1.慶應義塾大 経済学部<種別>難問
<問題>1 問5 下線部Eに関連して(編註:フランス領セネガルや
ニューカレドニア),次の文章を読んで,文章中の下線部αおよび空欄(β),(γ),(δ)の場所として最も適切な位置を,下の地図中の1〜9の中からそれぞれ選びなさい。
α
ニューカレドニア島を含む太平洋地域には,18世紀にイギリス,19世紀にドイツとフランスが進出した。またアメリカはアメリカ=スペイン戦争の結果フィリピンと( β )を獲得し,さらに( γ )を併合した。日本も第一次世界大戦後,大戦中に占領したドイツ領南洋諸島の一部の委任統治を国際連盟から認められた。遅れて太平洋に進出したアメリカと日本は太平洋戦争勃発後,太平洋の島々で激しい戦闘を繰り広げた。特に( δ )が陥落したことはそれまで戦争を遂行してきた日本の内閣の交代につながった。そして,アメリカ軍は( δ )などから日本本土への空襲を本格的に開始した。

<解答解説>
いずれも難問だが,
特に難しいのはαのニューカレドニア島だろう。先に他を攻略しておくと,βは米西戦争でアメリカが獲得した場所なのでグアム島のこと。γは同年の併合なのでハワイである。ハワイは8で真っ先にこれが埋まる。δはここが陥落したことで日本本土への空襲が激化したとあるからサイパン島。ここで1・2・3のいずれがグアムとサイパンなのかということだが,世界史の受験生ならドイツ領南洋諸島が第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり,地理的にはミクロネシアと呼ばれることから推測したい。地図をみると2だけが不自然に点線(現在の国境線)が引っ込んだ外側にある。この2がグアムである。3のサイパンもまた現在アメリカ領だが,これは太平洋戦争の敗戦で日本が統治権を手放し,アメリカの信託統治領となった後,自治領の北マリアナ諸島となった。グアムは直轄領(準州)であり,この地位の違いや国境線はこうした歴史に依拠している。1は硫黄島で,小笠原諸島の位置であるから日本領でありグアムやサイパンではなさそうと判断したい。ここまでの3つはひねりが効いているが,受験生でも何とかなる範囲であり,むしろ不自然な国境線に対する問題意識を喚起しているという意味でも意義のある出題と言えよう。
一方でニューカレドニアはそうした解答の手がかりがない。他の島と違って受験世界史上でほぼ学習しない島であり,過去の本企画で収録した問題を検索しても2012年の青山学院大までさかのぼらないと見つからなかった(1巻のp.241)。このような出題頻度であるので,早慶対策としてもほぼ触れられない。4〜7・9の5択からは絞れなかったのではないか。正解は6で,4はラバウル,5はガダルカナル島,7はフィジー,9はタヒチである。1・4・5はいずれも太平洋戦争の激戦地であり,
その意味では慶應大伝統のミリオタ問題とも言えるが,それらを外したところで正解が出ず3択というのは難問としても筋が悪い。フィジーの場所とフィジーが英領であったことを知っていたら9のタヒチとの2択までは絞れるか。
なお,本問は日本史との共通問題であった。日本史選択者の場合,激戦地の位置を把握している人が世界史選択者よりも多そうであるが,一方でグアム・サイパンの区別の方で苦戦しそうだ。
慶應大の経済学部は2025年も良問が多く,解いていて受験生の知識と思考力を上手く試そうとひねっているし,大学生として知っておいてほしいポイントも明確で感心させられた。しかし,毎年1・2問程度は慶應大の他の学部と変わらない無理のある難問が入っている。そこまで満点を阻止したいものなのだろうか。たまに聞かれる「この企画は悪問ばっかり紹介しているが良問も紹介すべき」という声に対しては,とりあえず慶應大・経済学部を全問解いて予備校の解答速報を読んでほしいと回答しておきたい。ついでに,実際に解いた方から第2問・問9の「スリーマイル島の位置は難問では?」という疑問がわくと思われるので,そこには答えておくと,原発は大量の水を利用するため立地が限られるということから解答を絞れる。スリーマイル島は川の中州であって海沿いではないが,少なくとも完全な内陸で地域的には砂漠の7(ロスアラモス)や海上の6(ウィグワム作戦の場所)とは違うと判断したい。難易度は高いが,出題意図がわかりやすく,ニューカレドニアほどの無理さは無いと判断した。とはいえ,人によってはこちらも受験生には解けない問題と判断するかもしれない。
最後に余談として,2025年は慶應大・経済学部のほかに法学部と,早稲田大の法学部でもニューカレドニアが選択肢で出ていた。後ろの2つは誤答用の選択肢ではあったが,ニューカレドニアの当たり年である。前年に反仏暴動が起きていた影響だろうか。
〔番外編〕慶應義塾大 商学部<問題>1 問6 下線部(d)に関連して(編註:中央ユーラシアのトルコ系騎馬遊牧民は,西アジアで
マムルークとして重用されるだけでなく),このマムルークは主にどのような人を意味する用語か。解答用紙Bの所定の欄に,漢字4字で記入しなさい。
<コメント>
本問は素直に解答するなら「軍人奴隷」が正解になるが,マムルークは元は「白人奴隷」という意味合いであるから,こちらも正解になりうる。イスラーム圏において黒人奴隷はザンジュ,それ以外の人種の民族はマムルークに分類された。その中でトルコ系の奴隷が多く,かつ彼らが軍人として買われたために,実質的にトルコ系の軍人奴隷をマムルークと呼びならわすことになった。したがって本問は複数正解であり,下線がマムルークにしか引かれていないのがその原因である。「中央ユーラシアの……重用されるだけでなく」まで引いておけば軍人奴隷に絞られたので,下線の引き方が悪い。大学の公式解答例では「白人奴隷」も正解扱いとなっていたが,当初から想定していたのか,採点していて気付いたのかは不明である。後者だとすると危うい話で,出題ミスには該当しないものの,いわゆる「ヒヤリハット」事例に当たる。作問上の注意点として番外編収録とした。
2・3.慶應義塾大 商学部(1・2つめ)<種別>難問
<問題>農業の発展に伴い社会に変動が生じ,多様な思想が一斉に開花した。思想家の (51)(52) を代表とする農家は,農民の統治方法などを論じ,万民平等に農耕すべきと提唱した。 (53)(54) を代表とする名家は,名と実の関係を論理学的に説明した。
23 許行 30 公孫康 31 公孫竜 41 鄒衍 45 曹京
46 曹景宗 47 蘇秦
(編註:関係のある選択肢のみ抜粋)
<解答解説>
極めて古くさい出題。Twitterの私のTLでは「昭和の問題」という声も見られた。現在の用語集では農家・名家は用語集に立項されているが頻度は③,それぞれの代表的な論客は立項されていない。正解は農家が許行,名家が公孫竜である。グレーゾーンで収録すべきか迷ったが,近年の受験世界史の流れである「人名はなるべく問わない」に逆行していることにも鑑みて収録とした。誤答用の選択肢にもよくわからない人名があり,曹京は夭折した曹操の息子,曹景宗は南朝の宋・斉・梁に仕えた武将・詩人らしい。
4.慶應義塾大 商学部(3つめ)<種別>難問
<問題>2 問5 下線部(d)に関連して(編註:
宣教師),中国でキリスト教の普及が全面禁止され,ほぼすべての宣教師が国外に追放されたのは,(あ)西暦何年か,(い)この時の皇帝は誰か。解答用紙Bの所定の欄に記入しなさい。
<解答解説>
(い)の正解は容易で雍正帝。(あ)は無理のある年号の問いである。雍正帝の在位年は1722〜35年なので,実質的な選択肢は14個ある。正解は1724年。最近は無理のある年号を一つ問題に入れて満点を阻止する安直な手法をいろいろな大学で見かけるが,流行っているのだろうか。なお,「キリスト教の普及」は原文ママである。「布教」の誤植ではないかと校正者等から指摘があったので付記しておく。私も布教の方が自然な表現だと思う。
5.慶應義塾大 商学部(4つめ)
<種別>出題ミス(複数正解)<問題>3 民衆が形成する世論の力は大きく,イギリスでの第4回選挙法改正後の選挙では( (あ) )党が第2党となり,( (い) )党との連立政権が誕生した。
問7 文中の空欄(あ)と(い)にあてはまる政党名は何か。解答用紙Bの所定の欄に記入しなさい。
<解答解説>
作問者の想定では,「第4回選挙法改正後の選挙」は1924年のものを指し,(あ)に入るのは労働党,(い)に入るのは自由党だろうと思われる。この選挙では保守党が第1党なのは変わらないまま,第2党に労働党が躍進し,第3党の自由党と組んでイギリス史上初の労働党党首を首相に据えたマクドナルド内閣が成立した。
しかし,
空欄(あ)と(い)に対する制限があまりにも少ないため,「第4回選挙法改正後の選挙」を1918年のものと想定することが可能である。第4回選挙法改正は1918年の2月,選挙は11月実施であり,「改正後」を「改正直後」として読むなら,むしろこちらの方がしっくり来る。選挙前は自由党が第1党,保守党が第2党で,労働党は泡沫政党に過ぎなかった。選挙前は労働党も含めた挙国一致内閣で,自由党のロイド=ジョージ首相はその継続を主張したが,自由党内のアスキス派は戦争の終結が見え始めたことを理由に連立の解体を主張し,自由党が分裂しての選挙となった。その結果,自由党アスキス派が大敗し,保守党が第1党,自由党ロイド=ジョージ派が第2党となった他,労働党が実質的な第3党に躍進した(当選者数上はシン=フェインが第3党)。選挙後はロイド=ジョージ内閣が続いたが,労働党とアスキス派が抜けたために挙国一致内閣は崩れ,ロイド=ジョージ派と保守党の大連立内閣が新たに成立した。首相は保守党に交代せずロイド=ジョージのままとなった。
以上の経緯を踏まえた上で文を読み直すとご理解いただけると思うのだが,(あ)には自由党を,(い)には保守党を入れても「民衆が形成する世論の力は大きく,イギリスでの第4回選挙法改正後の選挙では自由党が第2党となり,保守党との連立政権が誕生した。」となって意味が通ってしまう。本問は作問者の想定していない正解が生じているという点で複数正解の出題ミスである。要因は明らかで,問題文からヒントになりうる情報を削りすぎている。マクドナルドの名前なり,空欄(い)の手前に「第3党となった」と入れるなりしておけばこういうことにはならなかった。おそらく作問者は「労働党の躍進こそが民意」という固定観念にとらわれてしまっていて,この別解に気付かなかったものと思われる。第4回選挙法改正は男性のみとはいえ普通選挙を達成した改正であり,女性にも制限付きの参政権が認められた改正でもあって,そこで示された結果は民意であろう。
有権者は自由党の分裂と連立の解消を許さなかったのであるから,世論の力は示されている。仮に労働党の躍進こそが民意と捉えたとしても,空欄になっていないだけで,1918年選挙で労働党は躍進しているし,自由党が第2党に転落した要因の一つが労働党の躍進なのだから,やはり意味のある文が成り立ってしまう。これだけ逃げ道が塞がれている別解も珍しい。代ゼミから同様の指摘あり。河合塾は「民衆が形成する世論の力は大きく」とあるから1918年選挙ではなく1924年選挙を指しているのだろうと作問者に配慮したコメントを掲載していた。そこで作問者を甘やかしてはいけないと思う。東進は特にコメントなし。駿台は商学部の解答速報無し。
大学当局から複数正解を認める旨の発表があった。お詫び文が無かったが,近年の慶應義塾大は複数正解の場合は謝罪をしない姿勢を貫いている。その発表によると3つめの正解として
(あ)自由党,(い)労働党でも正解扱いになるようだが,これに該当する選挙は見当たらない。どういうことだ……
2025年の慶應大・商学部は基本的に易しい問題が多く,トータルで言えば4学部で最も易しかったが,意味不明な難問が3つあり,出題ミスも1つあって,作問が丁寧だったとは言いがたい。易しければいいというものでもない。
文学部は収録無し。第二回三頭政治のレピドゥス,国連機関の経済社会理事会といった用語集頻度は高いが普通は問わない用語が目立った。最難関はガズナ朝の英主マフムードであるが,彼も用語集頻度が①であるため範囲内と見なした。
6.慶應義塾大 法学部<種別>難問
<問題>1 [設問1] 下線部(ア)に関連した以下の記述を読んで(編註:
革命), (7)(8) に入る最も適切な語句を〔語群〕から選び,その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。
アメリカ独立戦争時に義勇隊を率いて大陸軍に加わったラ=ファイエットは,のちにフランス人権宣言の起草委員のひとりとなった。その作成にあたって助言したのはフランス革命勃発時に駐フランス公使としてパリに滞在していた (7)(8) であった。
17.ジョン=アダムズ 24.トマス=ジェファソン 34.フランクリン
53.ワシントン
(編註:関係のある選択肢のみ抜粋)
<解答解説>
2025年も慶應大・法学部は地獄であった。本題に入り,駐仏公使にして独立宣言の起草委員であるからフランクリンを選びたくなるが,巧妙な引っかけで,フランクリンはアメリカ独立戦争当時の駐仏公使である。1789年まではさすがに在任しておらず,1785年に退任してジェファソンに交代した。その後,ジェファソンが1789年まで続けて,フランス革命の勃発と人権宣言の発表を見届けた後に退任し,彼は本国で初代国務長官となる。したがって本問の正解はジェファソンである。
7.慶應義塾大 法学部(2つめ)<種別>難問
<問題>1 [設問4] 下線部(エ)に関連して(編註:ナポレオンは,
諸国との戦争に勝利し),ナポレオンが各地でおこなった軍事活動について(a)から(e)の出来事を古い順に並べたとき,3番目と4番目にあたるものの正しい組み合わせを〔組み合わせ群〕から選び,その番号を (13)(14) にマークしなさい。
(a)アウステルリッツの戦い
(b)イタリア遠征
(c)エジプト遠征
(d)ボロディノの戦い
(e)ライプツィヒの戦い
〔組み合わせ群〕
01.(a)→(b) 02.(a)→(c) 03.(a)→(d) 04.(a)→(e)
05.(b)→(a) 06.(b)→(c) 07.(b)→(d) 08.(b)→(e)
09.(c)→(a) 10.(c)→(b) 11.(c)→(d) 12.(c)→(e)
13.(d)→(a) 14.(d)→(b) 15.(d)→(c) 16.(d)→(e)
17.(e)→(a) 18.(e)→(b) 19.(e)→(c) 20.(e)→(d)
<解答解説>
標準的な知識でもアウステルリッツの三帝会戦が1805年,イタリア遠征は1796〜97年,エジプト遠征が1798〜99年,ライプツィヒの戦いが1813年まではわかる。しかし,ボロディノ(ボロジノ)の戦いがほとんどの受験生に未知の用語であるため,解答が確定しない。ボロディノの戦いはナポレオンのロシア遠征途上で発生した戦いであるため1812年。モスクワへの往路での最後の戦いであり,フランス軍が辛勝した。したがって3番目がa(アウステルリッツ),4番目がd(ボロディノ)であり,正解は03。なぜ1つだけ未知の用語を入れて問題をぶち壊すのか,理解できない。
8.慶應義塾大 法学部(3つめ)
<種別>出題ミス(複数正解)<問題>1 [設問9] 下線部(ケ)に関連した記述として誤っているものを下から選び(編註:
アルジェリア),その番号を (23)(24) にマークしなさい。
[01]シャルル10世は,国民の批判をそらすため,16世紀以来オスマン帝国の影響下にあったアルジェリアに遠征し,占領した。
[02]フランス二月革命と同じ年に,アルジェリアがフランス領とされ,これに危機感を抱いたオスマン帝国はトリポリ・キレナイカを直接支配下に置いた。
[03]アルジェリアの民族解放戦線が1954年に始めた武装闘争が戦争に発展するなかで,1958年にフランス第四共和政が崩壊した。
[04]ド=ゴールの承認をえたアルジェリアは,セネガル,ベナン,マリ,モーリタニアと同じ年に独立を果たした。
<解答解説>
[01]・[03]は正文。[04]は,セネガル以下4か国はいずれも1960年「アフリカの年」に独立しているが,アルジェリアの独立は1962年であるから誤文で,これが作問者の想定する正解だろう。審議の対象は[02]で,
オスマン帝国がトリポリ・キレナイカを直轄領としたのは1835年のことであり,1848年ではない。しかも原因は,フランスのアルジェリア侵略が1830年に始まったことも影響しているが,直接的にはオスマン帝国が自治を認めていた現地の王朝で継承権争いが生じたことにある。その鎮圧にオスマン帝国が本国軍を動員して,そのまま直轄領とした。したがって[02]も正解であり,複数正解が発生している。作問者はおそらく東京書籍の教科書のp.263を典拠にしていると思われるが,該当部分は「1830年にフランスがアルジェリアを占領し,現地の抵抗運動をおさえて1848年に併合した。フランスの動きに警戒感を抱いたオスマン帝国は,リビア(トリポリ,キレナイカ)を直接支配下においた。」という記述であり,同年の出来事とは書いていない。
法学部の教員が教科書を正確に読解できておらず,勝手に因果関係を読み込んでいるという,とんでもない事態が発生している。猛省を促したい。河合塾・駿台・代ゼミ・ゆげ塾から同様の指摘あり。
大学当局から[02]と[04]の複数正解を認める旨の発表があった。例によって複数正解であるためお詫び文が無かった。
9.慶應義塾大 法学部(4つめ)<種別>悪問
<問題>1 [設問12] 下線部(シ)に関連して(編註:
「諸国民の春」),イタリアについての記述として正しいものを下から選び,その番号を (29)(30) にマークしなさい。
[01]ガリバルディは,ナポレオン3世と結んだプロンビエール密約により,サヴォイア・ニースをフランスヘ割譲することに合意した。
[02]サルデーニャ王国は,第2次の対オーストリア戦争で北イタリアを獲得し,1861年にイタリアを統一した。
[03]フランス二月革命の影響をうけて「青年イタリア」がマッツィーニによって結成され,幾度も蜂起したが失敗に終わった。
[04]イタリア王国は,プロイセン=オーストリア戦争後の講和条約で,ヴェネツィアと,ヴァチカンを除く全教皇領とを併合した。
<解答解説>
[01]はガリバルディがカヴールの誤り,[03]は青年イタリアの結成は1830年代で1848年より前,[04]はヴァチカンを除くローマ教皇領の併合が普仏戦争後なので誤り。よって[02]が正文すなわち正解として残るはずであるが,この文も問題含みである。一番大きいのは
サルデーニャ王国が1859年のイタリア統一戦争で獲得したのはロンバルディアのみで北イタリア全体ではないということだ。ヴェネツィアの併合は[04]にある通り1866年の普墺戦争による。ここは問題文を「北イタリアの一部」と読み替えないと正文にならない。それに関連して,
1861年はイタリア王国が成立した年であって,厳密にはイタリア統一がなっていない。前述の通りヴェネツィアとローマを獲得できておらず,正誤判定の選択肢では「ほぼ統一した」とか「イタリア王国が成立した」と書いてぼかすものである。また,これらに比べると些事であるが,通常の高校世界史では1859年の戦争のみを「イタリア統一戦争」と呼び,「第2次」をつけない。これは1848〜49年のサルデーニャ王カルロ=アルベルトが起こしたものを高校世界史では教えないためである。したがって,「第2次の」とついているのは厳密には正しいが,受験生には誤文にしか見えず,正解が無い出題ミスと判断された可能性がある。慶應大・法学部には出題ミスが多いので合理的な判断であるが,本問は出題ミスと認定されない可能性が高い。これで失点になるのはあまりにも気の毒である。河合塾・駿台から同様の指摘あり。
10.慶應義塾大 法学部(5つめ)<種別>難問
<問題>1 [設問15] 下線部(ソ)に関連した記述として誤っているものを下から選び(編註:
国威発揚),その番号を (35)(36) にマークしなさい。
[01]世界初の万国博覧会がロンドンで開催され,多くの見学者を動員することで旅行が大衆の娯楽となるきっかけをつくった。
[02]電気の時代の到来を告げるものとして,19世紀最後のパリ万国博覧会では電気館が建てられ,五千個もの電灯が飾られた。
[03]1889年のパリ万国博覧会で,フランス革命百周年を祝してエトワール凱旋門が建設された。
[04]ヒトラー政権下において国外に対する威信を高めるためにオリンピックがベルリンで開かれ,プロパガンダにも利用された。
<解答解説>
グレーゾーンの塊で,迷ったが収録対象とした。[01]は正文で,トマス=クックによる団体ツアーの挙行,近代的旅行業の始まりは早慶対策で学習することがあるが,厳密には範囲外である。[02]も正文で,電気館を描いた絵は「電気の世紀」を視覚的に表現する良い材料であるため教科書の挿絵によく採用されている。たとえば山川の『詳説』のp.260,帝国書院のp.243等。しかし,通常の学習で覚える事項にはなっていない。[04]も正文で,受験生がまともに判断しうるのはこれだけではないだろうか。残った[03]が誤文で,凱旋門は古代ローマから戦争勝利を記念して建てられるものという知識から,万博では建てないだろうと推測すると正解できなくはないが,「フランス革命の成功を勝利と見なすこともできるから,この時に建てられたのでは」というような疑念にかられると迷いが生じる。過度な難問と言って差し支えあるまい。
11.慶應義塾大 法学部(6つめ)
<種別>出題ミス(複数正解)<問題>1 [設問17] 下線部(チ)に関連して(編註:メキシコ出兵は失敗に終わり,
これに続く戦争において皇帝自身が捕虜となり),ドイツ統一に至るまでの経緯について(a)から(e)の出来事を古い順に並べたとき,3番目と4番目にあたるものの正しい組み合わせを〔組み合わせ群〕から選び,その番号を (39)(40) にマークしなさい。
(a)オーストリア=ハンガリー帝国の成立
(b)シュレスヴィヒ・ホルシュタインの獲得
(c)ビスマルクによる鉄血政策の宣言
(d)プロイセン=オーストリア戦争の勃発
(e)プロイセン=フランス戦争の勃発
〔組み合わせ群〕
01.(a)→(b) 02.(a)→(c) 03.(a)→(d) 04.(a)→(e)
05.(b)→(a) 06.(b)→(c) 07.(b)→(d) 08.(b)→(e)
09.(c)→(a) 10.(c)→(b) 11.(c)→(d) 12.(c)→(e)
13.(d)→(a) 14.(d)→(b) 15.(d)→(c) 16.(d)→(e)
17.(e)→(a) 18.(e)→(b) 19.(e)→(c) 20.(e)→(d)
<解答解説>
慶應大・法学部にしては易しい問題だが,それにしてもヒントを削りすぎてしまって問題が崩壊した。素直に考えるなら(a)のアウスグライヒが1867年,(b)はデンマーク戦争の終結と考えて1864年,(c)は1862年,(d)は1866年,(e)は1870年でc→b→d→a→eで,正解はd→aの13になる。しかし,
(b)は主語が無いので,別の年代も想定しうる。1864年はオーストリア・プロイセン連合軍がシュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領した年であり,この段階ではオーストリアがホルシュタインを,プロイセンがシュレスヴィヒを支配することになった。しかし,プロイセンがオーストリアを挑発してホルシュタインをうかがう姿勢を見せたことで普墺戦争が開戦,勝利したプロイセンがホルシュタインを獲得した。したがって
プロイセンがシュレスヴィヒ・ホルシュタインを両地域とも獲得した年が問われているとすると(b)は普墺戦争すなわち(d)の後になり,5つの並びはc→d→b→a→eに変わり,正解はb→aの05になる。割と言い逃れできない複数正解が生じている。私自身,初見では何の気なしに前者の解釈で解答を出し,後から見直していて後者の解釈が成り立つことに気付いた。作問者もそうだったのではないか。河合塾・代ゼミから同様の指摘あり。公式解答例は[13]のみとなっており,複数正解は認めない模様である。
12.慶應義塾大 法学部(7つめ)<種別>難問
<問題>2 国際連合憲章で当初想定していた形態とは異なるものの,平和維持活動のための部隊が展開しており,その初期の例として1956年のスエズ運河の国有化に端を発する紛争に対応するために設立された第1次国際連合緊急軍が挙げられる。これは常任理事国による拒否権行使により安全保障理事会は身動きが取れない中で, (41)(42) 事務総長の下で考案され,総会決議を通して設立されたものである。
11.ウ=タント 37.ハマーショルド 42.ピアソン
(編註:関係のある選択肢のみ抜粋)
<解答解説>
現在の高校世界史では一人も国連事務総長を学習しないので,出題された瞬間に難問認定でよい。正解はハマーショルドで,この時の国連緊急軍が後の国連平和維持活動(PKO)に強い影響を与えた。42のピアソンはその提唱を行ったカナダの外相で,この功績により翌1957年にノーベル平和賞を受賞している。ハマーショルドといえばコンゴ動乱の調停中の1961年に墜落死したという事件の方の印象が強く,これを覚えていたら近い年号の本問もそうかもしれないと推測できたかもしれないし,逆に第二次中東戦争の時も国連事務総長だったとは考えにくくなるかもしれない。また,墜落事故も範囲外には違いない。なお,ハマーショルドも1961年にノーベル平和賞を受賞しているが,授与の決定後・授賞式前に亡くなったため,授賞式に出席できなかったという稀有な例である。ウ=タントはビルマ出身でハマーショルドの次の国連事務総長。
13.慶應義塾大 法学部(8つめ)<種別>難問
<問題>2 1990年代に安全保障理事会によって設立された国際刑事法廷においては,様々な国や武装勢力の指導者が戦争犯罪などにより訴追されており,2006年に死去した (43)(44) もその一人である。
16.カラジッチ 18.金正日 29.ティトー 43.ピノチェト
49.ポル=ポト 52.ミロシェヴィッチ
(編註:関係のある選択肢のみ抜粋)
<解答解説>
社会人の歴史好きだと,国際刑事法廷に訴追され,その後に死去した人というとミロシェヴィッチ(ミロシェヴィチ)の印象が強く,すぐに正解を出せるだろう。しかし,
当時の記憶が無く歴史として習うほか無く,かつ問題文にセルビア(あるいはユーゴスラヴィア)と明示されていない状態の受験生が,54個の語群からそれっぽい人を探すとなると話が別であろう。金正日が逮捕されたという話は聞かない,ティトー(チトー)とポル=ポトは活躍年代から言ってさすがにもっと前に死んでそう(実際にそれぞれ1980年,1998年死去)と推測してこれらを消せるくらいではないか。なお,ポル=ポトについては実際には危うい推測で,ポル=ポト派の幹部には2025年2月時点で存命の人物がいるから,本人が2006年に死んでいてもまったくおかしくはない。おまけにカラジッチ(カラジチ)という受験世界史では全く見ない人名まで入っていて,見知らぬ人名を選ばせる問題ではないかと疑いを持つことにもなる。見知らぬ人名という点ではウ=タント,ハマーショルド,ピアソンも同様なので4名もおり,これにピノチェトとミロシェヴィッチも合わせて実質6択,受験生には非常に厳しい。
なお,カラジッチはボスニア・ヘルツェゴヴィナの政治家で,ボスニア紛争でジェノサイドに関与した罪で逮捕され,戦犯法廷で裁かれて終身刑となった人物である(2025年2月時点で生存)。つまり,本問の解答上では死去したこと以外にミロシェヴィッチとの差異がない。仮にカラジッチが高校世界史上で著名な人物であったなら本問はミロシェヴィッチとカラジッチを2025年2月現在の生死だけで判断する激烈な難問となっていたが,カラジッチの名前を知っている受験生が皆無に近いため“不発の罠”となった。
大概の場合,受験生が全く知らない人物が選択肢にあった方が問題の難易度は高いのに,全く知らない人だったので迷う材料になりえなかったという点で,本問は極めてレアなパターンである。ついでに言えばピノチェトの没年はミロシェヴィッチと同じ2006年で,彼が選択肢にいる理由はそれだろう。これも没年から解こうとする受験生のために設置されていた罠だったのかもしれないが,ピノチェトの没年を覚えている受験生など皆無に近いため,2つ目の“不発の罠”である。不発の罠が2つもあるという点では凝っているが,
そんな世の中に気づくのが数人しかいなさそうな罠を仕掛けられましても。私自身,校正者に指摘されるまでどちらも気づかなかった。
(追記)
「不発の罠」について詳細に論じた補足記事を書いてもらったので,リンクを張っておく。14.慶應義塾大 法学部(9つめ)<種別>難問
<問題>Ⅱ [設問9] 下線部(ケ)に関連した以下の記述を読み(編註:
国際法), (73)(74) に入る最も適切な語句を〔語群〕から選び,その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。
日本における国際法受容の初期の1865年には,国際法の解説書の漢訳『 (73)(74) 』が開成所で翻刻された。
14.海洋自由論 26.戦争と平和の法 40.万国公法 41.万民法
(編註:関係のある選択肢のみ抜粋)
<解答解説>
おそらく歴史総合を意識した問題。総評にも書いた通り,
2025年は旧課程で学習してきた浪人生もいるため入試問題には配慮がなされるはずであった。その配慮が全く無い。正解は『万国公法』で,アメリカの国際学者が著した国際法についての書籍を,中国在住のアメリカ人宣教師が中国語に翻訳して1864年に出版したものである。翌年には早くも日本語訳され,当時の東アジアにおける西洋の国際法受容に強い影響を与えた。このため,国際法自体を万国公法ともいう。
本問は歴史総合の問題としても難しい。確認したところ,歴史総合の教科書全12冊のうち索引に「万国公法」が載っていたのは2冊のみ,しかも2冊とも前述した国際法の古い言い方として登場するだけで,書籍を扱っているわけではない。ついでに言うとこのうち1冊は発行部数が極めて少ない(右寄りの歴史観を採用している)明成社のもので,総合的に言って万国公法は歴史総合の用語とは言えない。日本史でも用語集頻度は③(最大は世界史と同じ⑦)で,標準レベルの用語とは言いがたい。一応,選択肢でそれっぽいものが『万国公法』以外だと『戦争と平和の法』くらいしかなく,まさか200年以上前の書籍である『戦争と平和の法』は無いだろうと消して選べるかどうかだが,現実的には厳しいだろう。
以前にどこかで,歴史総合の教科書が12冊増えたということは難関私大への餌が12冊増えたということで,歴史総合のマイナー用語からの出題がありそうだと書いたことがあるが,それが現実のものになった。
歴史総合は理念上も教科書を見ても用語を覚えさせる科目ではないことが明らかであるが,悪辣な作問者はそれも読み取れないようだ。15.慶應義塾大 法学部(10個め)<種別>難問
<問題>2 [設問10] 下線部(コ)に関連して(編註:
領土問題),日本の領土についての以下の出来事を古い順に並べたとき,その順番として正しいものを下の[01]から[06]より選び,その番号を (75)(76) にマークしなさい。
(a)小笠原諸島の統治開始
(b)樺太・千島交換条約の締結
(c)尖閣諸島編入
(d)竹島編入
(e)日清修好条規の締結
[01](a) → (b) → (e) → (c) → (d)
[02](a) → (e) → (b) → (d) → (c)
[03](b) → (a) → (e) → (d) → (c)
[04](b) → (e) → (a) → (c) → (d)
[05](e) → (a) → (b) → (d) → (c)
[06](e) → (b) → (a) → (c) → (d)
<解答解説>
これも歴史総合からの出題。
歴史総合は第二次安倍政権で成立した科目であることもあって,明治政府の国境画定を強調して教えることになっており,山川のものを含めて紙幅を割いている教科書がいくつかある。誤解の無きように言っておくと,私は悪いことではないと思う。とはいえ,そもそも歴史総合が細かい年号を覚える科目ではない以上,これは履修している現役生でも厳しい。すぐにわかるのは世界史でも学習する日清修好条規が1871年,樺太・千島交換条約が1875年というところまでで,あとは尖閣諸島はいかにも中国と揉めていそうだから早くても琉球処分よりも後,遅いと日清戦争頃までは決着していないだろうと推測できるくらいだが(実際に日清戦争中の1895年である),それだと[02][05][06]の3つが残る。3択からは運ではないか。
残った二つの年号だが,小笠原諸島の編入は1876年で,割と早い。欧米からの入植も進んでいたが,江戸幕府が早めに手を打っていたことで明治政府の主張が通り,日本の領有権が認められた。一方,竹島編入は日露戦争中の1905年とかなり遅い。なお,1905年となったのは偶然の一致で日露戦争とは全くの無関係である。これらの年号からe→b→a→c→dとなって正解は[06]。
さて,総評にも書いた通り,慶應大・法学部は2025年から大きく出題形式が変わり,試験時間が60分から90分に増加,マーク式の設問数は50から40に減少,代わりに300字の本格的な論述問題が2問追加された。例年の慶應大・法学部はマーク式50問のうち,正式収録した問題とグレーゾーンの問題を合わせて約15個(全体の約3割)は難問・悪問が出題されている。2025年は収録対象が10問,グレーゾーンが3問で計13問であったから,全体の約3割が難問・悪問という割合はほぼ変わっていない。グレーゾーンのものはTPPの当初の参加国数「12」のほか,日本の委任統治領を経てアメリカの信託統治領となり1994年に独立した地域というヒントで正解が「パラオ」,縄文海進についての正誤判定である。
300字論述は書き慣れていても約20〜25分かかると見込まれる。よって今まではマーク式50問に60分当てられたのに対し,2025年は90分のうち約45分を論述に取られるため,マーク式の40問に当てられる時間は残りの約45分である。例年よりもやや忙しない解答時間になったと言える。まあ,マーク式がこんな惨状なので,300字論述2問を先に書いてから,マーク式は余った時間で正解がわかるやつだけ解くというのが,これからの受験生の戦略になるだろうか。
300字論述の2問が適正な良問で,特に国立大の受験生は楽に書けるものだったのが不幸中の幸いである。配点がマーク式40問で80点,論述35点の2問で70点と想定されることも考慮すると,私大専願型の受験勉強をしてきた子を排除したくなったのかもしれないし,そういう深謀遠慮は無いかもしれない。
毎年書いているが,
慶大・法学部の作問者の方へ。どうしても難問を出したいのは学部の方針であろうから仕方が無いとしても,であれば出題ミスは極力減らしてほしい。教科書に載っていない,あるいはマイナーな掲載の内容を問うのであれば,せめて答えが無かったり複数正解があったりするということは避けるのが作問者としての最低限の倫理観であると思うのだ。毎年のように難問に混じって出題ミスやそれに近いものがあるのは異常であり,この状況を当然と思うのは感覚が麻痺している。丁寧な作問をお願いする。振り切ってしまう気持ちがあるのなら,もう300字論述が4問という出題でもいいのではないか。繰り返すが,論述の2問は良問であった。
更新ご苦労さまです。25年度も心待ちにしておりました。言うタイミングを失っていたのでご報告させていただきますと、24年度で大学を卒業し、私立の高校で地歴科の教員として就職することとなりました。これから名前変わると思いますが、変わらずよろしくお願いいたします。
25年度における慶應の所感は新課程を意識している関連は同感でしたが、特に日本史が浪人生涙目であったと感じております。経済学部においては、問1が世界史のものと全く同じで完全なる世界史Aの範囲でした。このあとの文学部、法学部においても、どう見ても世界史の範囲(例えば、インドシナ戦争関連の記述[文]や日仏協約[法])のものもありました。
一方で世界史では、日本史の範囲が出題されたものがほぼなく(収録されている法学部くらい? なお慶應みらいくんの問題は不明)、歴総がわかんなくとも問題ない範疇に収まっていた印象です。どうにも足並みが揃わない印象です。こういう慶應に関しては、正直共通テストよりもタチが悪いを感じましたね。
ところで、文学部においては上記以外にもOPEC内加盟国でベネズエラを答えさせる問題は範囲内なのですかね? 用語集にも見当たらなかったです。
法学部においてはなんかこう、18〜20年度のような難問傾向への回帰がなされているのではないのかと考えております。日本史でもそうでしたが、「論述だしとけばええやろ」と考えているですかね?
更新ありがとうございます。いつも楽しく読ませて頂いてます。ゆげ塾について当ブログで触れてるの初めて見た気がするので、新鮮な気持ちになりましたね。慶應法は今年も激ヤバ問題でしたか。そういえば私は一橋の学生なのですが、サークルの交流会で慶應法の方と話したときに「一橋の世界史ってエグいですよね」「そういう慶應法こそヤバいじゃないですか」「あんなん6割取れば受かりますから」みたいな世界史の問題の狂い加減でお互いをリスペクト(?)しあう謎の現象が起こりました。個人的に慶應法は一橋よりきついと思います。精度も細かすぎる上に分野も偏ってないので対策のしようがないですから。一橋は(例外はあるものの)対策してればある程度は食らいつけるので......ただしアフリカ史と泉州とフス戦争、テメーらはダメだ
宋は割と毎年どこかで(論述が)出題されているような気がするので,流行りというほどのものではない気がします。唐宋変革にせよ澶淵の盟にせよ書かせやすいので,出したくなる気持ちはわかりますね。