
きのうの記事で書けなかったこと。
私の「面白くない演奏」うんぬんについて、読者登録をしてくださっている、ももはな様が言及してくださったことがある。
ももはな様によると、面白くない演奏を面白くするには、演歌を歌えば?というご提案であった。
なるほど、なるほど・・・
ところでガチのクラシックファンのかたで、演歌が好きというかたはすごく少ないのではないだろうか?
どうもクラシックファンは一般的に、他のジャンルを評価しないという傾向があるように思う。
だから想像100%によると、クラシックファンの演歌好きは3%未満?
私はと言えば、こと音楽に関しては雑食系なので、演歌が好きとまでは言えなくても、とくにシニアになってからは、最近のJポップスよりも共感するように感じる。
しかし若いころは確かに演歌がキライだと言っていた。
「演歌撲滅運動をしたい!」とまで言っていた。
なぜか?
それは何より、歌詞が大嫌いだったのだ。
なぜ、ああも、捨てる、捨てられるばかりなのだ!
人間はゴミとちゃうよ!
それもほとんど100%、捨てる側は男で、捨てられる側は女なのだ、違う?
捨てられた女はいつも、よよよ、と泣いている。
そして「あなたが忘れらない」などと涙ながらに訴えている。
ちょっとシチュエーションが違うのは「3年目の浮気」とか、沢田研二の「勝手にしやがれ」ぐらいか。
「勝手にしやがれ」では女のほうが男に愛想を尽かして出ていくんだね。
おおいによろしい。
しかし、ももはな様へのコメントには、「前川清さんが好きで、『そして神戸』が特に好き」と書いてしまった。
この気持ちは本当なのだが。
しかしこの歌が世にでた当初(1972年当時)、神戸というイメージにそぐわない歌だと思っていた。
神戸というと、港、異人館、洋菓子、山、坂道でしょ?
自分の生まれ育ったところだから贔屓するようだが、おしゃれさが売りな街である。
なのに
「神戸
泣いてどうなるのか
捨てられた我が身が
惨めになるだけ」
(おやまた、捨てられた、だ!)
しかしよく聴くと、この歌の主人公は、「捨てられた」としても前を向いているのだ。
その証拠に
「そしてひとつが終わり、そしてひとつが生まれ」
(そやそや、あんたは捨てられたんとちゃう、ただ終わっただけなんや!)
「夢のつづき見せてくれる 相手探すのよ」
(人生なんでも夢や)
「誰かうまい嘘のつける相手、さがすのよ」
(ここは嘘をつくのが男側なのか女側なのか、ちょっとはっきりしないが。
しかし恋愛ごっこはすべて政治と似ていて、嘘も方便といえるだろう)
しかし港に靴を投げ落としたり、花を踏みにじったりするのはよくないね。
これはあくまで作詞家の千家和也さんの比喩の一種であると信じたい。
そういう解釈でいうと、だんだんこの歌が好きになった。
そして前川清さんの、拍に対して前にのったり、後ろにのったり、という奔放な歌い方にも魅了された。
そうだ、これこそ、歌う、ということなのでは?
それでは前川清さんの「そして神戸」を聴きながら、神戸の夜景をお楽しみください。
引用をストックしました
引用するにはまずログインしてください
引用をストックできませんでした。再度お試しください
限定公開記事のため引用できません。