4月から、我が校では高らかに宣言しました。
「毎週水曜日は定時退勤日!」
しかも、17時30分には校舎に鍵をかけます! とまで言い切ったのです。
……が、どうでしょう。
ここまで半年間以上、一度も達成ならず。泣けてきます。
職員室には「本日、定時退勤日!」と黒板をどーんと掲示。
呼びかけもバッチリ。
でも先生方は、その文字が透明に見えているかのように、ひたすらパソコンに向かい続けます。
呼びかけるこちらの心が折れそうになることもしばしばです。
「仕事が多すぎて、どうしようもないんだよ!」
なるほど、その通り。学校の仕事は、まるで湧き出る温泉。止まる気配がありません。
とはいえ、つい心の声が漏れます。
「いやいや、もうちょっと効率的にできるんじゃ…?」
「もしかして、まだタイピング人差し指一本?」
人の仕事に口を出すのはよくないと分かりつつ、突っ込みたくなるのも人情です。
教育って、やればやるほど奥が深く、ゴールが見えません。
「ここまででいいや」と線を引ける一方で、
「まだまだ足りない!」と夜遅くまでがんばることもできる。
つまり教育はエンドレスゲーム。
時間をかければかけるほど、もっと上を目指したくなる不思議な世界です。
とはいえ、先生方の体調あっての教育。
ワークライフバランスを考えなければ、子どもたちにも良い影響は与えられません。
水曜日の定時退勤日が、いつか「幻」ではなく「習慣」になるように――。
今週も私は黒板に大きく掲示します。
「本日、定時退勤日!」
果たして、鍵はかかるのか?
次回へ続く――。
最近、「ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム」にどっぷりハマってしまい、気がつけばプレイ時間は80時間を突破。
…それでも、まだ終わりが見えないんです。
本当は他にも遊びたいゲームが山のようにあるのに、気づけばティアキンだけで毎日が過ぎていく。
漫画もアニメも映画も大好きですが、やっぱり一番の趣味はゲーム。
だからこそ「終わりがないゲーム」が増えてきた今、嬉しいような、ちょっと困るような気持ちになります。
あるデータでは「同じゲームを長く遊ぶ人が増えている」そうです。
確かにそれは実感します。でもその一方で、新作ゲームが売れにくくなる原因にもなっているとか。
ゲーム好きとしては、会社にしっかり儲かってもらい、もっともっと素晴らしい作品を世に送り出してほしいんですよね。
「終わらない冒険」と「積みゲー」の狭間で揺れる日々――これもゲーマーならではの幸せな悩みなのかもしれません。

「ブログを毎日更新するぞ!」と勢いよく始めたものの、あっさり一週間サボってしまいました。
仕事が忙しくなると、なかなか頭も手も回らなくて…。最初から毎日更新は無謀だったのかもしれません。
正直、情けない気持ちです。けれど、不思議と「辞めたい」とは思わないんです。むしろ、自分のペースでコツコツ続けていけばいい、と気持ちが切り替わりました。
「継続は力なり」――この言葉の重みを実感しています。
完璧にできなくても、途切れてしまっても、それでもやめずに積み重ねていくことに意味があるのだと思います。

そして、こんな拙い文章でも読んでくださる方がいることに、心から感謝しています。本当にありがとうございます。
これからも、少しずつですが歩みを止めずに続けていきます。
「今までの先生たちの成功したやり方があるんだから、真似すれば大丈夫だよね?」
そう思う人もいるかもしれない。でも実際は全然違う。
授業の準備や計画をどれだけ完璧にしても、生徒の反応は予測不能。
うまくいくときもあれば、全然ダメなときもある。生活指導も同様である。
教育には、絶対の正解なんて存在しない――なんとなくではなく、真に理解するのに、20年以上かかりました。
初めから、しっかりと理解できていれば、どんなに良かっただろうか。
だから君たちに、絶対に忘れないでほしいことが2つある。
教員として行動していると、保護者や同僚から「どうしてそんな指導をしたんだ?」と厳しく問われることが必ずある。
僕も何度も経験した。最初は落ち込むし、心が折れそうになる。でも考えてほしい。非難されるということは、生徒と真剣に向き合っている証拠だ。
もし、誰からも何も言われないなら、それはむしろ問題かもしれない。生徒と向き合っていないからだ。
教育には正解はない。君が良かれと思ってやったことがうまくいかないこともある。でも、だからといって行動を止めてはいけない。
失敗も経験。挑戦し続けることが、教師として成長する唯一の道だ。
生徒と関わったことでどんな結果になったとしても、反省はしても、後悔は絶対にしてはダメだ!
教師として経験を積むと、うまくいくことも増える。成功体験は大きな自信になる。でも注意してほしい。自分の成功体験を基準にして、周りの先生を批判したり、自分のやり方を押し付けたりしてはいけない。
僕も若い頃は、同僚の指導に不満を言っていた。本当に未熟で、学校にとってマイナスな存在だったと今は反省している。
真に教育の不確実性を理解していれば、他の教師のやり方も尊重できる。
成功体験を自慢に変えず、仲間を支える力にしてほしい。
確認したいことが1つ。学校が荒れる原因は、生徒ではない。生徒の行動がきっかけになることはあるけれど、根本的な原因は教師同士の関係や学校の雰囲気にある。
例えば、他学年の先生への文句や不仲が連鎖し、学校全体に影響するんだ。
教師として、自分自身の行動や関係性を振り返ることが、学校を良くする第一歩になる。
真に教育の不確実性を理解できているのならば、生徒指導が上手くいかない先生を非難することはなくなるはずである。
教師は、予測不能な「不確実性」の海に乗り出す仕事だ。
非難されることも、失敗することもある。
でも、それを恐れて行動を止めてはいけない。
そして、自分の成功体験を押し付けず、仲間を尊重できる教師でいてほしい。
学校の荒れの原因は生徒ではなく、僕たち自身にある。
僕が20年以上の経験で一番伝えたいのは、この2つだ。
不確実性を受け入れ、生徒と向き合い、同僚を尊重できる教師であってほしい。
君たちのこれからを、心から応援している。

キャベツに頼るダイエットで見えてきた“飢え”の現実
ダイエットを始める前の僕は、どこかで簡単に思っていた。
「人間は本気で痩せたいと思えば、ある程度の飢えくらい余裕で耐えられる」と。
――が、現実はまるで違った。
飢えは想像以上に苦しい。
あまりに辛いときには、大嫌いな肉の脂を思い浮かべて、「これを食べたいと思えたら本当に飢えてる証拠だ」と自分に言い聞かせる。たしかに一瞬は我慢できるのだが、数分後にはまたお腹が主張してくる。
どうやら僕の食欲は、想像力よりずっと強いらしい。

平日は仕事の忙しさで飢えを忘れることもある。だが、土日はきつい。時間があると、どうしても食べ物のことを考えてしまう。
かつては千切りキャベツを主食のように食べ続けたが、やがて身体が受け付けなくなり、最近はざく切りキャベツの酢漬けに乗り換えた。
きっとこれも、そのうち飽きるのだろう。キャベツに裏切られる日も遠くはない。
本には「ダイエットはイベントではなく、習慣である」と書かれていた。なるほど、ごもっともである。しかし、この“飢え”が平気になる日なんて、本当に来るのだろうか。
小食を続ければ胃は小さくなるという説もあるけれど、僕は「ちょっとだけ食べる」ができない人間だ。ひと口食べれば、あっという間に「もっともっと」へと暴走する。
結局、ダイエットの一番の敵はやっぱり食欲そのものであった。
明日もまたキャベツを噛みしめながら、飢えと向き合う。笑いながらも、少ししんみりと。だって結局のところ、これは自分自身との長い戦いだから。

諦めることは本当に悪?戦略としての諦めのススメ
毎日、どうしても「頑張らなきゃ」と思いすぎて疲れていませんか?
実は、ちょっと諦める勇気こそが、人生を楽に、そして強く生きるコツかもしれません。
「諦めたら試合終了ですよ」――名言としてよく聞く。

でも僕は思う。あれ、時と場合によっては「諦めたら試合開始」なんじゃないか。
諦めるって、一見「弱さ」だと思われがち。でも実際は「選択のセンス」なんじゃないか。
だって人間、全部勝とうとしたら消耗する。もちろん、すぐに何でも投げ出せって話じゃない。けれど「ここは諦めとけ」という場面を見極められる人ほど、案外タフに生き残っている気がする。
例えば満員電車。座席を狙って押し合うより、諦めてドア横を確保する。結果、快適ポジションで勝ち組になれる。別の日、押し合いに疲れたら、「まあいいや」と諦めて少し歩く。意外と健康にも良く、ストレスも少ない。
ゲームでも同じことがある。どうしてもクリアできないステージに挑み続けるより、「諦めて別のステージを楽しむ」方が気分転換になり、結果的に上達することもある。
挑戦をやめるのではなく、視点を変える――それが諦めるという戦略の妙だ。
そう考えると、「諦めたら試合終了」じゃなくて、「諦められないと延長戦で死亡」となるかもしれない。時にはあっさり降参して、次の試合に備える。それだって立派な戦術だ。
結局、世の中で一番強いのは、恐れずに笑いながら、必要なところで諦められる人なのかもしれない。

資料が見つからず、今日もあたふた…それでも大丈夫
頭の回転が速く、何でもすぐに対応できる人に、僕は密かに憧れている。
「〇〇は何日だっけ?」と聞かれても、「△△日です」と即答できる人。
あるいは、資料をぱっと取り出して滞りなく答える人。
ああ、そんなスーパー人間に僕もなりたい。
でも現実は違う。
僕はADHD(注意欠陥)の傾向があり、携帯電話はこれまでに5回以上なくしているし、探し物を見つけるのに無駄に時間を費やすこともしばしば。
さっきまで手に持っていた会議資料なのに、「あれ? どこ置いたっけ…?」と小声でつぶやき、結局机の下やバッグの奥から発掘することもある。
探し物をしている間は、「また、どっかにやってしまった!」とイライラが倍増。
片付けに関する本を読み漁って、成長してつもりでも、また繰り返してしまう。
さらにもう一つ、他人には知られたくない、かっこ悪い自分だけの秘密がある。
僕は、頭の中で理解していても、とっさに自分の言葉で話すのが苦手である。
すらすら理路整然と話す人は本当にかっこいい。
恥ずかしい話だが、僕は普通の人よりずっと多くの時間をかけて準備している。
会議で話す内容を、こっそり台本にして練習することも多々ある。
台本の横には「早口注意!」「間をとる」「強調!」などメモがびっしり。
会議が始まる前には、机の上で小声でリハーサルしている姿が、もし誰かに見られたら完全に怪しい人だろう。
人には絶対知られたくない秘密である。
ぐだぐだ話す人間だと思われるのは避けたいのだ。
ただのかっこつけ? たぶんそう。
…と、ブログを書いている今、改めて自分の行動を振り返ると、少し自己嫌悪に襲われる。
「私はスーパーな人間にはなれない」「これからも、私はぐだぐだなままじゃないか」と、暗い気持ちになってしまった。
ただ、ブログに書き出すことで、地味に努力している自分にも気づけた。
かっこ悪くても、陰で努力できる自分には少しだけ誇りに思いたい。
資料をぱっと出せなくても、台本を作っても、準備に時間がかかっても、それは努力の証。
スーパー人間にはなれなくても、「ちゃんとやろうとする自分」が確かにいる。

だから今日も、私はあたふたしながら資料を探し、スマホを見つけ、台本をチェックして、こっそりたっぷりと時間をかけて準備している。
会議中に「えーっと…」と言うのだけは避けたいので、脳内リハーサルは欠かせない。
誰かに「すぐ資料を出せて、すごいね」と言われる日はまだ先かもしれない。
でも、その日まで、ちょっとだけカッコつけながら、努力する自分を楽しもうと思う。
そして明日こそは…携帯をなくさず、台本通りに話せたら完璧だ。…いや、せめて携帯をなくさないことを第一目標にしておこう。
次スマホをなくしたら、妻から殺されてしまう。
せこくても楽しむ――子どもに伝えたいこと
せこい自分、嫌いです。でも、どうしても直せません。
コンビニでペットボトルのジュースを買おうとすると、頭の中で悪魔の声が響きます。
「ディスカウントスーパーで買えば50円安いぞ…!」
結局、喉は渇いたまま。完全に小学生レベルのせこさです。
ゲーム熱も今まで以上に再燃しています。きっかけはメルカリ。
「中古で買って、遊んで、売ればほとんどお金かからない」
せこい? もちろんせこいです。
でも、楽しみながら財布も守れるから、ちょっと賢くもある…いや、やっぱりカッコ悪い。
さらに、自分でも怖いくらい、少しでも割引されたものに異常に惹かれます。
高いものを食べながらも「これ、牛丼だったら何杯分だろう?」なんて計算してしまう。
トライアルの199円(税込)のたっぷり玉子サンドや299円(税込)のカツ丼は、もう最高に美味しく感じます。
お代わり自由の飲食店では、お腹いっぱいでも意地でもお代わりしてしまう始末。
こんな自分、間違いなくカッコ悪い。
だからこそ、頑なに値上げしないシャトレーゼやサイゼリヤを妙に応援してしまいます。
自動販売機でジュースを買うなんてもってのほか。しかも、割高になる小さいジュースなんて絶対に買えません。
財布に優しいものを見ると、それだけで無条件に拍手を送りたくなるんです。
高い飲食店に行くこともありますが、正直味を心から楽しめません。
「高いんだから美味しいに決まってる!」というプレッシャーが邪魔をして、純粋に味が入ってこないんです。
結局、コスパ込みで満足できるほうが、自分には合ってる。
今のせこい自分は嫌だけど、それを含めて人生には満足しています。
でも、せこくてカッコ悪い自分を見て、子どもには同じせこさで生きてほしくない、とも思います。
自分のせこさを正直に受け止めつつ、子どもには「せこくても楽しむ――小さな幸せを大事にする心」を残してほしいのです。
ジュースはディスカウントスーパーで買い、ゲームはメルカリで楽しむ――
そんなせこい生活を自分なりに楽しみながら、子どもには楽しむ心を忘れずに育ってほしいと願っています。
結論:せこい生き方でも、楽しめるならそれはもう「立派な幸せ」なんです。

世の中ではよく言う。「下を向くな、前を見ろ」と。ハイキューの名言もそうだ。

平凡な自分を奮い立たせ、下を向く暇などない、と。しかし、僕は思う。下を向く時間こそ、実は大事なのではないか、と。
下を向く――それは失敗を見つめる時間でもあり、心を整理する時間でもある。
周りはみんな、前を向いて突っ走っているけれど、少し下を向いてみると、自分の足元や手元、あるいは靴ひもがほどけていることに気づく。
靴ひもがほどけたまま走るのも悪くないが、ほどけていることに気づくのも一種の特訓だ。
下を向くことで、僕らは自分の感情や思考を再確認できる。
「今、何がしたいのか」「何が足りないのか」そんな問いを投げかける時間が、人生の本番ではきっと役に立つ。
もちろん、ずっと下を向きっぱなしでは進まない。だが、一瞬の「下向きタイム」があるからこそ、次に上を向いた時の景色は少し違って見える。
だから僕は言いたい。「ところで平凡な俺よ、下を向いている暇も楽しめ!」と。
下を向くことは、ただの休息でもなく、逃げでもなく、むしろ人生を味わうための前向きな準備運動。次に立ち上がる時、きっと少しだけ、上手に走れる自分になっているはずだ。
管理職に特別な憧れを抱いたことは、これまでありませんでした。けれども、ただ一人、心の底から「かっこいい」と思えた教頭先生がいます。
初めて出会った頃の印象は、正直に言えば「よくしゃべる教頭」でした。職員室であちこちの先生と話している姿を見て、おしゃべり好きなのだろうと。
ところが、数か月が経った頃、ふと気付いたのです。決まった先生とばかり話しているのではなく、むしろ同じ人には続けて話していない。まるで、順番に全員に声をかけているように見えました。
思い切って尋ねてみると、教頭先生は少し照れながらこう答えてくれました。
「実はね、職員名簿に毎日チェックしてるんだよ。誰に声をかけたか分かるようにして、必ず一声はかけるようにしてるんだ」
その言葉を聞いたとき、胸にじんわりと熱いものが広がりました。
一般的に「教頭先生は職員室の担任」と言われることがありますが、それは単なる比喩ではなく、こうした日々の心のこもった積み重ねから生まれるものなのだと実感しました。
思い返せば、私が初任の頃、指導教諭から「クラスの子どもたちには毎日話しかけなさい。そのために名簿にチェックをつけて確認しなさい」と教わったことがありました。あのときの教えを、教頭先生は職員に対して実践していたのです。
「初心忘るべからず」――その本当の意味を、改めて心に刻んだ瞬間でした。
そして数年後。異動先の学校で、その教頭先生が校長先生として迎えてくれました。
偶然のようでいて、まるで縁に導かれたような再会。
その出会いがきっかけとなり、私は管理職試験に挑戦しました。今は主幹として、日々の仕事に向き合っています。
自分の人生をここまで動かしてくれた存在は、間違いなくあの先生です。あの頃の姿に学んだ「一声の力」を、私も今、少しずつでも引き継いでいきたい。

きっと誰にでも、人生を変えてくれるような出会いがあるはずです。
その人の姿を思い出したとき、心のエネルギーがフル充電される感覚がある――そんな温かさを、大切にしていきたいと改めて思います。
数学の授業が楽しい。
なぜかというと――生徒に直接教えることよりも、生徒同士が「え?それどうやったの?」「なるほど!」と学び合う姿を眺めるのが最高に好きだからだ。
西川純先生の『学び合い』に出会って20年以上。
気づけばそのスタイルをベースにして授業をやってきた。

おかげさまで県からは「ST(スーパーティーチャー)」なるありがたくもプレッシャー全開の称号をいただいた。……名前が重い。
研究授業の準備は大変だけれど、実は大好きだ。
授業参観にもいつも来てもらいたいと思っている。
だって頑張る生徒の姿を見て欲しくてたまらない。
あれこそが授業のハイライト。教師の説明なんかより、よっぽど価値がある。
ただし僕自身、昔からお調子者で先生によく叱られてきた過去がある。
だからこそ「調子に乗らないように」という戒めを忘れないようにしたい。
僕が大事にしていることは3つ。
生徒の実際の点数を上げること。
「この授業、分かりやすい」と思ってもらうこと。
「数学ってちょっと好きかも」と感じてもらうこと。
この3つを軸に、これまでも成果を積み重ねてきた。
でも、だからといって浮かれてはいけない。今の現状に満足して、学ぶことをやめてしまったら――そのときは教師を辞めるべきだと思っている。
黒板の前に立つたびに思う。
生徒たちは、こちらが思う以上に真剣で、まっすぐで、そして儚いほどに一瞬を生きている。
だから僕も、学び続ける教師でありたい。
そして最近、もうひとつ強く思うようになったことがある。
それは「若手の先生を育てたい」ということだ。
昔の自分にはまったくなかった感覚だから、これはきっと歳を重ねた証なのだろう。
これから、管理職を目指したせいで、直接教える生徒の数は減っていくことだろう。
けれど、若手の先生に影響を与えることができれば、その先にいる無数の生徒たちにまで学びの喜びを届けることができる。
「教師を育てる」ということは、つまり「未来の生徒を育てる」こと。
そう思うと、これからの時間にも新しい意味と役割を感じている。
「先生の授業で数学がちょっと好きになった」
その一言を胸に刻みながら――生徒と、若手と、そして未来と。
一人ひとりの学びがつながっていく、その瞬間に立ち会える教師でありたい。
夜中トイレに起きたら…またティアキンをしている僕がいた。もはやゲームというより、僕はハイラルに住んでいるのかもしれない。
1カ月前、僕はこう書きました。
「『ティアーズ オブ ザ キングダム』は、人生で間違いなく5本の指に入る傑作だ」と。
——あれから日々少しずつ進めていたのですが、先日の日曜日、ついに事件が起きました。
ほぼ丸一日、気づけばティアキン漬け。ご飯を食べても、休憩しても、頭の中はハイラル一色。
夜中にふと目が覚めると、なぜかもう手にコントローラーを握っている…。
これはもう「ゲームを遊ぶ」というより、「ハイラルに生きている」と言った方が正しいのかもしれません。

「面白いゲーム」はたくさんあります。
でもティアキンは、「気づけば遊んでしまう」魔力がある。
寄り道が本編を超える
目的地に行くはずが、気づけば別の大冒険。
大ボリュームなのに飽きない
世界の広さだけじゃなく、遊び方そのものが無限に広がる。
再プレイのしやすさ
Switch2エディション+「ゼルダノート」のおかげで、気軽に冒険を再開できる。
その結果、僕の中で「ブレス オブ ザ ワイルド」を超えて、ついに歴代1位の座が見えてきました。
発売当初から「全世界で大ヒット」とは知っていました。
でも正直、「まあゼルダだし人気出るよね」ぐらいに思っていたんです。
ところが、実際にハマってみると——
「これは世界中が熱狂するのも当然だ」と納得。
単なる流行やブランドではなく、本物の中毒性と完成度がある。
ゲーム歴40年。
これまで数え切れないほどのタイトルを遊んできましたが、ティアキンはその全てを塗り替える勢いです。
「1本のゲームでここまで時間を奪われるのは幸せか不幸か」
そんな葛藤すら抱かせるほどの存在。
もしあなたがまだ遊んでいないなら…
『ティアーズ オブ ザ キングダム』は、人生に一度は体験すべき冒険です。
僕のように、気づけば“ティアキン沼”に沈んでいるかもしれません。
「幸せになりたいなら、他人と比べるのをやめましょう」――自己啓発本やSNSで、何度も目にする言葉です。まるで比較が幸せの大敵かのように語られます。
でも、ちょっと待ってほしい。人は本当に「比較ゼロ」で生きられるのでしょうか?そして、比較を完全に避けることが果たして幸せに直結するのでしょうか?
そうは言うけれど、人は生きている限り、どうしても比較してしまうものです。それは悪いことでも、心の弱さでもなく、むしろ必要なこと。
だって、体調が悪いときに体温計で熱を測るのと同じようなものだからです。数値を見て初めて「ちょっと休もう」とか「まだ大丈夫だな」と判断できますよね。
比較も同じで、自分の今の位置や状態を知るための心の体温計みたいな役割を果たしてくれるのです。
もちろん、体温を一日に何十回も測れば不安になるように、比較ばかりにとらわれるのは逆効果。でも、適度に使えば、自分を知る大切な手がかりになる。
人生は他人のレシピをなぞるだけじゃ味気ない。他人のレシピ通り作っても、自分には合わないことだってあります。材料の分量、火加減、混ぜ方…すべて自分の手加減で調整する自由があるはずです。
だから、自分の鍋で味見をしながら、焦げ付かせたり、ちょっと塩を足したりしながら進むこと。そうやって作る一皿が、あなただけの幸せです。
他人のレシピを参考にすることはあっても、最終的に味を決めるのは自分。
失敗も成功も、全部あなたのオリジナル。そう思えれば、比較もむしろ楽しみになるし、焦らずに、自分らしく生きる道が見えてくるのではないでしょうか。

自分でも知らない自分に出会うために、今日も書く。
吉田松陰の言葉に「未見の我」というのがあります。
校長先生が全校集会でそれを紹介してくれたとき、ふと心に火がつきました。
「自分もまだ知らない自分がいるのか…?」と。
それがきっかけで、僕はブログを始めました。毎日書いています。
教師として、常に新しいことにチャレンジする自分でありたい。
日頃は、偉そうに生徒たちにこう言っています。
「何事も恐れずに、新しいことにチャレンジしなさい!」
…だけど、自分で実践しないと説得力ゼロですからね。
実は、文章を書くのは昔から苦手でした。
学生の頃もずっと苦労していて、中学3年生で団長を務めたときの感想文が書けず、担任の先生に怒られたこともあります。
その時、先生はこう言いました。
「たくさんの人に支えてもらったおかげで、団長としていい思い出ができたはずだ。それなのに、感謝の気持ちもないのか。何も書けないなんて、どうかしてる。」
あの言葉は今でも胸に残っています。
「どうかしてる」と言われるほど文章に苦手意識を持っていた自分が、今こうして毎日書いているのですから、人生は面白いものです。
ブログを書くことは、自分にとって挑戦であり、文章の練習にもなります。
書いてみると、意外な発見もありました。
若者がインスタで「いいね!」を欲しがる気持ち、少しだけ分かるようになったのです。
せっかく書いた文章、誰かに読んでもらいたい。いいねの数はともかく、誰かの目に留まる喜びって、やっぱりうれしいものです。
毎日書き続けることで、自分の「未見の我」に少しずつ近づいているような気もします。
恐れずに、新しいことに挑戦するために。そして、どこかで誰かが読んでくれるかもしれないという小さな希望を胸に。
…というわけで、今日もひとまずブログを書き終えました。
もし読んでくれた人がいたら、こっそり「☆はてなスター」してくれると、僕の未見の我もちょっと喜びます(笑)。

「もう一生、この映画を超えるものはない」——そう思っていた僕を裏切ったのは、まさかのインド映画だった。
「ショーシャンクの空に」。

映画好きなら一度は出会うであろう、伝説的な名作です。
僕にとっても、人生の支えになっている作品。
特に、あのセリフ。
希望はいいものだよ。多分最高のものだ。いいものは決して滅びない。
この言葉をお守りに、何度も立ち直ってきました。
だから正直、これ以上の映画に出会うことなんてないだろう、と諦めていたんです。
ところがある日。
YouTubeで流れてきた一本の紹介動画のおかげで、僕の人生をまたひっくり返されました。
インド映画「きっと、うまくいく」。

…いや、インド映画って歌ったり踊ったり、突然ミュージカルが始まるんでしょ?しらけるんだよね。そう思った人、正直に手を挙げてください。僕もその一人でした。
しかし——。
気づけば3時間、呼吸すら忘れるほどスクリーンに引き込まれていたんです。
「長い」と思うどころか、「もう終わっちゃうの?」と心から名残惜しかった。
「ショーシャンクの空に」以来、初めて味わった感覚でした。
観終わったあと、胸の奥に確かに残っていたのは「人生で大切なこと」。
ただ前を向くだけじゃなく、「笑って、泣いて、それでも生きていくんだ」という力強いメッセージ。
笑わせながら、泣かせてくる。
あのバランス感覚、正直インド映画を舐めてました。深く反省しています。
ネタバレは一切しません。
ただひとつ約束できるのは、あなたもきっと観終わったあとに、必ず笑顔になっているということ。
そしてふとした瞬間に、胸の奥で呟くはずです。
「きっと、うまくいく」と。
映画は時に人生を変える。
「ショーシャンクの空に」がそうだったように、まさかインド映画が次の扉を開けてくれるなんて。
人生、本当にわからないものですね。
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