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Megurecaのブログ

『職業としての小説家』 by 村上春樹

職業としての小説家
村上春樹
新潮文庫
平成28年10月1日 発行
令和6年9月20日 第4刷

 

小説とはなにか、という話題の流れで、知り合いが「村上春樹の言葉にインスパイアされた」というようなことを言っていたので、そういえば村上春樹にこんな本あったな、、と思って図書館で借りて読んでみた。

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裏の説明には、
”「村上春樹」は小説家としてどう歩んで来たか――作家デビューから現在までの軌跡、長編小説の書き方や文章を書き続ける姿勢などを、著者自身が豊富な具体例とエピソードを交えて語り尽くす。文学賞について、オリジナリティーとは何か、学校について、海外で翻訳されること、河合隼雄氏との出会い……読者の心の壁に新しい窓を開け、新鮮な空気を吹き込んできた作家の稀有な一冊。”
とある。

 

平成28年ということは、西暦2016年。およそ10年前の本。

村上春樹は1949年(昭和24年)、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。その後『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』・・・・活躍は、The list goes on。

そんな村上さんが、数年間にわたって書き溜めたものを、講演で語るかのように書き直したらしい。小説家を目指す人に参考になれば、という思いもちょっとはあった様子。

 

目次
第一回 小説家は寛容な人種なのか
第二回 小説家になった頃
第三回 文学賞について
第四回 オリジナリティーについて
第五回 さて、何を書けばいいのか?
第六回 時間を味方につける——長編小説を書くこと
第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み
第八回 学校について
第九回 どんな人物を登場させようか?
第十回 誰のために書くのか?
第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア
第十二回 物語のあるところ――河合隼雄先生の思い出
あとがき

 

感想。
へぇ、ほぉ、そうだったんだ!
と、私には、驚きの話がたくさんでてきた。


小説家になるためには、ということについての驚きではなく、村上春樹さんがデビュー以来文壇でさまざまな「批判」にもさらされてきたということ。「○○賞」へのこだわりがないというのは、断片的に目にしてきた気がするし、一時は海外で小説を書き続けたこと、アメリカで高く評価されていることなどは、対談などで聞いていた。でも、村上春樹って、そんなに「拒否反応」を受けていた時代もあったのか?と、驚いた。

だいたい、私は村上春樹ワールドの羊男とかに惹かれた派ではあるけれど、『風の歌を聴け』がデビュー作品だとは認識していなかった。私が、初めて村上春樹の作品をよんだのは大学生になってからだから、80年代後半、何冊かをまとめて読んだ気がする。

 

本書も含めて、村上さんは誰かに依頼されて書くのではなく、あくまでもマイペースで書きたいときに書きたいことを書いている、ということ。本書の目次が「第〇回」となっているのは、誰かに講演しているかのよう語りかけたかったから、ということ。猫や奥さんに講演するかのように、、、と。面白い。

 

あるとき、忽然と「小説を書く」ということが天からの啓示として振ってきたという。そして、〆切に追われるというような書き方をしたことがない、と。

これは、天性の小説家ということなのか。

 

よくわからないけれど、小さい頃から「学校の勉強より本を読む方がずっと楽しい」と思っていたそうだ。

 

全編通して、わたしは村上さんの小説との向き合い方に強く共感する。裏切られたことや、つらいこともあったということ。でもそれはそれ、自分は自分。世間との距離の取り方がうまい人なのだろうと思う。それは、つまり、自分がやるべきことを知っているということ。村上さんは若くして天命を知ったのだろう。小説を書くのが「本業」だと、ある日忽然と気が付いてしまった。しばらくはジャズ喫茶と両方やっていたけれど、「小説」と決めたら店を閉めて、書くことに専念したそうだ。

 

本業と言えるって、そういうことか…。私には天からの声はまだ降ってこない…。

megureca.hatenablog.com

 

村上春樹さん、すごいな。やっぱり、すごいな。

 

気になったところ、覚書。
・” 小説家が寛容であることには、 文学業界がゼロサム社会ではないということも、いくぶん関係しているかもしれません。”
プロスポーツの世界と違って、小説家の世界は、一人登場したからと言ってだれかが退場する必要はない。だから、小説家というのは、比較的寛容なのではないか?と。
司馬遼太郎さんと、同じことを言っている。

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くわえて、小説を一つ二つ書いて、賞を取るのはそんなに大変ではない。書き続けるということが大変なことであり、賞を取ったからと言って書き続けられる人はそうは多くない、とも。

 

・様々な文学賞について。村上さんは、賞には興味がなく、芥川賞に2年連続候補になったけれど、結果的には受賞しなかったことについて、あれこれ言われることの無意味さ、無関心さについて。
” だって僕が仮にその芥川賞を取っていたとして、それによって世界の運命が変わっていたとは思えないし、僕の人生が大きく様変わりしていたとも思えないからです。…(中略)…  僕が芥川賞をとろうがとるまいが、 僕の各小説はおそらく同じような種類の人々に受け入れられ、 同じような種類の人々を苛立たせてきたはずです。”

 

・音楽・映画の世界など、新しい文化を受け入れる流れについて。ビートルズの例をとって
” 彼らの音楽の革新性と質の高さが、 一般社会で正当に公正に評価されるようになったのは、 むしろ 後世になってからです。 彼らの音楽が揺るぎなく「古典」化してからです。”

新しいものは、最初、保守派に批判される運命にあるということ。そういう新しいものを受け入れる層をつくるのが教育の役割って、『共感の論理』にでてきた。

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・ オリジナリティーの話の中で、自分の納得いく作品が書けるようになってきたとき、自分の作品への批判がだんだん気にならなくなったという話から、ポーランドの詩人ズビグニェフ・ヘルベルトの言葉。
「 源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。 流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」

う~~ん、うなる一言。

”流れに乗って下っていくのはゴミだけだ。”

 

・映画『KAFKA/迷宮の悪夢』: スティーブン・ ソダーバーグ監督。1991年。 膨大な数の抽斗のついたキャビネットが並ぶ不気味な城の光景は、「ぼくの脳内の構造と、光景的に似ているかも」とおもった、と。アイディアの抽斗。

村上さんのアイディアの抽斗はいまのところ尽きることがないらしい。が、小説を書くときは小説だけを書き、エッセイなどは書かないようにするのは、抽斗から出すものがだぶらないようにするため、と。

 

・第7回、小説家とはどこまでも個人的でフィジカルな営みであるということ。もっとも重要なのは、「持久力」だと。断続的な作業を可能にするだけの持久力が絶対に必要だ、と。だから、村上さんは走る。
”基礎体力を身に着けること。 逞しく、 しぶとい、フィジカルな力を獲得すること。 自分の体を味方につけること。” それが、小説家に必要なこと。

うん、大事!体力、大事!

 

・”漱石の小説を読んでいていつも感心するのは 「ここでこういう人物が出てくることが必要だから、一応出しておきます」 みたいな間に合わせ の登場人物がほとんど一人も出てこないことです。 頭で考えて作った小説じゃない。しっかりと体感のある小説です。 言うなれば 文章のひとつひとつに身銭が切られています。 そういう小説って読んでいていちいち信用できてしまうところがあります。 安心して読めます。”

 

なるほど。前に、知人のお嬢さん(高校生)が「どうでもいい登場人物がでてくる映画が嫌いだ」といっていて、彼女は小説を読むのも大好きといっていた。なるほど、体感のある作品って、そういうところが共通しているのかも。

 

・一人称の作品をかいてきたけれど、『海辺のカフカ』で半分だけ三人称を取り入れた。
”2000年代には、三人称というあたらしいヴィークル(車)を得たことで、小説の新たな領域に足を踏み入れることができるようになりました。そこには大きな開放感がありました。 ふとまわりを見回してみたら壁がなくなっていた、みたいな感じです。”と。

 

そうか、私が好きな『風の歌を聴け』とかは、一人称、つまり「僕」が語る作品だったのか。『失われた時を求めて』も、基本は私が語っていて、書簡や別の章立てで他の人が語り出す。小説には、そういう「構成」による分類もあったんだ。

ほんと、そんなこと考えずに読んできた。

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・”僕が言いたいのは、ある意味においては、小説家は小説を創作しているのと同時に、小説によって自らをある部分、創作されているのだということです。”

これが、鴻巣さんの『小説、この小さきもの』のなかにある「 他者を書くということは自己を書くことであり、 自己を書くということは他者を書くことである。」とかぶっている。

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・第十回 誰のために書くのか?  自分のために書けばいいじゃないか、という話。
リック・ネルソンの『ガーデン・パーティ』という歌の歌詞。
”もし全員を楽しませられないのなら
自分で楽しむしかないじゃないか”
を引用し、
” この気持ちは 僕にもよくわかります。 全員を喜ばせようとしたって、 そんなことは現実的に不可能ですし、 こっちが空回りして消耗するだけです。 それなら開き直って、 自分が一番楽しめることを、 自分が「こうしたい」 と思うことを、 自分がやりたいようにやっていればいいわけです。 そうすればもし 評判が悪くても、 たとえ 本があまり売れなくても、「まあ、いいじゃん。 少なくとも 自分は楽しめたんだからさ」と思えます。”

本が売れる村上さんだからいえるんでしょう、と突っ込みたくなるところではあるけれど、そうして書いているものだからこそ、売れるのだろう。万人受けするものっていうのは、結局のところ毒にも薬にもならない、、、ってか。

 

・読者に対する感謝の言葉の流れで、
”・・そしてその一部は、ーーそれも決して少なくない数の人々ですーー同じ本をもう一度読み直してくれました。 場合によっては 何十年という長きにわたって何度も。 人によっては気の合う友達にその本を貸して読ませ お互いの意見や感想を交換し合います。 そうやっていろんな方法で立体的に物語を理解し、 あるいは 共感のありようを確かめようとします。 僕はそういう話をたくさんの読者の口から聞きました。 そしてそのたびに深い感謝の念を抱かないわけにはいきませんでした。 著者にとってはまさに理想的な読者のあり方だからです。 僕自身若い時にはそういう本の読み方をしていました。

 

ふむふむ。

学校や文学賞、世間、色々なものに対して、表に出てきて声高に私見を述べる人ではないからこそ、こうして「講演会」風に読み物としてだすことが、村上さんにとって大事だったのかもしれない。

 

自ら切り開いたアメリカでの活躍。流されず、源流をもとめた村上さん。

やっぱり、すごいなぁって思う。

やはり、好きな作家の本は、借りるのではなくて買うのが作家への応援だよな、と反省。買うと、捨てられなくなっちゃうので、借りて読める本は借りていたけど…。

知り合いが、2026年1月に新刊をだすらしい。こちらは小説ではないけど、購入しよう。

 

やっぱり、読書は楽しい。

 

 

 

 

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