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草穢文

(草が生えて伸びるように)

「自己認識」「自己受容」「自己肯定」

「イギリス人」とか「ブラジル人」とか「ベルベル人」とかについて何か言われるのと、「日本人」について何か言われるのでは、当然我々の心情は異なるものになる。一方は他人であり、もう一方は自分を含む。言い換えれば、一方は認識のみだが、もう一方は受容しているといえる。

 認識だけしているものは、それがどういうものだと設定されようが関心を持たない。「ブラジル人は明るいように見えて実は奥手なんですよ」と言われても、「そうなんだぁ」と思うだけである。自分の人格とか生き方に関係がないから。でも、自分が受容しているものは、それがどんなものであるかということが自分自身に影響を与える。どんなふうに思われてるか、とか、それが正しいとか、そうであればどう生きるか、ということに影響を与えるのである。そのため、そういった言論に出会うときは感情的な反応をせずにはいられないのである。

 「日本人」について認識しながら、受容しないという態度は、我々が外国人に対して行っている態度と類比的なので、どういう状況かは想像できるし、日本人といっても自分は日本人らしくはないな、とかいう態度である程度距離を取れるから、「日本人というのは閉鎖的である」と言われても「まぁ大体そうかもね」ぐらいのテンションで受け入れることも出来るだろう。

 一方、「自己認識」、「自己受容」となると、意外と区別が難しいとも思える。自分を認識しているのに、受容していないというのはあまりない。「自分を他人のように分析する」といっても日記のような普段の行動とか些末な事柄なら認識できるが、人格とか老いとか社会的地位とかは客観的に評価するのは難しい。逆にそれが出来ていれば、受容できているというように思ってしまう。

 自分が年老いてること、自分は「○○歳である」ということは認識もしているし、受容もしている。自分は三十路なのに「いや、20歳だ!」などとは主張しない。しかし、「体力が衰えている」「能力が低下している」「魅力が失われている」、あるいは「老いや魅力の低下にショックを受けている自分」ということに関しては、受容しないかぎり認識もしないのではないか、と感じる。認識できているときは受容しているし、受容できていないと認識していない。いわゆる「認知の歪み」が発生して、「自己認識自体歪む」ということになっているのが普通ではなかろうか。

 あるいは、受容できているかどうかというのは感情的な態度のことかもしれない。たしかに、「わかってはいるが、そのことを考えると不快である」ということはある。これならば認識はしているが受容していないということもあるだろう。受容するというのは、自分の属性を知り、そしてその属性を認めて、その通りに生きるということなのだろうか。

 一方で、この認めて生きるというのも案外よくわからない。「自己認識」「自己受容」ということに加えて「自己肯定」というものがある。この「自己肯定」というものは、良いものとも悪いものとも言われる。ざっくり言えば、「自己受容の中の社会的に肯定される部分」といったところだろう。これは他者からの評価が基準になっているので、自身の根拠として弱いと言われる。

 「ありのままの自分でよい」「善悪含む特性そのものを認める」というのが受容の理想形であり、たしかに、ときにそういう気持ちになれることもある一方で、それによって「メンタルが強くなった自分」という「社会的に肯定的な性質を帯びた自分」に自信を持っているという気もする。実際、その状態で何か失敗したり、相手の顔色から自信を失ったりすると、結局深く自己受容をしていなかったとか考える場合もあり、揺らぎにくいところを自己肯定、つまり自分の強みや良い部分であると認めることはできるが、他人の評価を持ち込まず自分を受容することはできるのか今いち確信が持てない。

 もしかしたら「自己受容」というプロセスは必要ない概念なのではないかとも思う。一方で、「自己肯定」のみによって自身の在り方を決めるときの、自分にない性質や、よくない部分も含む性質を、いわば「自己洗脳」的に己を肯定することや、あるいは「自己認識」のみによって自身を確立したときの、無関心さやロボットのような白々しさ、自身の感情を省みない態度というものは、「自己受容の回避」によって生じているという考え方には納得感がある。

 「自己認識」と「自己肯定」の間にある「自己受容」。自己を客観的に把握すること、そのなかで社会に肯定されるところを見つけること。その間にある、清濁併せ持った自分の構造を認める作業が「自己受容」なのではないと考える。一方で、その正体をつかもうとすると、「自己認識」に先立つ「自己受容」とか、「自己受容」に先立つ「自己肯定」が現れて、「自己受容」について、これといった方法論を掴みかねる。もしかしたら、これらの心の作用は相互に関連し、行ったり来たりするものなのかもしれない。

 

(以上のことは自分なりに定義した用語なので科学的・専門的な根拠はございません。共感するところがあったらうれしいという程度の話です。一応)

 

 

ナスナスナス

 ナスナスナス・・・。茄子が大量で食いきれない。収穫直後の奴をお隣さんに持って行ったが無駄。全然食いきれない。焼きナス、フライパン焼、煮びたし、冥加と煮る、ピーマンとナスとツナ、マーボーナス。繰り返してもダメ。

 こんなにうまくいったのは初めてだ。ぼかし肥料だけではなく、ぼかし肥料から液肥をつくったのがよかったのだろう。でかいし、やわらかく、虫食われも少ないので質もかなりいい。

 お隣さんからは「一本あれば3人家族分というからね」などと教えられた。私の畝には9人家族分の茄子があることになる。

 でも、リスクヘッジを考えるとやっぱり一本では不安なのだ。里芋を見よ、今年は全然育ってない。一つの畝にしかやらなかったから、これで終わりである。去年までは二畝つくって、リスクを分散してたが、今年はたまたま残渣を捨てる場所に置いたものが超巨大化してるのみである。やっぱり暑かったから日陰がよかったんだね。

 オクラは最終的にはそこそこ収穫できた。去年まではオクラオクラオクラ・・・、夏の身体の半分はオクラで出来ていた。めんつゆに煮びたしにすれば無限に食べれるとはいえ過剰であった。たぶん、このくらいのペースが一番ちょうどいいのだけど、個人的にはもっと欲しかった。

 急に寒くもなってきたし、これから微妙だが、固定品種で、無肥料エリアで育てたきゅうりも一本だけ収穫、かつ生育はいいし、いくらか幼い実をつけている。トマトは無肥料も肥料のほうもどっちもダメであったなぁ。珍しい。

 ただ今年は何事もモチベーション低めで、新しいPC買ってほかのことにも手を付けているので、成功率の低い葉物野菜や人参などにはチャレンジできなかった。

 今年でナスもマスターとか思ってると来年はダメっていうのがよくあるパターンである。比較的安定していた里芋とトマト、オクラが珍しく調子が悪くなったりするのだから。

 

順調にハゲてきた

 はげてきた。特にM字に。「生活習慣に気を付けること」ということだ。思い当たる節はあるが、関係なく、遺伝である。結構前からだんだん進んでいた。写真で確認しているし、前髪を集めたとき、かなりM字のとこがスカスカだ。

 ただ、ここ最近ほんとに「好きなときに好きなように」活動していた。徹夜して朝方草刈りなんかもしたし、そこからコメダ珈琲行って床屋に行ってと、かつての身体のダルい私なら考えられない。

 ちなみにメンタル、体調ともに非常によい。用事が素早く終わっていることがその理由である。ADHD気質を逆に利用するとこうなる。嫌な作業を一日の真ん中にやるのは時間が失われるようでつらいが、一日の終わりにやると却って一日が延長されたような気持になり、喜びが訪れる。

 その作業を終えた勢いですこし労力のいる娯楽をやるとますます人生でやりたかったことがやれて楽しい。でも、これは早死にした父と似たようなライフスタイルになっている気もする。

 でもハゲてきた。別にこの生活習慣のせいではないと思う。ただ、何か極細の針を身体の芯に刺されたような気持ちだ。これから生活を見直さないハゲるかも。それが恐怖として身体全体の勢いを失わせてしまった。このメンタルがたぶん今までのダルさの原因なのだ。

 去年までの健康にやたらと気を使って委縮していた自分に戻るのだろうか。思えば今年も勢いを失わせたのは床屋に行った時だったな。これは思えば法則だった。見た目の自信が失われるとき、老いと向かいうあうときなのだ。

 なぜこうも自分は自分が美しい状態でいたいと思うのだろう、たいしてかっこよくもなければ、短足でプロポーションもよくないと知ってるのに。なんとなく自分にとってかっこよく思える自分が好きらしい。それがなくなるとすごく元気がなくなる。こんなことはあまり自己受容したくないことだが、間違いない。

 去年からずっと考えていることは抑圧と恐怖である。恐怖を乗り越えること。どうすればいいかわかっているのに踏み出せない。昔踏み出せなかったことなら思い出せる。何をしなかったせいで踏み出せなかったか考えなくてはいけないのだろう。

 

詩 9月20日

雨の女神が少し舐め

東雲(しののめ)濡れた街に風

詩人の舌は言葉で濡れ

唇から発す空気の揺れ

微かに波立つ世界の表

 

星から降る細き蜘蛛の糸

が落ちるときの幽かな音

人生の真夜中三時

でもわずかに希望を感じ

 

苔むす幽寂(しじま)

風の玉響(たまゆら

地平のはるか先まで

顔なき永久(とこしへ)

巌の肌に微かな波

揺れる千年(ちとせ)の月

命の八桑枝(やぐわえ)

それはまだ苔の下に眠る絵

 

楽に生きれば当然のこと

 今年は茄子の年。水やりをしていたのが水がたくさん必要な茄子で、元々水源の近くに置いていたのだ。それ以外はほぼ全滅。トマトとオクラ、おそらくネギも里芋もだめという初めての年。ジョーロで何往復もしてれば、きっと大丈夫だったのだろう。去年までだったらせっせとやる理由もあったのだが、今年は無理をせずにと思ったら、ほんとにひどい結果になった。とにかく雨が降らないのである。

 そもそも今年の6月から「自己受容」「無視」「頑張らない(もとより頑張ってない)」を続けていたので、当然いろんなことの成果は下がるし、そのうえで精神衛生はすこぶる良い。年齢からみても、もう決定的に若くなくなったということかもしれない(大した経験もしてないのにね)。誰かに褒められるということがほとんどうれしくない。たぶん強がりではなく、もうそれをやっていった最後がどうなるかもわかったような気がする。

 人に好かれる嬉しさの根底にあるのは、成果ではなく献身である。世間的な道徳なり成果主義なり努力なり盾に使っても、根底的に、人間は「自分のために死んでくれる人」しか愛せないのだ。そんなことには付き合いきれない。そういう関係は、その片鱗を感じるのでさえ、ほんとに少数でいいのだ。

 少しこの人生の方針に迷いもあるし、野菜はもう少し頑張りたかったが、このまましばらくは堕落のもたらす速度を信じてみようと思う。

ライバル構造

 物語論、特に少年誌典型的なライバル論というものについて考えているとき、『はじめの一歩』というマンガがに良い例があると思った。正直言うと、『はじめの一歩』はうろ覚えだが、今回思いついた内容に対して十分なくらいは覚えてる、はず。

 物語におけるライバルキャラというのは、思うに、対立と共通の要素を含んでいる。例えば、同じ格闘技やスポーツをしている二人というのは、「勝敗」という点で絶対的な対立がある。どちらかが勝ち、どちらかが負ける。一方で、同じスポーツという点で共通の価値を有している。

 『はじめの一歩』では、最初期の相手として主人公の一歩に対して宮田という選手が敵として登場する。このとき、主人公の一歩は元いじめられっこで身長が低く、耐久力が高く、攻撃を受けながら相手に接近して戦うという性質を持つ愚直なインファイタ-として表現される一方で、宮田はボクサーの父を持つサラブレットで、すらっとした体型で、相手の攻撃を見切ってカウンターを浴びせるファイトスタイルが強調される。

 このとき敵としての宮田は「非・一歩的存在」、一歩の否定形として表現されており、一歩の接近戦はこの時点の読者において「努力」や「勇気」という価値を有していたがゆえに、対立的に描かれた宮田には「才能」とか「卑怯(戦いの内に技術として肯定される)」といった否定的価値が読者に示されていく。それから二人は戦いを経て、宮田は一歩の所属するジム抜けるものの、それ以降より友好的なライバル関係となる(宮田の顔も変わる)。

 特に、このライバル関係がより友好的なものとなるのは、第三の比較対象が現れたときであり、『はじめの一歩』では、それは真柴というキャラクターである。真柴のファイトスタイルの特徴はラフファイトと「フリッカー」と呼ばれる長い手を鞭のように使ったジャブでじわじわと相手を追い詰める戦い方である。

 これは一歩と宮田のファイトスタイルに対して、共通の対立軸となる。それは「近距離」に対する「遠距離」という対立軸であり、そのことが一歩と宮田の同一性をより強調する。つまり、二人は「近接戦」という「勇気の試される場」において「攻めるもの」と「避けるもの」という対立点を持ちながら、「リスクを背負って戦う者」という倫理的な価値の共通性が強調されるのである。その一方で、真柴は「リスクを背負わない」という点で、その章のラスボスとして二人と相対する(そして真柴の顔も変わる)。

 もちろん、キャラクターの性格なども含めて様々な対立要素もあるし、物語の面白さというのは展開や演出によるところが大きく、ライバルや敵対関係の盛り上げ方がこういったファイトスタイルの象徴性のみによって表現されているなどということはないだろう。しかし、少年漫画など戦いを主題として、敵対者と戦いを通して理解しあう作品において、こういった二項の対立を三項目を登場させ、二項の共通点を焦点化するというのは典型的なやり方であると思う。実際の作品でのキャラクターの人格的対立までは考察の手が及ばないが、ファイトスタイルがそういった関係性の象徴となっているというようには言えるのではないか。

 こういった対立の作り方も、「シャドウ」というモデルをあてはめれるような心理的なパターンがあるように思える。「否定的な存在=敵」として現れた相手が、自分と共通する努力や勇気といった倫理観、肯定的価値を違った形で表現していると気づいたとき、嫉妬や憎しみ、敵対関係というものが解消され、友好的な存在となるのである。

 いまだシャドウの解消という点で、あまり考察しきれていないのだが、こういった物語の中にも、心理的な動きの典型例があるような気がする。

AIにお悩み相談

 Chat-GPTに悩みを聞いてもらうとか、正直何がいいかわからなかったが、最近のはホントに良い回答を出してくれるな、と思う。悩みだけじゃなく、もやもやとした概念的な引っ掛かりも質問してみると、かなり良い回答が出てくる。たとえば哲学の「延長」と数学の「立体」の関係性など聞くと、簡単でほどよい説明が出てくるのである。

 以前は通り一遍のことしか言わないな、とか思っていたが、いつの間にやらずいぶん進化していて、自分の思考の言語化のためにもやっていたこのブログももう役目を終えてしまいそうである。

 とにかく、あまり推敲しなくとも長々だらだら書くだけで相手がまとめてくれて、適切な言葉に言い換えてくれるから助かる。ある程度こちらの質問を鏡のように返してるだけだな、という部分はまだあるが、そもそもアウトプット・ソート・パラフレーズだけで小さな悩みなど大体解決してしまうのである。このサイクルが高速化して手間が減っただけかなり脳みそがすっきりする。

 絵のうまい人、いわゆる神絵師という人たちの描いた絵に「AIみたいですね」と感想を書いて、それが大変失礼にあたると非難されていたことがあったと思う。どうやら最近は聞き上手で相手を否定せず、よく褒めるてくれるコミュニケーション能力の高い人に「Chat-GPTみたいだね」と悪意なく言うケースもあるらしい。まぁ、真偽のほどはさておいて、人間の役割がかなり代替されてきているのは間違いない。

 私自身、「言語化能力が高い」など周囲に言われることもある。実際は特筆するほどではないのだが、それでも文章とかに全く興味のない人の中では比較的に優位な能力となる。とはいえ、そのささやかな言語化能力もChat-GPTの登場でほとんど無となりそうである。

 結局テクノロジーの進化というのは絶対に人間の価値低下を招くのだろう。東日本大震災のとき、水も電気も止まって、ネットも繋がらなかったが、あのときほど人間関係が濃密で楽しかったこともない。不便が人の価値を高めていたせいだと思う。水を運べる人手というだけ、商品の計算ができるだけ、それだけでやることがあり、価値があった。

 水汲み場では行列ができて、待っている間見ず知らずの子供が遊んでいたのは、たぶん私のあまり経験していない昭和のような世界だったのだろう。そこでは、見知らぬ人同士、近況やどこそこで温泉が開放されてるだの、どこそこはもう電気が通っているなどと話をしていた。それぞれがばらばらになった映画のフィルムを持ち寄るようにして災害の全体像をつかもうとしていた。足と耳とわずかな人間関係があれば、それだけで情報提供者としての価値が発生していた。遠くのことを知りたければ人から聞くか、別に何を知れるわけでもないが窓を覗くしかなかった。

 テクノロジーが未発達ならば、こういう人々も情報伝達者としてより大きな価値をもっていたのだろうが、TVのニュースやワイドショーに一部その価値を代替され、おそらく無意識に価値の低下を被っただろう。身近にいた、そこそこおもしろい人やそこそこかわいい、かっこいい人もネットのインフルエンサーによってそういう価値低下を受けたし、これからAIによって、また知らぬうちに我々の価値は低下し、人と関わる億劫さが増してしまうのかもしれない。

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