
【謎解き】『果てしなきスカーレット』は四重構造の救済劇。

2025年の細田守監督作品『果てしなきスカーレット』が先週公開された。
難解な脚本が理解されないまま、試写以降ずっと叩かれてきた。興行成績は不振に終わりそうだ。
確かに、表層だけ見れば、意味不明な映画だし、スカッとしないし、お世辞にも、ファミリー向けのファストフード的エンタメとは言えない。
だが、理解できないままでもいいから、一度は劇場で観ておくことを、心から薦めたい。子どもにも、中学生以上なら観てほしい。
本作は、10年後あるいは30年後に「あのとき(あの人と一緒に)劇場で観ておいて良かった」と思えるようになる、そんな映画だからだ。

以下の考察は、もちろん個人の感想に過ぎない。原作小説、映画パンフは未読。自分が鑑賞体験から考えただけで、唯一解などとは考えていないので、念のため。
この作品は『ハムレット』――だけじゃない。
本作は表面上、シェイクスピアの最長作品にして世界史上もっとも有名な戯曲『ハムレット』をマイナーコピーした――だけのように見えるし、実際そう見られているようだが、実は違う。むしろ逆なのだ。
ハムレット成分は『スカーレット』という巨大な「演出の大聖堂」を支える柱の一本に過ぎない。
本作にハムレットだけ、あるいは復讐劇だけを見つけようとすると、頭上にそびえる伽藍と穹窿の見事さに気づくことができなくなる。

この映画は、主人公スカーレットが、父と聖と老婆に助けられながら、
(1) 自分自身 だけでなく
(2) 悲劇『ハムレット』のバッドエンド と
(3) キリスト教をはじめとする諸宗教 と
(4) 戦争が絶えない現代社会とその倫理
という「四重の救済不能問題」を、すべて救い直す、重層的な物語である。
映画の表層には、
(1)父王を殺され、継母王妃と叔父に裏切られた主人公スカーレット個人が救済にたどり着くシンプルな物語があるが、それだけでは意味の通らない不自然な箇所、唐突に思える飛躍が、いくつもある。
明らかにわざと、ストーリーにヒビやキズ(scar)が入れられている。そのヒビ割れが気になって仕方なくなるようにつくってある。まるで、光悦の金継ぎ茶碗『雪峯』だ。

本作では、表層のストーリーのヒビ割れは、劇中のある登場人物が意図的に入れている。ただしそれは、初見ではほぼ気づくことが不可能なほど、巧みに隠蔽されている。そのため初回の鑑賞者は、どこがおかしいのかはっきりしないが何か変だ、そんな違和感を覚えるはずだ。
そしてヒビ割れの周りには、宗教学的あるいは人類学的な「象徴」が数多く散りばめられている。それらを丁寧に読み解くと、『スカーレット』のヒビ割れの背後には、別の3つの救済があることが見えてくる。
(2) 全員が不幸になる全滅エンドの悲劇を400年間ループ再生・リミックス再生し続けている――言い換えれば、世界文学史上で最も不幸を繰り返し描いた戯曲『ハムレット』そのものを反転し、救済する。
(3) 2000年かけて結局、人類を救済することに失敗し、暴力の応酬に加担してしまった、キリスト教ならびに諸宗教から、いま改めて本質的価値を救い上げる。
(4) 400年前や2000年前から見れば奇跡そのものを実現しながら、未だに殺し合いの連鎖を続ける、そんな救済されることに失敗した現代社会とその倫理自体を、問い直し再生する。

表層だけ撫で、その意図的なヒビ割れを批判する主張は、本作の批評として力不足だ。
つまり、(1) 表層の救済、(2) 文学史の救済、(3) 宗教史の救済、(4) 人類史の救済、この4つが、同時に進行する。そして主要な登場人物は、それぞれのテーマの救済において、固有の役割を果たす。
自分も、初見ではまったく意味がわからなかった。1回目の鑑賞は、ただ圧倒的に美しい作画と美術に圧倒されて、終わる。
もっとも、その1回だけのために、劇場で観ておく価値がある。それほどの作画と美術。これまでの細田守作品とは段違いのクオリティ、超贅沢な体験だ。
脚本や考察なんかどうでもいいから、まず一度は劇場で観ておくことを薦める。今なら大スクリーンの特等席で見られるよ!よ!
♪〽どこかに隠された秘密 解き明かしてみせて〽♪
あまりにも不思議な映画体験、その中で最も意味不明な、あの謎の渋谷祝祭ダンスの歌は、こんな歌詞で終わる。これは細田守監督から観客への挑戦状だ。
2回、3回と見るうちに、ようやく意味が少しずつわかってくる。本作は噛み応えのあるスルメ映画だ。本作の難解さは『マルホランド・ドライブ』級かもしれない(あの時は、デビッド・リンチ監督からヒントが出されたし、2回目の鑑賞は1000円で済むという画期的な施策が打たれた。本作がそうした売り方をできていれば、現状のような不振は無かったろう)。
自分の場合は、3回目を観た後、宗教系の図像に関して大学図書館で調べ直して、ようやく全てのピースが噛み合った。

噛み合ってから考え直すと、1回目の鑑賞で唐突に感じた「赦し」、チグハグに感じた全体の物語構造に、まったく余計な所がなかったことに気が付いた。1回目の鑑賞で自分は、まんまとあの登場人物によって幻惑され、肝心の所を見過ごしてしまっていたのだ。
表層の物語に敢えてヒビ割れを入れ、そこを通してより下層の物語を透かし示す。3段階の通過儀礼がそれぞれ四重に織り込まれる――前代未聞の構造のせいで、初見では違和感を覚えたが、「これはそういうものなんだ」と虚心坦懐で見直すと、じつは意外なほど、完成度が高い映画になっている。
唐突すぎるフラダンスにも、人工的すぎてうすら寒さを感じる渋谷で繰り広げられる祝祭ダンスにも、異様にテンション高い墓掘りたちにも、無人の病院集中治療室にさえ、物語上欠かせない重要な理由があった。
巨大なドラゴンにも、叔父王の肌を覆う奇怪な紋様にも、火山からあふれ出す溶岩流にも、王冠の突起にすら、自然現象と人類史に根差す含意があった。
スカーレットの冒頭いきなりの嘔吐にも、彼女が切り落とす長髪にも、前装式の青銅砲にも、爆発する鼻糞にだって、物語を成り立たせる上での必要性があった。
剣を止めた際の右手のキズにも、通り魔に刺された左脇腹のキズにも、少女の無邪気な台詞にも、最後の綺麗ごとに聞こえる演説にも当然、すべてに必然と言えるほどの意味があったのだ。
シンプルなストーリーの中に、多くの象徴が隠され、ひとりの人物が多くの役割とイメージを背負う。アニメでは大友の『天使のたまご』『AKIRA』、細田自身も絵コンテで参加した幾原の『少女革命ウテナ』、宮崎の『千と千尋の神隠し』、庵野の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』。洋画ならコクトーの『オルフェ』、スコットの『ブレードランナー』、ギリアムの『未来世紀ブラジル』、ウォシャウスキーズの『マトリックス』、ノーランの『ダークナイト』、マリックの『ツリー・オブ・ライフ』と似た映画だと言える。
作品内の象徴性やキャラクターの多義性は、上記のように、それほど珍しい手法ではない。ただ、四重構造の救済劇――四層の物語構造、入れ子状になりさらに鏡写しになった四重の通過儀礼、表層と2層目以降を等価値に扱う手法――は、古今東西の創作と比較しても類例が思い当たらない。この斬新さは、わかりにくさも招いているが、今後、創作の最前線では間違いなく高く評価されるだろう。
『ヱヴァ』や『パルプ・フィクション』、アメコミ『ウォッチメン』、古典文学作品では『神曲』『罪と罰』なども、三重やそれ以上に重層的な構造を持つとしばしば指摘されるが、いずれも表層が強く、2層目以降は見えにくい。
表層に敢えてヒビを入れた映画作品として、ターセム・シンの『落下の王国』や、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』がある。後者はカンヌでパルムドールを獲ったが、表層の脆さ弱さは欠陥としてやはり批判を受けたし、興行も振るわなかった。同作よりも遥かに複雑な構造に挑戦しつつ、同作よりも強固な表層を実現した『スカーレット』で、細田守はテレンス・マリックを越えた。
脚本が云々言ってる映画マニアは、自分たちの頑迷さ、偏狭さを恥じよ。本作は、演出の天才だけが構想し得る、演出をひとつひとつ積み上げて築かれた、映画史上に冠たる演出の大聖堂なのだから。
おそらく、公開当初しばらくは誤解と不評のレッテルを貼られるままだろう。だが、今から10年後、あるいは30年後に『スカーレット』は「時代を先取りしすぎた名作」という扱いになっているのではないか。
その時、公開当初にガラガラの劇場で本作を観た体験は、得難い価値を持つんじゃないか、そう思う。
それにしても、なぜ、細田守はこんな、客ウケの悪そうな難しい映画を創ったのか?
細田の作家性が救済劇にあることは間違いない。ただ『未来のミライ』は家族間の繊細な関係、『竜とそばかすの姫』は母の死というトラウマや父からの精神的DVの克服という、身近に捉えやすいシンプルな救済劇だった。なぜ今回、これほど大それた複雑な構造に挑んだのだろう?
細田守の問題意識:救いの無い物語は、もう十分飽きるほど見た。では、誰をどうやって救えばいいのか?
現代は、科学技術で奇跡のような進歩を遂げた。富さえあれば、寿命と多くの病気すら克服し、世界を意のままに操れるかのような気分になる。
だが世界の現実は?
戦争は止まず、むしろロシア、イスラエル、中国など、武力による現状変更の横行は、100年前より悪化している。罪のない子どもが殺され、暴力の連鎖は拡大、共同体は崩壊し、どうやら人類は救済されることに失敗している。
全滅エンドの核戦争も、完全に否定できる状況ではない。ちょっと独裁者が血迷ったら、今でも核戦争は起きうる。
宗教も無惨なありさまだ。苦しみから救ってくれるどころか、無差別殺人を行ったオウム真理教、多くの家族を壊した統一教会のような、苦しみを与え広めるカルトが、まだ自分たちは宗教だと言い張っている。
ユダヤ教という、自民族だけを救うとする偏狭な一神教の中から、人類愛を説くイエス・キリストという完全な異端児が誕生して、2000年余りが経った。
だがキリスト教も、その変奏と言えるイスラム教も、この2000年の間に自ら報復合戦に加担し、ときに戦争の原因そのものとなった。それでは結局、人類を救済することに失敗しているのではないか? ……異教徒からはそう見えかねない。少なくとも、自分にはそう見えてしまう。
奇跡を実現できるのに、救済できない・されない人類。
このクソすぎる現実のせいで、ややもすると、すべての良い話が色褪せ、不滅の価値が嗤われ、相互の信頼関係にケチがつくように感じられる。
自由に描けるはずの創作でも、両極端。チートスキルで楽勝救済か、でなければ救いの無い物語が、大量生産されている。
それは、本気で誰かを救う・誰かが救われる話をしようとすると、逆に「どうして、自分ではなく、そいつだけ救われるのか? ズルい、不公平だ」と怒りが噴き出し、蜘蛛の糸は切れカンダタは地獄に落ちてしまうからだ。ゼロサム・マイナスサムの社会では、足の引っ張り合いで全員が不幸になる。
多くの人が救いを必要としているのに、このままでは救いに取り組もうとする人は減るばかりだ。相互理解は絶え、分断が進み、お互いを悪魔化して過剰に批難し合う空気が、世界を覆いつつある。
本作に対しても、表層だけ見て「お花畑」「浅すぎる」あるいは「意味わからん」「理解できない」とSNSで石を投げられ、劇場は閑古鳥だ。
だが、そんな世の中だからこそ細田守は、分かりやすくスカッとできる映画を創るわけに行かなかったのではないか?
こんな世界だからこそ、観客の眼と懐の深さを信じ、観客に問いかけるような映画を、主人公スカーレットがあらゆる意味で救い・救われる映画を、人類に入ったキズ(scar)を当人たちが修復できるよう手助けする映画を、創ろうとしたのではないか?
そのためには、表層のストーリーに意図的なキズやヒビ割れを入れ、世界の脆さを表現に取り入れることが、どうしても必要だったのではないか?
本作への評に「インフルエンザの時に見る夢」という一節を見かけた。言いえて妙だ。良いセンスだと思う。ではなぜ、それこそが細田守の真の狙い、リミナル空間が与える感覚だと気づかないのか? それは観客の側が「世界の脆さ」に無自覚で、そんなものに自分は関係ないと思い込みたがっているからだ。
本作で、こんな人類を冷笑せず、分断せず、分かりやすさや応報快楽や拝金主義に逃げず、綺麗ごとと言われることを恐れず、信仰を求めず、宗教間の争いから逃げることも一方の肩を持つこともせず、誰も成し遂げたことのない目標を信じて、自分のベストを尽くそうと藻掻いた細田守監督と、監督と志を共有しひとつの成果を送り出した人々に、自分は敬意を表する。
この紛うこと無き傑作を観に、ガラガラの劇場へ行こう。
こんな体験、一生に何度も出来ないぞ。

(以下は、オマケというか、物語とキャラクターの構造的な分析だ。重大なネタバレ、謎解きを含むので、ぜひ劇場鑑賞の後に、答え合わせとしてご利用いただきたい。)
スカーレット(cv:芦田愛菜)の8つの役割。
主人公スカーレットは、四重構造の中で、8つもの役割を負わされている。
「嘘やん、そんなん無理やろ」と思うが、よく観れば、そこに渋滞は発生していない。細田守は、8つの役割に丁寧なグラデーションをつけ、劇中、徐々にその役割をスライドしていっている。
芦田愛菜、当時19歳の神演技が、スカーレットの多義性を存分に引き出し、なおかつひとりのキャラクターの中に複雑さを統合している。見事だ。

表中の虹色横線は、その境界を跨ぐ際に通過儀礼が行われることを表している。
(スカー1a) 純粋で無力な少女、「いいこちゃん」役。
『ハムレット』では、冒頭すでに父王が死んでいるところから始まる。父王は毒殺されたが、王子は幽霊となった父に知らされるまで毒殺に気付かない。

スカーレットの原点、内的動機である。このシーンが赦しの原動力となる。
一方、本作では、序盤で王女スカーレットと、父王アムレット(cv:市村正親)との愛情が、比較的丁寧に描かれる。父王は毒殺ではなく隣国と通じた罪を着せられた末に公開処刑される。
なお、スカーレットが父親を描き、継母に破られた似顔絵は、王女のトラウマそのものだ。死者の国における虚無化、ドラゴンの分解の描写と呼応し、劇中一貫して喪失を象徴している。
王となった叔父クローディアス(cv:役所広司)の蛮行に怒り、エルシノア城(モデルになったのはクロンボー城)から見下ろす屋外で、叔父王の暴政で親を奪われ虐げられる少女の姿に、自分を重ねて涙する。このシーンは、スカーレットがいいこちゃんから脱したことを示唆している。

長髪を三つ編みにした少女の姿は、本作後半、何度も民衆の中に再生される。スカーレットは少女に「幼かった頃の自分」を重ね見て、少女を、未来を、そして自分自身と父の思い出を守ろうとする。
(スカー1b) 父に煽られず、逆に救済される「ハムレット王子」役。
『ハムレット』では王子はオフィーリアに「尼寺(一説に、売春宿の含意あり)へ行け」と暴言を吐く。亡霊の父王に求められ、敵討ちに固執した結果、意図せず多くの人を死なせ、叔父王を殺して死ぬ。
一方、本作の王女スカーレットも、叔父王に対する復讐を誓い、剣の腕を磨き、仲間を増やし、少しずつ力を付けていく。
留学先のウィッテンベルクで、叔父王の暴政が強まり、隣国と開戦しそうになっている状況を手紙で知り帰国、城での宴を利用して、叔父王一派に対するクーデターを決行しようとする。
毒薬(ないし睡眠薬)を、叔父王とその臣下たちに対して盛り、一網打尽にして政権を奪取しようとしているようだ。叔父王だけが標的でないことは、盆に載せて供される杯が3つ以上あり、王がどれを飲んでも計画に支障がないことからわかる。
しかし、逆にその隙に自分も毒を飲まされていたことに気づき、スカーレットは意識を失う。初見では、このシーンは王女が返り討ちにあっただけのように見える。
だが後述するように、実は王女と叔父王は、互いに同時に毒を飲ませ合っていた―――。この点が劇中では伏せられていて、観客を困惑させるミスリーディングになっている。
映画冒頭で死者の国の荒野を歩いてきたスカーレットは、池から水を飲み、歩いて行く途中に立ち止まって嘔吐する。女主人公が登場していきなり吐く。まるでイーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』だ。
これも、初見では水に当たったようにしか見えないシーンだが、よく見るとこれは叔父王に飲まされた毒を、吐き戻すのに成功したことを表している。吐き戻した先に、キモい虫が2匹、蠢いている。実際の寄生虫というよりは、毒を具現化・可視化して見せているのだろう。映画マニアには「名作に名ゲロシーンあり」なんて言う人もいる。それにしても強烈な演出になっている。
この後、小規模な戦いを数回経て、死者の国で出会った聖に「僧侶か?僧侶なら寺へ行け」と言い放つ。
コーネリウスから「戦士の鑑」と称えられるほど懸命に戦いつつ、スカーレットは苦しむ。結末のカタルシスへの蓄積が、ここから始まっている。

神がかった殺陣のスタントコーディネーターは園村健介、アシスタントスタントコーディネーターは川本直弘、スタントアクターはわんころもち伊澤彩織ら。『ベイビーわるきゅーれ』シリーズや『ゴーストキラー』のチームだ。
キャラバンで食事や茶を勧められても断る。これは現世で毒殺された経験、死者の国で守備隊に騙された経験から警戒しているからだが、隻眼の隊商主から誠実な言葉を聞くうちに、スカーレットの表情が少しずつ変わり、王女は器を口に運ぶ。冒頭の毒杯とキャラバンの茶、対比的な描写になっている。この場面の繊細な仕草と表情の演出は、小津安二郎映画のように見事だ。
終盤、門の前でスカーレットは「果たして私は、復讐を最後までやり遂げるべきか、それとも一切を赦すべきか?」と、かの有名な問い「To be or…」の変奏で自問し始める。
スカーレットは煩悶する。ここで画面は静止画の二重写しとなる。自分自身との対話の視覚化だ。「どうしてここまで苦しまなければならないの?こんなに私を縛っているのは何? 別の生き方を発見できないのはなんで?」「わからない」「だって仕方ないじゃない、ずっとこうやって生きてきてしまったんだもの」「たしかに。やっぱりじゃあ本当に終わりだね」
核心に迫るにつれ、二重写しだったスカーレットの止め絵が、徐々に重なる。輪郭が収束してゆく。「憎しみから剣を習い、復讐のため、父のため、苦しむ民のため、すべてをささげて」「何度も何度も何度も自分を押し殺して、自分にこうでなくてはならぬと強く言いきかせて、今までずっと、自分を赦さずに生きてきて…自分を赦さずに…自分を赦さずに…自分を…」
ここが、本作で最も重要な台詞である。自分を縛っていたのは自分自身であること、そして父の真意は、「自分自身を赦せ」という意味だったと、スカーレットは気付く。
その瞬間、水滴がスカーレットの顔に落ちる。劇中で初めて雨が降ってくる。キリスト教圏の映画では雨あるいは流れる水は、洗礼式を象徴し、雨のシーンで、それまで隠されていた内心が観客に明かされる。タルコフスキーの『ストーカー』『ノスタルジア』では雨とともに内心が暴露され、バーホーベンの『氷の微笑』ではシャロン・ストーン演じるキャサリンは水の近くにいる時だけ真実を語り、そうでない時は嘘を語っていた。P.T.アンダーソンの『マグノリア』では他に類を見ない衝撃的な雨のシーンで、一斉に過去の後悔などが語られた。
本作ではここで劇中初めて、亡霊の父が現れる。「私のために復讐など、馬鹿げたことはやめなさい。憎しみに囚われ、誰かを恨み続けるより、本当はもっと別に、君が望んでいる君がいるはずだ。君の人生を大切に生きて欲しい。君らしくのびのび輝いて欲しい」 と言い残す父王アムレット。父王からの赦しによって、復讐から解放される。この構図は、元の『ハムレット』と完全に逆になっている。
(スカー2a) 水から出でて救済される「オフィーリア」役。
『ハムレット』の悲劇のヒロイン。父宰相ポローニアスの指示に従う。王子の演技に傷つき、誤って王子に殺された父への悲しみから入水自殺する。父と妹を失った兄レアティーズは敵討ちを誓う。悲劇の連鎖だ。

口が開いているのは、オフィーリアは入水したこの時に至ってもまだ歌っているからだ。美しくも哀しく恐ろしい場面であり、この絵は後世に大きな影響を与えた。本作もそのひとつ。
逆に、本作では、水中からの復帰をスカーレットは繰り返す。ここでも『ハムレット』が反転している。
死者の国に落ちてすぐ、スカーレットは仰向けに血の沼地に沈む。だが老婆(cv:白石佳代子)に煽られ、復讐を動機に、死者たちを跳ね飛ばして起き上がる。
終盤には、見果てぬ場所への階段を登りきったところで、ずっと死者の国の空に見えていた海に出る。そこから(産卵するウミガメとともに)陸に上がり、産道めいた植物のトンネルを抜けて、固く閉ざされた門の前に立つ。露骨なほど、羊水と子宮の暗喩だ。
さらに城に戻る復活シーンなどは、まるで出産のような演出になっている。ひっひっふー。
この上昇し、水を潜り抜け、胎内から生まれ出るイメージは、ダンテの『神曲』煉獄篇とも重なる。煉獄篇の山は、上昇空間であり、天の入り口に向かう狭い道である。クライマックスでは罪の記憶が消えるレーテ川、善の記憶が強められるエウノエ川が登場し、これらを通過して洗浄されたダンテは、エデンで新しい人(novus homo)として誕生する。

煉獄山頂からさらに階段を登った先に、海の下面。
海の上面を抜けると、やっと青空が広がる。
(スカー2b) 悲劇の見届け人としてではなく、自ら救済する「ホレイシオ」役。
『ハムレット』では、最後まで見届け、ハムレット王子の遺言に従い悲劇を言い伝えるのが、ホレイシオ(ホレイショー)の役割だ。
「事情を知らぬ世間の人々にどのようにしてこのことが起きたのか、語りたい。そうすれば、あなたがたは知るだろう。肉欲にまみれた、血なまぐさい、異常な行動を、不慮の天罰を、思わぬ殺人を、窮余の一策で巧妙に仕組まれた死を、そして、すべての結果として、手はずの狂った陰謀が仕掛けた者たちにふりかかる様を。これらすべてをわたしは真実をもって語ろう。」
一方、本作では、主人公スカーレット自身が生き残って「彼女しか知らない未来の英雄=聖」の理想を語り継ぐ。これまた見事な反転だ。
その責任の果たし方は、最後に人類史全体へと昇華される。
(スカー3a) 聖からの赦しで救済される「マグダラのマリア」役。
ここが、本作を読み解く上で『ハムレット』以上に重要なポイントになる。
聖書では、蔑まれていた女性マグダラのマリアが、悔悛(metanoia)によって救済され、使徒一行に加わる。キリストの処刑を見届け、復活の最初の証人となるのも彼女だ。

キリストの母、聖母マリアが篤く信仰されたのに対し、13人目の使徒とも、キリストの妻とも言われながら、こちら、もう一人のマリアは、聖母マリアほどの扱いは受けなかった(ちなみに、そこから陰謀論に持って行ったのが『ダ・ヴィンチ・コード』)。
長髪によってキリストの足を拭いた、名のない罪深い女と後世同一視され、キリスト教美術では「長髪=マグダラのマリアの記号」とされるようになった。
一方、本作では、父王の没後スカーレットが、蔑まれ侮られ、長髪を引っ掴まれ、踏みにじられてきたことが描写され、マグダラのマリアとしての役割をひそかに負わされている。こうした、アニメにキリスト教的象徴を編み込む手法は、細田自身が橋本カツヨ名義で絵コンテを切った『少女革命ウテナ』を想起させる。
老婆に導かれ、聖と出会い、キャラバンと交流し、旅を続ける中で、復讐と暴力に凝り固まっていたスカーレットは、変容し始める。これがマグダラのマリアとしての悔悛である。
さらに、1.墓掘り人の手を借りて古い自分を埋葬し、2.奇跡が現実になった時代の渋谷を幻視することで、スカーレットは自ら、3.長髪を切り落とし、次の段階の役割へ進む。
この不可思議で奇妙キテレツな手順を、『神曲』煉獄篇 第9~33歌と比較して検討することもできるが、実際には『神曲』よりも、より普遍的な人類共通の根拠に基づいて作劇されているので、ここではそちらに沿って説明しよう。
文化人類学者ファン・ヘネップやターナーは世界中の民俗文化を分析し、3段階からなる、典型的かつ普遍的な通過儀礼(rite of passage, initiation)のパターンを見出した。すなわち;
共同体や日常からの分離。ここでは象徴的死。すなわち、墓掘りによって、スカーレット自身が埋葬される。墓掘りのシーンの前から、カメラが本作で唯一、ティルト、つまり縦に動いていることに注意しよう。夢の中(つまり夢の中の夢)でスカーレットは水面に立つ。水面を覗き込み、水中に飛び込むと同時に衣装が花のドレスに変わる。さらに降りて行くと死者の国の地面に空いた大穴が見え、その底に墓掘りたちが居る。ここまでずっと長いティルトダウンのカメラワークで、自己への沈潜であることを印象付けている。棺に入る手前に、長い予告があったわけだ。
宙吊り状態の過渡期・境界線上=リミナルな状態。ここでは幻視。すなわち、渋谷のどこか空虚さを感じる駅前風景の中で、フェスか盆踊りめいたダンスが展開する。不自然で人工的でシュールな空間における、白昼夢のような祝祭。それがまさに通過儀礼の第2段階として必要とされた、リミナル空間の意味だ。17万人がシェアしたリミナル空間写真集の不自然さ・不気味さ・人工感は、本作の渋谷の風景と重なる。あの渋谷ダンスは、意味不明でサイケデリックな不思議空間で繰り広げられなくてはならず、見当識を喪失した、地に足のついていない感じのまま踊っていることこそが、薬物を用いずにトリップすることが、スカーレットの成長には重要だったのだ。なお、このシーンはミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』のオマージュになっている。エマ・ストーンとドレスの色も同じだ。
新しい自己による帰還・統合。ここでは聖との会話と断髪。すなわち、長髪(マグダラのマリアを示す記号)を切り捨て別人格になる。通過儀礼は完了し、これ以降のスカーレットは次のキリスト役を担う。

この空間版「不気味の谷」現象は、近年注目を集めている。
実際、仏教の悟り譚にも、1.無我、2.悟り、3.衆生済度、という通過儀礼に似た3段階構造がしばしば見られる。
イスラーム神秘主義(スーフィズム)では、ファナー(自己の消滅)とバカー(再存)という2つの重要な状態があり、しばしば「自己の死 → 神的な啓示の体験 → 新しい自己としての再生」という3段階に読める構造を持つと解釈されてきた。

なお、本作で、ふたりの別れのシーンはこの絵を全く逆の形で描き直す。復活直後ではなく直前であり、キリストとして復活するのは女性側=スカーレットの役割となる。逆にキリストとしての役割を渡し終えた聖は、脇腹のキズによって息絶え、虚無になることになる。
(スカー3b) 聖に代わって復活し救済する、救世主「イエス・キリスト」役。
中盤以降、3段階の通過儀礼を経て、スカーレットは聖の考えを受け容れ、言わば聖の教えに帰依し、聖を愛し、イエス・キリスト役に同一化していく。少女を救い、父の遺言を聞かされて、叔父王を赦そうとする。

「私、ホントはお姫様に生まれたかったなあ。あなたもそうよね、そうでしょ? もし私がお姫様だったら、したいことがあるの」「…何?」「私たちみたいな子どもが、死なない世界にする」
スカーレットは金貨と引き換えに、少女から髪の色と同じスカーレット(緋色)のスカーフを受け取り、首に結んでもらう。切断した長髪の代わりであり、また少女の希望との契約でもある。
山頂でポローニアスの剣を掴んだ時、スカーレットは右手にキズを負う。聖書では、手のキズは「キリストが十字架にかけられた際の釘跡」「正義と審判」を象徴する聖痕(stigmata, stigma)であり、これは決して完治しない。
なお、Scarlet から Hamlet の -let を取り除くと、残るのはキズ、キズ跡、ヒビ割れを意味するScar だ。ちなみに、同じくハムレット翻案映画である『ライオンキング』では、叔父王の名がクローディアスに代わってスカー(Scar)だった。ハガレンにもいたよね、スカー。

スカーレットは審判の最後になって、赦しの理由を、第三者に、過去と未来に見つける。「あなたを赦せたわけじゃない。赦せるわけがない。だけど、もう止める。争いが終わるように願った、全ての人々のために。それで未来の人たちが、仲良く平和に暮らせるかもしれないのなら」
未来のために行動を変える。これは細田の独立後初監督作品『時をかける少女』と同じだ。他者と歴史を知ることで、未来につながる自己を得る。
そしてスカーレットは、聖の遺志を継ぎ、キリスト役を引き継いで現世へ「復活」する。
ここで奇妙な描写が挟まる。スカーレットは毒を盛られ、解毒剤で助かるまで眠っていただけのはずだが、復活後も髪は短いままで、右手には聖痕が残っている。夢のような体験の中の出来事が、現実にフィードバックしている。
これはジャン・コクトー『オルフェ』と同型の、いわゆるドリームロジックであり、夢の経験が、なぜか現実側に刻印されている。『千と千尋の神隠し』では髪留めを夢から持ち帰っていた。通過儀礼に関して触れた人類学者ターナーは、こうした現象についても「リミナルな状態」で説明している。
――勘の良い方なら、もうお気づきだろうか? 何と、スカーレットは3段階の通過儀礼を二重に行っているのである。
共同体や日常からの分離。本作全体で見ると毒による仮死状態。すなわち、叔父王に毒を盛られ、スカーレット自身が死の淵をさまよう。
宙吊り状態の過渡期・境界線上の=リミナルな状態。本作全体で見ると死者の国。すなわち、何もかもが不条理な世界で、スカーレットは戦いと愛と赦しを経験する。渋谷ダンスをしのぐ、不自然で人工的でシュールな空間におけるスペクタクル。地に足のついていない感じのまま、非日常的で理不尽な世界をスカーレットは旅した。その中には、前述した3段階の通過儀礼が、箱の中に入った箱のように内包されている。
新しい自己による帰還・統合。本作全体では、聖との別れと現世への帰還。日本語においては「黄泉の国から帰る」からこその、ヨミガエル(蘇る、甦る)。通過儀礼は完了し、これ以降のスカーレットは1層下に降りて、新しい女王役を担う。

そして取りも直さず、本作という斬新奇抜な映画の体験は、観客であるわれわれ自身にとって、リミナルな空間となっている。
なお、それぞれ現世でのシーンは平面作画で、死者の国では3Dモデリング・リギングでアニメーションしていることに注意しよう。同じ演説シーンでも、クローディアスが煉獄山の城で演説する時は3D、スカーレットがエルシノア城で演説する時はすべて2D作画になっている(キャラバンの面々のみ平面作画)。デジタル空間を表現していた『サマーウォーズ』のOZ、『竜とそばかすの姫』の〈U〉同様の手法切り替えになっている。
(スカー4a) 毒母を赦免する、デンマーク王国の「新しい女王」役。
『ハムレット』では王子も、叔父王も、継母王妃もみな死に、全滅して終わる。
一方、本作では、父と聖によって救済された後、スカーレットは復活し、デンマーク王国の女王となる。城の広間に臣下の声が響く。「新しい女王に栄光あれ!」
叔父王クローディアスの台詞から、継母王妃ガートルード(cv:斉藤由貴)こそが反乱の首謀者であることがほのめかされるが、叫んで退場する継母を、スカーレットは穏やかに見送り、復讐しようとしない。

(スカー4b) 民衆に統治を赦され、世界を救済する「民主的・社会契約的リーダー」役。
デンマーク王国の女王で終わるのかと思いきや、最後のシーンでは明らかに王国の情景・常識的な人数ではなくなっている。スカーレットは民衆から最初女王と呼ばれるが、対話が進むうちに、最後は「リーダー」と呼ばれる。
スカーレットはいきなり民衆から問われる。「新しい女王様、前の王様みたいに私たちを苦しめないと約束してくれますか。」「貧しい者だけバカを見るのは、もうごめんだ!」「そうだ!」
スカーレットは世界の民衆に公約を提示し、社会契約を呼び掛ける。彼女は、宗教や奇跡に頼らない。衣装は17世紀のままだが、実はこのシーンの時代設定は現代社会を表しているのである。そのため、誰ひとりとして定番の「God save the Queen.(神よ女王陛下を救いたまえ→女王陛下万歳)」を言わない。「神が救ってくれる」という期待は、スカーレット側にも、民衆にも、どこにもない。神に替えて、契約と法が、社会を成立させる。
「みなさん、もし私をこれからの国の責任を担う者として選んでくださるなら、みなさんの幸せのため、最善を尽くし、奉仕します。」
「子どもは絶対死なせない。」
「たとえ苦しみながらでも、藻搔きながらでも、もう争わないで済む道を、諦めないで探し続けることを約束します。」
「これまで争いがなくなるように願って亡くなった、すべての人のために、これから幸せを願って生まれてくる、すべての人のために。」
懐疑の問いかけ「本当に争いが無くなる世界がやってきますか?」には、 「はい、あなたが賛同して協力してくれたなら。」と返す。契約の対価は、各個人の賛同・協力なのである。
民衆は少しずつ同意し、「新しいリーダーに栄光あれ!」と叫ぶ。
つまり本作は、民衆の願いと、リーダーへの赦しと法への信頼回復の物語でもあったことが明かされている。民衆の声は、キャラバンと同様、豪華声優陣が当てている。単なるモブではなく、隠れた主役陣である。アニメファン各位は、ここを聞き逃さないように。
初見では不可解なラストシーンだが、四重構造さえわかっていれば、なるほどそう来たか、という展開だ。
ヒロイン、聖(cv:岡田将生)の4つの役割。
聖には『ハムレット』成分が薄い。そのため、多くの方が初見では最も有名な戯曲『ハムレット』に現代日本人がひとり挿入されたと理解するだろう。しかしそれはミスリーディングな罠だ。本作はスコセッシの『シャッターアイランド』のように、混乱と欺瞞が仕込まれていて、観客を戸惑わせる。
実際には、聖書という、人類史上最も有名な物語へ、最も有名な戯曲『ハムレット』が挿入されている。
スカーレットと聖、2人分の身体のキズ=聖痕が合わさって、キリストの身体になる。これは、古い救済である宗教(=聖)と、新しい救済である社会契約~民主主義(=スカーレット)が、連続していることを示唆している。
(聖1) 救済しも救済されもしない現代的「超いいこちゃん」役。
死者の国に来たばかりのスカーレットは、修行しても悪役に騙されてしまう。現世の最後で、うっかり自分も毒を飲まされてしまったように、「いいこちゃん」が抜けていない。
だが、より純真無垢な21世紀出身「超いいこちゃん」である聖を対置すると、17世紀出身のスカーレットは、それなりにスレていて、現実主義者で、聖より戦えることが示される。聖から見ればスカーレットは十分に「猛獣」なのだ。

このように、スカーレットの成長は常に、現代的な理性と倫理の象徴である聖を鏡として、段階的に確認されてゆく。聖自身も、そんなスカーレットから影響を受けていく。
岡田将生の抑制的な演技が、死者の国でたった独りの21世紀出身者、理想主義者として浮いている、聖のポジションを裏付けている。岡田はゴドウィン演出版の舞台でハムレット王子役を好演していたが、ヒロインポジションでオファーされるとは予想していなかったのではないか。
一体なぜ、そして何者が、聖だけを、17世紀より後の時代から呼び出したのか、それは劇中明かされない。しかし、本作の細やかな演出と、ストーリーのヒビ割れを通して垣間見える四重構造から論を立てて行けば、自ずと犯人が推定できるようになっている。
聖は中盤まで、細田作品によくある驚き屋 兼 鑑定役として機能する。『サマーウォーズ』で言う佐久間だ。
(聖2) 歌とリュートで王女を癒す「オフィーリア」役。
『ハムレット』のオフィーリアは、父が王子に殺されて錯乱し、歌いながら、舞台をさ迷い歩き、そして歌いながら自殺する。オフィーリアの歌は誰も何も救わない。救済の不在の象徴とも言える。
一方本作では、歌はオフィーリア役とキリスト役が担う。出会う前から、聖の鼻歌が聴こえてくる。初見ではわからないが、これはあの祝祭の歌だ。
出会った途端に「寺へ行け」と言われ、リュートをキャラバンで習い、演奏し、受け取る。この時点での聖は受動的である。
癒しに関してはプロであっても、歌と音楽に関してはアマチュアの聖。しかし、その聖の歌と音楽の力が、やがてスカーレットを救う。オフィーリアの別の側面もまた、もうひとりの主人公聖によって反転されている。

(聖3) キズを癒やし希望蒔く、奇跡の預言者「イエス・キリスト」役。
聖は、治癒と傾聴を優先することで、不信で固まった死者の国の人々の心と身体を解きほぐし、平和主義、理想主義、無償の愛で、少しずつ仲間にしていく。21世紀におけるプロによる日常的な看護・介護は、17世紀基準の死者の国では「癒しの奇跡」に他ならない。
ついには、叔父王の送り込んだ刺客、コーネリウスとヴォルティマンドまで、味方につけてしまうことになる(――と思えるが、実は別にもうひとつ解釈がありえる。これについては後述しよう)。
拳の刺客コーネリウスに対して聖は、直接射るか迷った末、発射直前に弓を上方に向け、警告のかぶら矢で注意を逸らしている。その隙を突いてスカーレットはコーネリウスに勝利するが、聖は治療し杖を与える。
ふたりは崩れた古代の教会を訪れ、床のタイル造りの地図から目的地である煉獄山(仮称。名前は劇中示されない)の場所を知る。実に見事な美術。ここで地図上の山が、手を模している点も興味深い。



銃の刺客ヴォルティマンドに対しては、自ら身をさらし、庇ったスカーレットが左肩を撃たれる。ドラゴンが上空からヴォルティマンドたちを威圧する中、聖はスカーレットの銃創を手当てし、スカーレットは劇中で初めて、女性として恥じらう。
左肩のキズは、キリスト教において「十字架の重荷」「家族や歴史から強制的に背負わされた使命」を象徴する聖痕である。

盗賊が虚無になったのを見て、聖はつぶやく。「職場でよく言われた。看護士だったら人が死ぬのに慣れて行かないと仕事にならない。いちいち悲しんでいたらきりが無いって。でも、死ぬのに慣れて心が麻痺したら、きっと別の何かを失う」この台詞は、現実主義に対する疑義であり、同時に死者の国における虚無の説明にもなっている。祝祭の歌で言う所の「私が生きる意味を なくしてしまう前に」だ。
この重要な台詞が告げられたその瞬間、聖の通過儀礼が始まる。後に控えたスカーレット同様、3段階からなる通過儀礼である。

共同体や日常からの分離。やはり象徴的な死。聖は白昼夢の中で、現世の病院の集中治療室で、昏睡状態になっている自分をまるで他人のように見る。奇妙なことに日中であるにもかかわらず、病院は外来待合を含めて、人影はまったくない。室内にはニュースと、祝祭の歌が流れているが、やがてすべての音が途絶える。人工的で不自然な空間としての性質は、第2段階からこの1段階へズラされている。スカーレットの体験との対称関係を、それと気づかせないようにするための偽装、監督の意図的ミスリーディングだ。
宙吊り状態の過渡期・境界線上の=リミナルな状態。キャラバンに合流した聖とスカーレット。聖にとって慣れぬ異空間の中で看護士として働くうち、聖はこの世界の食べ物を受け取り、古代フラダンスに押し出される。「下手くそだな」笑われながら必死に踊る聖。これが聖にとって、渋谷ダンスの替わりのリミナル空間となる。
新しい自己による帰還・統合。夜空を眺めていた聖は、星空の中に異なる動きを見せる天体を見つける。ひとつだけ斜め左上へ昇って行く光。そこから聖は、自分とスカーレットの運命がこの後分かれていくであろうことを予感する。聖書の中の「光のしるし」を重ねずにはいられない場面だ。キリストは啓示を受け、周囲に別れの時が近づいていることを告げる。「人の子は上げられなければならない」「光のあるうちに、歩きなさい」(ヨハネ福音書 12章)。通過儀礼は完了し、これによって聖は次の、暴力と犠牲を引き受ける英雄的生贄へと転換を遂げる。

自分の運命を悟った聖は、「戦わず歌う救世主」という役割を離れる。
聖は、未来はもっと良いものだとスカーレットに「預言」する。通過儀礼の中で渋谷ダンスを幻視したスカーレットと語り合い、王女を救済する。「泣くなスカーレット。俺がそばに居る」明らかに2人の関係が恋愛っぽく変わってきている。
なぜ毛布の下が裸身なのか、途中省略されてるシーンがありそうだ。通過儀礼を経て変容した聖は、キャラバンでもらったリュートを、市場で弓籠手に交換する。不戦の誓いが通用しないことを知り、スカーレットの言う通り「目の前の現実を見る」決意がなされたという演出だ。なお、この店には日本の武者鎧も売られている。
(聖4) 子どもを助けるため、暴力と犠牲を引き受ける「英雄的生贄」役。

『ハムレット』では、巻き添えで不条理に死ぬだけのやられ役2人、ローゼンクランツ(sv:青木崇高)とギルデンスターン(cv:染谷将太)は、本作では重要な役割を果たす。後者の声は、『バケモノの子』で主役を演じ、役所と並んで細田作品に最多の4回登板となる染谷である。
このチョイ役と重要な役の意図的な入れ替えには、『ハムレット』二次創作戯曲の中でも屈指の有名作、その名も『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』という先例がある。noteにあるこちらの書評が大変面白い。同作は映画化もされている。
ロゼ&ギル同様に、他にも重要さを反転させられた特使たちが居る。これは後述しよう。
ちなみに、ミュージカル『ライオンキング』も『ハムレット』をハッピーエンドに変えた二次創作だが、ロゼ&ギル役にあたるティモンとプンバァはより重要な役割に引き上げられている。本作のロゼ&ギルのコミカルな演出は、ティモンとプンバァを彷彿とさせる。ハクナ・マタタ!
聖とロゼ&ギルが対決するこのシーンでは、劇中で最も強烈にダッチ・アングルが使われている。カメラが傾けられ、緊張と切迫感が強調される構図が執拗に繰り返される。
また、ロゼ&ギルの部下に取り押さえられたスカーレットは、磔にされたキリストのように、腕を両側から引っ張られている。
聖は、老婆に「お前は何のためにこの世界へ来た」と問われながら、スカーレットと少女を助けるためやむを得ず、弓と矢で2人を殺す。老婆はここで、聖がルールに違反しないか厳しく監視している。

ギルデンスターンを射殺し、襲ってくるローゼンクランツを迎撃する聖。スカーレットは気づいていないが(観客からも左わき腹を隠している構図)、聖はローゼンクランツから相討ち気味に左の脇腹を刺されている。内臓まで達するこのキズが悪化し、しばらく後に虚無になる。
キリスト役の聖を殺すこの役割に、ローゼンクランツが選ばれた理由は、彼の名ローゼンクランツがドイツ語で「薔薇の花輪」転じて「ロザリオ」を意味するからでもあるだろう。これは十字架の付いた数珠で。キリストの生涯をひとつひとつ追体験する儀式用の道具だ。儀式の最後に、キリストは十字架にかけられその後復活する。
現世の渋谷でも、聖は通り魔から子供を助けるために左の脇腹を刺されている。死者の国のローゼンクランツと、渋谷の通り魔、ダッチ・アングルのまったく同じ構図で、2つの場面が重なる演出。ただし渋谷の聖は両手を広げ制止のポーズ。通り魔へ攻撃はしない。この違いは、死者の国では聖がスカーレットの影響を受けたからだ。
聖書における左の脇腹のキズとは、ご存じの通り、十字架にかけられたキリストがロンギヌスに槍で刺されて死んだ(あるいは一説に死亡確認された)傷口であり、「全人類の罪を代わりに背負った証明」「犠牲と代償」を象徴する、最後の聖痕である。ここは、聖にとってのゴルゴタの丘(キリスト処刑の地。丘とも山とも言われる。本作では煉獄山の中腹)だった。
聖書ではキリストはこれほどの暴力を振るわない。だが、キャンベルの『千の顔を持つ英雄』が解き明かしたように、多くの神話で、1.年上の存在や天から「使命=神命=召命=calling」を受けて、2.目的を確認し、3.英雄として覚醒し、4.神を越える暴力をふるい、5.最後はハッピーエンドではなく報いを受けて亡くなる(つまり結果として、自分を生贄に世界を救う)定番構造がある。
インドではヒンドゥー神話のラーマ、クリシュナ、そして釈迦。ギリシャ神話ではアキレウス、ヘクトール、ペルセウス、オデュッセウスなど、ケルト神話ではクー・フーリン、日本神話では最古の英雄たる日本武尊(ヤマトタケル)伝説が、ほぼ同じ構造を持っている。これもまた人類の普遍的なテーマなのである。
聖は気まぐれで非暴力路線を諦めたのではなく、たった一度、老婆に煽られ、スカーレットと少女(=未来)を守るためにその命を捧げた。
神には成しえない聖性、それが英雄である。この場面は、ドラゴンの落雷よりも重要なシーンであり、映像のあちこち、ひとつひとつの繊細な動作にニュアンスが隠されている。アンテナを上げて凝視しよう。
次のシーンで煉獄山が噴火し始める。飛翔する火山弾。流れ出す溶岩流。聖の左脇腹のキズからの出血の世界的表現だ。本作で最大のヒビ割れ、世界のキズ(scar)である。溶岩が固まった部分は、屍が折り重なったかのように描写され、その隙間からまだ赤熱したマグマが光る。後述するリヒテンベルク図形にも似ている。
スカーレットは聖を支えて歩き始める。ふたりの別れが迫る。

コーネリウス(cv:松重豊)
ヴォルティマンド(cv:吉田鋼太郎)
特使たちの、3つないし4つの役割。
(特使1a) 父王の最期の台詞を娘に伝える「特使」役。
『ハムレット』では、この2人のおっさんはノルウェーから来た外交特使。本来はややチョイ役だ。
一方、本作では宰相ポローニアス(cv:山路和弘)と子レアティーズ(cv:柄本時生)を凌ぐ重要な役。つまりここでも『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』式に、重要度を反転している。
ここに蜷川組でホレイシオ役を何度も演じた松重、そして、キャリア初期から根っからのシェイクスピア俳優で、今や蜷川の後継者であり自ら演出とクローディアス役を演じた吉田をそれぞれ当てていて、特に吉田は、渾身の演技で応えている。すげーよ。
コーネリウスは、叔父王の居場所をスカーレットに伝える。
父王アムレットの公開処刑の場において、2人は父王の最期の言葉を聞いており、ヴォルティマンドはそれをスカーレットに伝える。
2人とも外交官として登場するわけではない。ただ役割はメッセンジャーなので、特使(envoy)ではあると言える。面白い翻案だ。
(特使1b) あるいは「二重スパイ」役。
ただ、ここにもうひとつ検討すべき解釈がある。それは、ふたりが実際に『ハムレット』同様の「隣国から派遣されたノルウェー人」であって、ふたりが最初から、すなわち現世にいた時からスカーレットを助けようとしていた可能性である。
『ハムレット』では、凄惨な殺し合いで全滅したデンマーク王家の宮廷に、ノルウェーのイケイケ王子フォーティンブラスが入城し、ホレイシオから事の顛末を聞き、自分がデンマークを治めることを宣言して終幕する。
しかし、である。もし本作の設定のように――もし王子ではなくスカーレット「王女」が継承権を持っていたなら、叔父王クローディアスがタカ派でノルウェーとの戦争に前向きであったなら、デンマーク王国の運命はどう変わるか? 本作に顔を見せないノルウェーの王子はどのように考え、行動するか? そしてその部下であるコーネリウスとヴォルティマンドはどのような指示を受け取るだろうか?
この可能性を示唆して下さったのは、自分よりもはるかにシェイクスピアに造詣の深い天才🐾文学探偵犬さんである。厚く感謝したい。
この条件下ではおそらく、フォーティンブラス王子はスカーレットに手紙を送り、復讐を煽ってクローディアスを排除、特使2人に二重スパイとしてそれを手伝わせるだろう。排除した後で、自分がスカーレットと政略結婚すれば、ノルウェーとデンマーク王国は同君連合として統一できるからだ。もしこの企みをクローディアスが阻止したことが、スカーレット毒殺の真相だったならば―――。
コーネリウスとヴォルティマンドは、スカーレットとともに殺され、あるいはスカーレット服毒と前後してノルウェー軍とデンマーク軍が開戦、戦いで多くの兵とともに宰相ポローニアス、その子レアティーズ、特使2人が一斉に死亡、結果として死者の国に勢ぞろいしたとしても、何もおかしくないのである。恐るべきシナリオだが、劇中にはそれと整合する事実しかない。こうした読み取りも、十分に可能である。
(特使2) スカーレットと聖、それぞれへの「試練」役。

死者の国に戻ろう。ふたりの刺客は順番にスカーレットたちに襲い掛かる。
コーネリウスは拳と頭突きで、ヴォルティマンドは騎乗ラリアットと銃で、襲ってくる。ただし、父王の最期の言葉に影響された(あるいは最初からスカーレットの隠れた味方であった)ふたりは、何とかしてスカーレットを生け捕りにしようと刃物を使わない。このことは初見で気付きにくい、部下たちはふたりの意図を知らされず、剣で襲い掛かってくるためだ。
一方、主人公側の対応は、ふたりの刺客に対して異なる。
コーネリウスとその部下に対しては、スカーレットは遠慮なく刃物を刺して仕留める。聖は、拾った鏑矢と、スカーレットが倒した部下から得たロングボウでスカーレットを援護しようとするが、敢えて矢を逸らす。
ヴォルティマンドとその部下に対しては、聖はリュートを置いて馬に乗り、王女より先に、単独で停戦交渉を呼び掛けに行く。スカーレットは、その前に襲ってきた部下を含めて、敢えて刃物を使わない。
極端な現実主義者だったスカーレットと極端な理想主義者だった聖が、それぞれ別方向に成長し、互いに歩み寄ったことが、行動の変化として、はっきりと示されている。
ところがドラゴンが現れたために、ヴォルティマンドと部下は遺跡の中に退避し、銃で聖を撃とうとする。銃弾は庇ったスカーレットの左肩に当たってしまう。ドラゴンに威圧される間、一時休戦。その隙に聖はスカーレットの銃創を手当てする。
治療中の親密な会話から、スカーレットは聖が看護師になった動機を知り、聖はスカーレットの中に生きたいという願望を見つける。
コーネリウスとヴォルティマンドとの対決→受傷→治療→和解を通じて、スカーレットと聖は双方大きく成長し、行動を変化させ、互いに接近している。このふたつの戦いは、アクションシーンとして秀逸なだけでなく、非常に濃密な心理描写になっている。まるで黒澤明だ。

(特使3) スカーレットと聖に従い助ける「使徒」役。
聖書ではキリストの弟子、使徒は12人いた。使徒は師であるキリストを信じ従い人生を捧げながらも、試したり煽ったり疑ったり裏切ったりした末、師を失う。最後は各々が布教につとめ、キリストの行為を模倣するように迫害され殉教する。
一方、本作では12人分をこの2人で代替している。使徒ふたりは、山の頂上でポローニアス親子の襲撃から、スカーレットと聖の窮地を救う。

コーネリウスは、主人公たちと戦った時も、ポローニアスを迎え撃った時もずっと拳だけで戦っていたが、最後に一度だけ仕込み杖を抜く。この杖は、聖が治療後に拾って渡した物である。コーネリアスが素手以外で戦うのはこの瞬間だけだ。使徒として、聖の英雄的行為を受け継ぎ、模倣している。
ヴァルティモンドは、主人公たちと戦った時は、聖を銃で狙撃し、降伏後も聖からの握手を拒否する。しかしこの山頂では、レアティーズの銃に槊杖を突っ込んで暴発させ、聖の握手を受け容れる。行動が対置されている。
ポローニアスとレアティーズの親子を倒した後、コーネリウスは「ここまで来たなら復讐を果たせ」とスカーレットを最後に煽り、階段を登らせる。あくまで王との対決と勝利を期待している所は、師キリストが亡くなるまでの使徒たちの姿勢に重なる。

2人の墓掘り(cv:宮野真守・津田健次郎!)は1シーンのみ登場だが、重要な3つの役割。
(墓掘り1) 古代からの冥界降下譚における「門番」役。
ギリシャ神話ではオルフェウス、アエネイス、ヘラクレス、テセウス。シュメールではイナンナ、メソポタミアではイシュタルなどが、死者の国である冥界への旅行(katabasis, catabasis)を行う。古代神話の定番イベントだ。
その再解釈である『神曲』では、作家ダンテ自身が地獄を訪ねる。なお、スカーレットと聖が出会った場所で岩に刻まれていたラテン語「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」は、『神曲』地獄篇からの引用である。ただし、本作が重ねられている煉獄篇とは異なる。
ギリシャ神話ではケルベロスやカロン、シュメールではネティなどの門番役が境界を守る。
日本神話では黄泉比良坂の、千引の石=塞坐黄泉戸大神が門番。
他の神話でも共通して、古い自分を葬る手助けをする者であり、死者の国から生者へ戻るための条件を提示する者の役割だ。
一方、本作では、墓掘りたちは死者の国に掘られた巨大な穴の底に居る。露天掘りの鉱山のような地形になっており、とてもスコップで掘られたようなスケールではない。
墓掘りたちはスカーレットに「あんたが知りたがってるのは」「あんた自身だよ!」と突きつけ、棺桶に葬る。劇中で最も重要な、3段階の通過儀礼の始まりだ。
(墓掘り2) 『ハムレット』における2人の「道化の墓掘り」役。
『ハムレット』でも2人の道化が墓掘りを演じる。歌いながらオフィーリアの墓を掘り、「王でも乞食でも骨になれば同じ」と王子を論破して、身分の無意味さ、死の平等さを自覚させる、喜劇的シーン(コミックリリーフ)だ。続く葬儀の場面で、王子は初めてオフィーリアの死を知る。
一方、本作では、道化の化粧で墓を掘っている。ホラー的シーン。
「アレクサンダーも」「カエサルも」は『ハムレット』ではハムレット王子の台詞。ごく短いシーンだけなのに、2人とも楽しそうに演技していて、強く印象に残る。「あんたが知りたがってた人間さぁ」「人間さぁ」

津田は若い頃、蜷川組に参加。蜷川から「イギリスの若い役者はとにかく早く年をとりたいと考えている。30になったらハムレットができるようになる、40を越えたらマクベスができるようになる。それが、イギリスの役者にとってはカッコいいし、名誉なことなんだ」と聞かされたという。
(墓掘り3) マグダラのマリアが出会う「二人の天使」役。

聖書では、処刑されたキリストの墓を尋ねたマグダラのマリアは、そこで二人の天使を発見、会話した直後に、復活したキリストに出会う。
なお、ダンテの『神曲』煉獄篇における通過儀礼では、守衛たる天使が、白・金・赤の三重の鍵でペテロの門を開ける。
叔父王クローディアス(cv:役所広司)の4つの役割。
圧倒的な演技で本作を支配したクローディアス。声は『バケモノの子』の熊徹役など、細田守作品の常連である役所広司。シェイクスピア俳優としても名高く、本作には並々ならぬ意気込みで取り組んでいる。
(叔父王1) 主人公を追い詰め成長を促す「抑圧的踏み台」役。
『ハムレット』では、兄王を密かに毒殺し、王位を簒奪したクローディアスは、隣国ノルウェーからフォーティンブラス王子の兵が向かっていることを知ると、老ノルウェー王と交渉して和平を結ぶ。王子のノルウェー軍はポーランドへ向かう振りをするが、密かにデンマークへ向かってくる。
一方、本作では、叔父王クローディアスの政治的立場は逆である。兄王を隣国と通じた罪で公開処刑し、隣国(ハムレット的にはノルウェー、この後の現実世界史ではスウェーデン)と戦争に向かっていく。
スカーレット王女視点では、愛する父の憎い仇である。
だが、「いいこちゃん」だった彼女が成長できたのは、叔父王に裏切られ、父王アムレットを殺され、死者の国に落ちたからでもある。そういう意味では、結果的にクローディアスは厳しくスカーレットを育てたとも言える。もともと、16世紀末に女性が大学へ留学して学ぶなど、ほぼありえないような待遇を与えている。
ただしその有り様は、極端に男尊女卑・父権主義的で、辛く強引なものとならざるを得ない。聖や老婆の存在なしでは、スカーレットは壊れてしまっただろう。この強権的父親像は細田の前作『竜とそばかすの姫』に重なる。

(叔父王2) 王妃に唆され「罪を犯した者」役。
『ハムレット』と同様、本作でも兄王を陥れたクローディアス。「私はいつでも、王になる男のもの」と嘯く王妃の姿勢は、『ハムレット』のガートルードというよりは、別のシェイクスピア悲劇『マクベス』の妻を思わせる。
一方、本作のクローディアスは、毒による暗殺ではなく、隣国と共謀した罪を捏造して兄王アムレットを処刑している。
実は、スカーレットの毒殺計画は半ば成功している。「自分だけは毒を盛られないと思うお前は、赤ん坊でなくて何だ?」と言いながら、毒に苦しむスカーレットを見下ろすクローディアスの顔色は、いつの間にか、それまでにない土気色に変わっている(ここは本当にさり気ない演出なので、見逃さないように!)。なお、叔父王に毒杯を渡すのは王女付きの女中で、スカーレットに渡すのは黒い帽子の男性侍従が行っている。
ふたりは同時にお互いに毒を盛り、互いに半死半生の仮死状態になる。このシーンが意図的に描かれない(敢えてのミスリーディング)ために、この映画はひどく難解で、謎めいたものになっている。スカーレットが死者の国に着いた当初、老婆もこの世界にクローディアスが居る理由を敢えて語らず、スルーしている。それは、後述するように老婆は目的をはっきり別に持っているからだ。
見果てぬ場所近くの城で、大戦闘団を組織してガートルードが来るのを待つクローディアス。

(叔父王3) 殺人・簒奪より重い罪人「偽りの悔悛者」役。
聖書では「偽りの悔悛」を殺人・姦淫・簒奪などよりも重く、救済不能に陥る大罪と位置づける。
それは、本作のメインテーマであり、キリスト教の中心教義である「赦し」の悪用そのものだからだ。偽りの悔悛を赦せば、すべての赦しそのものが茶番と化し、意味を失ってしまいかねない。赦しシステムのセキュリティホールとも言える。
なお、ギリシャ悲劇やユダヤ教のタルムード、イスラム教のシャリーア、大乗仏教などでも、同様の概念がそれぞれ重い罪として位置づけられている。
一方、本作では終盤、見果てぬ場所の門の前(暗喩的には子宮口)で、叔父王は「懺悔するしかないか」「今さら間に合うのか」と悩み、ひざまづく。「懺悔、やるしかない、懺悔を」「罪深き我を助けたまえ」「見果てぬ場所に憧れる、多くの哀しき者のために、我は力を尽くしてきた。そんな我を助けたまえ」―――ここで鳥が一斉に飛び立つ。

叔父王の背後で処刑の姿勢を取っていたスカーレットは、この懺悔を受け容れ、復讐を捨てる。ヴォルティマンドから伝え聞いた父の最期の台詞を信じて、彼女は劇中はじめて、叔父王を「おじさん」と呼び、笑顔を向ける。
ところがこれは偽りの悔悛であった。スカーレットは激怒する。「あなたのような欲にまみれたおぞましい心の持ち主がなぜここにいる? 人の願いを平気で踏みにじるようなあなたが、どうして見果てぬ場所に行きたいなんて望める? そんなあなたに父がどれだけ苦しめられたか。どれだけ無念だったか。何千分の一でもわからせてやろうか! わからせてやろうかぁ!」
叔父王をめぐる一連の描写、なかんずくこの台詞から、『ハウル』騒動当時の細田守自身の心情を読み取ることは簡単だ。しかし本解説では五層目の救済に触れることは敢えてしない。批評と作品読解を豊かにしないからだ。だが何度も父の声が響く。「赦せ!」苦しむスカーレット。やがて父の真意を悟った彼女は、怒りを残したまま復讐を放棄するが、クローディアスは開き直って、ここぞとばかり反撃に出ようとする。「よく聞け。ここはお前のような負け犬の娘が来る場所じゃない。見果てぬ場所は私だけのものだ。他の誰も入れない。私と王妃だけが、この門の向こうに行けるのだ。虚無へ落ちろ! 惨めな父親の後を追え!」
審判の結論は出た。ドラゴンが出現する。これまでの樹枝状に分岐する雷と違い、一点へ集中する雷が、しかも二度もクローディアスに落ちる。「死にたくない、ガートルード…」譫妄状態に陥ったクローディアスはスカーレットをガートルードと取り違えて縋る。雨が止む。

臨終のクローディアスの作画も凄まじい力作。本作の見せ場のひとつだ。
これまでの罪の処罰とは異なった演出になっていることに注意しよう。叔父王への裁きは、復讐の代行ではなく、「偽りの悔悛=赦しの悪用」に対する処罰だった、という点は本作の最重要ポイントである。ここを外すと、結局は復讐できたんだね、という頓珍漢な受け止め方になる。
なおクローディアスは、兄王の処刑に際してこう演説している。「民よ、裏切り者には罰を与えなければならない。それが果たされた時、神は我を新しい王に選ぶだろう」この台詞は、最後に自分へ帰って来る。
(叔父王4) 世界を不安定化する「怯える権力者」役。
クローディアスは、煉獄山の城の玉座で赤い鎧の胸に手を当ててつぶやく。「この胸はサソリで一杯だ」この台詞、実は『ハムレット』ではなく『マクベス』の台詞である。
マクベスもまた、妻に唆されて先王を暗殺し王位に就くが、重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐に倒れる。
偽りの悔悛直後のクローディアスは叫ぶ。「ほかの奴らなんぞ連れて行って何の得がある? 見果てぬ場所は私だけのものだ! 誰にも渡してたまるものか!」現代社会の権力者も、荒れ野に隠れ場所を探す。911テロ直後のビンラディンの隠れ家も、習近平がミサイル基地とシェルターを隠すのも、ビリオネアが別荘を作るのも、砂漠地帯だ。本作で死者の国と呼ばれる、厳しい環境の砂漠こそ、孤独な権力者にとっては「他の人間が寄り付かない」から、自分だけが安全と見なせるのである。
独裁者ほど怖がりで、だからこそ、逆に恐ろしい粛正や無謀な戦争へと突き進む。ヒトラーはベルリンの地下壕で常に怯え、恐怖に震えていた。安全のため寝室を複数それも頑丈に造らせたスターリンは、その中で倒れたために治療が遅れて死んだ。
独裁者の孤独で暗くおぞましい炎を、本作のクローディアスはしっかり魅せてくれる。

老婆(cv:白石佳代子)=ドラゴンの4つの役割。
(老婆1) 異世界を創り、誤解させ物語にヒビを入れ、冷徹に監視する「審判者」役。
【第一の謎】老婆の説明は信頼できるか?
本作で最も謎めいた人物が、老婆である。彼女はヒントを出し続ける。ただし、彼女の言動には、ほとんど常に、巧みなミスリーディングが混ぜ入れられている。嘘は言わないが、わかりやすい真実は、決して提示しない。
老婆の存在は、ストーリーにわざと瑕疵を、ヒビ割れ、傷口をつくり、観客を戸惑わせる。そのヒビから下層にある真実を、観客が慎重に取り出さなければならないのだ。老婆の言う台詞を、「嘘ではないが、直球でもない」ものとして受け取るように注意すると、本作の意味不明な部分、支離滅裂に思えていた部分に、光が当たり始める。

老婆のコロコロ変わる髪型や装いは、ディテールからいずれもドラゴンの化身であると匂わせつつ、老婆の中にも3種類のキャラデザ違い(ゲームのグラフィックで言う3Pカラー)があることを示している。
これは明らかに『マクベス』の魔女三姉妹が意識されている。マクベスの魔女たちは、厳密には嘘ではないが、誤解を誘う予言を与えてマクベスの人生を翻弄する。ひとりの魔女が3つの姿をとっているのか、3人の魔女が交代して表れているのかはここでは問題でない。
彼女らが映画論でいう「信頼できない語り手」であることが重要だ。

冒頭で、古いローマ兵の鎧の中から老婆の声が問いかける。「ここをどこだと思ってるんだい? ここはね…」スカーレットは老婆の声を遮って、食い気味に「死者の国」と答え、そのまま「そう、私は死んだ。憎き仇への復讐に失敗して、死んだ」と独白する。
このわずかな台詞の中に、なんと事実誤認が3つもある。終盤になって老婆は言う。「人間はいまだにここを、死者の国だの見果てぬ場所だのと勝手に呼んでおるが、大きな間違いだ」「ここに、ふたりのうち、たったひとり、死んでないものが紛れておる」もちろん、クローディアスや部下はちゃんと死者の国に来ていて、言わば復讐は成功している。
スカーレットとわれわれ観客は、最初から老婆の引っかけ問題に釣られていたのだ。
【第二の謎】死者の国でなければ、この世界は何なのか?
老婆は「ここは生も死も混じり合う場所」「時もまた然り、ここでは過去も未来も常に溶け合っている」という台詞を、劇中それぞれ別の場面で、三度も繰り返す。おそらく、三人の魔女が順番に語っているのだろう。少しずつ白石の演技も切り替わっている。
これをストレートに受け取れば、生者と死者が一定の比率で入り混じって存在する場所であり、例えば過去ならネアンデルタール人、未来なら30世紀人も含めて、すべての時代の人々が均等に、数多く存在している場所を意味するのだ、と理解するだろう。
実際この後、聖と古戦場で出会ったスカーレットは「みんな一律にここに来てしまう」と自分なりの解釈を聖に与えている。われわれ観客も初見時、その説明を当然に受け容れる。
ところが、これも全くのミスリーディングだ。この世界では、生と死、過去と未来が、均等に混じっているわけでは全然ない。それどころか実態は限りなく真逆に近い。そのことに、スカーレットも、観客も気づかないよう、序盤でミスリーディングが仕掛けられていた。
具体的には、死者の中に混じっている生者は、仮死状態のスカーレットと叔父王の2人だけ、過去の中に混じっている未来は聖1人だけである。この隠された対照を見抜くと、死者の国の意味が一気に明快になる。

にしても、初見は戸惑うよね、カフェラテだと思って飲んだら実はマキアートなんだもん。嘘はついてないが、ほぼ嘘だろこんなん。ばあちゃんマジずるいって。
また、過去と言っても、過去すべての期間ではない。死者の国の人々の衣装や装備を見れば明らかだ。最古の装備がローマ兵のもので、最新の装備である大砲は前装式の青銅砲。つまり過去とは、新訳聖書~『ハムレット』の約16世紀間を指しており、しかもその両極端に近い時代ほど極端に多いことがわかる。なぜこの期間なのかは、ハムレットと聖書のイメージを繰り返し参照してきた本稿読者には自明だろう(ちなみに『神曲』では、紀元前の死者は別口で辺獄に送られてしまう)。
なお民族・地域はかなり広範である。欧州、中東、アフリカ、アジア、南北米先住民(色黒だが顔つきがモンゴロイド系)、ハワイ系も見える。当時の世界人口比率どおりなら、約60%がアジア系、約10%がサブサハラ系となるべきだから、死者の国に来ているのはデンマークあるいは中東に近い地域ほど多く、遠い地域ほど少ない設定になっているのだろう。
なお、アジア系(日本人?)と思しき僧兵集団が良い味を出している。ハムレット』の時代は、日本では戦国時代の終わり頃、関ヶ原の合戦に当たる。その直前、比叡山で信長に焼き討ちにされた僧兵たちなのかな。近年の歴史研究に沿った僧兵のいで立ちがニクい。@doujinandsound1さんに指摘されて気づいたが、合戦では彼らのひとりが先頭に立って武器を持たず、盾だけを手に突撃し、矢に倒れる。聖の治療も甲斐なく、僧兵は虚無になる。このシーンは宗教や理想論の無力さを暗示し、聖に英雄的生贄への転換を求めている。だからこそ聖はローゼンクランツと矢で対峙する。
つまり、死者の国とは、万人が例外なく来る共有地ではなく、むしろ例外のための場所であり、スカーレットのためにカスタマイズ生成された「主観的な煉獄」なのだ。
特にスカーレットの場合は、『ハムレット』世界だけでなく聖書のマグダラのマリア&キリストを重ねるために、1世紀の文化(ローマ兵)と、キリスト的存在=聖を混入させたのだろう。
老婆自身は「死者の国」という名も人々が勝手に呼んでいるだけと突き放し、『神曲』の煉獄という名も、決して出さない。キリスト教の枠組みに留まらず、人類の普遍的な集合意識を老婆は象徴している。例えば敬虔な仏教徒のためには仏典に沿った空間を、老婆は生成するのではないか。
【第三の謎】老婆の目的とは?
冒頭、絶望して血の海に沈むスカーレットが、クローディアスの名前を出すと、老婆は背を向けたまま言う。「待て、その男ならまだここにいる。まだ虚無にならずにどこかで笑っておるわ」と、スカーレットにさらなる復讐を煽るかのように振舞う。
この説明にスカーレットは疑問を覚えない。つまり、スカーレット自身は叔父王一派が仮死ないし死亡状態に陥っていることを、すでに承知している。しかし、われわれ観客にはそれをできるだけ気づかせないようにしている。ここもミスリーディングな演出だ。敏感な方は、このヒビ割れに引っかかってモヤモヤされただろうと同情する。自分は2回目でやっと気づいた。
老婆はさらに問う。「生きるとは何だ? 死ぬとは?」実は、老婆の真の目的は、同時に互いに毒を盛り、半死半生に陥っているふたりのうち、どちらを現世に戻すべきか、どちらがデンマーク王に相応しいか、審判することにある。老婆は、宗教的な神というよりも法そのものを擬人化した、審判者である。
なお、「仮死状態になった少女の復活、その間の恋人の死、それを見守る老人」という三者の構図は、シェイクスピアの別の有名悲劇『ロミオとジュリエット』も思わせる。
死者の国で騙されて包囲されたスカーレットを救出するために、老婆は崖の上から鼻糞をひとつ落とし、その爆発と煙幕でスカーレットを逃がす。ここでもまた、雷を落とすドラゴンと同一存在であることを示唆している。細田演出の発想は豊かだ。
このシーンは、老婆が王女を守っているように見える。初見では、味方に見えるだろう。ところが、それもミスリーディングで、老婆は王女・叔父王の両者を泳がせ、執行猶予しながら監視しているのである。「人間とは何だ? 生きるとは? 死ぬとは?」ずいぶん意地悪な、保護観察官だ。
老婆の監視は、本来17世紀人の死者の国に居るはずのない異物、21世紀から自分が特別に目を付けて連れてきた聖にも、向けられている。
なぜ聖が未来からたったひとり選ばれ連れて来られたかと言えば、老婆にとって、スカーレットとクローディアスに対する選定・審判・救済に必要だったから。そして、神の子イエス・キリストに最も近い精神性を持っていたからだろう。
現代社会でも聖は異端児だった。渋谷の雑踏の中、血のしたたるナイフを持った通り魔に、立ちはだかったのはたった一人、聖だけだったのだから。老婆はその異端さに目を付けたのだろう。
(老婆2) 復讐から降りた人々に代わって裁く「ドラゴンの雷」役。
『ハムレット』は、復讐が誰も予期しない結果を招き、多くの人物が死んでいく悲劇。
一方、本作では復讐から降りた人々がいる分、悪人がのさばったままとなる。
そのため、代わりに取り締まるべくドラゴンが定期的に巡回している。例えば盗みを犯した盗賊は、空を飛ぶドラゴンから雷を落とされて虚無になる。これは法の統治を象徴している。

その正体は、ハナクソばあちゃん。

アニメーション史上最高の落雷表現である。庵野ならこのシーンに一番食いつきそう。
(老婆3) 王の契約履行と謙遜を求める「荊の冠=王冠」役。
ドラゴンの雷に打たれた罪人には、最終盤のクローディアスのように、落雷被害者の皮膚に残る、樹枝状の赤い電紋、リヒテンベルク図形が表れる。ここでもまたキズ(scar)である。
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』では、兄弟子・獪岳から血気術と雷の呼吸のコンボを受けた我妻善逸に赤いヒビ割れが発症していたが、あれも電紋にヒントを得たものだ。
実は、冒頭の死者の国空撮で見える赤い河川模様もリヒテンベルク図形そのものだった。死者の国の大地もまた、感電し傷口から血を流し、ヒビ割れていたわけだ。

枝状・棘状のフラクタルな分岐は、クローディアスが兄王から奪った王冠の「出出出出出出」模様や、聖書で十字架にかけられる直前、ローマ兵がイエス・キリストにかぶせた「荊の冠」にも対応する。
荊の冠は、宗教的には「暴力と救済の二面性」「王権への制限や、謙遜」を象徴する。下の絵画でわかるように、荊の冠はくいこみ血をしたたらせる。この受難に基づいて、しばしば法を自ら曲げて罪から逃れがちな権力者に、権力の濫用を厳しく戒める意味合いを持たされている。

ドラゴンの全身に突き立てられた武器も、同様の象徴的表現だが、こちらは、不本意に変節し機能不全に陥りかけている「瀕死の宗教」「法の限界」そのものの暗喩と考えられる。胸や首にはひときわ大きな武器が突き刺さっている。アニメファンにとっては『エヴァンゲリオン』のアダムがお馴染みだろう。
(老婆4) 契約と法に機能を託し、消えていく「鳥=不在の神」役。

本作では、「天国・神・救済」に触れるセリフに同期して、画面を鳥が横切るというお約束がある。神=鳥の示唆だ。ただしここでいう神は、キリスト教の神というより超自然的な存在一般くらいがイメージされている。
キリスト教においては聖霊はハトによって象徴されるが、本作のイメージに近いのは、むしろバビロニア神話の巨鳥にして嵐の神アンズーや、北米先住民の雷と戦争の神格サンダーバードだろう。

なお、エジプトでは隼の神ホルスが王権を守護し、その目は癒しと再生と代償と保護を象徴する。古代イランの勝利の神ヴァルフラは大鷲の姿をとり、アケメネス朝の王権を象徴した。日本神話では、ニニギの天孫降臨を先導した天迦久神が鳥の姿であった。
さらに、最終盤クローディアスに最後の雷を落とした後、ドラゴンは分解し、実は鳥の集合・群体だったことが明らかになる。
立て続けに示される3つのシーンを見逃さないようにしたい。父王の亡霊が破られた似顔絵となって消え、叔父王が虚無になって消え、ドラゴンが鳥へと分解て消える。三連続の演出で、喪失が強く印象付けられている。
そして鳥が去った後、老婆が現れる。老婆の手に握られた杖は、鳥の頭をかたどっている。露骨に、老婆=鳥=ドラゴンだった、という種明かしになっている。

老婆=ドラゴンこそ、死者の国における演出家であり監督なのだった。

鳥は飛び去り、姿を隠す。現世に復活した後は、老婆はもちろん、鳥も、もう現れない。
代わって、戒めの王冠を被ったスカーレットが、社会契約を民衆に明言する。神が、戒めの王冠となり、最後に言葉=法となったのである。

『スカーレット』の2つの最重要ポイント。
本作の多様な感想を拝見したが、「スカーレットが自分で復讐した方がスッキリしたはず」という主張には、さすがに閉口してしまった。トホホすぎる。
本作には2つの最重要ポイントがある。
ポイント1:復讐に固執していたのは、スカーレットが自分自身を赦していなかったから。
ポイント2:叔父王への裁きは、復讐の代行ではなく「偽りの悔悛=赦しの悪用」に対する処罰。
復讐と赦しの関係として、この2つだけは最低限、押さえておきたい。
ここを見逃すと、表層のストーリーすら、わからなくなってしまう。見逃してしまったら、お手数でも、ぜひもう一度、鑑賞してもらいたい。
復讐と赦しの、哲学と表現。
それにしても、現代日本人の復讐達成への執着、暗い期待の強さには、驚かされる。
元首相が白昼の街頭で暗殺されたり、頂き系女子が搾取した弱者男性に刺殺されたりする事件にあって、いかに被害者側に大きな問題があり、社会正義が期待できず、加害者側に情状酌量すべき悲惨な事情があったとしても、私刑によって自ら復讐を執行し、自力救済した加害者を褒めそやすのは行き過ぎだ。仇討ちは美談ではない。
復讐はまたその報復を呼ぶ。復讐の連鎖を未来に押し付けることになる。それはもう呪いでしかない。
そもそもウル・ナンム法典、ハンムラビ法典、そしてその末裔たる全ての国の刑法は、無限に続く復讐の連鎖を止めさせるために生まれた。

なお、より古いウル・ナンム法典では、復讐ではなく賠償によって贖うことと定められている。
いずれにしても、復讐の連鎖を断つための努力は、4000年に渡って続けられている、人類最古のクオリアである。
復讐の快楽こそが悲劇の根源であり、それを断ち切ることが唯一の救済である、無念の解消は神あるいは法に委ねそれを信頼せよ、という哲学は、歴史上新しいものではない。アイスキュロスの『オレステイア』三部作に始まり、旧約聖書、新約聖書、ドストエフスキーの『罪と罰』など、連綿と多くの作品がある。他ならぬ『ハムレット』自体が、復讐の虚しさを反語的に表現した悲劇だ。
だが映画や漫画・アニメでは、娯楽のために安易な応報・復讐・自力救済(不快を承知で敢えて言い換えるなら「スカッとポルノ」)を描くものが絶えない。
復讐が悲劇ですらないものもある。観客は日常満たされないストレスを、創作の中の復讐で晴らし、応報快楽として消費している。
作者さんのツイートです
— キアヌ・リーブスは言ってない (@revenge_Keanu)September 27, 2022
これはコラ画像であり、キアヌはこの発言をしていませんhttps://t.co/YfNzsL4oZR
このネタ画像の元ネタ、復讐どころか応報快楽を娯楽化する考えを発したvtuberシロは、復讐の最も大きな問題、次々と復讐が連鎖してしまうことをすっかり忘れている。
こうした憂慮すべき状況から抜け出ようと、イーストウッドの『許されざる者』、カウリスマキの『過去のない男』、ヴィルヌーヴの『プリズナーズ』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』、そして細田守自身の『オマツリ男爵』から『竜とそばかすの姫』に至る、多くの努力と表現のアップデートが為されてきた。近年の漫画・アニメでもっとも真摯に正面からこのテーマを描いたのは、本作と『ヴィンランド・サガ』だろう。
本作『果てしなきスカーレット』は、復讐(あるいはスカッとスッキリ)を目的とした私刑の表現にも、疑問を突きつけている。
創作の中であっても応報快楽をもたらすような復讐とくに自力救済は抑制されるべき、赦しの哲学を見直そう、という問題提起は、細田守が本作で創作界隈に投げ込んだ重いテーマだ。表現の自由とも鋭く対立する。
復讐の表現については今後も議論を要するが、少なくとも赦しの哲学は、現代では明らかに衰え不足している。創作者たちが相争って過激な表現を追求していけば、観客は薬物中毒のようにスカッとスッキリを求めるようになりかねない。すでにそうなってしまっている人々も、観測されている。
本作の問題提起は、果たして今後、どのように受け止められるだろうか。スタジオ地図の作品の中では、この問題提起はどのように踏まえられていくのだろうか。細田守監督の次作を、これまで以上に期待したい。

