本日の総幹部会も御本尊様の功徳の歓喜と広宣流布の大情熱が滾り、大感動を抑えられません。
凛烈の気魄に満ちた元旦勤行で広布決戦場第六年の幕があけ、年初より三百万を決定づける本年の二七〇万を見つめた凄まじい決意が全顕正会に漲っていること、有難いかぎりであります。
そしてこの一月は、三級・五級ならびに登用試験が全国で実施され、実に三万人を超す同志の受験が叶いました。
ことに登用試験の受験者数は過去最高の二万六百余人を数え、驚くばかりでした。
ことしの教学試験の熱烈さ真剣さは例年と全く異なり、受験した人も、それを励ました先輩幹部も、運営スタッフも、みな一様にそのけなげな求道心に圧倒され、大感激しておりました。
そして教学を学んだ一人ひとりの胸には「有難い」「お慕わしい」との恋慕渇仰の信心が芽生えております。
いつも先生が教えて下さったごとく、仏様を恋慕渇仰することこそ、凡夫が仏に成らせて頂く直道・信心の究極であります。
この恋慕渇仰の信心について、大聖人様は上野殿に賜った御書にこのように易しく仰せ給うておられます。
「かつへて食をねがい、渇して水をしたうがごとく、恋いて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、乃至、法華経には信心をいたさせ給え。さなくしては後悔あるべし」と。
飢えたときに食べ物を求めるような思い、あるいは喉がカラカラに渇いたときに水を求めるような思い、あるいは恋しい人に何としても会いたいという思い、あるいは病気のときにただ薬を頼みとする思い、このような思いで、日蓮大聖人を「有難い」「お慕わしい」と恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱えよ。さもなければ一生成仏を遂げられず「のちぐえ」すなわち後悔するであろう――と仰せになっておられます。
若き上野殿に与え給うた御書ゆえに、解説の必要すらないほど平易な御教示でありますが、いかに恋慕渇仰の信心が大切なのかがよくわかります。
私たちは、たとえ一文不通、文字を知らず読み書きすらできなかったとしても、大聖人様に対し奉る裏も表もない正直な信心、ただ大聖人様を「有難い」「お慕わしい」と恋慕渇仰する信心さえあれば成仏させて頂ける。大事の御奉公を貫かせて頂けるのであります。
また大聖人様は
「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(諸法実相抄)と仰せあそばす。
「力」とは感激のこと。「よくぞ自分ごときが偉大な仏様にお値いできたものよ。よくぞ有難い御本尊様にお値いできたものよ」との感激があるならば、一文一句なりとも語っていきなさい――と。
組織の内では上と下との語り合い、外に向かっては日蓮大聖人の大恩徳、御本尊様の功徳を讃歎する。この歓喜を語るところに広宣流布は力強く進むのであります。
そして今月の十三日には顕正会の成人式を本部会館で執り行いました。
学校の教師や友人の激しい怨嫉をものともせず、ただ日蓮大聖人を恋慕渇仰して、一生成仏と広宣流布の大願に生きる新成人の凛々しく清々しい姿に、私は深い感動をおぼえるとともに、この姿を先生がごらんになれば、いかにお悦び下さるかと胸がいっぱいになりました。
世間を見れば、毎日毎日、殺人事件をはじめ強盗・詐欺・性犯罪・幼児虐待等の犯罪が跡を絶ちません。
この末法濁悪の世相を見るほどに、顕正会こそ世間の濁りに染まらぬ「白蓮華」、「不染世間法・如蓮華在水」(世間の法に染まらざること、蓮華の水に在るが如し)の姿そのもの。これが地涌の菩薩の大集団なのだと深く噛みしめました。
いかに信心を誤解している人でも、この顕正会の若き俊秀を見れば、御本尊様のお力、顕正会の正しさ清らかさが、理屈ぬきによくわかるに違いないと思わずにはいられませんでした。
さて、話は変わります。
広布の決戦場たる20年代に突入して本年で六年目になり、三災七難は年々に激しさを増し「前代未聞の大闘諍」「他国侵逼」がいよいよ眼前に迫ってまいりました。
これ「仏法より事起こる」の大難であります。
その根本原因は七百年前、日本国が大聖人様の御頸を刎ね奉るという血の凍るような大逆罪を犯したことによる。
その大罰として、御在世には大蒙古の責めを受けて国まさに亡びんとするも、大聖人様の冥々の御守護によって辛うじて亡国を免れたのであります。
しかし日本人はその大逆罪を忘れ、今にいたるまで大聖人に背き続けている。諸天、どうして怒りをなさぬことがありましょうか。
さらに重大なことは、正系門家の御遺命違背、師敵対であります。
大聖人様は
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」と。
もし体である唯一の正系門家において信心が濁乱し、大事な御遺命が破壊されるようなことがあれば、影である国家が必ず傾く。日本が危うくなる。
いま日本の亡国がいよいよ迫るを見ては、正系門家がいつまで御遺命に違背し、師敵対に陥っているのかと強く思わずにはいられません。
そこに私は、浅井先生の弟子として、宗門の早瀬日如管長に対して次の二つのことを強く求めるものであります。
一つには、細井日達・阿部日顕の二代の貫首が犯した御遺命違背の大罪を大聖人様に心からお詫びして、宗門として公式に御遺命の「国立戒壇」を宣示すること。
二つには、速やかに「不敬の御開扉」を中止し、急ぎ免震構造の堅固なる新御宝蔵を築き、近き広宣流布・国立戒壇建立のその日まで本門戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ること。
いま時に当り、早瀬管長はこの二つの大事を決断すべきであります。
まず日蓮大聖人の一期の御遺命が国立戒壇建立の一事であることは、三大秘法抄の仰せに明々赫々であります。
「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」と。
この御意は、広宣流布の暁に、天皇・大臣も一同に三大秘法を持ち、身命を惜しまぬ信心に立った時、「勅宣・御教書」すなわち仏法を守護し奉るとの国家意志の公式表明を手続として、富士山天生原に本門戒壇を建立せよということであります。
この三大秘法抄の御文を要言すれば、一期弘法付嘱書の
「国主此の法を立てらるれば」
との御文となり、これを約言すれば「国立戒壇」となる。
ゆえに歴代先師上人は、ことごとく国立戒壇建立を熱願してこられたのであります。
第五十九世・日亨上人は
「宗祖・開山出世の大事たる政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華11号)と。
第六十四世・日昇上人は
「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿落成慶讃文)と。
第六十五世・日淳上人は
「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(日淳上人全集)等と御指南であります。
あの細井日達ですら、登座直後には
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華104号)といい
池田大作もまた
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華59号)と述べておりました。
しかるに、第六天の魔王その身に入りし池田大作は政治野心を燃やし「国立戒壇建立のため」として全学会員を選挙に駆り立てた。
ところが、マスコミや評論家等から一斉に「国立戒壇は憲法違反である」との批判を受けるや、池田は「選挙に不利になる」との理由から国立戒壇を否定した上で、偽戒壇・正本堂を大石寺に建てて、これを時の貫首・細井日達に「御遺命の戒壇」と承認させたのであります。
日興上人の遺誡置文二十六箇条には
「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」
と、令法久住の上から、仏法相違の衆議あらば、貫首は断固としてそれを摧くべきとしてその義務が厳格に定められておりますが、池田大作にへつらって御遺命違背を唯々諾々と認めた宗門の罪の重さを、思うばかりであります。
この御遺命違背をごらんになった先生は
「これを黙過すれば大聖人様への不忠これに過ぎたるはなし」
と、昭和四十五年三月より、身命を捨てて御遺命守護の戦いにお立ちになり、以後、連々たる諫暁を重ねられたのであります。
その先生の捨身の諫暁は、戦時中の軍部のごとく驕った学会を二度も文書で訂正させ、時の貫首の最高指南たる「訓諭」をも訂正せしめた。
池田大作は先生が宗門に存在する以上、いずれ御遺命破壊の悪事が露見すると恐れ、細井日達をして顕正会を解散処分に付せしめた。そのとき顕正会は一万二千でした。
その後、俄に起きた池田との抗争に性心を労した細井日達は、激甚の心臓発作を起こして大事な御相承をなし得ず急死した。
宗門七百年の歴史において、御相承の授受が許されないという異常事態は未だ曽て見ぬところであります。
これ大聖人様が許し給わずの厳たる御仏意にほかなりません。
ついで池田大作の擁立を受けて阿部日顕が自己申告で登座し、それより池田と阿部は二人三脚で誑惑の完結たる「本門寺改称」に向けて前進したのであります。
しかし二十万の死身弘法を背景にした先生の捨身の諫暁に恐れをなして腰砕けになった阿部日顕は池田大作を裏切り、「本門寺改称」を断念したのでした。
それより学会と宗門は「修羅と悪竜の合戦」のごとき大抗争を演じたのであります。
池田大作のエゲツないスキャンダル攻撃に怒り心頭に発した阿部日顕は、池田憎しのあまり、ついに池田が誇りとしていた正本堂を打ち壊わしてしまった。平成十年のことであります。
これまさしく、大悪を許し給わぬ大聖人様が、浅井先生をして諫暁せしめ、正本堂を打ち砕かしめた、凡慮を絶する大現証であります。
もとより「国立戒壇の否定」と「正本堂の誑惑」は表裏一体。
ゆえに偽戒壇・正本堂が崩壊したのであれば、宗門は国立戒壇の正義を宣揚すべきでありました。
しかるに阿部日顕は、正本堂が崩壊して六年経った平成十六年八月の「全国教師講習会」において、己れが書いた「二冊の悪書」の幕引きを図ったものの、国立戒壇についてだけは頑ななまでに否定したのでした。
その席上、阿部日顕はこう釈明しました。
「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」(大日蓮・平成16年12月号)と。
池田大作にへつらって偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」とたばかるために、三大秘法抄の文々句々をズタズタに切り刻み、その御聖意を蹂躙した大罪への懺悔もなく、ただ「言い過ぎ」「はみ出し」などと矮小化し、池田大作にすべての罪を擦り付け、正本堂がなくなったから「全くの空論」などと言える無道心には吐き気を催します。
この男は、流罪・死罪を耐え忍ばれた日蓮大聖人の一代三十年の御化導を水泡に帰せしめても、あるいは全宗門信徒を入阿鼻獄に至らしめても、何の痛痒も感じない。
ただ池田大作に諂い己れが出世の道を歩めればよかったのであります。
そして阿部日顕は「二冊の悪書」の幕引きを図りつつも、国立戒壇を怨嫉してこう言ってのけた。
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」と。
これ、断じて許されざる大謗法の悪言であり、まさに第六天の魔王の所為であります。
浅井先生は、天魔その身に入る阿部日顕のこの国立戒壇への異常な怨嫉をごらんになり、〝なおもこのまま捨て置いたら、大聖人様に申しわけなし〟とのご一念から、事を一挙に決せんとして、当時、百万顕正会の解散を賭して、重ねての公開対決を申し入れられました。
しかし阿部日顕は悪口を言い募るだけで、対決から完全逃避した。
そこで先生は「最後に申すべき事」と題する一書を認め、阿部日顕の三大謗法すなわち
「御遺命違背」
「戒壇の大御本尊に対し奉る許されざる大悪言」
「身延僧と誼を通じる謗法与同」
これらに止めを刺されたのであります。
文末には
「以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみ」と。その七十日後の平成十七年十一月七日、阿部日顕が御開扉の導師を務めんとしたとき、戒壇の大御本尊の御前の大扉が何をやっても開かず、ついに御開扉は中止となった。
この大現証に恐れを懐いた阿部日顕は、その翌月、自ら猊座から退いたのであります。
その前年の平成十六年三月に、自ら宗規を変更して「法主は、遷化又は自らの意志による以外はその地位を退くことはない」と、自分が辞めるといわない以上、誰も辞めさせることができない「終身法主」を目論み、その地位に恋々としがみついていたにもかかわらず、です。
その後に登座したのが、現在の貫首・早瀬日如管長であります。
早瀬管長が登座して十四年目の令和元年、宗門は「日顕上人御指南編集委員会」なる名義で、先の平成十六年八月の「全国教師講習会」の阿部日顕の説法を「近現代における戒壇問題の経緯と真義」という冊子にして発刊した。
この冊子には
「『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」
との、阿部の御遺命違背の悪言が、訂正もされずにそのまま掲載されていた。破廉恥の極みとはこれであります。
先生はこの阿部の無慚無愧に対し
「正系門家がいつまでもいつまでも御遺命に背き続けていることが大聖人様に何とも申しわけなし」
とのお心で、総幹部会において徹底呵責され、「御遺命守護」特集号を連々と発刊されました。
ことに令和元年七月度総幹部会で、浅井先生は早瀬管長に対しこう直諫されました。
「戒壇の大御本尊の敵たる山崎正友と結託した阿部日顕・大草一男を早く追放し、速かに国立戒壇の正義を宣示し給え。
もはや優柔不断は許されません。
正系門家がいつまでも御遺命の国立戒壇を否定したままでは、何とも大聖人様に申しわけない。また日本に残された時間も少ない。早く対治を下されますよう」(要旨)と。
さらに
「これが私の、切なる願いである」と。
先生の大聖人様への忠誠心に涙が込み上げてまいります。
そうしたところ、この先生の直諫より五十八日後の同年九月二十日の早朝、阿部日顕は命終し、入阿鼻獄となったのであります。
これをごらんになった先生は
「私は、『大聖人様が宗門追放して下さったのだ』と、深く拝している」
と仰せられました。
このとき先生が併せて宗門追放を求められた大草一男も遠からず放逐されること疑いありません。
思うに――
細井日達が御相承を許されず急死したことといい
偽戒壇・正本堂の崩壊という凡慮を絶する不思議といい
「大扉開かず」の大現証による阿部日顕の退座といい
そして先生の直諫から五十八日後に阿部日顕が命終したことといい
これらの現証は、たとえ「雖近而不見」の顛倒の衆生にはわからずとも、大聖人様の厳たる「常住此説法」にほかなりません。
早瀬管長は、大聖人様の御眼を恐れるべきであります。
私の知る限り、早瀬管長自身の国立戒壇を否定する言辞は公には残されていない。
しかし昭和四十年六月以来、宗門の議決機関である「宗会」の議員であった早瀬管長は、昭和四十五年四月の国立戒壇の放棄を決定した責任役員会と、昭和四十七年四月の「正本堂が御遺命の戒壇に当る」旨を定めた「訓諭」発布を議決した責任役員会の議事録を知らないはずがない。
その「正本堂訓諭」の訂正もしていない。
また、昭和五十年十月四日の「宗会議員決議書」なる文書に「宗会議員・早瀬義寛」の名を以て署名しております。
この文書は、解散処分を受けて微動もしない顕正会を見て、池田大作が学会・宗門全体に浅井先生のことを「猊下に背く大謗法者」と印象づけるために作成させたものであります。
この決議書には
「近来法主上人の再々の御指南にもかかわらず異義を唱える者がありますが、これこそ大謗法と断ぜざるを得ません」
と、御遺命たる国立戒壇を死守された浅井先生を「大謗法者」と断じている。
この決議書に署名するは大聖人様に対し奉る師敵対に当ることは論を俟たない。
そして先ほどの「近現代における戒壇問題の経緯と真義」の「発刊にあたって」には
「このたび、総本山第六十八世御法主日如上人猊下のお許しを得て、本書を発刊することにいたしました」との記載がある。
阿部日顕の国立戒壇否定の大悪言が掲載された冊子の発刊を許したということは、早瀬管長自らが国立戒壇を明確に否定したことを意味している。
また数年前には、法華講の講習会において当時教学部長だった水島日叡に、顕正会と国立戒壇を誹謗する講義をさせている。
ここに早瀬管長は、速やかに、細井日達ならびに阿部日顕、そして自身が犯した御遺命違背の大罪を、大聖人様に謝し奉り、国立戒壇こそが御本仏の御遺命であることを宣示し、日淳上人の清らかな昔に宗門を立ち還らせるべきであります。
もうこれ以上、不作為の罪は許されない。
後生を恐るべきであります。
昨今の宗門の著しいまでの凋落ぶりはいったい何を物語るのか――。
これこそ御遺命破壊に加担し、未だに国立戒壇を怨嫉する大罰以外のなにものでもない。
風聞するところ、近年の宗門の「折伏」なるものの成果は惨憺たるもので、いかに早瀬管長が発破をかけても「笛吹けど踊らず」で、僧侶も信徒も全く動かないと聞く。
ある宗門関係者は
「宗門は指導教師である僧侶の情熱がない。折伏を指導する立場の折伏推進委員も折伏を進めた実績がない。だから『お前に言われたくない』と言われ、話を聞かない者が多い。いま宗門には指導する者がいない」
と嘆いていたという。
もとより、大聖人様を忘れ、御本仏一期の御遺命を池田に売り渡して平然としている無道心の禿人に、広宣流布をみつめる道念などあるはずがない。
仮にも「折伏」の真似事をしているのであれば、それは立正安国論に仰せのごとく
「少しく経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」と。
猟師が獲物を狙うように、猫が鼠をうかがうように食法餓鬼が信徒を増やし、その懐をうかがい供養を貪ろうとしている姿にほかならない。
大聖人様は松野抄に、広布前夜の堕落僧をこのように厳しく誡め給うておられます。
「受けがたき人身を得て適出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして徒に遊戯雑談のみして明かし暮さん者は、法師の皮を著たる畜生なり。
法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし」と。
かかる厳しき御誡めを恐れよと言いたい。
そして何より、早瀬管長は現在宗門が強行している「不敬の御開扉」を速やかに中止し、急ぎ免震構造の完璧なる新御宝蔵を建築すべきであります。
第五十九世・日亨上人は御開扉について、このように御指南くだされている。
「開山上人は、これ(本門戒壇の大御本尊)を弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついに今日のごとき常例となったのは、もったいない限りである……」(富士日興上人詳伝)と。
本門戒壇の大御本尊は、広宣流布の暁の国立戒壇に始めてお出ましになる大御本尊であられれば、それまで秘蔵厳護し奉るのが本宗の伝統でした。
ゆえに日興上人・日目上人の上代には御開扉などは一切なかった。
ところが、遠き広布を待ちかねて、やむなく特縁・強信による内拝が行われるようになったものの、それとて、現在の宗門が行なっている御開扉とは全く異なる。
いまの宗門が強行している御開扉は、戒壇の大御本尊を利用し奉っての「カネ儲け・商売」であります。
各末寺ごとに登山の員数を割り当て、その員数に満たなければ同じ人を何度も登山させ、あるいは登山しなくとも「御開扉料」さえ支払えば員数に加えるという「付け願い」なるバカげた制度まで設け、信心なき法華講員に登山・供養を強要している。
大聖人様の御心に背く御開扉は、功徳どころか罰をも蒙るのであります。
この道理は、内房尼御前が身延にまします大聖人の御許に参詣したとき、大聖人様は御目通りを許されなかった御事蹟を拝すれば、よくわかります。
弘安元年の三沢抄にこのような仰せがある。
「内房の御事は、御年寄らせ給いて御わたりありし、いたわしく思いまいらせ候いしかども、氏神へ参りてあるついでと候いしかば、見参に入るならば定めて罪深かるべし」と。
―内房の御ことは、老齢の身の参詣でもあり痛ましく思っているが、氏神参りのついでに来たとのことなので、対面するならばかえって罪を作ることになる――と。
この御金言に照らせば、大事の御遺命に背き些かの改悔もなき宗門の禿人らが、供養を貪るために戒壇の大御本尊を利用し奉り、御心に違うお目通りを大聖人様に強要している現在の御開扉が
「定めて罪深かるべし」
の不敬に当ることは言うまでもありません。
ましてや無道心の禿人らが行う御開扉は、害意ある悪人どもに隙を与えている。
先生は、油断だらけの登山会に法華講員を装った悪人が紛れ込み、高性能の爆発物を持ち込む危険性すらあることを深く憂慮しておられました。
最近ではAI制御の自爆型ドローンなども開発されている。
考えるだに肌に粟を生ずる思いであります。
さらには、総本山に激甚の被害を及ぼす可能性がある「富士川河口断層帯巨大地震」も切迫しております。
今月15日、政府の地震調査委員会が、南海トラフ巨大地震の今後30年以内の発生確率を「80%程度」に引き上げました。
専門家らは「切羽詰まった状態」「いつ起きてもおかしくない」などと警告しております。
南海トラフ巨大地震が起これば「富士川河口断層帯巨大地震」が連動して発生する可能性が高いことは、これまでに複数の地震の専門家が指摘しているところであります。
先生は、平成二十四年八月に早瀬管長へ宛てた「建白書」において、この富士川河口断層帯巨大地震について政府機関や地震学者の見解を示しておられます。
すなわち政府の地震調査研究推進本部は平成22年に
「同断層帯は東海地震と連動する可能性がある」
「地表で一〇メートル規模の段差が生ずる」
「国内の主な活断層の中でも活動の可能性が高いグループに属している」等と発表していること。
また平成23年に、東海地震の権威といわれる石橋克彦・神戸大学名誉教授は、東海・東南海・南海地震が連動して発生した場合、陸域の富士川河口断層帯からその北につながる糸魚川―静岡構造線断層帯まで連動する超巨大地震になる恐れがあり、その地震規模は「M9台」、震度は震源域北端の長野県松本盆地付近でも「震度7」となる可能性を指摘していること。
さらに平成24年に、内閣府も南海トラフ沿いの三連動地震について「新想定」を公表し、その地震規模を「M9・1」、震度は静岡県を含む一〇県を「震度7」としていること。
申すまでもなく、石橋名誉教授の見解や内閣府の新想定は、3・11東日本大震災を受けてのことです。
大石寺の至近に安居山断層が走っていることを思えば、背筋が凍りつくものであります。
この切迫した状況に鑑みて、先生は早瀬管長がなすべきことを建白書にこのように認めておられます。
「もしこの大激震が総本山を襲ったら、戒壇の大御本尊まします奉安堂はどうなるでありましょうか――。
耐震性を重視して建てられている原子力発電所すら、『震度7』は想定しておりません。まして急拵え・安普請の奉安堂においてをやです。
そもそも奉安堂なる建物は、御遺命違背の罰で宗門と学会が『修羅と悪竜の合戦』を演じた際、阿部日顕が、池田大作憎しのあまり偽戒壇・正本堂を打ち壊わし、その代替の御開扉用施設として急遽、建造したものである。
正本堂に負けじと同規模五千席の大空間を何とか作ったが……急場しのぎの伽藍堂である。どうして超『震度7』の大激震に耐えられようか。
よし崩壊を免れたとしても、憂うべき最大事は、戒壇の大御本尊の御安危である。須弥壇上にまします大御本尊様に、下から突き上げる激烈なる上下動が及ぶは必至である。
思いここに至れば、その恐れ多さ、ただ五体凍りつくを覚えるのみである。
この重大危機に思い至らぬは信心なき愚癡の輩、知ってなお平然たるは一闡提・逆路七逆の者というべきである。
されば、万事を差し置き急ぎ為すべきは、完璧なる免震構造の新御宝蔵を築くことであります。
幸いにも昨年二月、日本は世界に先駆けて『3次元免震システム』を開発しております。
このシステムは、東京大学が清水建設等と連携して完成させたもので、従来の横揺れ対応だけでなく、直下型の縦揺れをも吸収し、『震度7』を『3』相当に軽減することがすでに実証されております。
これら最新技術を用い、一刻も早く戒壇の大御本尊の御安泰を図り給え。巨大地震は刻々と迫りつつある。これを思えば、誰人が安閑たり得ましょうか」と。
かかる先生の建白書を、早瀬管長は未だに無視し続け、動こうとしない。
そもそも奉安堂の設計者はその耐震設計について、耐震解析に使用した地震のレベルを「東海地震」「富士川河口断層地震(マグニチュード7級)」を模擬波として検討し、結果として「700ガル」の地震でも崩壊しないように計画したとしています。
その「700ガル」の地震は「千年に一度の確率で発生する地震を示します」などときわめてまれな地震であると高を括っております。
しかし奉安堂が竣工したのは東日本大震災が発生する九年前の平成十四年なので、巨大地震に対する認識が低く、今となっては耐震解析に使用した地震の模擬波が適当ではないと言わざるを得ない。
地震のエネルギーを示すマグニチュードは「1」増えるごとにそのエネルギーは約32倍大きくなり、「2」増えると約1000倍大きくなることを思えば、「マグニチュード7級」の想定は甘すぎたのではないか。
一方「ガル」という単位は、地震の揺れの加速度を表わすもので、この数値が大きいほど、瞬間的な揺れの強さが大きいことを示しております。
奉安堂が想定している「700ガル」よりも強い揺れをもたらした地震は、宗門が奉安堂を着工した平成十二年以降、「千年に一度の確率」どころか、現在に至るわずか二十五年で二十数回も発生しております。
中でも2000ガルを超えた地震を挙げると
平成16年の中越地震……2515ガル
令和6年の能登半島地震……2826ガル
平成23年の東日本大震災……2933ガル
平成20年の岩手宮城内陸地震……4022ガル
などがある。
このような700ガルを優に超す激しい揺れをもたらす巨大地震が起きたら、奉安堂が仮に強固な耐震構造を持つ建物だったとしても大規模な損傷は避けられない。
また、たとえ巨大地震によって倒壊せずとも、奉安堂は須弥壇に安置し奉る戒壇の大御本尊に激烈な衝撃が直接伝わる造りになっております。
巨大地震が発生すると「投擲現象」といって、地震による激しい上下動によって巨大な岩ですら数メートルも飛ばされることがあるという。
ゆえに先生は、上下・水平の両震動を吸収する「3次元免震システム」を用いた新御宝蔵を築くよう要請されたのであります。
宗門は、奉安堂の須弥壇の構造壁は「耐力・耐火力」が最高グレードであることを誇っておりますが
肝心の造りそのものが「免震構造」でなければ、大御本尊をお守りすることはできないのであります。
理解を深めるために、地震に対する構造について少し説明します。
これには三種類あり、いわゆる「耐震構造」と「制震構造」と「免震構造」であります。
一つ目の「耐震構造」とは、使用する鉄骨を強固にして地震の揺れに耐えるように設計した建物のこと。
この耐震構造の欠点は、地震の震動のエネルギーが直接建物に伝わるので、建物内部の損傷が激しくなること。
二つ目の「制震構造」とは、一つ目の耐震構造の建物に、ダンパーなど震動を軽減する制震部材を補助的に組み込んで震動を抑える仕組みのこと。
しかし震動は軽減できたとしても完全に震動を抑えられるわけではなく、ことに大規模地震では効果が限定的と言われております。
奉安堂の造りはこの二つ目の「制震構造」と思われます。
三つ目の、先生が求められた「免震構造」とは、建物を地盤から切り離して、基礎部分に免震装置を設置して地震の揺れを吸収し、建物に伝えにくくする仕組みのこと。
この免震構造の最大の利点は、激甚の揺れもわずか数分の一程度に抑えることができることにあります。
文化財等の保護や、その建物が有する機能の維持を図らなければならない美術館・博物館・重要防災拠点・役所の庁舎・病院、あるいは首相官邸・日銀などで免震構造が採用されております。
邪宗の寺院ですら、免震構造を取り入れているところもある。
さらに制震や免震の機能を複合的に持たせることで、二重の保護を図ることなども一般的に行われている。
以上、耐震・制震・免震について簡単に説明しましたが
戒壇の大御本尊を巨大地震の激甚の地震動からお守りするという観点では、地震の震動を直接受ける耐震・制震構造ではなく、建物と地盤を切り離して特殊なダンパー等の免震装置で揺れを著しく抑えることができる免震構造を採用しなければならないことはいうまでもありません。
まして、直下型地震のような上下動の激しい揺れにも対応し得る3次元の免震システムを用いれば完璧なものができる。
戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人の出世の御本懐、文底深秘の大法の正体、唯授一人別付嘱の法体、一切衆生成仏の根源の種子にてまします。
かかる大御本尊を秘蔵厳護し奉るに当っては、あらゆる事態を想定しなければいけない。
それこそ「宗門最大の責務」であります。
先生は早瀬管長にかく仰せられました。
「もとより戒壇の大御本尊は金剛不壊の仏身にてまします。但し、あらゆる事態を想定してこれを守護し奉るは、仏弟子としての第一の責務である。……されば万事を差し置き、急ぎ堅固なる新御宝蔵を築き、以て近き広宣流布・国立戒壇建立のその日まで、本門戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉られんこと、血を吐く思いで要請するものである」と。
されば早瀬管長は、巨大地震をはじめとする自然災害やテロ・ミサイル攻撃などを想定した、完璧なる新御宝蔵を急ぎ建設すべきであります。
大御本尊の御安危こそ、一閻浮提第一の大事であります。
ゆえに先生は毎朝、勤行のたびに
「諸天善神、南無本門戒壇の大御本尊を守護し奉り給え」
と深くご祈念され、戒壇の大御本尊の御安危を常に憂えておられました。
そのやるせないお心を私は何度もお伺いしては、胸が張り裂けるような思いを懐きました。
私はここに改めて、浅井先生の弟子として、早瀬日如管長にこのことを強く訴えるものであります。
万一の事態が惹起したら早瀬管長の万死を以ても償えるものではありません。
以上の二つの大事を、早瀬管長が受け容れるかどうかは、これまでの早瀬管長の所行に照らせば凡夫の眼には難しく映るかも知れない。
しかし、偽戒壇・正本堂が凡慮を絶する不思議を以て音を立てて崩壊した大現証を拝すれば、全顕正会の赤誠、大聖人様に達するのとき、必ずや事実となることを確信します。
我らはただ諸天を動かす大折伏に徹するのみであります。
最後に、迎える広布決戦場第六年の初陣、二・三・四月法戦の折伏誓願を発表いたします。
まず三者各部の誓願。男子部一万四千名、女子部一万六〇〇名、婦人部五千四〇〇名。
顕正会全体で三万名であります。
有難くも今週の月曜の時点において、全顕正会で一万一千七八八名、誓願比三九%の弘通が叶っておりますが、この初陣、全組織が誓願を大きく突破する大法弘通をなし、本年の二七〇万突破を確実にしたい。
さあ、全顕正会打って一丸、怒濤の大前進を展開し、以て霊山にまします浅井先生に全員でお応えしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)