株価というものを、
私はずっと「動く数字」だと思って見ていた。
上がった、下がった、
高い、安い。
ニュースが騒ぎ、板が揺れ、
人の心がざわつく。 📊🌪️
けれど、ある本を読んで、
その見え方が少し変わった。
株価は、
二つの要素に分解できると書かれていた。
ひとつは、
企業の実体。
その会社が何を作り、どう稼ぎ、
どんな強さや弱さを持っているのかという、
変わりにくい「本体」の部分。
もうひとつは、
人がそれをどう思っているか、ということ。
期待、不安、流行、恐怖、希望。
つまり、光の当て方だ。 ✨🔦
株価とは、
実体に光が当たって、
地面に映し出された影なのだという。 🌑
影は揺れる。
光が少し動くだけで、
同じ実体でも、影の形は変わる。
実体は、そう簡単には変わらない。
工場が一夜で消えるわけでも、
技術が昨日と今日で別物になるわけでもない。
けれど、
人の心は一瞬で変わる。
楽観すれば影は伸び、
恐怖に染まれば影は縮む。
だから株価は、
日々、瞬間ごとに動く。 ⏳📈📉
この構造を理解したとき、
「割安」「割高」という言葉の意味も、
少し静かに見えるようになった。 🌾
それは単に、
株価が安いか高いか、ではない。
今、この影は、
実体に対してどんな光で照らされているのか。
過剰に明るすぎないか。
不安という名の影が、
必要以上に濃くなっていないか。
相場環境という大きな照明の下で、
この影は歪んでいないか。
株価を見るということは、
影だけを見ることではない。
影と、
影を生んでいる実体と、
その上から差し込む光を、
同時に想像することだ。 🌓
そして忘れてはいけないのは、
影は影にすぎない、ということ。
踏めば消える。
追えば逃げる。 👣
だから私は、
影に振り回されないように、
時々、立ち止まって
光の向きと、実体の輪郭を確かめる。
株価は、揺れ動く影。
本当に見つめるべきものは、
その奥に、静かに立っている。 🤍
夜中 🌙
眠りの底に
低い音がゆっくり混ざる
遠くで
明かりが
ちら
ちら
ちら ✨
夢かと思って
目を閉じると
それでも音は消えない
ああ
今日も
誰かが
道を残してくれている ❄️
雪は
誰の事情も聞かずに
ただ積もる
人は減り
回数は減り
それでも
ゼロにはならない
夜を選ぶ人がいる 🚜
誰にも見られず
誰にも褒められず
それでも
ハンドルを握る人がいる
あなたが削っているのは
雪だけじゃない
朝の不安
通れないかもしれないという
小さな恐れ
その上を
誰かが何も考えずに
歩いていく 👣
それでいい
それが仕事なんだと
知っている背中
エンジン音が
遠ざかると
街はまた
静かになる 🌨️
その静けさの中に
確かに
あなたの跡がある
今夜も
ありがとう
夜を削る人へ
静かな敬礼を ❄️🚜🌙
呼ばれていない場所に
無理に声を置かなくていい ⭐
期待されていない沈黙は
責められもしない
ただ、そこにある
近づきすぎると
役割が生まれてしまう
離れすぎると
関係だと呼べなくなる
その間の
名もない距離 🌙
星を置く義務も
手を振る責任もなく ⭐
ただ
今日もそれぞれ
元気に息をしている
反応しなくていい
理解を示さなくていい
正しさを共有しなくていい
自由は
選ばないことも
選べるということ 🌙
私は
何もしない自由を
静かに選ぶ ⭐
そして
何も壊れない 🌙
人と関わっていると、
ときどき奇妙な感覚になることがある。
その人の今の姿と、
少し先の姿が、
同時に見えてしまうような瞬間。
🌫️
言葉にすると大げさだけれど、
予言でも直感でもない。
ただ、時間の層が少しずれて重なって見えるだけだ。
今ここにいるその人は、
まだ自分の中にある価値を
自分の言葉で呼び出していない。
でも、その人が歩いていく先では、
それが静かに核になっている気がする。
それが、とてもいいものだった場合ほど、
胸の奥がざわつく。
🫧
「今は、まだ気づいていないんだな」
「でも、きっと辿り着く」
そうわかっているのに、
なぜか伝えたくなってしまう。
あなたは、もう十分に素晴らしいよ、と。
けれど、
その言葉は今のその人のOS(物事の捉え方)には
まだ差し込めないことも、同時にわかっている。
人は、自分の速度でしか
自分の場所に辿り着けない。
他人が先回りして
「そこがゴールだよ」と指さしても、
それはただの風景説明でしかなく、
実感にはならない。
だから私は、
言葉を飲み込む。
観測者でいる、という立場に戻る。
人の人生は、
編集できない。
どんなに善意であっても、
どんなに正しい評価であっても、
介入はできない。
それでも、
伝えたくなってしまう気持ちが消えるわけではない。
その間に生まれる、
小さな苦しさ。
何もしていないのに、
何かを抱えてしまったような重さ。
たぶんこれは、
わかることの副作用なのだと思う。
わかってしまうことと、
背負うことは違う。
そう言い聞かせながら、
今日も私は一歩引いた場所に立つ。
見えていることを、
心の中でそっと確定させて、
その人が自分の足で歩くのを待つ。
🌙
観測者でいることは、
無関心ではない。
むしろ、
とても静かな敬意なのだと、
最近ようやく思えるようになった。
株価というものは、
不思議な生き物だと思う。
数字で書かれていて、
📊 チャートもあり、
一見するととても合理的で、
計算できそうな顔をしている。
けれど、
あの上下運動を眺めていると、
どうしてもそうは思えなくなる。
📈 上がりすぎる夜があり、
📉 理由がよく分からないまま
崖から落ちるように下がる朝もある。
---
📖 ある本の中で、
こんな説明に出会った。
株価は、
人々の心理を映したものだ、と。
欲と恐怖。
🫀 この二つの感情のあいだを、
株価は振り子のように
ゆっくり、そして確実に行き来している。
---
✨ 欲が強くなるとき、
人は未来を少しだけ
明るく描きすぎる。
「この企業は、もっと成長する」
「世界は、このまま良くなる」
「今回は違う」
そんなストーリーが、
🧵 一本ずつ、静かに重なっていく。
すると株価は上がる。
実体以上に、
軽やかに、遠くまで。
---
🌑 反対に、
恐怖が広がるとき。
「もうダメかもしれない」
「想定外だ」
「何か、取り返しのつかないことが
起きている気がする」
理由は後から
いくらでも付け足される。
大切なのは、
😶🌫️ 恐怖が共有されてしまうことだ。
恐怖が共鳴すると、
振り子は一気に反対側へ振れる。
それが、
暴落だ。
---
ここで面白いのは、
企業そのものが
急に別の存在になるわけではない
という点だ。
工場が一夜で消えるわけでもない。
社員が全員いなくなるわけでもない。
昨日までの稼ぐ力が、
突然ゼロになるわけでもない。
変わったのは、
☀️ 光の当て方だ。
---
株価は、
企業という実体に当たった光がつくる
🌓 影だ。
光が弱ければ、影は短い。
光が強ければ、影は長く伸びる。
欲という光が強すぎると、
影は実体以上に大きくなる。
恐怖という光が極端になると、
影は歪み、輪郭を失う。
📏 暴騰や暴落とは、
影が異常に伸びた状態なのだ。
---
人間の欲と恐怖は、
なくならない。
理屈では分かっていても、
感情は勝手に動く。
だから振り子は止まらない。
行き過ぎては戻り、
戻りすぎては、また行き過ぎる。
株価の歴史とは、
この振り子が描いた
静かな軌跡なのかもしれない。
---
🌌 大暴落の夜、
画面に映る赤い数字を見ながら、
私はふと思う。
今、揺れているのは
企業なのか。
それとも、
人間の心なのか。
たぶん答えは、
最初から分かっている。
私たちが見ているのは、
企業そのものではなく、
🫥 欲と恐怖がつくり出した影なのだ。🌗
世代が変わるとき、
部屋の中にあるものの多くは、
静かに役目を終える。
それは、壊れたからでも、
価値がなかったからでもない。
ただ、次の時間には
合わなくなったというだけだ。 ⏳
昔から、
物は世代を越えるたびに減ってきた。
江戸の町では火事があり、
明治や昭和には移動と貧しさがあり、
多くの家財は自然に失われていった。 🔥🌊
だから「処分する」という行為は、
意識されることすらなかった。
必要なものだけが残り、
残らなかったものは、
語られずに消えていった。 🍃
それが、この百年ほどで変わった。
工業化と大量生産によって、
一代では使い切れない量の物が
一つの家に集まるようになった。
衣服も、家具も、道具も、
壊れる前に次の時代がやってくる。 🧥🪑
災害は減り、
家は残り、
物は静かに積み重なった。 🏠
そして、
世代が交代するその瞬間に、
「残すもの」と
「残らないもの」が
一気に可視化されるようになった。
受け継がれなかった者達は、
誰かに拒まれたわけではない。
それらはただ、
次の生活に居場所を持たなかった。 ❄️
重すぎる服、
今の動きに合わない道具、
使い方が共有されなくなった家具。
それぞれが、
かつては合理であり、
最善であり、
時間の中で選ばれた存在だった。 🧵
「捨てる」という行為が
語られるようになったのは、
物が余ったからではない。
時間の速度が変わり、
生活の形が変わり、
役割の交代が
人の判断に委ねられるようになったからだ。 🌬️
残す役目と、
手放す役目。
それは対立ではなく、
循環の中で
自然に分かれた仕事に近い。 🔁
保存されることで
時間をつなぐものがあり、
更新されることで
次の時間が始まる。 ✨
受け継がれなかった者達は、
失敗作ではない。
役目を終えただけの、
過去の正解たちだ。 🕊️
物は、
すべてが未来に渡る必要はない。
減っていくこともまた、
長い時間の中では
ひとつの継承なのだ。 ❄️⏳
❄️
このコートを手に取って、
最初に感じたのは重さだった。
ずっしりとした生地の量感。
今の服に慣れた身体には、少し過剰に思える。
鏡の前に立ってみると、
形はどこか現代的にも見える。
肩は柔らかく、いかにも昔のスーツのような硬さはない。
それなのに、どこか決定的に「今」ではない。
理由は、首元だった。
よく見ると、このコートには
スーツのジャケットについているような
はっきりした折り返しの襟はない。
いわゆる「ラペル」と呼ばれる形だ。
代わりに、フードからそのまま続くような襟があり、
それが胸のあたりまで大きく開いている 🌬️
あとから分かったことだが、
あの折り返しの襟というのは、
もともと前身ごろ――
胸の前に来るはずだった布を
外側に折ったものらしい。
折ることで、
表だった布の裏側が見える。
それが「襟」になっている 🧵
そのままでは形が定まらないので、
昔の服には、
その内側に少し硬い素材を仕込んで
形を覚えさせていた。
それを「芯」と呼ぶ。
このコートには、
そのはっきりした折り返しも、
しっかりした芯もない。
けれど、
「中に着ているものを見せるために、前を開ける」
という考え方だけが残っている。
身幅が太いのも、その延長だ。
この服は、
一枚で完結するためのものではなく、
中に厚みのある服を着ることを前提に作られている。
糸の太い、もさっとしたニット。
ジャケットのような、形のある服。
そうしたものを重ねた上に羽織るため、
布はたっぷりと使われ、
丈も長く、幅も広い 🧶
今の服は、違う。
中は薄く、軽く、
首元で完結する。
だから、
このコートの重さや広さは、
役割を終えてしまっている。
この一枚は、
きちんとした服と、気楽な服のあいだで
揺れていた時代の名残だ。
折り返しの構造を手放しながら、
その考え方だけを残した、
少し不思議な形 🍃
服は、
流行だけで変わるわけではない。
中に何を着るか、
どう動くか、
どんな時間を生きているか――
そうした生活の重なりが、
布の使われ方に現れる。
このコートは、
折り返された布の時代を、
静かに語っている ⏳❄️
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