高学歴が推し活をしないのではなく、アスペが推し活をしないのである
※本稿はジョークです。
※最後の「筆者の感想」以外は全て無料です
巷で話題の「高学歴は推し活をしない」というnote記事を拝見した。
「高学歴・高所得層は推し活をしない」というイメージを、合理性や自己投資の観点から丁寧に物語化していた。
他人の人生ではなく自分の人生に関心を向け、時間もお金も精神エネルギーもすべて自己投資に振り向けるエリート像は、もっともらしく見える上、読者の自尊心をくすぐる構図である。
だが実際の世界を見れば高学歴にも重度のアイドルオタクやアニメオタクはいくらでも存在する。
一方で、学歴とは無関係に推し活そのものに強い違和感や拒否感を抱く人もかなりの数いる。
だが一定程度負相関があるのも納得できる。
ここで浮かび上がるのは「本当に“高学歴だから”推し活をしないのか?」という素朴な疑問である。
むしろ「推し活の構造と噛み合わない認知スタイルを持つ人」が一定数いて、その一部がたまたま高学歴集団の中に可視化されている、という説明の方が筋がよいのではないか。
その認知スタイルの候補として、本稿では自閉スペクトラム症(ASD)的な傾向を仮説として取り上げる。
なおここでASDは診断名としてのラベルというより「社会的な場のノリに馴染みにくい」「対象に対して過度に合理的・分析的になりやすい」「群衆の情動に巻き込まれるのが苦手」といった、”社会適合的でない認知特徴の束”として捉えることとする。
心理学・発達科学の文献を踏まえるとASDには
共感よりもシステム化(構造分析)に強く惹かれやすい
社会的な関わりから得られる報酬が小さくなりやすい
感覚過敏や不確実性への脆さから、人混みやライブのような「推し活現場」と相性が悪くなりやすい
という傾向がある。
これらは、記事が描く「推し活をしない高学歴エリート」の心理とかなり重なっている。
本稿の目的は、「高学歴が推し活をしない」のではなく、「ASD特性を持つ人の一部が推し活の構造と噛み合いにくいのではないか」という代替仮説を提示し、先行の議論を批判的に継承しつつ書き換えることである。
第1章 高学歴仮説
1.1 高学歴オタク
「高学歴は推し活をしない」という主張は、経験的にはすぐに反例にぶつかる。
東大京大でも地下アイドルの現場に通い詰めていたり、二次元キャラに生活を捧げている人間は普通にいる。
つまり、「高学歴」と「推し活の有無」の間に何らかの傾向があるとしても、「高学歴だから推し活をしない」といった強い因果は、現実の反例に簡単に破られてしまう。
1.2 肌感のエリート一般への投影
先行のnoteは、自身の違和感をもとに、「自己投資のROIが高いから、他人にリソースを溶かす推し活は非合理に見える」という物語を組み立てている。
これは書き手個人の経験としては正直なのだろうが、そのまま「高学歴層全般」の説明へと拡張するには無理があるろう。
なぜなら、その物語は「自分の感覚は合理性の極致である」という前提に立っており、推し活をする人々を暗黙のうちに「合理性の低い大衆」の位置に置いてしまうからである。
だが実際には、高学歴でありながら推し活に熱中する人もいれば、非高学歴でありながら推し活を冷ややかに眺める人もいる。
そうであるなら、説明変数としての「学歴」だけでは足りない。
むしろ、「他者との関わりからどれだけ快楽を得やすいか」「群衆の情動にどれだけ巻き込まれやすいか」「不確実性にどれだけ耐えられるか」といった、もっと深いレベルの個人差、すなわち認知スタイルの方に目を向ける必要がある。
1.3 高学歴の背後にある「別の変数」
ここで浮上してくる候補が、ASDである。
推し活に対して
他人に感情を預けることへの強い警戒
群衆の熱狂や商業主義に対する醒めた視線
主導権を自分から手放すことへの拒否感
を持つ人の一部は、実はASD的な特性の延長線上にいるのではないか。
この仮説に立つと、「高学歴」というラベルは、実は別の変数すなわち「ASD的な認知スタイル」の代理変数として機能している可能性が見えてくる。
つまり「高学歴だから推し活をしない」のではなく、「ASD的傾向を持つ一群が高学歴集団にある程度含まれており、その一群が推し活と噛み合わない」だけかもしれない、ということだ。
第2章 ASDの認知スタイル
2.1 共感よりシステム化に惹かれる脳
ASD研究の中心的な理論の一つに、サイモン・バロン=コーエンによる「共感・システム化理論(E-S theory)」がある。
この理論によれば、人間の認知スタイルは「他者の感情や心の状態を読み取る共感(Empathizing)」と、「ルールやパターンを見出してシステムとして理解するシステム化(Systemizing)」の二軸で記述できるとされる。
自閉スペクトラムでは一般に、共感が相対的に低く、システム化が相対的に高いというプロファイルを取りやすい。
つまり、他人の感情の揺れに寄り添うことよりも、対象の内部構造やルールを解析することに快感を覚えやすい、という傾向がある。
この視点から見ると、サブカルチャーやアイドルを「尊い」と感情的に推すよりも、「なぜこのコンテンツは売れるのか」「どういう仕掛けでファンの感情が動いているのか」と構造分析してしまう態度は、まさに高システム化的な認知スタイルの現れとして理解できる。
先行noteが描く「メタに分析してしまい冷める高学歴」は、「高学歴だから」そうなのではなく、「システム化優位の認知スタイルだから」そうなっている可能性がある。
2.2 社会的報酬への感受性の低さ
もう一つの有力な理論が、「社会的動機づけ理論」である。
Chevallierらは、自閉スペクトラムでは「社会的な関わりそのものが報酬として感じられにくい」という特性が、多くの社会的困難の背景にあると論じている。
他者との交流から強い喜びを感じる人にとって、推し活は極めて自然な行為である。
推しの笑顔や成功に自分の感情を乗せ、同じファンと喜びを共有すること自体が、大きな報酬になる。
しかし、社会的報酬の感受性が低い認知スタイルを持つ人にとって、他人の感情や成功に自分の情動をぶら下げることは、それほど魅力的ではない。
その結果、「他人の人生のアップダウンに自分の気分を支配されたくない」「もっと自分でコントロールできる対象にリソースを投下したい」という発想が生まれやすくなる。
これを「高学歴ゆえの合理主義」と呼ぶこともできるがむしろ「社会的動機づけの低さ」という特性の表現だと解釈する方が自然である。
2.3 感覚過敏と「現場」
推し活の象徴として語られがちなものの一つが、ライブやイベントといった「現場」での体験である。
大音量、眩しい照明、人混み、長時間の待機列、多くのファンにとってこれは「非日常の高揚感」だが、感覚過敏のある人にとっては単純に地獄に近い。
自閉スペクトラムの人の多くが、音・光・触覚などに対して過敏であることは、支援団体や医療機関の解説でも繰り返し指摘されている。
英国のNational Autistic Societyは、自閉スペクトラムの人が、大きな音や人混みによって「圧倒される」「逃げ出したくなる」感覚を覚えやすいことを解説しているし、Autism Speaksも、予期しない大きな音や複数の音源が重なる環境で、感覚過負荷から強い不安や混乱が生じると説明している。
近年、スポーツスタジアムや大規模イベントで、神経多様な人向けのセンサリールーム(静かな避難スペース)が設置され始めたのも、通常の観戦環境が自閉スペクトラムを含む多くの人にとって過酷であるという認識に基づいている。
推し活の「現場」を楽しめるかどうかは、単なる好みではなく、感覚処理という身体レベルの問題でもある。
人混みと大音量がしんどい認知・感覚特性を持つ人にとって、ライブや握手会に繰り返し参加することは、合理性以前に「物理的に無理」に近い。
2.4 不確実性への脆さと「主導権」の問題
先行noteは、「推し活は他人の動向に自分の感情を握られる状態であり、主導権を他者に渡すことになる」と批判していた。
この「主導権へのこだわり」も、ASD研究の文脈では別の言葉で説明されている。それが「不確実性への耐性の低さ(Intolerance of Uncertainty)」である。
Jenkinsonらのメタ分析は、自閉スペクトラムの人において、「先が読めない」「何が起きるかわからない」状況への耐性の低さと、不安症状が強く結びついていることを示している。
推し活は、推しの炎上、スキャンダル、活動休止、運営の迷走など、自分の手ではコントロールできない不確定要素に満ちている。
多くのファンは、それも含めて「人生」として受け止めるが、不確実性が強いストレスになる認知スタイルを持つ人にとっては、自分の感情をそこに大きく賭けること自体が危険で愚かに見える。
ここで起きているのは、単なる合理主義というより、「不確実性に対する脆さに基づく回避」である。
ASD的な認知スタイルを持つ人ほど、「自分の努力と選択が結果に直結しやすい領域」に逃げ込みやすい、という理解の方が、先行研究とは整合的だと言える。
第3章 ASDと高学歴
3.1 ASDによる高学歴
発達に問題があるからと言って学業的達成度が一律に低いわけではない。むしろその特性が有利に働くことも多いのだ。
米国の全国調査データを用いたWeiらの研究は、大学進学率そのものは自閉スペクトラムの若者で低めであるものの、大学に進学したASD学生の中では、理工系(STEM)専攻の割合が他の障害群や一般学生よりも高いことを示している。(PubMed)
Nature誌のニュースも同じ研究を紹介し、「自閉スペクトラムの学生は、進学率自体は低いが、進学した場合にはSTEM分野を選ぶ割合が高い」と報じている。(Nature)
これは、「人間関係よりも抽象的な問題やシステムに強く惹かれる」という認知スタイルが、まさに数学・工学・情報といった領域で高く評価されやすいことを反映している。
ASD研究では、IQが高く学業的にも優秀でありながら自閉特性を持つ「二重に特別な(twice-exceptional)」層の存在も指摘されており、高知能とASD特性が共存するケースが一定数存在することは、複数のレビューで整理されている。(J-STAGE)
つまり、「ASDが学業的に劣る」という単純な構図は成り立たない。
むしろ、ある種のASD的認知スタイルは、受験勉強や専門知識の習得と高い相性を持っている。
3.2 教育システムが拾い上げる認知スタイル
日本の受験システムは、長時間の個別学習、抽象的な記号操作、知識の体系的な積み上げといった能力を高く評価する。
これは、人間関係の微妙な機微よりも、情報や問題解決に没頭しがちなASD的認知スタイルと親和性が高い。
人付き合いに消耗するぶん、机に向かい続ける時間が長くなる。
空気を読まずに同じ問題集を繰り返すことを、それほど苦痛と感じない。
反復・ルーティンを安定要因としてむしろ好む。
このような特性は、受験というゲームを攻略する上では大きなアドバンテージになる。
その結果として、「ASD的な認知スタイルを持ちながらも高い学業成績を収める人」が、高学歴集団の中に一定割合で存在することになる。
3.3 「高学歴が推し活をしない」という物語が生まれるメカニズム
以上を組み合わせると、次のような筋道が見えてくる。
ASD的な認知スタイルを持つ一部の人が、教育システムとの相性の良さから高学歴になる。
ASD的傾向ゆえに、推し活の構造(情動の共振、群衆の熱狂、不確実性、感覚刺激の強さ)と噛み合わず、強い違和感を抱く。
その一部が、自分の違和感を「合理的なエリートの感覚」として言語化し、発信する。
その物語が、「高学歴一般」の特徴であるかのように流通する。
このプロセスを経て、「高学歴は推し活をしない」というイメージが生成されているのがここ数日のXだ。
実際には、「ASD的認知スタイルを持つ一群が、たまたま高学歴集団にある程度含まれており、その一群が推し活と噛み合わない」という方がしっくりくる。
第4章 ASDと推し活
4.1 推し活とは何をしている行為か
推し活の本質は、他人の人生や感情のアップダウンに、自分の感情を結びつけることにある。
推しが笑えば自分も嬉しくなり、推しが炎上すれば自分も胃が痛くなり、推しが活動休止すれば生活の意味が揺らぐ。
そこに、同じ対象を推す他者との連帯感やコミュニティ感も加わる。
この構造は、「他人との情動的共振」から多くの報酬を得られる人にとっては、非常に魅力的である。
しかし、社会的動機づけが低い、あるいは共感よりシステム化に傾いた認知スタイルを持つ人にとっては、これがあまり快楽として立ち上がってこない。
その場合、「自分の感情を他人の行動に依存させるくらいなら、自分でコントロールできる対象に投資した方がいい」という選択になる。
先行noteが「自己投資のROI」という言葉で説明した部分は、ASD研究の文脈では「社会的報酬よりも非社会的報酬を好む」という特性の一側面と見なすことができる。
4.2 構造が“見える”と“萎える”
推し活は、多くの場合、「仕掛けを分かったうえで、あえてそこに乗って楽しむ」という二重構造を持つ。
アイドルビジネスの商業性やファン心理の操作性を理解しつつ、それでもなお「尊い」と叫ぶ遊びである。
しかし、高システム化的な認知スタイルを持つ人にとっては、「見えてしまった構造」に乗り続けることが難しい。
そこには、ある種の誠実さと同時に、遊びとして割り切ることの苦手さがある。
E-S理論の観点から言えば、こうした人は「感情に流されず、ルールや仕組みに注目する」ことが習性になっている。(PubMed)
その結果、「推しの涙」よりも「なぜこのタイミングで涙の演出を入れたのか」が気になってしまい、感情のジェットコースターを純粋には楽しめない。
先行noteの「メタ認知による主体性の確保」という記述は、このASD的なシステム化傾向の別表現として読むことができる。
4.3 「現場」の感覚負荷
先に触れたように、ライブやイベントは、自閉スペクトラムの人にとって感覚過負荷の温床になりやすい。
大音量、派手な照明、人混み、長時間の待機。これらは、感覚過敏と不確実性への脆さが重なると、純粋に「耐え難い環境」となりうる。(autismawareness.com.au)
ここまで来ると、「推し活をしない」のは合理的・非合理の問題以前に、身体が無理という話である。
冷静に計算したうえで参加しないのではなく、「行くと確実に潰れるので避ける」という防衛的な選択に近い。
その意味で、「現場に通い詰める推し活」を前提にした議論は、感覚特性の多様性を無視したものになりがちである。
ASD的な認知・感覚特性を持つ人が推し活から距離を置くのは、必ずしも「冷めた合理主義」の結果ではなく、「自分の身を守るための必要な戦略」でもある。
結論 ラベルの貼り方は常に恣意的である
先行のnoteは、「高学歴が推し活をしない理由」を、自己投資のROI、主導権の掌握、メタ認知、文化資本といった概念で鮮やかに描き出していた。
しかし、その物語を心理学・発達科学の知見と照らし合わせると、「高学歴」というラベルの下で語られている主体は、実際にはASD的な認知スタイルを持つ一部の人とかなり重なっていることが見えてくる。
共感よりシステム化に惹かれる脳。
社会的な関わりから得られる報酬の弱さ。
感覚過敏ゆえにライブや人混みが純粋にしんどい身体。
不確実性や予測不能な出来事に強い不安を感じる心。
こうした特性を持つ人にとって、推し活は「冷静にROIを計算して切り捨てた非合理な娯楽」というより、「自分の身を守るために避けざるをえない環境」であり、「構造が見えすぎてしまい感情移入しにくい仕組み」でもある。
それは決して、推し活をする人より優れているという意味ではないし、逆に劣っているという意味でもない。
単に、世界との付き合い方と、「推し活」という仕組みの噛み合わせが悪いだけである。
この視点だと「高学歴が推し活をしない」のではなく「ASD的認知スタイルを持つ一部の人が、たまたま高学歴集団の中に可視化されている」という、より控えめで現実的な仮説が立ち上がる。
「推し活をする / しない」という行動を、学歴や階級や知性の高低で語るのは、そもそも問の立て方として歪んでいる。
見るべきは、個々人の認知スタイルと、推し活という制度の構造的な相性である。
推し活に違和感を覚える人は、「自分は高知能だから大衆的な熱狂から距離を置いている」と優越の物語で自分を守ることもできるし、「自分はASD的な認知スタイルを持っていて、この仕組みとは単に噛み合わないのだ」と別の仕方で自分を理解することもできる。
後者の方が、他人を見下さずに済むという意味でも、また、自分の生きづらさを少しだけマシな言葉で受け止め直すという意味でも、生産的だと私は思う。
そして最後に付け加えるなら、推し活に人生を賭ける生き方も、推し活から距離を置き自分のプロジェクトに没頭する生き方も、どちらもその人の認知スタイルと環境条件のもとでの合理的な戦略である。
重要なのは、どちらが「正しい」かではなく、自分と他者の違いをラベルではなく構造で理解し、そのうえで各自が自分なりの「生への熱狂」を選び取れる余地を残しておくことだろう。
おまけ 筆者の感想
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