、告発人やメディアも、結果的には根拠不十分な情報で関係者を社会的に追い込みました。それでも何の法的責任も問われていません。
「専門家」や「報道」という看板があれば、結果的に誤った情報で人を社会的に追い込んでも免責されるのでしょうか。
この非対称性こそが、日本の言論空間の大きな問題です。
仮に不起訴相当でも「疑惑」は維持される
検察審査会が「不起訴相当」の議決を出したらどうなるでしょうか。
おそらく、それでも「疑惑は晴れていない」と主張し続けるでしょう。
想定される論法はこうです。
「検察審査会も不起訴相当としたが、これは証拠不足を意味するものではない」「市民の判断も割れており、完全には晴れなかった」「説明責任は依然として残っている」
前回の記事で指摘したように、これは悪魔の証明です。
斎藤側がすでに説明→「不十分だ」
検察が不起訴→「疑惑は残っている」
検察審査会が不起訴相当→「完全には晴れていない」
どんな証拠が出ても、どんな判断が下っても、「まだ説明が足りない」「疑惑は晴れていない」と言い続けられます。
検察審査会の結果が出る頃には、また別の「疑惑」を見つけているかもしれません。
これが、終わらない政治闘争の本質です。
本質は政治闘争である
ここまで見てきて明らかなことがあります。
真実の追求ではなく、政治闘争だということです。
告発人やメディアが納得する唯一の条件は、おそらく「斎藤知事が再び辞任すること」でしょう。それ以外の結末では、自分たちの1年8ヶ月の活動が「誤りだった」と認めることになります。
そのために、告発を繰り返し、不起訴でも検察審査会に申し立て、メディアで「疑惑」を報道し続け、世論を操作し、県政の正当性を揺るがし続けます。
プロセスを引き延ばすこと自体が、目的達成の手段になっています。
前回の記事で指摘したように、「神戸新聞は悪魔の証明を要求し続けることで、永遠に『疑惑』を維持できるという構造を作り上げました。これは報道ではありません。政治闘争です」
今回の検察審査会申し立ても、まさに同じ構造です。
正当な選挙で選ばれた首長を、根拠不十分な告発と世論操作で排除できるとなれば、それは民主主義の危機そのものです。
悪魔の証明を要求する報道姿勢は、選挙で選ばれた首長を世論操作で排除できるという前例を作ります。これが許されれば、日本の地方自治、ひいては民主主義そのものが危機に瀕します。
無責任の構造
そして最大の問題は、誰も責任を取らない無責任体制です。
最終的に検察審査会でも不起訴相当になったとしても、以下のことが起こります。
本来、告発する側が「違法性があること」を立証すべきです。それが今回は逆転しています。斎藤側に「違法性がないこと」の証明を要求しているのです。
これは立証責任の転嫁であり、推定無罪の原則の破壊です。
この無責任体制が許されれば、同じことが繰り返されます。根拠不十分でも告発でき、メディアが大々的に報道し、不起訴でも「疑惑は残る」と言い続けられ、検察審査会に申し立ててさらにプロセスを引き延ばし、誰も責任を取らない——。
この構造を断ち切らなければ、日本の民主主義は機能不全に陥ります。
必要な改革
この構造的問題を解決するために必要なのは、以下の点です。
メディアの自己検証
大々的に報道した疑惑が不起訴になった場合、その報道プロセスを検証すること。神戸新聞は、1年8ヶ月の報道を検証すべきです。何が正しく、何が誤りだったのか。読者に対して説明する責任があります。
立証責任の明確化
告発する側が立証責任を負うという原則を、報道も守ること。「疑惑がないことを証明せよ」という悪魔の証明を要求してはいけません。
推定無罪の原則の尊重
起訴前の段階で「犯罪者扱い」の報道をしないこと。不起訴という結果が出たら、それを疑惑報道と同程度の熱量で報道すること。
結果報道の対称性
疑惑報道と同程度の熱量で、不起訴という結果を報道すること。7件すべて不起訴という事実は、それ自体が大きなニュースです。しかし、神戸新聞はこれを小さくしか報道していません。
専門家の責任追及
弁護士や大学教授という肩書きで告発しても、すべて不起訴となった場合は、その判断の妥当性を検証すること。「専門家」という看板があれば何でも許されるわけではありません。
無責任体制の解消
百条委員会開催という重大な判断が誤っていた場合、誰がどう責任を取るのかを明確にすること。県政を1年8ヶ月停止させたコストを、誰が負担するのか。
検察審査会制度の本来の趣旨の確認
検察審査会は、検察の不当な不起訴をチェックする制度です。専門的な法的判断を、一般市民が覆すための制度ではありません。
今回のように、検察が十分に捜査して専門的判断を下した案件について、「法解釈が違う」という理由で申し立てるのは、制度の本来の趣旨に合っているのでしょうか。
おわりに
検察審査会への申し立ては、真実の追求ではありません。
疑惑を維持し続けることが目的化した、政治闘争の一手段です。
やっている間は攻め続けられる。マスコミも乗っかる。プロセスを引き延ばすこと自体に、政治的価値がある。
この構造を許せば、日本の民主主義は崩壊します。
正当な選挙で選ばれた首長が、根拠不十分な告発と世論操作で排除される。どんな証拠を出しても「不十分だ」と言われ続ける。不起訴でも「疑惑は残る」と報道され続ける。
悪魔の証明を要求する報道姿勢。立証責任の転嫁。推定無罪の原則の破壊。無責任体制の固定化。
これらの問題は、今回の兵庫県知事選問題に限った話ではありません。日本の報道と言論空間が抱える、構造的な問題です。
オールドメディアがこの問題を自ら検証しないのであれば、市民一人ひとりが声を上げていく必要があるでしょう。
「疑惑の報道」と「結果の検証」の両方を求めていく。悪魔の証明を拒否する。立証責任の所在を明確にする。推定無罪の原則を守る。
それが、同じ過ちを繰り返さないための第一歩になるのではないでしょうか。
読んでいただきありがとうございました。
コメント、記事購入、チップ等いつもありがとうございます。
大変感謝しております。
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