今回は、「 <悲しい書籍問題> ” 参考書 ” を買うか、それとも ” 問題集 ” を買うか 」について少しだけ考えてみます。

学校の勉強で、受験対策で、本来は教科書(テキスト)だけですべて完結すればそれはそれでいいのですが、実際には殆どの学習者がそれぞれの科目の「参考書」もしくは「問題集」を購入します。
生徒、学生のいる家庭では、一時期「参考書」「問題集」の山が作られているのではないでしょうか?
しかし、「参考書」「問題集」というのは、大概その役割(テスト、入試)が終われば捨てられてしまう非常に ” 悲しい書籍 ” です。
最近では、ネットでその代わりができることも多いので、紙の「参考書」「問題集」の需要は減っていると思います。これはレコード、CDからストリーミングに殆どが移行してしまった音楽状況と同じかもしれません。
ストリーミング、サブスク、電子書籍等については、どうしても ” モノそれ自体を持っていたい ” という(私のような)古い人間とは違って、現代を生きる若い人たちはとても合理的、効率的であると思います。
とはいえ、本屋に行くと昔と何も変わらずそういった関連の書籍は非常に多くの棚を埋めています。
やはり、受験やテストといった切羽詰まった状況下においては、減ったとはいえいまだに紙の「参考書」「問題集」を必要とする人は一定数いるのでしょう。
物価の上昇にプラスして、紙の本が売れない今の時代に、個々の価格が上がってしまうことは仕方がないのかもしれませんが、ここ10年くらいの紙の本の価格上昇は限度を超えてしまっている、、、ような気もします(特に文庫本)。
と、愚痴はこれくらいにして、その人の ”経済 ” と、 ” 時間 ”の複合的な条件において、確実に捨てられる運命の ” 悲しい書籍 ”である、
” 参考書 ” を買うか、それとも ” 問題集 ” を買うか?
という問題があります。
両方買えて、両方消化できるのがいいのでしょうが、どうしても選択せざるをえない場合があります。
その際に、さてどちらを選ぶほうが効果的・効率的であるか? には当然所説ありますし、個々の状況にもよるでしょうが、一般的に、
(参考書を選ぶべき場合)
・基礎理解が不十分
まず概念や理論をしっかり理解する必要があるとき。
・体系的に学びたい
全体像を把握しながら進めたい場合。
・「なぜそうなるのか」を知りたい
単なる暗記ではなく、背景や理由を理解したいとき。
(問題集を選ぶべき場合)
・基礎は理解しているが定着していない
実践を通じて知識を使えるようにしたい場合。
・試験対策が目的
出題形式に慣れたい、時間配分を練習したいとき。
・アウトプット重視
「わかったつもり」を防ぎたい場合。
といった感じで扱われるようです。
多くの学校教育(小中高)においては、テストや入試をゴールとしている内容が多く、そういった面を考えると、もしどちらか一方を選択せざるをえないのであれば、
「問題集」の一択
になるように思います。
確かに「参考書」は教科書と違ったアプローチや周辺・背景情報などが記されているでしょうから、理解しやすいと考える人もいるのかもしれません。
しかし、大元となっている必要な内容は教科書に載っているのではないでしょうか?
教科書を見てもわからない、、、という人は、その同工程の「参考書」を見てもわからないことも多いと思います。
一方、「問題集」はというと、残念ですが殆どが” 記憶 ” の強化および定着という用途です。
このことは、いつも推奨している ”公文式 ”を考えれば理解できます。
”公文式 ” は、とにかく問題を解いて満点であれば、次の工程に進むという方式です。
そのことを ” 理解 ”とよぶのか? という批判も当然のように多くありますが、方略としては何も間違ってはいない、、、というより、対目的に関しては相当に(というより絶対的に)効果的・効率的だと思います。
ということで、
経済的、時間的にどうしても選択をしなくてはいけない状況になれば、小中高の場合には、「問題集」を買った方がいい
ように思っています。
勿論、これが大学での学習においては、本来は全く当たらないということは誰もが理解できると思います(何のために大学へ行くのかという問題ですね?)。
嘗て私が学生であった数十年前には、定期テストの前になると学校の門の前(校内ではない)に、 ” 過去問を売る簡易店舗 ”などができていて、それを買って乗り切る、、、みたいなとんでもない時代がありました(今は、ネットで共有したりしているんでしょうが、、、)。
ほんとに本末転倒なダメ学生でした、、、
今回は、「学習における ”赤の女王仮説(RedQueen's Hypothesis) ” の競争概念」 というテーマで考えてみます。

経営やマーケティングの文脈で、 ”赤の女王仮説(RedQueen's Hypothesis) ”がよく語られることがあります。
(赤の女王仮説:RedQueen's Hypothesis)
進化に関する仮説のひとつ。
「他の生物種との絶えざる競争の中で、ある生物種が生き残るためには、常に持続的な進化をしていかなくてはならない」という仮説。
敵対的な関係にある種間での進化的軍拡競走と、生殖における有性生殖の利点という2つの異なる現象に関する説明。
進化生物学者であるリー・ヴァン・ヴェーレンによって1973年に提唱。
「ヴァン・ヴェーレンの法則」「赤の女王競争」「赤の女王効果」などとも呼ばれる。
ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する人物で、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞から、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として用いられている。
ということですね。
”赤の女王仮説 ”を持ち出すコンサルや研修業者はとても多い実感があります。
” 企業競争 ”の中で、
「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」
というのは、おそらく真実でしょうし、経営者としては誰もが「そうだ」というでしょう(そして意味のないコンサルに無駄金を払い続ける)、、、
このことは「学習」にも共通したことであり、「学びをとめない」とか「学び続ける」といったトレンドの元ネタ(?)になっているような気もします。
ただ、そういったことを言う人の考えには、企業経営と同じで「他者との競争」という概念をバックグラウンドとして持ち込んでいることが多いように思います。
(他者との競争としての学習における意味合い)
環境や基準が常に変化するため、学び続けなければ現状維持すらできない。
他者も学び続けているため、自分が止まると相対的に後退する。
努力して学んでも「前進」ではなく「現状維持」になることもある。
(他者との競争としての教育方略)
・継続学習を前提とした仕組みづくり
マイクロラーニング:短時間で学べるコンテンツを定期的に提供し、学習を習慣化。
ラーニングカルチャーの醸成:「学びは業務の一部」という文化を組織に根付かせる。
・変化に即応するアジャイル型教育
最新トレンドを即座に反映:技術や市場の変化に合わせて教材をアップデート。
スキルギャップ分析:定期的に社員のスキルを評価し、必要な学習を迅速に提供。
・競争的・協働的な学習環境
社内ラーニングコミュニティ:知識共有やディスカッションを促進。
ゲーミフィケーション:ランキングやバッジで学習意欲を維持。
・「学び方を学ぶ」能力の強化
メタラーニング:自分に合った学習法を理解し、効率的に学べる力を育成。
自己調整学習:目標設定・進捗管理・振り返りを支援するツールを導入。
・評価指標の再設計
静的な知識テストではなく、適応力・更新力を評価。
学び続けること、学びを ” 習慣化 ”すること、新しい内容にチャレンジすること等は非常に重要なことだとは思います。
しかし、「他者との競争」の概念を「教育」や「学習」に求めることはどうも違う感覚があります。
勿論、現在の中学・高校・大学などの入試というモノは、 ” 他者との競争 ” になっている現実がありますから、仕方がないことだとは思います。
青臭い本質論を述べると、本来の「学習」は ” 自分のためのモノ ” であり、 ” 他者との競争 ” をして勝った負けたなどというモノではないはずです。
たとえ ” 選別 ”の入試であったとしても、インストラクショナルデザインや、多くの教育理論が述べている、
とし、基準とした合格レベル(前提知識)があるのであれば、そのレベルを超えた人はすべて合格とすることが求められます。
そのことがわかっている(?)はずの学校が、安易に相対評価をしてしまっているということは非常に残念なことです。
嘗てのように受験者数が膨大であり、相対評価で選別をしなければ学校運営ができない時代ではすでになくなってきているように思うのですが、、
こういった旧来からの文脈や構造のせいで、「赤の女王仮説」などを持ち出して、未だに「他者との競争」を煽るのではなく、せめて「競争」を煽ることが有効だと考えるのであれば、
「昨日の自分と、今日の自分と、明日の自分」
の「競争」を煽ってもらいたいものです。
今回は、< ”「60点」で出して、フィードバックを貰う「仕事が早い人」 の行く末 ” > というテーマで考えてみます。

昔からビジネス(書)関連の神話(?)的方略として、またコンピテンシー関連の(いい加減な)文脈において、
” 仕事が早い人の特徴 ”として、
「最初から完璧を目指さず、60点くらいでまず出して、フィードバックを貰うことにより、その仕事は完璧に近づき、早く終えられる・・・」
という ” 戯言 ”を信じきって疑わない人たちがいます。
これを実践すると、
自分には「能力があり」、「デキル奴」「シゴデキ」などと完全に誤解してしまう
ように思います(実際、このようなことをやる人を何人も見てきましたが、これまで高く評価したこともありませんし、少し考えれば誰でもわかることですね?)。
「フィードバック重視」「失敗から学ぶ」ということの弊害もあるでしょうし、「生成AIの普及」、「タイパ思考」の流行も関係していると思います。
もしかすると、ある種の「仕事」においては ” スピード ” だけが第一に求められ、その精度や品質は問われない、、、という ” やっつけ仕事 ”もあるかもしれません。
それでも、そういうことをやっていると、
「仕事が早い ” だけ ” の人」
と認識されるだけで、その仕事自体も、
「早いだけで何の重要性もない仕事」
しか、その後も与えられないように思います。
つまり、目指したはずの「能力があり」、「デキル奴」「シゴデキ」には永遠になれないわけです。
最近では、「学習」においてもこのような方略を取り入れてしまう学習者が多くなっていて、大きな問題にもなっています。
以前にも記した、大学のレポートなどを「生成AI」をコピペして素早く提出し、フィードバックされた内容をまた「生成AI」に投げて、、、、というようなことが代表例ですね?
しかし、ここで考えないといけないことは、
「生成AI」も「フィードバック」も自分の能力ではなく、また答えでもない
という事実です。
何度も何度も記しますが、インストラクショナルデザインや主要な教育理論の考えは、
「完全習得学習」であり、「学習目標」を達成すること
です。
「生成AI」も「フィードバック」も自分の能力ではないので、「完全習得学習」もしていませんし、「学習目標」も達成できません。
また、「タイパ」というのも、
「かけた時間に対して得られる満足度や効果の高さ」
でしょうから、誤った満足感は得られるかもしれませんが、「効果」としては何もありませんね?
単純に「単位を得るため」だけが目標なら、まぁ、それはそれで理にかなっているようにも思いますが、、、(こういう人が多いことはわかってはいますが、、)。
いまさら何を、、と言われそうですが、なぜこんなことを冬の寒い日に考えたかというと、ウォーキングの途中でランダム再生している音楽で何年かぶりに「サヨナラCOLOR」を聴いて、、、、
” 楽がしたかっただけなの? ”
の歌詞で足が止まってしまったのです、、、
「仕事が早い ”だけ ” の人」になりたくない人、
何かを「学びたい」と思っていた人にむけて、、、
そこから旅立つことは
とても力がいるよ
波風立てられること
嫌う人ばかりで
でも 君はそれでいいの?
楽がしたかっただけなの?
僕を騙していいけど
自分はもう 騙さないで
サヨナラから 始まることが
たくさん あるんだよ
ほんとのことが 見えてるなら
その思いを 僕に見せて
今回は、「 ” 迷いをなくすこと ” は学習に有益なのか?」 というテーマで少し考えてみます。

胆略的、軽薄、即時判断が迫られ、それが素晴らしいともてはやされる「反知性の時代」を反映するように、巷には、
「迷いのない人がやっていること」
とか、
「優秀な人の判断には迷いがない・・」
といった書籍やニュース記事が溢れていて、教育専門家だとか、哲学者を名乗る ”軽薄な ” 人々が、
「学習する上で、” 迷いをなくすこと ” は非常に有益」
だと言っているようです。
(迷いを減らすことによりおこる作用)
・効率性の向上
明確な手順や答えがわかっていると、学習のスピードが上がり、時間を有効に使える。
・ストレスの軽減
迷いが少ないと不安や焦りが減り、学習に集中しやすくなる。
・初心者に有効
学び始めの段階では、迷いが多いと挫折しやすいので、ある程度ガイドラインがある方が安心。
・深い理解を妨げる
迷いは「なぜ?」を考えるきっかけとなり、迷わずに正解だけを追うと、表面的な暗記に偏りやすくなる。
・応用力が育たない
迷いの中で試行錯誤することで、問題解決力や柔軟な思考が養われ、迷いを排除すると、未知の問題に弱くなる。
・創造性の低下
迷いは新しい視点やアイデアを生む源泉であり、常に一本道だと、独自の発想が生まれにくい。
ということで、一般的には、
「基礎学習や初心者段階」には、迷いを減らす方が良い(ガイドラインや明確な答えが必要)
「応用・発展段階」には、迷いを残す方が良い(試行錯誤や探究が重要)
とされています。
たしかに、初歩では迷わずに言われたこと、書いてあることをそのまま鵜呑みにして、それを基本として学習していく、、、
そして、高度な学習段階においては、迷い、躓き、悩んで結論を得る、、
という考えは正論でしょう。
探究学習やPBLなどは ” あえて迷うこと ” を実践する方略です。
ところが、
「迷いのない人がやっていること」
「優秀な人の判断には迷いがない・・」
「学習する上で、”迷いをなくすこと ” は非常に有益」
という主張の対象は、ある程度高度な学習を必要とする人たちに思えます。
「深い理解」「批判的思考の促進」「記憶の定着」「創造性の源泉」には、” 迷うこと ” が必要
ですね?
” 迷うこと ” は、” 考えること ”
であり、
” 考えないこと ” は、” 反知性 ” の源
だと思います。
「時間の無駄」「コスパ」「ストレスレス」「信念」「アイデンティティ」などということが重視される(反知性の)現代では 、 ” 迷いがない ” ことが持ち上げられる風潮は仕方がありませんし、” AIさん ” に全てを教えてもらい、それを無条件に真実として受け入れる・・・・
そこには、
人間の「学習」は無い
ですね、、、
今回は、「指示忘却など本当に可能なのだろうか?」というテーマで考えてみます。

以前、 ”「忘れる学習」を忘れてしまった・・・ ~ 「想起強度」と「保存強度」 ~ ” でも似たようなことを内容を記しましたが、今回は少しだけ掘り下げてみます。
(指示忘却)
「忘れるように指示されると、その内容の記憶成績が低下する現象」を指し、心理学・認知科学の分野で研究されている「意図的な忘却」のメカニズム。
単に時間が経つことで忘れる(自然な忘却)のではなく、「忘れること自体を指示(教示)する」ことで能動的に記憶を抑制・削除しようとする能力(忘れる力)であり、脳の思考プロセスをクリアにし、集中力を高める効果も期待されている。
与えられた指示や命令を記憶から消去する、または意図的に忘れることを指す。
心理学・認知科学では、人が一度学習した指示やルールを忘れる現象を指すことがある。
AI・機械学習の分野では、モデルが過去に学習した指示やタスクを「忘れる」ことを意味する場合があり、「忘却学習(Unlearning)」や「継続学習(Continual Learning)」の文脈で、古い情報を消去して新しい情報に適応する仕組みを指すことがある。
(指示忘却のメカニズムと具体例)
・忘却の指示(教示)
覚えさせたい情報(単語や画像など)を提示した後、「この情報は忘れてください(忘却教示)」と指示。
・記憶テスト
その後、忘却教示された項目とされなかった項目をテストすると、忘却教示された項目の記憶成績が低下する。
・「忘れる力」の実践
Think/No-Think(思考/非思考)パラダイムなどでは、忘れるように指示することで、その記憶の表象(活性レベル)が低下することが示されており、思考の「渋滞」を解消するのに役立つ。
(指示忘却がもたらす効果)
・思考の整理
過去の不要な情報や、集中を妨げる思考を意図的に手放すことで、脳をすっきりとさせる。認知負荷の軽減。
・集中力・生産性の向上
必要な情報にのみ意識を向けられるようになり、作業効率が上がる。創造性の向上。
・「忘れる力」のトレーニング
現代社会で重要視される「忘れる力」の具体的な実践方法として注目されている。
(自然な忘却との違い)
・自然な忘却
時間の経過(減衰説)や他の記憶との干渉によって起こる、受動的な情報の喪失。
・指示忘却
「忘れる」という指示によって引き起こされる、能動的で制御された記憶の抑制・削除プロセス。 単に「忘れる」という行為を心理学的に解明するだけでなく、それを活用して認知機能を向上させる「心の筋力トレーニング」のようなものと捉えられる。
(指示忘却が問題になる場合)
・安全性や品質に関わる指示
製造業や医療など、厳密な手順が必要な場面では忘却は重大なリスク。
例:安全マニュアルを忘れると事故につながる。
・基礎知識の喪失
学習の土台となる基本ルールを忘れると、応用力が低下する。
といったことです。
さて、” 指示忘却など本当に可能なのだろうか? ”
AIならともかく、人間が対象の場合には、なかなか難しいことのように思われます。
指示されて忘れる、、、ことは本当に可能なのでしょうか?
いくつかの心理学の実験では証明されているみたいに言いますが、かなり眉唾モノですね?
天邪鬼な私などは、忘れろと指示されれば、逆に記憶にずっと残ってしまうように思います。
一時、「忘れる学習」などといういい加減な高額研修が流行りましたが、やはり終焉をむかえたようです。
湯川秀樹のような優秀な人たちの何人かは、「意図的な忘却」を推奨していたようですが、凡人には非常に難しいことのように感じます。
それならまだ、アインシュタインのように不要なモノは最初から記憶しないと決める、、、ほうがいいと思います。
一般人は、「忘却は自然に任せる」方がいいのではないでしょうか?
記憶すべきものは何度も強化・符号化すればいい、、、というか、それが学習ですものね?
今回は、「 選別試験に何を求めるのか? ~ ” 総合型選抜 ” の中途半端さ ~ 」 というテーマで少しだけ考えてみます。

学校のテストや入試というモノは、基本的に「選別試験」です。
(選別試験)
ある基準や条件に基づいて対象を評価し、合格・不合格を判定する試験のことであり、目的は「適格者を選び出す」こと。
(入試)
定員に対して適切な受験者を選抜する:学力や適性を測り、合格基準を満たす人だけを選ぶ。
教育機関のレベルに合った学生を確保する:学習についていける能力を確認する。
(特徴)
定員制の場合、他者との比較で選抜(相対評価)。
基準点を満たせば合格(絶対評価)。
・公平性・透明性
試験問題や採点基準が明確であることが重要。
ということです。
学校でのテストは順位をつけ、その順位や偏差値という意味不明のモノにしたがって受験できる学校を限定したりします。
これも入試と同じで、意味合いとしては「選別試験」です。
そして、その「選別」の方法を変えよう、、という動きがでてきました。
一発勝負の学力試験をやめて、かつてはAO入試 とよばれた「総合型選抜」制度を取り入れる学校が増えてきています。
(総合型選抜(旧AO入試)
・評価基準
大学・学部が定める「求める学生像(アドミッションポリシー)」に合致するかどうか。
・評価内容
学力だけでなく、学習意欲、目的意識、個性、主体性、多様性、協働性など。
・選考方法
面接、小論文、プレゼンテーション、グループディスカッション、実技、自己PR、ポートフォリオ提出など多様。
・特徴
一般入試より早い時期(6月頃から)にエントリー・選考が始まり、年内に合否が決まる場合もある。
・大学・短大の変化
学力不問だった旧AO入試から、学力の3要素を評価する「総合型選抜」へ移行し、学力評価が必須に
学校時代の成績を考慮して、総合的に「選別」を行うということのようで、AO入試に成績を加味して、、、ということのようです。
しかし、この方式はどうでしょう? 相当な問題があるように感じます。
何が問題かというと、「AO入試」「推薦入試」とほとんどかわらないということです。
今の制度では、その学生の成績は、 ” その学校内の成績 ” でしかないわけです。
” 学校によっても、学年によっても、レベルも人数も何もかもが違う ” のに、それをそれぞれの学校の評価で決定するということです。
スポーツや芸術関連などの推薦は、ある程度の外部実績を残していなくてはダメなので、それなりの信憑性はありますが、
「その学校内だけの学力」や「学習意欲、目的意識、個性、主体性、多様性、協働性」など客観的な評価のできないモノ
の歩合が大きくなるということには大きな問題があります。
過去の「推薦入試」でも、入ったのはいいが、結局は前提知識もなく、その学校のレベルついていけずドロップアウトしたりするということが多々ありました(今もあります)。
一発勝負の学力入試が絶対的にいいとは全く思っていませんが、今全国的に広がりをみせている「総合型選抜」という「選別」ではすぐにでも破綻がくると思います。
もしも、「総合型選抜」を主流にするのであれば、一発勝負ではない、全国の生徒・学生を対象とした同じ問題のテストを学年別で、年に数度行い、その数値によって「選別」すべきだと思います。
そういう制度をとれば、入試前だけしか勉強しないとか、体調が悪く入試で普段しないミスをしてしまったとかいうことがなくせるだけでなく、生徒・学生が自分が目指せるモノ、学びたいモノを明確に認知できるように思うのです。
そういった成績で、上位10%のほとんどの人が国公立の医学部に行っても、それはそれで仕方がないことだと思います。
選別試験に何を求めるか? ということを根本的に理解していない国や学校のこのような方針や政策は、この国の「教育・学習」に対する認識・知識レベルの低さを表しているようにも感じられます。
「総合型選抜」や「推薦型」の強力な弊害が数年後にでてきて、全面見直し、、などという未来は確実ではないでしょうか?
何もかも(物価、税金以外は)が右肩下がりの原因は、このようなことにもある気がします。
今回は、” 「大学で学ぶ人」と「大学で学ばない人」の扱いについて ” というテーマで考えてみます。

・日本の大学は入りにくいが、卒業は簡単
・外国の大学は入るのは容易(お金があれば)だが、卒業しにくい
などといわれます。
一概にはいえませんが、大体は当たっているのではないでしょうか?
それを「文化」とか「構造」と考えることもできますから、どちらがいいとか悪いとかの問題ではありません。
外国に暮らしたことはないので実状はわかりませんが、日本の大学において、
・「大学で学ぶ人」
と
・「大学で学ばない人」
に別れるのは真実であり、その割合は「大学で学ばない人」が大部分を占めるのではないでしょうか?
勿論、 ” 人生や現実、社会を学ぶ ” などということなら、全ての人がその時間の中で学ぶとは思いますが、そういったことではなく、
入った大学でその ” 専門分野 ”について ” 徹底的に学ぶ ” かどうか
ということです。
最近はよく「中学3年生だけど、将来やりたいことがみつからない」などということがトレンドになっていたりしますが、それは現実でしょうし、日本でも外国でも同じように思います。
ただ、日本の場合は、一度でも失敗するとなかなか再度浮上することが難しい環境にありますから、一旦大学に入ってしまうと、やり直すには多くの困難が伴いますね(親族からのプレッシャーや周囲の目に、、、)?
一方、外国の場合は、一度社会人になってもお金をためて再度学びたいことを学ぶ、などということが社会的にも寛容であるように思います。
このような状況は、現実的にはなかなか変わりようがないので、とりあえずは ” そういうもの ” として捉える(本当はその構造自体を変える必要があるのですが)と、
日本の「大学教育」は、
「大学で学ぶ人」と「大学で学ばない人」の扱いを現状から変えることが必要ではないのか
と、考えるわけです。
まずは同じ学部でも、最初からクラス、コースを分ける必要があります。
などというと、
「現実的ではない!」
とか、
「学ばないクラスなどを誰も選ばない」
と思うかもしれませんが、
・「修士・博士課程進級コース」
・「学士卒業コース」
という名称にでもすればいいだけのことです。
「修士・博士課程進級コース」=「学ぶクラス」
「学士卒業コース」=「学ばないクラス」
です。
勿論、1年単位でクラスの移動もできるようにしますし、「修士・博士課程進級コース」でも4年で卒業して就職することも許可します。
当然、「修士・博士課程進級コース」=「学ぶクラス」では、徹底的に厳しく詳しく学ばせ、卒業も専門知識を習得しないかぎりはできないようにします。
「学士コース」=「学ばないクラス」は、ゆるく、適当に、、、現在の日本の大学がやっているような安易な卒業を可能にします。
「学士コース」=「学ばないクラス」を選択する人は、基本的に就職するためだけに大学名、学士資格がほしい人ですから、「学ばなくていい」わけです。
これは、教育の平等性の問題などではなく、需要と供給の問題です。
と、戯言みたいな話ですが、 ” 専門性を学ぶ前から就活が始まるような歪んだ社会構造 ” を打破するには、これくらいのことをやらないと何も変わらないように思うのです。
今回は、” 今の時代に「文武両道」はそれほど称賛されるべきことなのか? ”というテーマで少しだけ考えてみます。

高校生の野球やサッカーなどの大会で、
「〇×高校は、県内有数の進学校で、文武両道を実践しています!」
とか、
「キャプテンの▽◇くんは成績優秀で医学部進学を目指しています・・」
みたいなフレーズをどれだけ聞いたことでしょう。
「文武両道」 = 「素晴らしい」 = 「理想」
のようなイメージは多くが持っていると思います。
(文武両道)
学問や文化の面(文武)と、武芸・運動など身体面(武道)両方に優れていることを意味する。
現在では「勉強とスポーツの両立」に使われることが多く、努力とバランスを評価する言葉として好意的に用いられる。
・古典での使用
『史記』にある「文事ある者は必ず武備あり」という記述から、学を修める者は武も備えるべきという考え。
・中世・近世における受容
『平家物語』にある「文武二道の達者かな」という表現は、すでに「文武両道」の理念が称賛されていた証拠であり、武士や豪士の中で文化的素養と戦闘技能の両立が理想とされた歴史的背景がある。
ということで、大昔から人は、「文武両道」が大好きなようです。
確かに、スポーツも勉強も両方できるということはコンピテンシーとしては優れたものがあるとは思います。
そして、「教育・学習」においても多くの人や学校などがそれを理想としたり、有用だというようなことを言ったりしています。
(文武両道と学習効果)
・認知機能の向上
運動は脳の血流を増加させ、記憶や集中力を高める効果があり、有酸素運動は海馬(記憶を司る部分)の働きを活性化し、学習効率を上げることが科学的に示されている。
・ストレス軽減とメンタル安定
学業だけに集中するとストレスが溜まりやすく、スポーツを取り入れることでストレスホルモンが減少し、気分が安定する。学習へのモチベーションも維持しやすくなる。
・タイムマネジメント能力の向上
文武両道を実践するには、限られた時間を効率的に使う必要があり、計画性や自己管理能力が鍛えられ、社会人になってからも役立つスキルとなる。
・成績への影響
研究によると、適度な運動をしている学生は、運動を全くしない学生よりも学業成績が良い傾向がある。しかし、過度なスポーツ活動は逆効果になる場合もある。
・社会性・リーダーシップの育成
スポーツを通じてチームワークやコミュニケーション能力が養われるため、学習面だけでなく人間関係やキャリア形成にもプラスになる。
というようなことが通説ではあります。
しかし、現実には
文武ともに ” とびぬけて優れている ”という人には、これまであったことがありません。
それはそうですね、野球なら野球だけ、学問なら学問だけを専門でやっている人のほうがその分野で実績を残すことは当然のことです。
それだけでなく、企業においては、どちらかというと業務の弊害になるような人が多かった気もします(完全に偏見ですが)。
とにかくが ” 中途半端 ” になりがちだと思うのです。
そういう私自身も、中学はテニス、高校はラグビー、大学では音楽、、などを必死にやっていて、それでもそこそこの大学には行かないと、、などと考えていたため、それなりに勉強をしていました(ほんとに中途半端でした)。
その結果、企業では、妙な知識(情報)だけはあるものの、実務をやらせれば中の下、、みたいな状況であったと思います(そこで、このままではダメだと思い「教育・学習」について何を置いても勉強して、小さな道が開けたわけですが、、、)。
今、そしてこれからの人に求められるものは? と考えると、これだけ AI やIT技術が進歩している時代ですから、” 中途半端 ” な文武の能力だけでは普通のサラリーマン生活さえやっていけなくなるように思うのです。
「文武両道」を称賛し、奨めるのではなく、
「文」でも「武」でもどちらかに ” 全振り ” することが求められる
ように感じてなりません。
もちろん、体(健康)も知識もバランスをとることは大事ですが、せめて、ある一定期間は「専門」を身に着けるために邁進しないと厳しい未来が待っているように思ってしまいます。
大昔、バブルの時代に ” ファジー ” などというコトバがはやりましたが、(あの狂気の時代ならそれもよかったのかもしれませんが)「文武両道」とはどちらにも全振りしないファジーな考えであり(タスクスイッチングは余りにもムダが多すぎます)、それを称賛する文化に少しだけ疑問を持っています。
幸いなことに人はやり直すことができますから、行き詰ったり、違うなと感じたら軌道修正すればいいだけのことです(なかなかやり直しのできないこの国の学校・企業・社会構造に問題はありますが)。
人間はシングルタスクしかできないですしね・・・
今回は、「積読 (つんどく) のススメ Part 9」です。

”積読 ” は際限なくどこまでも(?)進んでいきます。
とはいえ、”積読 ” の 弱点は、” 寒さ ”にあるようにも思います。
エアコンをかけて、布団に入って、、、”積読 ” をしていると、いつの間にか ” 寝落ち ” していることがあります。
たとえ ” 寝落ち ” するまでいかなくても、瞼がだんだん重くなり、思考は混沌とし、、、ということが度々です。
それでも、難解な(?)内容の本を読んでいるうちはそれなりに集中力が続くのですが、単純な歴史や記録モノはなかなか厳しい感じです。
夏や秋には順調に日々進んでいたので、年齢のせいでもないような気がします。そうなると、やはり ” 寒さ ” しか原因はないように、、、
ということで、今読んでいる3冊を紹介(amazonの解説)、感想を記していきます。
「アメリカ教育革命: ヘッドスタート・プロジェクトの偉大なる挑戦 /エドワード・ジグラー(著),スーザン・ムンチョウ(著),田中 道治 (翻訳)」
貧困家庭の子どもの教育援助を目的として発足した、ヘッドスタート・プロジェクトは、今日ではより総合的で革命的な学習保障計画にまで発展してきている。プロジェクト発足から、20数年間のアメリカ教育の試練の歴史をたどる。
この本は、「教育革命」というタイトルに惹かれて何も考えずに 110円(!)で購入したのですが、内容は「教育」の前提である「くらし」への国全体でのの援助プロジェクトという話で、「教育」自体はデューイやモンテッソーリのモデルなどが若干出てくるだけで、その次が(具体的な教育プログラム)あまり語られていませんでした。
現在の ” 狂気のアメリカ ” では、このような「教育」に対する援助はおそらくほとんどなくなっているように想像されますが、” 正気な時代のアメリカ ”ではこの国とは「教育」に対する考えがかなり違うのだということを再認識させられました。
とはいえ、時代が時代だということもありますが、このプロジェクトに国が飛びついたのは「IQが上がる」という無意味な成果であったということは少し考えさせられる部分ではあります。
それと、翻訳が圧倒的に稚拙でした、、、、
「哲学塾授業 難解書物の読み解き方 / 中島 義道 (著)」
著者・中島氏が開いた私塾「哲学塾カント」。「読み込みたい」人なら誰でも歓迎。名著の解読から哲学の意味を考える授業風景を公開。
1 ロック『人間知性論』
2 カント『プロレゴーメナ』
3ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』
4ニーチェ『ツァラトゥストラ』
5キルケゴール『死に至る病』
6サルトル『存在と無』
この本は、著者が先生となって生徒の人たちに各哲学書のフレーズを読ませて、どういことを言っているのか、、を各自に発表させ、それを追加、訂正、説明していくという形式で、非常に面白く読みました。
先生の各哲学者の考察には、かなり偏見がはいっているようには思いますが、さすがに塾をやるだけのことはあって、哲学者の考えを知るにはとてもお手軽(?)な感じがします。
とはいえ、こういった塾で問い詰められるのはいい感じはしませんね?
「嘘の歴史 序説 /ジャック・デリダ (著), 西山 雄二 (翻訳)」
晩年のデリダが1997年におこなった講演録。プラトン、アリストテレス、ルソー、カント、ニーチェ、ハイデガー、フロイトを参照しつつ、時代や文化によってことなる嘘の概念の歴史を問い、とりわけアーレントとコイレのテクストを読解する。意識的に嘘をつくことと知らずに間違うことの差異を明確にし、嘘の概念を脱構築的に問い直す。村山富市元首相の1995年の日本軍の戦争犯罪を認めた戦後50年談話や、ヴィシー政府の戦争中のユダヤ人狩りいう犯罪的行為を認めたシラク元大統領の発言などを具体的に論じながら、現代の政治的な嘘をアクチュアルに考察する味読すべき小著。
「嘘」という1つのテーマで、よくもここまで語れるなぁ、、というのが最初の方の感想です。さすがに一時代の寵児となっただけのことはありますね?
内容は難しすぎて、正直私の前提知識や知能ではなかなかついていけませんが、それはそれで仕方ないことです。
デリダやドゥルーズがスターだった時代には、この国や世界にも知性や理性というものがまだあったのでしょう、、、、などと考えてしまします。
ということで、かなりペースダウンしてはいますが「積読の旅」は永遠に続いていきます。
今回は、” 「人間は教育によってはじめて人間になることができる」のか? ” というテーマで少しだけ考えてみます。

「人間は教育によってはじめて人間になることができる」
というのは、カントが言ったとされる(真相は不明)有名なコトバです。
人間というものが完成するためには「教育」が不可欠であり、「教育の目的」は、社会の発展のための「手段」としての人材育成ではなく、人間の「人格」を完成させることそのものにある。
人間に備わるべき道徳的規範を教え、その上で個々の知識や能力を、社会や他者のために活かすことの重要性を教えるべきだと考えた。
ということのようです。
このコトバを言ったとされる講義の内容は、弟子(?)によって「教育学講義」として出版されました。
(カントの「教育学講義」)
講義の目的:家庭教師や学校教師の養成であり、教育学を学問として基礎づける試み
・教育の基本命題
「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」「人間は教育によってはじめて人間になることができる」
動物は自然のままで完成するが、人間は理性を持つため、教育によって人間性を完成させる必要がある
・教育の構造
(1) 自然的教育
養育(保育・扶養):生命維持や危険回避のための配慮。
動物にも見られるが、人間にも不可欠。
(2) 実践的教育
訓練(訓育):衝動を抑え、社会生活に適応させる。
教授(知育)と陶冶(人格形成):知識・技能の習得と人格の形成。
特に「道徳教育」を重視し、人格性のための教育と位置づける。
・実践的教育の三要素
熟達性:技能や知識の習得。
世間的怜悧:社会で技能を活用する能力。
道徳性:自己を律する力。カントはこれを最重要視し、定言命法に基づく無条件の道徳律が教育の核心。
・教育の最大の課題
「法的強制に服従することと自己自身の自由を使用する能力をどのように調停するか」という問題。教育学的アンチノミー(自由と強制の矛盾)。
・ルソーとの関係
カントはルソー『エミール』に強い影響を受けたが、ルソーの「自然に帰れ」をそのまま採用せず、文明化と道徳化を区別し、学校教育における強制を重視。
とのことです。
「人間は教育によってはじめて人間になることができる」
偉大なカントが本当にこのようなことを言ったとしても、時代も環境も何もかもが違う現代ですから、そのままを受け入れるのは無理もあります。
しかし、「人格形成・道徳性の育成を教育の究極目的」とするということは今の多くの教育においても重要な観点だと思います。
「教育」というと、訓練(訓育)や知識の習得だけと捉える場合(人)が多いとは思いますが、” AI やいい加減なデマ、フェイクに簡単に踊らされる現代 ” においては「倫理」「道徳」などの人としての根本的な部分の教育ということがもっと重視されてもいいと思うのです。
それなりに長く生きていると、「それは、人(人間)としてどうよ?」と思うことが度々あります。
人の価値(?)というのは、「知識・スキル」と「倫理・道徳」の質と量によって判断されるように思います。
例えノーベル賞を獲るような「知識・スキル」を持った人でも「倫理・道徳」の質が低く量が極端に少なければ、それは「人間」として成り立っていないのではないか、、、、などと。
ということで、
「人間は教育によってはじめて人間になることができる」のか?
ということについては、トータルな教育(知識・スキル・人格・倫理・道徳等)を行うという前提においては、その通りではないでしょうか、、
勿論、全てを習得・学習した「完璧な人間」などどこにもいません。
しかし、トレンドや浅はかなデマ、風潮に流されての ” 誤った思い込みの感染 ”が全世界的に広まっている原因には、「教育」がまともでない、、、という事実もあるように感じます。
めちゃくちゃな、いい加減な「教育」では、「人間」になることはできない
と思うのです。
「ロジカルシンキング」や「クリティカルシンキング」って、、、火星へでも行ってしまったのでしょうか?
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