その因縁はあるTV番組から始まった。
様々な世界で活躍する女アスリートを集めての討論番組だ。
ゴルフ、水泳といった各種競技の選手が集まる中、格闘に携わる女性も2人呼ばれていた。
一人は女子キックボクシングのスーパーフライ級王者、芦屋恭子(あしやきょうこ)。
こいつは俺の恋人でもある。
そしてもう一人が、『クルーエル・ビー』所属のレスラー、ラミア朝岡だ。
『クルーエル・ビー』は新興のハードコアレスリング団体で、
女同士での電流・有刺鉄線マッチといった過激なガチンコ対決を売りとしている。
ただその人を選ぶコアな性質のせいで、興行収入はあまり芳しいとは言えない。
だから、番組内でラミア朝岡が芦屋恭子に絡みはじめたのは、
美形王者として名の通った恭子と因縁を作って話題を攫おうという団体の意向だろう。
最初の言いがかりは何だったか。そんな物に意味はない。
大切なのは、ラミアがカメラの映す中で恭子を焚きつけ、ついにはビンタまで張り、
とうとう恭子の怒りに火をつけたという“結果”だけだ。
「この……人が下手に出てりゃ、つけ上がりやがって!!」
恭子が椅子を蹴って立ち上がる。
恭子もかつて番長を張っていたような女、頬まで叩かれて黙っていない。
睨み上げる恭子を同じく立ち上がったラミアが見下ろす。
160cm51kgの芦屋恭子に対し、ラミア朝岡は168cm62kg、見た目では2回りほど大きい。
健康的なそのスタイルは、レスラーというよりはフィットネスモデルといった印象だ。
日本人とカナディアンのハーフらしく、美しいブロンドの長髪と豊満なバスト、
そして長い脚が目を引く。
しなやかなその美脚は同時に恐ろしい凶器でもあった。
ラミアの名が表す通り、上半身こそ美しい女だが、足は蛇のように相手を捉えて容赦なく締め上げる。
軍隊格闘をルーツとしたその関節技は多くの女達にタップを強いてきた。
対戦相手はみな大声で泣き喚きながら痙攣を起こしたような速さでタップをするというから、
その技の痛烈さが窺えようというものだ。
「あら、怒ったのおチビちゃん?」
ラミアは恭子を見下ろして笑う。恭子の表情が一層険しくなった。
恭子はキックの二階級を他を寄せ付けない強さで制した王者だ。
ただ強いだけでなく、並のアイドルが霞むほどの清楚なルックスまで備えている。
それまで女子キックを馬鹿にしていた男が恭子の一試合を観ただけでファンになる。
女子高生やOLは闘う女の最終到達地点として教祖のごとく崇める。
それが芦屋恭子だ。
その知名度とカリスマ性はマイナー団体の一レスラーの比じゃない。
ラミアは本来、こうして共にテレビ出演が叶っただけでも感謝するべきところだ。
しかし彼女は執拗に恭子を挑発し続ける。
番組の司会や他のゲストは、鍛え上げた2人の女の放つ空気に圧されたのか、
ただ苦笑して内輪で討論を続けるばかりだ。
舌戦を繰り広げる2人。だがある時、ラミアがふと恭子に問うた。
「……ああ、そういえば。あなた付き合っているオトコがいるんですって?」
その瞬間に恭子の言葉が途切れる。
これはお茶の間にとっては周知の事実だ。
インタビューなどでは恭子自身が何故か胸を張って言いまくっているし、
試合に勝つたび俺に抱きついてくるのは一種のお約束にもなっている。
最初こそ物議を醸したが、あまりにも恭子が隠すことなく嬉しそうに語るので、
いつしかその強さと美しさの秘訣として公に受け入れられるようになっていた。
無論、良くも悪くも規格外な恭子ならではだが、少なくともそれを暴かれて困る事はない。
それでも恭子は俺の話題に表情を強張らせる。
そこが口論における、恭子にとってのNGワードなのだ。
「それが……どうかした?」
抑えるような低いトーンで告げる恭子に、ラミアが答える。
「別に?少し残念なだけ。本当ならあなたみたいな強い娘と戦ってみたかったんだけど、
男がいるんじゃあだめね。だってオトコの出来た女は、恥ずかしがって股も開けなくなるもの。
それってつまり、ファイターとして終わりってこと。せいぜい男の下であんあん言ってなさいな」
くく、と笑いながらラミアが言った。
その瞬間、ぶちんという音が聞こえそうになったのは俺だけではないだろう。
恭子はラミアを睨み上げた。これ以上ないほどに瞳孔を開いて。
拳が震えているが、手は出ない。
そんな生易しい怒りではない、とでもという風にだ。
「…………OK。そこまで言うんなら、そっちお得意のガチンコで白黒つけてやる!!」
燃えるような瞳で告げる恭子に、ラミアは涼しげな顔で返す。
「へぇ、いいの?それで恥をかくのはあなたでしょうに」
芦屋恭子とラミア朝岡との因縁は、こうして始まった。
放送直後から、この諍いはネットファンの間で大いに話題になった。
噂によればあの放送自体が罠で、クルーエル・ビー側が先行投資という形で
深夜番組のプロデューサーを買収したのだという。
全ては名の通った恭子と所属選手との異種格闘技戦を実現させる為だ。
恭子が他競技の相手と戦うこと、それ自体は珍しいことではない。
いくら今がキック熱のある時期とはいえ、やはりキックの興行だけでは喰っていけない。
ゆえに恭子はキック界の代表として様々な相手と試合を行ってきた。
ボクシング、ムエタイ、シュート……。
しかしそれはあくまで同じ立ち技競技の相手とだ。
仮にも現役のキック王者がプロレスラーと戦うなんて、普通なら考えられない。
だがそれだけに話題性もある。
常に金儲けを考えなければ明日も危ういキック界には、むしろ望ましい事態なんだろう。
また恭子側も、普通の格闘家ならばレスラーとの口約束など反故にして逃げる所を、そうしない。
番組で頬を張られたシーンをお茶の間に晒してしまった。
レディースも、格闘好きな女子高生も、皆が恭子に期待している。
売られた喧嘩は買う気骨あるイメージで知られる恭子には、逃げる事など許されないのだ。
そもそも恭子自体、そのイメージ通り、ここで退くタマではなかった。
トレーナーであるジムの会長は渋ったようだが、偉大な王者である恭子の意向に勝るものなど無い。
……恋人である俺の言葉でも、だ。
「大丈夫だって、あんなヤツこのキックでぶっ倒してやるから」
俺の頭を掠めるようなハイキックを繰り出し、恭子は笑った。
風切り音が凄い。繁華街を往く人間が何人もこちらを振り向く。
「それとも何?モヤシくんともあろうお人がまさか、私の勝ちを疑うわけ?」
恭子はくっきりとした瞳で俺の顔を覗きこむ。
自信に満ち溢れた表情だ。
「まぁ、お前が誰かに負けるシーンなんて想像もできないんだけどな」
俺が率直に答えると、恭子はくすりと笑った。
以前にこいつとデートをしていた時、4人の不良に襲われたことがあり、
その際に腹を殴られて地に沈むのを見たことはある。
しかしそれは俺を人質に取られていたからで、まともにやれば連中4人がかりでも5分ともたない。
ましてや一対一で押されるなどありえない事だ。
しょっちゅう恭子の身体に触れている俺だから言える。
薄っすらと6つに割れた腹筋は岩のように硬く、本当に人間が鍛えて作れる肉体なのか、
筋肉の下に鉄板でも埋め込んでいるんじゃないかと疑うほどだ。
キックで鍛え上げた脛などは金属バットのよう。
椅子に腰掛けたままぶらつかせてぶつけられただけでも鈍い痛みを覚えるほどだ。
力を入れて蹴れば、大の、そう文字通りラガーマンのような大男が3発で沈む。
恭子を喧嘩で倒すぐらいなら大型犬とやりあったほうがまだ勝ち目が見える。
そうは思うのだが、しかし何故だろう。
俺は嫌な予感を覚えて仕方が無かった。
「……見ててね、哲哉」
恭子はネオンの輝く街路をぶらぶらと行きつつ、背中越しに声を投げてくる。
どんな顔をしているのかは見せない。
「私、きっと証明してみせる。哲哉との触れ合いが、私の強さの源なんだって。
好きな人のいる事は弱さに繋がったりしないんだって、証明してみせるよ」
いつになく真面目な口調でそう語る恭子に、俺はああ、と答える事しかできなかった。
『当日のリングにレフェリーは立たない。ゆえに反則はなく、TKOもない。
決着は、どちらかが意識を失うか、降参の意思を告げた場合のみ』
そのデスマッチルールに、恭子とラミア朝岡の両者が同意を示した。
「普段競技者として試合をされている恭子選手には、やや不利な条件と思われますが?」
記者会見でそう問われた恭子はからからと笑った。
「何でもあり、だったらむしろ相手の方が可哀想ですよ。私、喧嘩じゃあ負けたコトないから」
そう腕を振り上げて答える。
カメラ正面に映るのは、その硬く鍛えられ飛び出した肘。
相手が可哀想、というのは何も大袈裟な事ではない。
恭子はやろうと思えば、その肘で日本刀のように相手の皮膚を切り裂く事が出来る。
鋼鉄のような脛で後頭部を蹴れば悪くすれば即死だ。
それがキックボクサー。
その頂点である元番長と何でもありなど、ほとんどの挑戦者が涙目で拒否するだろう。
しかし、怖いもの知らずなのか、或いは絶大な自信があるのか。
ラミア朝岡は恭子の隣でインタビューを受けながら、実に涼しい顔をしている。
記者会見もたけなわとなった頃、ラミアはふと恭子を見つめた。
「あなた、綺麗な髪をしてるわね」
そう静かに告げ、自らの髪を撫でる。
「私も、このブロンドヘアには自信があるわ。艶々で綺麗ってよく褒められるの。
これは私の誇り、そんなに丁寧に手入れしてるんだもの、あなたもそうよね。
髪は女の命。……だから、ね、私達この戦いに、その命を賭けない?」
ラミアが言わんとしているのは、勝負に負けたほうが髪を切る、という追加条件だ。
場は騒然となった。俺もテレビで見ていて、凍りついた。
バカな事をいうな。
俺は恭子がどれだけ髪を大切にしているか知っている。
肩甲骨の辺りまで伸びた、艶の流れる黒髪。
練習後には必ず丹念に洗い、いい匂いを含ませて風に遊ばせている。
俺が恭子に一目惚れしたのは、無論顔の良さもあるが、一番は金髪ばかりのジムでただ一人、
清楚なその黒髪が心を打ったからだ。
黒髪は恭子という美人を形造る重要なファクターだ。その髪を、切るなんて。
恭子も目を見開いて言葉を失くしていた。しかし、
「出来ないの?」
半眼のラミアに侮るように笑われると、気負いの世界で生きる彼女に退くことは許されない。
恭子は燃えるような瞳でラミアを睨み上げる。
「……いいよ。そんな約束持ち出した事を、リングの上で後悔させたげる」
2人の選手の合意が得られ、ここに対決は『敗者髪切りデスマッチ』へと変貌を遂げた。
※
美しきキック王者・芦屋恭子と関節技に長ける麗しいレスラー・ラミア朝岡の奇跡の対決。
女子キックボクシングが強いか、女子ハードコアレスリングが強いのか。
その興味もあり、また負けた方は公衆の面前で女の命である髪を切られるというのだ。
芦屋恭子もラミア朝岡も、モデルでも通用しそうな和洋の美人格闘家。
どちらが恥を晒すことになっても見物であることには違いない。
そうした背景から噂が噂を呼んで、当日の会場には超満員の客がつめかけていた。
決戦のリングは、キックの物とさして変わらない。強いて言えばロープがやや分厚いぐらいか。
そのリングには天井から真っ白な照明が降り注ぎ、最前列席にいる俺をも汗ばませる。
これでリングに上がって動き回るとなれば、どれほど暑くなることだろう。
そして熱気の源は照明だけじゃない。
『殺せ、朝・岡!! 殺せ、朝・岡!!! 殺せ 殺せッ締め殺せ!!!!』
『恭子さーん、やっちまえーー!喧嘩でアンタに勝てるヤツなんかいねえよっ!!』
観客席の至る所から叫びが上がる。恭子とラミアの応援団だ。
場はその応援合戦で戦争のような状況になっていた。
その空気の中で、しかし恭子は動じることなくコーナーにもたれ掛かっている。
コスチュームは普段キックの試合をする時と同じものだ。
上は豊かな胸に密着する薄桃色のタンクトップ。
長さはアバラまでで、締まった白い腹部が丸見えになっている。
下は炎の描かれたゆったりめのボクサーパンツ。
足にはシューズを履かず、素足にアンクルサポーターのみを着けている。
何人の男がその姿に一目惚れしてきたことだろう。
今やキック界にも、恭子に憧れて門を叩いたモデル級のスター選手が続々と現れ、
アンチからは時代遅れのロートルとすら揶揄される恭子。
だが、やはりその威圧感溢れる美は並ぶ者がない。
日々鍛えているだけあって恭子のボディラインは見事なばかりだ。
片手で何とか掴める程度の、つんと上向いた胸の膨らみ。
側筋がくっきりと浮かび上がり、薄っすらと六つに割れた凹凸の芸術的な腹筋。
一気に絞り込まれ、引き締まった太腿へと繋がる腰つき……。
それは例えば、胸の大きく太腿のむちりとした瑞々しい女子高生がいたとして、
その整った身体の肉をさらに都合よく上によけ、押し固めして人工的にあつらえたような美だ。
膨らみとくびれという女体美、引き締まった筋肉という機能美、
さらには生まれついての清楚な美貌と、肩甲骨までの艶やかな黒髪。
これだけの条件を兼ね備えるわけだから、これはもう衆目を惹きつけない訳がない。
殺せ、殺せと叫ぶ連中も皆、露わになった恭子の腹筋を涎も垂らしそうに凝視している。
要は夢中なのだ。
清楚そうな健康娘の恭子が滅茶苦茶になる所が見たい、との衝動から騒いでいるに過ぎない。
正統派キックコスチュームの恭子。
それに比べ、対角線上のコーナーにいるラミア朝岡は目を疑うような格好だった。
リングコスチュームは肩から太腿半ばまでをすっぽりと覆うユニタード型だ。
色は朱色、素材は照り具合からいってラバーだろう。
大きく開いた胸元は豊かな胸の谷間を大胆に覗かせ、
腹部には鍛え上げられ隆起した腹筋を称えるかのようにラバーが密着する。
スパッツ風の股下などは割れ目の形まで見えるようだ。
美しい曲線を誇る脚は黒タイツで包まれている。
その黒タイツにより、朱色のコスチュームが一瞬まるでドレスのように映る。
正直目のやり場に困るが、まぁここまではいい。
問題はその靴……ハイヒールだ。
黒い漆皮のハイヒールパンプス、ヒールの高さは8センチはあるだろう。
披露宴に貴婦人が履いていくような靴だ。
素早いステップはおろか、歩く事にすら不便を感じるに違いない。
確かにその靴は、ドレスのようなコスチュームの締めとしてよく似合っている。
外国系のすらりと伸びた脚に黒タイツ・ヒールという破壊力は凄まじく、観客の声援も相当だ。
ここがファッションショーなら恭子でも勝ち目はないだろう。
しかしキックボクサーとのガチンコをしようという今、ハイヒールは舐めているとしか思えない。
恭子も相手の足元を見て眉を顰める。
しかし当のラミアは、やけに自信に満ちた表情で恭子を見つめ返すのだった。
※
『芦屋恭子 vs ラミア朝岡』
電光掲示板にカラフルな色合いで互いの写真が映し出された。
どちらも拳を突き出した凛々しい姿だ。
グラビアアイドルが構えるボクシングごっことは違い、様になってもいる。
だがそれこそモデルのように美しい2人だ。
その2人が選手として表示されている現実が、事の異常性を今一度会場に認識させた。
恭子はコーナーで静かに深呼吸している。
普段ならセコンドの会長がアドバイスでもしている所だが、この試合にはいない。
ラミアの方はリング下から飲料の入ったボトルを受け取っていた。
ボトルを掲げて軽く喉を潤した後、彼女はロープ際を伝って移動を始める。
行き先はこちらの方……
いや、こっちの方どころじゃない、まさに『俺』だ!
ラミアの目線からそれを悟った時には、ラミアは俺が座る席の真上にいた。
ブロンドの髪が逆光にライトを浴びて輝く。
そしてラミアはにんまりと笑うと、いきなり手に持ったボトルを俺に投げつけてきた。
「うおわっ!!」
俺は驚き、目の前で腕を振って叫ぶ。一瞬遅れて額に鈍い痛み。
何故いきなり俺に、と考え、すぐに一つの結論に達した。同時に叫ぶ。
「待て、落ち着け恭子っ!!」
ラミアの狙いは俺ではない。俺を傷つけた時に憤る人物、恭子を煽るためにやったのだ。
ダンッ、とマットを蹴る音が響いた。
「おい、アイツ!」
観客が叫ぶ。その視線の先では、恭子がラミアに襲い掛からんとしているはずだ。
ロープ際のラミアを見上げる俺からは、その背後から凄まじい速さで近づく素足しか見えないが。
慌てたように試合開始のゴングが打ち鳴らされる。
「せあぁッ!!」
裂帛の気合と共に、ロープ際のラミアへ恭子の跳び蹴りが襲う。
ようやく見えた恭子の顔は、やはり俺を狙われた怒りで我を失っているようだ。
その恭子の顔を視界に捉えながら、同時に俺は、ラミアの顔も見えていた。
口元を吊り上げている。計画通りといった風に。
まずい、という直感が俺の脳裏によぎる。嫌な事にその直感は当たっていた。
恭子の跳び蹴りがラミアの腰を捉えようとしたその刹那、ラミアは最小限の動きで身体をずらした。
恭子の蹴りは不発に終わり、右足がロープの外に飛び出る。
「ちっ……」
恭子がその足を引き戻そうとした途端、ふとその動きが止まった。
ラミアがロープ外の恭子の右足首を左手でしっかりと掴んだからだ。
恭子の脚がぴんと張る。
さらにラミアは左手で足首を捉えたまま、右腕を直角に折り曲げた。
そしてその肘を恭子の膝上に宛がうと、飛び上がって肘を体重ごと膝上に叩きつける。
ぐぎん、と鈍い音がする。
「ぎぁああああああっ!!?」
ダメージは恭子のその叫び声で窺えた。
ひどいものだ。伸びきった脚に全体重で肘を叩き込むなど、折れてもおかしくない。
「う、う……っ!!」
恭子は片足立ちのまま顔をしかめて汗を垂らす。
「ざまあ見ろ、奇襲なんかかけた報いだぜ!」
「ふざけんな、ラミアが客に手ェ出したんだろうが!恭子さんはそういうの許せねぇんだよ!」
観客席で口論が起きはじめた。
「ふふ、どう?膝が割れそうに痛むでしょう」
肘を打ち下ろしたラミアが意地悪く問う。
「ぐう、は、離せよっ……!!」
恭子は掴まれた足を引き抜こうとラミアの背を手で押しやるようにしていた。
つまり恭子の重心はこの時、後ろに倒れ込む方向にかかっているわけだ。
そこをラミアに利用される。
ラミアはにやりと笑い、肘を打ち下ろした右腕を恭子の脛に置く。
そうしてその置いた手を支点に素早く身を翻した。恭子に背を向ける姿勢から、向かい合う姿勢に。
その動きはただの向き変更ではない。
足首を捉えていた左手を放し、回転の勢いをつけて恭子の首に巻きつける。ラリアットだ。
「ぐふっ!?」
恭子の喉から押し殺した悲鳴が上がった。
元々後ろ向けに重心をかけていた恭子にラリアットを食らわせ、さらに遠心力で身体ごとぶつかる。
するとどうなるか。
簡単だ、片足立ちの恭子は後ろ向きに倒され、後頭部からマットに叩きつけられる。
ダゴンッ!という凄まじい音が会場に響き渡った。
そう、凄い音だ。それまで騒ぎ立てていた会場が水を打ったように静まり返るほどの。
だってそうだ、後頭部からマットに打ち付けられる、下手をすれば死ぬじゃないか。
――恭子!
俺はそう叫ぼうとした。しかし呑んだ息が喉につかえ、声にならない。
折り重なってマットに横たわる恭子とラミア。しんと静まり返った会場。
そのうちラミアの言葉が、その静寂を打ち破った。
「……へぇ、さすが。あそこから反応できちゃうんだ」
ラミアは恭子の後頭部に目をやって呟く。
見れば、マットと後頭部の間に恭子の右腕が挟まっていた。
あの超スピードで倒れこむ間に、腕を挟んで直撃を避けたのだ。
「うわ、しぶてぇ……」
「良い反応してんな、あいつ。あの倒れこみの最中で普通は動けねえよ」
場には惜しがる声と感嘆の声が混じった。
その声に包まれるリングの中で、恭子がラミアを跳ね除けて後退を始める。
さすがにダメージを殺しきれなかったらしく、腰を抜かしたままでだ。
だが何かその動きが妙だった。
その状況なら両腕で身体を引きつけて後退するのが普通なのに、何故か右腕を使わない。
左腕だけで身体を引き摺っていく。
だがすぐに理由はわかった。使わないのではなく、使えないのだ。
恐らくは右肩を脱臼でもしたのだろう。
考えてみれば無理もない。後ろ向きの重心とラリアットで生まれた凄まじい速度の中、
自重とのしかかるラミアの重さ、合わせて113kgのクッションになったのだ。
しかも下はしっかりとしたマット、これでは脱臼して当然だ。
ある程度距離を取ると、恭子は左手を背後につき、膝を曲げて立ち上がろうとする。
「く、うう……」
しかしもう少しというところで腰が砕け、右手でバンと受身を取った。
何度も練習を繰り返したゆえの無意識だ。
「ああああ゛っ!!!」
瞬間、恭子は悲痛な叫びを上げ、右肩を押さえてのた打ち回った。
右肩の脱臼はもう確実だ。そして後頭部強打により、足腰が立たないことも。
「ふふ、惨めぇ。男の事なんかでアツくなった結果がそれよ?高い授業料だったわねえ」
ラミアは面白そうに恭子を追いながら笑った。
恭子は右肩を押さえ、尻餅をついたままで後退する。
「はははっ、見ろよ追いかけっこだぜ。蛇に睨まれた蛙だな!」
観客から野次が飛ぶ。
「恭子さーん、凌いで!!ダメージ回復するまで!!」
レディース達からの声援も起こる。
実際恭子にはそれしかなく、ラミアと睨み合いながらその足首を狙って低空の蹴りを放つ。
何しろラミアはハイヒールなのだ。
蹴りさえあたればまず倒れるだろうし、そうなれば恭子がマウントを取れる可能性だってある。
しかし、その蹴りが当たらない。ラミアは遊ぶように恭子の蹴りをかわしている。
安定性のないハイヒールでだ。
間違いなくラミアはハイヒールでの戦いに慣れている。或いはいつもその靴なのかもしれない。
また慣れだけでなく、そもそもバランス感覚や反射神経もいいのだろう。
当たれば倒せる、当てる!
そう必死に蹴りを繰り出していた恭子の足を、ついにラミアが絡め取った。
「 いただきまぁす 」
ラミアが恭子の左脚に抱きついて笑う。恭子の額に汗が流れる。
ラミアはそのまま恭子の脚を抱え込むようにしてリングに転がった。
「ぎいゃあああああっ!!!!」
恭子の痛切な悲鳴が響き渡る。聞く方が心を抉られるような声だ。
リングでは恭子の左脚が締め上げられていた。捉えられた脚で限界以上に股を開かされている。
その左脚の根元にはラミアの両足が絡みつき、
脚全体が捻りあげられた挙句に、足首の腱あたりを十字に組んだラミアの腕が押さえつけている。
たしか膝十字固め、という技だ。
俺は関節技に詳しくはないが、見るからに危険な捻りなのが解る。
だって真横に開いた足の先がほぼ真下を向いているなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。
恭子の膝はいま甚大なダメージを受けていることだろう。
実際恭子はひどい顔をしている。
目を固く瞑って唇を噛み締め、顔中をくしゃくしゃにして。
脂汗が何滴も顎から伝い堕ちる。
「あらあら、綺麗でたくましい左脚がびくん、びくんって痙攣してるわ。可愛い」
ラミアは恭子の左脚を捻り上げながら、その指先に舌を這わせる。
「ひっ」
恭子が肩を跳ねさせた。
艶光るラバー姿で巻きついてチロチロと舌を出す、その姿はまさしく蛇女(ラミア)だ。
恭子の膝は悲鳴を上げているはずだ。
恭子は本格的な関節技など受けた事はない。
立ち技競技の選手なんだから当然だ。
未知の痛みには覚悟も出来ず、不安から痛みは増して感じられるだろう。
「ううう!!!」
さらに締めがきつくなる。
その余りの痛みに、恭子の手の平が床スレスレまで下ろされた。
そのまま数回マットを叩けばギブアップのサインだ、地獄から逃れられる。
だが恭子は、そこから拳を握りしめてマットに叩きつけた。
降伏など断固拒否、という意思表明だ。ラミアが面白そうな笑みを浮かべる。
観客席からも恭子の根性に感嘆する声が漏れた。
俺はその健気さに居ても立っても居られなくなる。
「きょ、恭子おおっ!!!」
椅子から立ち上がり、バンバンとリングを叩いて叫ぶ。
恭子は一瞬だけこちらに目を向けたが、すぐに締められる苦しみに目を瞑った。
痛みの最中でそれどころではないのだ。
俺はバカなことをした、と思いながらただ立ち尽くす。リングがひどく遠く感じる。
彼氏なのに、俺に出来るのは他の観客と同じように応援する事だけだ。
降参を拒否したところで、恭子がラミアの関節技を破る術はない。
ロープブレイクのない今、恭子はラミア自らが技を解きでもしない限り、ただ膝を壊されるのみだ。
脱臼していない左腕で殴ろうにも、腰が入らず手打ちにしかならない。
そもそもその打撃が届くのだって、せいぜい自分の腿を締め上げるラミアの脚にだけ。
恭子は成す術もないままマットの上で足掻く。
「ああいいわぁ、この太腿のびくんびくんって脈打つ感覚。あなたすごく力強い。
その辺りの素人女を締め上げたって、こんなの絶対味わえないものね。
でも男ともまた違う……すべすべの肌に、むちっとした美味しそうな脚のカタチ。
ああやっぱり、鍛えた女を痛めつけるのはたまらないわ!」
ラミアは恭子の苦悶する姿を眺めながら官能的に囁き続ける。
明らかに真性のサディストだ。
そして存分に愉しんだラミアは、身体を反らしていよいよ膝を痛烈に捻り上げ始めた。
「ぎゃああああああああっ!!!!!」
恭子の澄んだ声が痛々しい絶叫となって響き渡る。
無事な右足までもが激しく痙攣しはじめ、どれほどの苦痛が襲っているのかを表していた。
※
ようやくラミアが左脚を解放した時、恭子は息も絶え絶えになっていた。
右肩はV字の隆起と妙な腕の長さから明らかな脱臼が見て取れ、
左脚はだらりと力なくマットに投げ出されている。
よく見れば、最初に肘を受けた右膝も異常に腫れ上がっていた。
利き手と両足がほとんど死んだも同然だ。
ラミアはその仰向けに横たわった恭子にゆっくりと近づいていく。
リングにコツ、コツとヒールの音を響かせながら。
「ぐったりしちゃったわね、恭子ちゃん」
ラミアにそう嘲られても、恭子は動くことができない。
ラミアはその恭子の身体を眺め回す。そして薄っすらと割れた腹筋で視線を止め、笑った。
「おい、マジかよ!?」
ラミアの行動に驚きの声が上がる。
ラミアは片足を上げ、あろうことか恭子の腹部に踏み込んだのだ。
履いているのはヒール高8cm、直径3cmほどのハイヒール。
恭子は咄嗟に腹筋を固めた。側筋が浮かび上がり、鍛えられた岩のような腹筋が輪郭を深める。
その固い腹筋に細いヒールの先が沈み込む。
「ぐぅえ、えっ!」
恭子が悲鳴を上げた。
51kgの恭子に対し、ラミアは62kg。
自分より11kgも重い人間が腹に乗り上げたのだ。
つま先部分はともかく、直径3cmのヒール部分でそれをやられては堪らない。
堪らず手を伸ばして敵の足を外そうとする恭子だが、その手首が逆に掴まれた。
まず左手、そして次に脱臼した右手。
そしてラミアはその両手を引き絞ったまま、もう片足も恭子の腹に乗せる。
「この最初がキモなのよね」
ラミアはそう言いながら巧みにバランスを取り、ついに腹筋の上で立ち上がった。
「うう……っぐ!」
脱臼した腕を引かれる痛みと腹の苦しみに、恭子が顔を歪める。
「ああ凄い、さすがよく鍛えられた腹筋だわ。ぶよぶよのお腹じゃ、こうして立てないもの。
並の人間なら下手をするとアバラが砕けてしまうんだけど、あなたなら大丈夫よね?」
ラミアが嬉しそうに告げた。
それは逆に言えば、腹筋を固めていなければアバラも砕けうる、という脅しだ。
恭子は頬を膨らませて息を吸い込み、必死に腹筋に力を入れる。
足が無事ならば身体を反転させて振り落とすことも可能だが、今は足がまともに動かせない。
両腕もラミアに掴み上げられてしまっている。
ゆえに恭子は、ただ腹筋への踏みつけに耐え忍ぶしかない。
恭子の地獄は、こうして始まった。
6つに盛り上がった恭子の腹筋を破り、ヒールが深く沈み込む。
「うん、うんいいわ。十分に固くって、でもアスファルトみたいな無機質な硬さじゃない。素敵よ」
ラミアは興奮気味に告げ、その場で足踏みを始めた。
片方のヒールが引き抜かれれば、同時にもう片方のヒールが深く抉り込まれる。
ぎちっぎちっと汗に塗れたしなやかな筋肉が悲鳴をあげる。
「……っ!!…………っ゛!!!」
恭子は歯を喰いしばって耐えていた。
投げ出された太腿が踏み込みに合わせて筋を立てる。それがいやに艶かしい。
「どう、私の重さを感じてくれてる?」
ラミアが見下ろしながら問うと、恭子は口を結んだまま殺しそうな目で睨みあげる。
「そう、残念。ここは筋肉が密集しててまだ鈍感なのかしら。
オッパイと同じ、周りからよくほぐさないとね」
ラミアはそう言い、ゆっくりと足の位置を変える。
「う、ぐくっ……!?」
恭子の呻きが必死さを増す。ラミアの靴が腹筋から前へ進み、水月を踏みつけたのだ。
そのままラミアの足は、恭子の乳房から下腹にかけてを歩きはじめる。
「あははっ楽しい。肉の道ってところね」
ラミアはすっかり上機嫌だ。
「う゛、ぐぶっ、う、う゛っ…!!!」
一方の恭子は、腹筋下の小腸から肺、胃……と順番に踏みつけられ、徐々に顔を赤くしていく。
白い腹には足跡がついていった。
靴のつま先部分は桜色、細いヒール部分は深紅に窪んでいる。
ラミアはその足跡を楽しそうに眺める。雪原に真新しい足跡をつけるかのようだ。
俺はそのはしゃぎように苛立ちを覚えながら、それでも恭子をただ見守るしかなかった。
下手に声をかけて恭子の緊張の糸を切りでもしたら大変だ。
ラミアは今一度笑い、ちらりと客席に目を向ける。
「皆、この感触がどんなか解る?足元が柔らかくて、しかも恐怖に震える息で小刻みに振動するの。
バランスを取るのも大変。落ちないためにはどうしても足を踏ん張らなきゃいけないわ。
でも力を入れるとそれだけヒールが食い込んで、より一層苦しみだす……皮肉よねえ」
ラミアはそう言いながら恭子の右腕をぐいと引いた。
肩を脱臼している方の手だ。
その痛みで恭子が歯を食いしばり、割れた腹筋の道がよりはっきりと浮き出る。
ラミアはそれに満足そうに笑い、石畳を歩むように優雅に歩を進めた。
腹筋の筋に沿って歩むラミアは、ある地点で意地悪そうに笑う。
「あらっ、ココふにょんふにょんね」
ラミアが足先でつつくのは、恭子の下腹……膀胱の辺りだ。
筋肉の付きづらいそこを見つけると、ラミアは身体を傾けて片足に全ての体重をかける。
「れあああっ!?」
恭子が目を見開いた。膀胱を圧迫されてはたまらない。
ラミアがさらにぐりりとヒールを捻りこむと、恭子の腰がびくんと跳ねた。
そして直後、炎を模した恭子のボクサーパンツから黄色いせせらぎが溢れ出す。
ゆったりとしたパンツの裾と、その奥に見える暗がりの隙間から、大量に。
マットにできた黄色い水溜りがボクサーパンツの下部を染めていく。
鼻をつく匂いが漂い始める。
「うわっ、あいつ漏らしてんぞ!!」
「いやーーー!!!」
観客の男や女子高生が、あるいは歓喜の叫びを、あるいは失意の悲鳴を上げた。
俺は視線を恭子の太腿辺りに釘付けにされる。
ショックで頭が痛むようだ。
「あぁら、盛大に漏らしちゃって。私がそんなに重いって言うの?失礼ね」
ラミアはそう言いながら、さらに膀胱をぐりぐりと抉る。
「い、いだっ、あああ゛!!」
恭子は耐え切れずに凄い声で脚をばたつかせはじめた。
「う、うわっ……と」
その暴れように、ラミアが流石にバランスを保てなくなって倒れ込む。
どん、と恭子の乳房に膝をついてだ。
膝の下で乳首がごりりと捻り潰される感触に、恭子の美貌が壮絶に歪む。
「もう、あなたが暴れるのがいけないのよ?」
ラミアは膝頭で恭子の乳房を押し潰しながら、改めて恭子の腕を掴み直す。
「さて、立たないと」
そう言うと足首で踏ん張り、膝を起こして立ち上がった。
すると当然、ラミアの体重が余すところ無く恭子の腹にかかることになる。
靴のつま先が深々と腹筋に突き刺さった。
「うむっ!?んう、ごおおううぇえええ!!!」
恭子としてはたまったものではない。
目が一杯に見開かれ、口内に留めていた涎がごぼりと流れ出す。
「うわ、すんごい低い声。でもあなたの苦しみが純粋に込められてて、耳に気持ちいいわ」
ラミアは今日一番の笑みでそう告げた。
そして極度の苦しみに苛まれている恭子の上で、細かに膝を震わせる。
「げおっ!っろ、おろっう゛ええ゛!!!!」
度重なる呼吸困難と腹筋へのヒールの突きこみで、恭子も限界に近い。
そこへ来て腹の上で細かく脚を震わされると、恭子の身体も激しく反応してしまう。
「面白ーい。上で揺さぶると、それ以上の振動で下が痙攣するわ」
ラミアは夢中になって踏みつけた腹部へ振動を浴びせた。
形は電気アンマのようだ。
だが恭子の苦しみはそんな比ではない。
「うっ、えぶっ……!ぐう、うぅおおええ゛え゛……!!!」
口の端から涎を垂らし、時に舌を突き出して危険な声でえづく。
タイミングを見計らって酸素を取り入れ、腹筋を締めるが、それも苦しくなってきている。
まるで硬かったステーキが、ラミアの体重を乗せた捏ねで挽き肉になっていくようだ。
「ほらどうしたの?どんどん硬さがなくなってきたわよ?」
ラミアがそう煽りながら動きを変えた。
何度か強く腹部を押し込んだあと、徐々に力みの薄れてきた腹筋の弾みを利用してホッピングをはじめる。
「うおおえ゛、ええ゛っ、んおおお゛……ッう!!!!」
恭子の声がますます低く、そして間の大きいものになっていく。
身体の底へ何かが着実に堪っていくようにだ。
恭子の腹が着実に壊されている。間近で観る俺はそれがはっきりと解り、掌に冷たい汗がでた。
「はぁ、はぁ、ふふっ。さっきは肉の道だったけど、今度は新手のダイエットマシンね。
ねぇ嬉しい?あなた今、私がもっと完璧な身体に近づくお手伝いが出来ているのよ」
ラミアは恭子の腹筋で跳ね弾みながら罵る。
フィットネスモデルのようなラミアが弾みながら脚を交錯させる様は、確かに絵になる。
しかしその下で腕を掴まれ、相手の一跳ねごとに身体を痙攣させる恭子だってまた、
本来ならそれに負けないぐらい魅力的な女なんだ。
それが何故、あれほど惨めな姿になっている?
恭子のやや硬さを失った、しかしまだ十分な弾力を持つはずの腹筋を、ラミアのヒールが抉る。
突いて、突いて、耐え切れず崩壊した腹筋に突き刺さる。
突いて、突いて、突き刺さる。
美しく逞しかった恭子の腹筋にはいくつもの深い溝ができ、脂汗に塗れたかすかな血を流した。
その傷だらけの雪原にまた、新たな杭が叩き込まれる。
「んんんああ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
恭子はラミアのその容赦ないホッピングに耐え切れず、とうとう大きく口を開いた。
腹の底から叫び、涙の筋を零し、大量の涎があぶくとなって溢れ出す。
すらっと伸びた脚はMの字に開かれ、地を踏みしめながら限界まで筋張っていた。
「ああ、いーい声……。なぁに、泣くほど嬉しいの?」
ラミアは涙を流す恭子の顔を見つめながら、ますますホッピングを激しくしていく。
ずちゅっ、ずちゅっ、と汗に塗れた柔らかい腹筋から音が漏れる。
水気のある肉の音、軋むマットの響き、荒い2つの呼吸の音、頬を伝う涙。
全てが俺の心に鈍い切り傷を残していく。
はっ…は、ひゅっはひゅっ、は、あひゅっ
恭子の呼吸はどんどんとおかしくなっていく。
その呼吸の合間に、恭子は何度か真っ赤な頬を膨らませる動きを見せ、
また喉の奥からうがいをするような水気のある喘ぎをしていた。
「あはははっ、面白いわ」
ラミアは笑いながら、恭子の顔を見つめてさらに腹への蹴り付けを痛烈にする。
胃腸も筋肉もまとめて捏ね潰そうと言わんばかりだ。
ラミアの頬から流れる汗が恭子に降り注ぎ、涙となって垂れ落ちていく。
それはラミアの足の下で弄ばれるだけの玩具となった恭子を象徴するようだった。
恭子の上で妖艶なステップを繰り返すラミアは踊るかのようだった。
汗を振り乱しながら伸ばした脚で柔肉を押し込むと、下の“台”が背筋を伸ばして呻く。
女の脚が抉るようなターンを描けば、台の女の脚が膝を立てて打ち震える。
まるでその様なショーだ。
初め悲喜交々だった観客席も、いつしかその倒錯的なショーに見入っていた。
歓声をうけるのはステージで煌びやかに踊る女。
嘲笑にまみれるのは靴に腹を抉り回されて身悶える浅ましい台座。それが俺の女だ。
ラミアの足捌きはますますキレを増し、客席の盛り上がりもヒートアップする。
そしてその興奮の頂点で、俺の女は喉を蠢かせた。
ごぐっ、という押し潰した音がする。
「っお、おげぅろおおおおっっ!!!!!」
もはや女の、いや人の発するものでない音を奏でながら、下の女は口から吐瀉物を吐き上げた。
それはラミアの勝ち誇った笑顔に見つめられながら続く。
ラミアの悩ましい脚線がぶるりと蠢けば、恭子の喉から茶色い半固形のものが溢れ出す。
客席を満たすのは、笑い、笑い、笑い。
何故だ。
恭子はキックボクシングの王者、正統派の覇者じゃないか。誰が馬鹿にできる。
誰か知っているのか。
あいつがどれだけ練習して、どれだけ汗を流して、
どれだけ強くてどれだけ自信があって、どれだけ一途に俺を愛してくれたか。
ふざけるな。笑うな、あいつを笑うな!!
俺がそう拳を握りしめた時、リングの上で物音がした。
恭子の手がラミアの腰を掴んでいる。
恭子から降りて勝ち誇っていたラミアは振り向くのがやっとだ。
恭子は背を仰け反らせると、朱色のラバーに覆われたラミアの腹部へ痛烈な頭突きをぶちかます。
ドンッ、と鈍い音が響いた。
「げはああっ!?」
ラミアは腰をくの字におって倒れこむ。涼しげだった目は見開き、口から涎が零れる。
それはそうだ、恭子の頭突きは強烈なのだから。
中学で番長だった頃、その『パチキ』であらゆる男を泣かせた、とジムの伝説にもなっている。
その頭突きがラミアの腹筋にぶち込まれたのだ。
「あっは、が、あはっ……!!」
腹を抱えて丸くなるラミアを、同じく腹に手を当てて苦しみながら恭子が睨み据える。
気迫に場が静まり返った。
ラミアの目がまず驚きを示し、ついで怒りに燃える。蛇の目だ。
しかし恭子も引かない。ダメージは比べ物にならないほどあるが、睨み返す。
その恭子の腹を、弾くように出したラミアの蹴りが襲う。
「げぁ、っは……!!!」
気丈にしていてもダメージは深刻だ。恭子は目を瞑り、口から涎を零して後ろに転がる。
その恭子を立ち上がったラミアが追った。
そして繰り出される、ストンピングの嵐。
怒りに燃えたラミアの蹴りは、腹部をガードする恭子の腕を何度も蹴りつけ、
ガードが固いと解ると整った顔を容赦なく蹴り潰して無理矢理ガードを上げさせ、
また腹部へ踏み付けを叩き込む。
恭子の下にあるマットに新たな吐瀉物や血液が垂れ落ちていく。
恭子は声も出せずに低く呻きながら、必死に身体を丸めて耐え忍んでいた。
恐怖か痛みか、細かにその身体を震わせながら。
「恭子おおおおっっ!!!!!」
俺は叫んだ。声の限りだ。細かい事は考えない、ここで叫べなければ、とてつもないものを失う気がして。
俺の叫びが届いたのか、それは解らない。
しかし恭子は、一度だけ甘く入ったラミアのストンピングを捉え、膝裏に手をかけて転ばせる。
そして逆にラミアの上に覆い被さり、思い切り振り上げた足でその腹を踏みつけた。
「ぎぃやうああああっっ!!!?」
咆哮、とも言えるような叫びが涼やかなラミアの美貌から発せられる。
恭子はさらにその体勢のまま、腹へのストンピングを浴びせかけた。
ドゴォン、ドゴォン、と凄まじい音がしてリングが震える。
会場が騒然となった。
「お、おい何だよあの音。あんなの、聞いたことねぇぞ……死ぬよ」
「ひぇっ、ま、マジにキック王者なんだなあれ、怖えぇって」
先まで恭子を舐め切って嘲笑っていた連中が顔を青ざめさせている。
いける、と俺は手を握りしめた。
「いけぇっ、恭子おおおぉっ!!!!!」
俺はダメ押しで叫ぶ。関係性はどうあれ、さっきは俺の声と同時に状況が変わった。
だからゲン担ぎの意味を込めて今一度叫ぶ。
その時、恭子が俺をちらと見た。俺はぞくっとする。
あいつの顔は真っ青だった。汗が恐ろしいほど顔中に滴り、歯茎が震えていた。
その極限状態の中、恭子は『心配すんな』とでも言いたげに目を細める。
しかしその時まさに、ぐったりと動きを止めていたラミアが足を引き付けるのが見えた。
危ない!
そう叫ぼうとした瞬間、その蹴りは痛烈に恭子を蹴り飛ばしていた。
ごおん、といやな音をさせて、恭子はコーナーポストに叩きつけられる。
「あう……」
恭子は力なく天を仰ぎながら崩れた。そこにラミアの影が落ちる。
「やってくれたわね、小娘」
ラミアは前半の余裕が嘘に思えるような蛇の目つきだ。
そしてコーナーに崩れたままの恭子の腹へヤクザキックを叩き込む。
鈍い音でコーナーが揺れ、恭子の身体が跳ねる。
俺の方からは顔は見えないが、その手足がだらりと投げ出されているのが見えた。
死。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
「おい、やめろよ!もう失神してんだろ!?」
俺が叫ぶと、ラミアが凍りつくような碧眼を俺に向けた。
「してないわ。……こいつまだ、こんな目で私を見ていやがんのよっ!!!」
ラミアはそう言って恭子の襟元を掴み、自分の前に引き摺り起こした。
恭子は口から血を流しながら、じっとラミアを睨み据えている。
ラミアは忌々しそうに額に血管を浮き出させた。
「お、俺初めて見たよ、朝岡があんなにキレるの……」
観客席から囁きが聞こえる。
客席が固唾を呑む中、ラミアは歯軋りして恭子の身体を抱え上げた。
そしてその身体を肩に担いだままロープを上っていく。
何をするんだ、と場の皆が見上げる中、ラミアはトップロープを蹴った。
そしてリング上空に飛び上がり、掲げた恭子の身体を振り下ろしながらその腹に膝を添える。
ダンッ、と着地の音が響いた後、水の音がした。
ラミアの膝で腹部を突き上げられた恭子の口から、凄まじい量の吐瀉物が溢れ出している。
随所に赤い流れまで含ませて、だ。
「……もう死ぬよ、あれ……!」
客席からは声が失せていった。俺も声を出す余裕なんてとうに無かった。
静けさに覆われたリングの中、崩れ落ちた恭子を放り投げてラミアが背を向ける。
失神、試合終了だ。ゴングがまさに打ち鳴らされようとした時、ラミアの足を白い手が掴む。
ラミアはいよいよ驚きを浮かべて振り向いた。
恭子が這いずり、去るラミアの足に縋りつく。
目は虚ろで、口は細かく震えながら、恭子は小さく呟いていた。
「…………つや………てつ……や……。
……ぃじょうぶ、わらひ、まけ……ない……まけたり、ひない……」
恭子は呟きながらラミアの足を掴み続け、
やがてがくりと首を折る。
厳しい表情をしたラミアの首筋に汗が伝い落ちた。
ゴングが打ち鳴らされる。 ここに恭子の敗北が、決した。
※
その後恭子は、当初のルールに従って断髪を施行された。
大観衆が見つめる中、ラミアに荒々しく髪を掴み上げられ、鋏で切り捨てられていく。
時と共にリングに広がる、艶やかな長い髪。女の命。
それを見つめながら、恭子はただ虚ろな目をしていた。
はらはらと髪が舞い、今までの芦屋恭子が消えていく。
あの日、ジムで出会った、清楚な長い髪の少女。
それが殺されたのだ。
鋏で乱雑に切り払われたショートカットを散々衆目に見せつけた後、
ラミアは恭子をリング外に投げ捨てた。
俺が慌ててそれを抱きとめる。
「大事に持って帰りなさい、彼氏さん。そんなゴミ、ウチでは処分できないからね」
ラミアはそう言って花道を通り、控え室へと悠々と引き返していく。
客も今日の壮絶な体験を口々に語り合いながら、出口へ向けて去っていく。
照明の消えたリングの傍で、俺は気絶した恭子を抱きかかえていた。
試合の最後の方、俺の体は動かなかった。
あれほどの状態になっていた恭子に対し、声を掛けることができなかった。
自責の念からだ。
恭子が試合始めで不覚を取ったのも、いやそもそもこんなバカげた試合を受けたのも、
俺という存在が居たせいだ。俺が恭子の弱みなんだ。
「……モヤシ、くん……。……ないて……るの……?」
不意に掛けられた声に、俺は肩を竦ませる。
恭子が薄目を開けて俺を見ていた。ひどい状態だ。
ボロボロになった恭子を眺めながら、俺は意を決した。
別れを告げる。
当然、嫌いになった訳じゃない。むしろこれ以上ないぐらい大好きだ。
あんな目にあっている恭子を見て、俺は心からこいつに惹かれているんだと解った。
一緒に歩いていてこんなに幸せな奴はいない。一緒に過ごしていてこんなに楽しい奴はいない。
人生で遭えるのはきっとこの一人だけ、そう大袈裟じゃなく思える。
だけど、だから、俺はこれ以上こいつのお荷物になるべきじゃないんだ。
「俺さ、きょう……」
そう言いかけたその瞬間、パンとその口が塞がれる。
気の抜けるような音に目を瞬かせると、恭子がむすっとした顔で睨んでいた。
「許さない、から。モヤシくん、が、居なくなったりしたら、その瞬間に、死んで、やるから」
息を整えながら途切れ途切れに言う。
「死ぬって、お前な……」
「大体!あいつに負けた事で、別れたりしたら、それこそオトコ云々って
アイツの言い分を、丸ごと認めることになんじゃない。にじゅうの敗北よ」
恭子にそう言われ、そういやそうか、と納得した。
「負けてもせめて己の道を進むのが、一流の人間よ。
……ったく、そんなだからモヤシくんは、いつまでもモヤシなんだよ」
恭子は訳のわからない事を呟きながら、俺の胸に顔を埋めた。
無残に切られた後ろ髪がまばらにうなじへ垂れている。
ふと、その華奢な首筋が震え始めた。俺の首に幾つかの水滴が垂れ落ちる。
居たたまれない気持ちになった。
「……悔しいよ……悔しいよ、くやしい、よ …………哲哉…………っ !!!」
恭子は俺の肩を叩きながら、その拳を固く握りしめて嗚咽を繰り返す。
俺はその小さな身体をぎゅっと抱きしめ、少し前のバカな自分を頭の中で殴り飛ばした。
こんな状態のこいつを置いて別れるつもりだったのか。
自分のせい? 逃げてるんじゃねぇ、馬鹿野郎。
「……俺さ、恭子」
泣きじゃくる恭子の耳元で、俺は囁いた。恭子が目を開けて俺を見つめる。
「最初は、お前の髪に惚れたんだ。清楚そうな子だなって、一目で思った」
「……知ってるよ。モヤシくんの目は解りやすいから」
恭子が少し歪んだような笑みを見せる。
「でもな恭子。俺は……その、な。途中から髪なんか見てないっつうか、ええとだな。
ショートヘアも良いかもしれない、というか、いや過程から良くはないんだが、」
俺はしどろもどろになって言葉を続ける。
要は落ち込むな、と伝えたいのだが、上手い言い回しが思いつかない。
思えば恭子をまともに褒める事なんて殆どした事がない。
この大事な時に、そのツケがきた。
俺が落ち込んで項垂れていると、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
「あは、あっははは!全くモヤシくんはぁ、フォローが下手すぎるよ」
そう笑ってから少し咳き込み、恭子はふと別の笑みを見せた。
「…………ありがとうね。負け惜しみなんかじゃなく、思う。
私は、モヤシくん……ううん、哲哉のおかげで強くなれてるんだ。
だからこれからも一緒に居てほしい。一緒に強くなって、今度こそ勝つんだ……アイツに」
恭子はぐ、と拳を握り締めて言う。
「ああ、望む所だ」
俺もその拳に拳を合わせて応えた。
俺達は決意を新たにし、また新しい目標に向かって歩き始めた。
ただその第一歩は、世間から見るとやや突拍子もないことだったかもしれない。
『 キックボクサー芦屋恭子、プロレスに電撃移籍!! 』
その見出しがスポーツ各誌を賑わしたのは、また別の話になる。
END
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