事故物件の日本史【第14回】「ヒロシマへ行く」ということばを知っていますか?|大塚ひかり
「事故物件」と聞いて、まずイメージする時代は、“現代”という方がほとんどではないでしょうか。
しかし、古典文学や歴史書のなかにも「事故物件」は、数多く存在するのです。
平安以降のワケあり住宅や土地を取り上げ、その裏に見え隠れする当時の人たちの思いや願いに迫ってきた本連載も、ついに今回が最終回となります。
第十四章 残しておきたい事故物件……事故物件は未来へのメッセージ
忌みことば「ヒロシマへ行く」の謎
忌みことばという概念をご存知だろうか。
「死」を「なおる」、「血」を「あせ」、「梨」を「ありの実」などというのがそれに当たる。
要は、不吉な意味を連想させるのを避けるため、別のことばに置き換えるわけだ。一日のうちで夜だけ、一年のうちで正月だけ使われることばもある(柳田國男監修『民俗学辞典』、『日本国語大辞典』)。
そんな忌みことばの一つに、江戸時代以前から、厳島<いつくしま>などの西日本の一部で「死」を意味していた「ヒロシマへ行く」という言い方がある。
この「ヒロシマ」は本来、今の広島市あるいは広島県という現実の地名ではなく、他界として認識されるイメージ上の抽象的な空間であった(小口千明『日本人の相対的環境観ーー「好まれない空間」の歴史地理学』)。
小口氏によれば、広島という地名が生まれたのは天正十七(1589)年とされる。
それ以前から他界を意味する「ヒロシマ」の語があったとすれば、庶民の用いた「ヒロシマ」を、上級武士層は用いていなかった可能性が想定されるそうだ。
表現としては、「あの人はヒロシマへ行った」というのが原形で、それが同音の地名としての広島と認識されるようになってからは「あの人はヒロシマへ茶を買いに行った」などと言うようになった。さらに広島が被爆都市となってからは、「『悲しい想い出』を呼び起こすとしてこの表現を『用いないよう努める』、あるいはこの表現の存在は『遺憾』とする」市町村もあるという。
いずれにしてもこのことばを用いる人々にとって「ヒロシマ」は死後の行き先として認識されていた。
そして現在、「ヒロシマへ行く」という忌みことばは「次第に消滅しつつある」。
ヒロシマが原爆と結び付くようになったことも、使われないようになった要因と言える。
この「ヒロシマへ行く」ということばを聞いて、地名としての広島しか頭に浮かばなかった私は、それが江戸時代もしくはそれ以前から死を意味することばであったと知った時、衝撃を受けた。
そしてこのことばがかなり古い由来をもつにもかかわらず、原爆が投下された後はその災禍がことばの語源であるとする説まで出ていることを、小口氏の前掲書で知って、それはそうだろうな、とも思った。それくらい被爆都市としての広島のイメージが強いからである。忌みことば自体が、その時代の習慣や信仰から出てきたものであることを思えば、つまり「死ぬ」という語をわざわざ避ける必要性がなくなったことを思えば、原爆イメージがなかったとしても、このことばが消滅しつつあるのは当然であろうとも感じる。
原爆ドームを残して世界都市となった広島
忌みことばとしての「ヒロシマ」が消滅していく一方で、被曝地としての広島のイメージは、現在、強まりこそすれ、薄れることはない。
それは、広島自身がそのような方向性を採っているからでもある。
広島の「原爆ドーム」は、ユネスコの世界遺産に登録され、オバマ大統領も訪れたことで、世界的に知られている。さらに2024年、日本被団協(=日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞したことで、広島・長崎への関心は世界規模で高まっているようにも感じる。
けれど実は、広島の原爆ドームが遺されるに至るまでの道のりは平坦なものではなかった。
「原爆の被害を後世に伝え残さなければならない」(佐藤真澄『ヒロシマをのこすーー平和記念資料館をつくった人・長岡省吾』)
そんな声が広島市民のあいだにも少しずつ上がってはいてものの、原爆ドームに関しては、1960年代に入ると、世論は取り壊しのほうに傾いていた。市当局は、「ドームの保存には経済的な負担が大きすぎる」と、保存には「消極的」だったし、「忌々<いまいま>しい記憶を呼び起こすものは壊すべき」という市民の意見も根強く残っていた(佐藤氏前掲書)。
その流れを変えるきっかけは、被曝による放射線障害が原因によると考えられる急性白血病によって16歳で亡くなった女子校生の日記であった。
「あのいたいたしい産業奨励館(大塚注・原爆ドーム)だけがいつまでもおそる(べき)原爆を世にうったえてくれるだろうか」(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』)
そんな日記に胸打たれた「広島折鶴の会」世話人の河本一郎が、会の子どもたちと共に募金と署名を呼びかける活動を開始。これを皮切りにして、被爆者、反核団体、市民団体などへ保存の運動が広まって、1966年7月、
「広島市議会は原爆ドームの保存を満場一致で決議した」(頴原澄子『原爆ドームーー物産陳列館から広島平和記念碑へ』)のであった。
ちなみに原爆ドームはもともと広島県物産陳列館の名で1915年に建てられ、のちに産業奨励館と改称、
「『原爆ドームという呼称は一九五〇年頃から誰いうともなく使われはじめた」(頴原氏前掲書)
という。
崩れかけたドームをそのままの形で保存するにはさまざまな苦労があったのだ。
そして原爆ドームを保存したことで広島は反核を象徴する世界都市となったわけで、それは市民運動から始まったのである。
浦上天主堂を取り壊した長崎
一方、これと違う道を歩んだのが長崎であった。
広島と同様、被爆地となってしまった長崎だが、その象徴ともいうべき浦上天主堂は、広島のいわゆる「原爆ドーム」の辿った運命と異なり、1958年、取り壊された。
もちろん長崎でも残そうという動きはあった。
当時の長崎市長である田川務も「保存についてはかなり前向きだった」(高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』)。
にもかかわらず、なぜ残せなかったのか。
高瀬毅によると、理由は大きく分けて三つあるようだ。
一つ目は、1955年、セントポール市との日本初の姉妹都市提携の打診がアメリカよりあり、翌1956年の田川市長の渡米以来、市長が天主堂遺構保存から取り壊しの方針に変わったこと。
二つ目は、同じころ(1955年)、浦上天主堂の再建の募金活動のために渡米した、浦上出身の山口大司教が今の場所に再建することにこだわったこと。その際のアメリカ側による資金提供の条件が遺物の撤去であることが口伝えに残っているというのも興味深いものがある。アメリカの要請があったという証拠はないものの、アメリカ側は罪の記憶を消すために、長崎市長らを「懐柔」した可能性があるようなのだ。
そして三つ目は……これが自分的にはいちばん心に響いたのだが、当時、「長崎にはキリシタンと反キリシタンという二重構造」(高瀬氏前掲書)、つまりは分断があったため、広島のように一つにまとまることができなかった、というものである。浦上地区は、江戸時代からずっと隠れキリシタンの村として弾圧されてきた歴史があり、しかも浦上の信徒たちも原爆投下を“浦上五番崩れ”と呼ぶような、弾圧の一つとして受け止める意識があった。そうした「宗教によって分断された『文化の断層』が存在している」(同前)ということが大きかった、というのである。
非常に考えさせられた。
同じ長崎でも浦上をひとごととしてとらえる意識が、天主堂の保存運動を限定的なものにしてしまったというわけだ。
未来へのメッセージとしての事故物件
浦上天主堂の遺跡を、本やネットで見るにつけ、残しておきさえすれば……戦争の悲惨さ、核爆弾の残酷さを伝える世界的遺跡として、広島の原爆ドーム以上のインパクトがあったろうに……と残念でならない。アメリカでのキリスト教教徒の多さを思うと、物凄いインパクトがあったはずだ(だからこそ、アメリカ側としてはどうしても取り壊したかったのであろう)。
広島の原爆ドームを見ても分かるように、まがまがしいことがあったからこそ、その爪痕を残す遺物は、後世への強烈な教訓になり得るということがある。
話は少しずれるが、医療事故の教訓を生かすために2015年にできた「医療事故調査制度」というのがあるそうだ。が、
「医療機関から事故として報告される件数は想定を大きく下回る。事故の教訓を共有するための情報開示も不十分で、被害者の遺族からは制度の見直しを求める声があがっている」という(2020年11月25日付け「朝日新聞」朝刊)。
過去の医療事故が十分に開示されない、つまりは人目にさらされないせいで、教訓として生かされないわけである。
広島の原爆ドームが、多くの人目にさらされることで、大いなる教訓となり得たことと対照的である。
その原爆ドームにしても、「見るたびに原爆が落とされたときの悲惨な状況を思い出すので、一刻も早く取り壊して欲しい」といった声もたびたび上がっていたという過去があった(佐藤氏前掲書)。
つらい記憶を呼び覚ます遺物として取り去るべきだという意見もあったのである。
しかしそうした声を超え、残すことになったのは、原爆を落とすような戦争を二度と繰り返すまいという戒めと教訓になり得ると期待してのことだ。
このように、不幸の爪痕を残す、いわば負の遺物は、そのもの自体が未来へのメッセージとなっている。
世に事故物件と言われるようなものも似たようなところがあるのではないか……。
ということで、負の遺物とも言える存在を保存する意義や目的を、ここにまとめてみようと思う。
1 悲劇を忘れたくない、記憶に残しておきたい、死者と共に生きたいという死者への愛着
死者の思い出の品を捨てたくない、残しておくことで思い出したいという心理が、事故や事件や災害の起きた物件を残しておきたいという強い思いにつながるのは理解しやすい。
2 死者の魂を鎮める意図
1と関連し、死者を悼み鎮魂するため、不幸のあった物件を保存したり、その場所に慰霊碑を建てるということがある。不幸のあった家を寺にしたり、不幸な死に方をした英雄・偉人を神として祀り、その人にちなんだ場所に社<やしろ>を建てるといったこともこれに含まれる。
3 二度と過ちを繰り返すまいという教訓と改善への試み
後世への教訓にしようという明確な意図で以て、戦争などの人災や災害、事件の爪痕を積極的に残す。広島の原爆ドームの保存や、東日本大震災の津波でただ一本残った「奇跡の一本松」の保存運動がこれに当たる。
また2・3に共通して言えることだが、現場をそのままでなくても、モニュメント的な形で保存することで、将来への注意喚起を促す。同時に、事件や事故の現場を分析することで、事件や事故につながる環境や設備の欠陥があったとすれば、改善に向けた試みへの糸口とする。
こうしてまとめてみると、そこに共通するのは、不幸を忘れたくない、大切な人々の死を無駄にしたくない、という強い思いである。
さらに、今現在に生きる人たちの幸福と未来をより良いものにしたいという祈りにも似た願いである。
この象徴的な一つが広島ドームの保存だったと思う。
こうした行為は忌みことばの対極にあって、その実、忌みことば同様の意味合いがある、と私は考える。
どちらも、平和への強い希求、幸せな暮らしを願うという点で、変わるところはない、と。
事故物件や、それが高じて「凶宅」となってしまった物件に関しても、やましたひでこの金沢の家のように再生させたり、寺社にしたりといった方法のほか、不幸の度合いが強いもの・公共性が強いものに関しては、広島の原爆ドームのような形で残すことも、可能性の一つとして、考えられるのではないかと思う次第である。
大塚ひかり(おおつか・ひかり)
1961年横浜市生まれ。古典エッセイスト。早稲田大学第一文学部日本史学専攻。『ブス論』、個人全訳『源氏物語』全六巻、『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』『ジェンダーレスの日本史』『ヤバいBL日本史』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『やばい源氏物語』『傷だらけの光源氏』『ひとりみの日本史』など著書多数。趣味は年表作りと系図作り。4月1日に『悪意の日本史』(祥伝社新書)が刊行予定。
連載一覧
- 第1回 『源氏物語』の舞台は王朝心霊スポット~河原院と二条院
- 第2回 『源氏物語』の舞台は王朝心霊スポット~河原院と二条院Pt.2
- 第3回 中国から日本に伝わった”凶宅”ということば
- 第4回 凶宅における“怪異”との正しい付き合い方
- 第5回 都市伝説「池袋の女」に隠された想い
- 第6回 「野中の一軒家」の本当の被害者を考える
- 第7回 凶宅が「福」に転じる場合とは?
- 第8回 なぜ平賀源内は人を殺めてしまったのか?
- 第9回 数多くの人骨が発見された場所に存在した、鎌倉時代からの因縁
- 第10回 橋という場所にさまざまな怪異が存在するわけ
- 第11回 凶宅のあとには何ができる?
- 第12回 日本各地に存在する皿屋敷伝説
- 第13回 「凶宅」の被害を受ける者、受けない者の違いとは
- 第14回 「ヒロシマへ行く」ということばを知っていますか?
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