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kenketsu224’s blog

春の情処

NWを受けてきた。
今回の会場は鎌田の東京工科大学鎌田キャンパス、始めて行くところだ。
いつものごとく、試験対策を何もしていない素の状態で臨む。
結果、午前IIが微妙過ぎる。
午後はI・IIの両方で書くべきことを書けていると思う。
情処の記述問題はこういうことを書かせたいんだな、というのがわかるのでむしろ楽だ。
だが、そもそも午前で足切りされてしまいそう。
これでは去年の二の舞だ。
何も学んでいないな、自分は。
とは言えもう終わったことなので半年後を向こう。
秋はシステム監査(AU)かエンベデッドシステム(ES)のどちらかをやる。
両方とも自分は業務としてやってきていないことなので、合格することを目的とするなら、さすがにちゃんと勉強せねばならない。
ただシステム監査は受ける立場ではあったからどういうことをやるのかはわかっている。
まあ参考書を両方買って一通り眺めてみよう。
それでできそうに思える方をそれなりにちゃんとやる。

driveとride

ネズミ捕りと呼ばれる警察の取り締まり。
住んでいるところの近くにある幹線道路で、速度を出しやすい区間がある。
そこでのネズミ捕りは昔からよく行われていて、つい先日もやっていた。
幹線道路につながっているごく細い道、その幹線道路側からは見えない位置に白バイが潜んでおり、違反車が現れるとサイレンを鳴らしつつ急加速して追いかけていく。
そういう光景を直接見たり、サイレンの音が響き渡るのを自分の部屋の中から聞くと、また誰かの点数が減るねぇ、とすっかり他人事として思う。

もちろん自分もネズミ捕りとは無縁なわけではない。
過去に速度違反で数回捕まってはいる。
なので運転における自分の経歴は真っ白ではない。
自分が過去にネズミ捕りに捕まったのは全てバイクに乗っていた時だ。
道を走っていたら、目の前に警察の人が出てきて旗を振り、尋問場所に誘導された。
高速道路で覆面パトカーに追いかけられたこともあった。
そうして警察から状況説明を受け違反切符を切られている間、自分は抵抗しなかった。
自分の認識としてはその全てで「そんなに速度が出ていたっけ」という状態ではあった。
でも警察が卑怯だとは思わなかった。
自分が制限速度を超過していたのは事実なのだから、悪いのは原則として自分なのだし。
だからさっさと罰金を払って終わりにしている。

ずっと昔、田舎に住んでいた時は車を日常的に運転していた。
車で速度を出したいという衝動を、当時の自分は全然感じていなかった。
なので田舎では車に関して警察のお世話にはならなかった。
田舎での車に関することをちょっと思い出してみると……。
当時はバイクの免許を持ってはいなかったし、家にあった原付に乗ることはなかったので、公道を走るのに使ったことがあったのは車だけ。
市内にはバス網が縦横に張り巡らされていたが、その地域での移動手段はやはり車だ。
当時乗っていたのは排気量1300ccのやや小さめなマニュアル車で、そこそこの年代物だったこともあり、買った時の値段はすごく安かったと聞く。
自分が車の免許を取ったあと、親からその車を渡されて「お前はこれに乗っておけ」と言われたのだった。
自分は車そのものに興味はなかったから、へいへい、とそれにずっと乗っていた。
これは偶然ではあるが、その車の排気量は今乗っている大型バイクに近い。
また、家族が使っていた軽自動車を自分で運転することもたまにあったが、加速の鈍さをかなり感じたものだった。
親のオートマ車に乗ることもあって、その時はつまんないなーと思ったりもした。

さて、英語だと車はdriveしバイクはrideするものだ。
この言葉の違いは馬車と乗馬の違いのようなもので、同じ馬を使ってはいるけれどもその使い方が違うからだろう。
つまり対象との関わり方の違いに基づくものである。

車とバイクでは、動かしている時の意識なり感覚が自分には全然違うように思える。
後付けの理由ではあるが、車とバイクの視界や動かし方の違いがその原因の一つなのかもしれない。

車は室内で座りながら運転する。
体の後ろ、特に腰とその上のあたりは常に椅子に接しており、さらに体にかかったシートベルトで椅子へゆるく固定されている。
視界には柱やハンドルがいつも見えており、視界の下にコクピットも大抵見えている。
だから周囲の状況把握は主にコクピットに見えるものでしている気がする。
車を運転している時の感覚は、大きなものをよっこらしょと動かしているというもの。
それにハンドルをぐるぐる回すというような、動かすための操作を能動的かつ積極的にしている意識が常にあり、さらにそうしなければ動かせないもの、という感じだ。

バイクは体が外でむき出しであって周りには何もなく、前を見ているとコクピット周りも視界にほぼ入らないから(少なくとも自分のバイクはそう)、速度を確認する時は意識的に視線を下の方へ向ける。
意識的に見る、というのはバックミラーを見る時も同じだ。
なので周囲の状況把握は主に自分の感覚、景色の流れや音でしている気がする。
バイクと体が接しているのは主に足の膝から股にかけた部分とお尻だけであって、手はバイクに乗る上ではあまり重要ではない。
だから自分自身の体で歩いたり走ったりしている状況により近い。

バイクはその重量の少なさのおかげで、加減速も曲がるのも車に比べれば軽々と行える。
それにバイクだと、曲がる時でも積極的に曲がろうという意識はあまりなく、極端に言ってしまえばカーブの先を見ているだけで勝手に曲がる、という感じでもある。
もちろんカーブの強弱に合わせて体は勝手に動いているから、何もしていないという感覚は事実と反してはいるのだけれど。
さらにいわゆる「攻める」場合は全然違うのだろうが、自分はそういう風には走らないし走れもしないから、正直よくわからない。
ちなみに今まで膝擦りをしたことは一度もないし、曲がっている時にバイクが自分にとって傾きすぎた時は少々慌ててしまうくらいなのだ。
またツーリングとかで自分の走り方を後ろから見た人からは、「つまんない走り方だな」とか「バイクをもっと傾けようぜ」などとあきれ顔で言われたりする。

それはともかく、バイクに初めて乗った時や山道を走った時は、車との感覚の違いを強く感じたものだ。
まあ、自分が今乗っている大型バイクだとそう軽々と動かせはしないのだけれど、それでも車に比べれば取り回しはずっと楽だ。

自分にとっては、車は重々しく、バイクは軽々としている、そんな違いがある。
重々しく動かざるをえない車は、加速するのに時間がかかるから、ある程度の速度にようやくたどり着いたなら、もうこんなもんでいいか、となる。
軽々しく動かせてしまうバイクは、止まっている状態から簡単にすぐ速くなるし、視界も広いから、速くなっていることに逆に気付かない。
自分にとって自然な速度まで一気に加速して、あとはそのまま流す。
こんな風に車とバイクでは身軽さのようなものが自分にとっては大きく違っていて、動かし方も違う。
動かし方が違うのだから動かし方を表す動詞も当然違う。
だから車はdriveしバイクはrideする。
また、車は自分とは違うものであり、バイクは自分と一体のもの。
当たり前のことではあるし、よく言われることでもあるが、あらためてそう感じた。

距離

ストレス発散と呼ばれる行為はいろいろある。
だがそもそもストレスとは発散できるものなのか?
一時的に目を背けているだけではないのか?
見ないことで何かが解決したり進展するのか?
なにもしなければあり続けるのが普通なのだと思う。
もちろん時間が解決することもあるから、それまでの時間稼ぎなのか?
でもそれはなかなかに分が悪い賭けではないのかな。
放っておいて解決するのかもわからないし、逆にもっとこじれるかもしれない。

問題から一旦距離を置くのはわかる。
それは原因や状況を忘れようとしたり目を背けるということではない。
むしろそれらをしっかり見ることにつながることが多いように思う。
何が起きていて何にとげとげしたものを感じ周囲や自分はどう行動したのか。
そういうことを他人事のようにとらえて考えるきっかけになる。
その結果で解決には至らずとも気にならなくなるのはありそうに思う。
少なくとも理解は進むのではないかな、自分に対しても相手や原因や状況に対しても。
逆に思いがより強化され解決から遠くなる、ということもあるかもね。
やってみないとわからないけれど、渦中に居続けて振り回され続けて削られ続けるよりはいいのではないかな。
ストレス発散のようなものでごまかすよりもいいのではないかな。
当然、距離を置けない時もあるだろうけれど。

距離を置くのに極端な行動はいらない。
何かをぶち壊すような物理的な暴力的な行為は(多分)いらない。
強制力というものはいるかもしれない、行政や警察などの力を借りなければならないことはあるのだから。
こんな風に距離の置き方は多々あれど、気分や心の持ちようで距離を置く、というのが一番簡単なように思えるし、一番難しくもあるように思える。
自分が最も共感できるメジャー宗教は仏教なのだけれど(入信する気は全然ないが)、その仏教の最終目的は、世の中にあることから離れ、あらゆるつながりや因果の連鎖や輪廻などから離れ、この宇宙から完全に消えてなくなることである、と認識している。
なかなかに格好いい考え方だ、信じることで現世や来世で得られる利益を説く他の宗教たちとは方向性が違うように思われる……と、昔メジャー宗教の教義を一通り知ろうとしていた時に感じたものだ。
その中にある、この世の中にあるものは結局は全部どうでもいいことだよね、そんなものにいつまでも拘泥しているから苦しいままなんだよ、という距離の置き方は参考になると思われる。
反応しないようにする、という感じのタイトルの本を見かけることはあるしそれなりに売れてもいるようだが、こういう感じのことも述べられているのではないのかと勝手に思っている(読んではいないから推測でしかない)。
ただ、自分はそこまで達観はできないだろうから、距離を置き理解することで問題だと感じなくする、感じにくくするという道を大抵は選ぶのであるが。
ちなみに、ここで言う理解は納得や共感とはかなり違うものだ。

自分がどういう風に見られているかは少なくともリアルタイムではわからない。
外に出て周りを眺めていると色々な人がいて、何だこいつという人はちょくちょくいる。
自分の世界に入り込みすぎていて周りが見えていない人、周りからの見られ方がどうでもよくなっている人、意図的に人とは違う振る舞いをしているのであろう人、こんな感じでいろいろだ。
先に宗教の話を少し出したが、宗教的熱狂や頑迷さを表に出している人に対しては、そういうものから距離を置いている自分にはそれらの人と同じように見えている。
まあ、そういう行動には大抵の場合は悪気はないのはわかってはいるのだけれど。
これは他人から見た自分も絶対に同じであって、例えば猫さんの素晴らしさを滔々と語ったり、よいプログラムや求められているシステムとは何であるかを延々と述べる自分は、他人からは変な奴だと見られているのだろう。
そういう自分を、距離を置いて眺める自分というのは絶対に必要だ。
録画や録音でもされていない限りそういう周りが見えていない自分を自分で目の当たりにする機会はなかなかなく、他人から指摘されることもあまりない。
もちろん、プロの講師やプロのプレゼンターは自分に対しても他人に対してもそういうことをやるのが日常茶飯事であり、むしろそれが仕事の一部なのだから、それらの人たちが日常的に見ている世界というのは、普通の人からすればかなり違うはずだ。
距離を置いて見る、というのが当たり前であるはずだ。
他人から見られることを職業にしている人たちもそうなのだろう。
これをそういう職業だからという理由付けをするのではなく、どんな職業であれ立場であれ、自分の行動や発言が他人からどう見えているかはいついかなる時でも意識したい。
他人からの見え方がわかれば自分の見方が変わる。
距離を置いた時の見方がわかる。

夢中になるのは全然悪いことではない。
でも夢中になっているという状態は認識したい。
自分を客観的に見ている自分が常にいて、そんな自分を見ている自分がさらにいて、とずっと続いているいう感じ。
メタのメタのまたメタ、という。
物理的な手段でも心の持ちようでも何でもいい。
そういう手段を使って距離というものを常に意識したい。

献血247回目

献血回数:247回目前回 次回
実施日時:2025/04/13 11:00~11:30くらい
実施場所:みぞのくち献血ルーム
献血方法:400ml
次回献血可能日:2025/07/06(全血)、2025/08/03(成分)
備考:今日は大体年に一回くらいの全血をする日。天気は雨、気温もここ数日と比べると低い。アプリでの事前問診回答は今日もできた。スマホのホーム画面にアプリのアイコンがあると、何となく気付ける。ルームのロビーは人がかなり少ない。問診をする部屋は、今までドアはずっと開いたままだったのだけれど、どうやらちゃんと閉めるようにしたらしい。看護士さんが針を刺す手を決める時、正中か外側かで少々迷っていたようだ。だが、今回も外側でやることに。検査終了後はそのまま採血に直行した。全血はこのスピード感がたまらない。これは全血をするときに毎回書いている気がする。さて、気温が低いせいか手が冷たいらしく、血管の出があまりよくない。なので、自分も全血では珍しいのだが、それなりの保温体制が構築された。手の下・手の上に湯たんぽが配置され、手にも同様に湯たんぽを握らされる。さらに針を刺さない方の手も毛布に入れるよう指示された。そうしてしばらくしたあとに採血を開始。今回は駆血帯をやや強めに巻いたらしく、問題ないかちょくちょく確認される。そんなこんながあったが、特に何もなく終了。これもいつも書くが、全血はやっぱり時間が短いね。成分だと自分は60~90分くらいかかるのが普通なので、感覚として全然違うのだ。休憩中は袋の中にたまった血を何となく眺める。処遇品はもらわず。採血機はKL-103。次は夏に成分で再開する。どうせなので行ったことのない献血ルームへ行ってみるべきか、藤沢とか。

誕生日

つい先日、マネージャが今日は定時で即上がると言っていたので理由を聞いてみたら、お子さんの誕生日だから、だそうで。
そのお子さんは成人済みとのことだったが、ふーんと思いつつ話を聞いていた。

誕生日を祝う、という類のものには自分はとんとご無沙汰だ。
自分の場合は、誕生日なんてものは今となっては特別でも何でもない。
自分の誕生日も他人の誕生日もおかまいなし。
当日になっても忘れていて思い出せないくらいだ。
確かに昔は家族……というか親たちから祝われてはいたが、家のイベントとしてちゃんとやっていたのはせいぜい小学校を出るくらいまでではなかったか。
中学、高校の時は確かに晩御飯がやや特別だった覚えはあるのだけれど、それ以上のものはなかった気がする。
まあ、単に自分が覚えていないだけなのかもしれないし、臨時のお小遣いくらいは貰っていたような気もしないではない。
しかしそれくらい印象に残っていないということだ。
大学からは家族とはやや距離を置いたこともあり、イベントも何も全然ない日々が続く。
大学での友達はごくわずかで、学校以外で彼らとつるむということもなかったから、特別なことは何もなかったししなかった。
就職してからはさらにボッチになってしまったため、誕生日……なにそれという感じになっており、それが数十年続いている。
ちなみに今いる会社では誕生日を祝うという名目のイベントがあるといえばある。
変な会社だね、考えてみればさ。
だが実質的な中身はいわゆる誕生日会とは全く違うものであって、誕生日会というものとして自分は認識していないし、そもそも参加は必須ではないからずっと不参加だ。

誕生日を祝うことの意味ってなんなんだろうね。
世の中の人はどういうつもりで誕生日を祝うのだ?
家族でもない人間の誕生日を祝うことにどういう意味があるのだ?
祝ってあげれば祝ってもらえるという打算があるからなのか?
単に騒ぐ口実が欲しいだけなのか?
一般的に言われているのは、家族同士で、育ってくれてありがとう、育ててくれてありがとう、という感謝を伝え合うものなのだというのはわかっているつもりだ。
でも放っておかれても子供はそれなりには育つのだしなぁ。
それに親が子供を育てるのは義務みたいなものなのだしなぁ。
そういうどうとでもなることをどうこう言われてもなぁ。
また、今は子供の死傷率は昔に比べてはるかに下がったから、今まで生き続けていてくれてありがとう、ということの意味が昔とは全然違う。
死ぬことで血筋が絶える、という心配は今ではあまりしなくてもよくなった。
子育てに投入したコストが回収できなくなって親が絶望する、とか。
けれど今度は子供ができない、子供を作らないことで血筋が絶える、という可能性が大きくなってきたのではあるが、それはどうでもいいか。

誕生日とはそんなに特別なことなのか、といつも思う。
別に不幸アピールをしたいわけではないし、自分はごく普通の家に育ったとは思うのだ。
家庭環境をちょっと思い出してみるならば……。
教育方針としては自分に対しては完全放置で、何をしろと言われたこともない。
親からは、他のきょうだいたちよりは期待はされていたのかもしれないが、具体的に何を期待されていたのかもわからないし、親からその期待を明確に伝えられたこともない。
手がかからない子供ではあったから、そのままでいてくれということだったのかも。
自分からも親に無茶な何かをせがんだことはない。
普通レベルの生活をしていたとは言え、それほど裕福でもないのは理解していたし。
まあ、自分が受験に失敗しまくって比較的お金がかかる道を行くことになってしまったのは申し訳なかったと今では思ってはいるのだけれども、せいぜいそのくらいだ。
家庭環境としてはこんな感じの認識であり、誕生日が他の家の子のように祝われなくても、よそはよそ、うちはうち、という感じだった。

あと冒頭に述べたような、成人した後でも家族で一緒に誕生日を祝う、ということの感覚や意味が自分にはいまいち不明瞭なのだ。
今は親が子離れしづらくなったのかなとも思うし、そういうことをよく見聞きするのではあるが、自分の親は(少なくとも自分に対しては)そうではなかったのでよくわからない。
子供の立場からしても、自分はスパッと親離れしたものだと思う。
就職で田舎から首都圏に出ることになった時、田舎にはもう戻らないつもりで出て行ったし、実家の世話になることは決してすまいという思いはあった。
かなりの割合で実家の連中はもう他人だという意識があったように思う。
なので実家へは自分からは連絡も何も全然しなかった。
実家も実家で、こちらには連絡も何もしてこなかった。
いわゆる、便りがないのは良い便り、という感じ。
実際に、実家から連絡があったのは、誰かが死んだとか、何かしらの問題が起きたとか、そういうよくないことが起きた時だけだった。
自分は実家の連中とはごく細い線でギリギリつながっているだけだ。
今はごく普通になったであろう、物理的な場所がどうであれお互いに深くつながりあっていたり、状況を常に共有し合っている、という間柄では全然ない。
もちろんやろうと思えばそういう付き合い方もできはするのだろうけれど、それを積極的にやるべき理由が自分には特に思いつかない。
ある意味、実家の連中を信頼しているとも言えようが、どうでもいいと思っているという方が正しいのだろうと感じている。
あちらはあちら、自分は自分。
全体的にそういう感じなので、誕生日ごときで何かが特別になるとは到底思えない。

ここまで読み返してみると、自分は変な人間だとは思う。
少なくとも今の世の中における多数派ではないだろうし、よくできた人間だと他人から手放しで評価されるような姿勢でもないのは確実だ。
そもそもが、お祝いというものに自分は大した価値を感じていないのだとも思う。
物事に節目というものがあるのは確かなのだけれど、それは単に区切りがいいというだけのものでしかなく、祝うべきものでも何でもない。
もちろん、その区切りごとに過去を振り返って何かしら学ぶべきことを考えることには意味はある。
でも単純に騒いだりすることに意味はないのでは、とどうしても思ってしまう。
それに誕生日を口実にして1/365という特別な一日だけの思い出を作るのも悪くはないが、364/365という大多数な普通の日々の方をこそを大事に過ごすべきなのだし、そうやって過ごすことの方がよほど意味があることなのではないのかね、という気もしないではない。
さて、結論も何も出なかったけれど、まあいいや。

情報共有

いわゆるエグゼクティブサマリというやつ。
自分の認識では、意思決定をする人向けに要約された情報のこと。
ポイントのみを押さえ、おおざっぱな状況や概要が理解できるレベルのもの。
論文のアブストラクトと役割は似てはいるが、書き方は違うと感じる。
ある特定の人に向けてカスタマイズされた情報、という傾向が強いと思う。

生の情報は大して意味がない。
その情報をどう解釈すべきか。
その人や組織にとってどういう意味を持つものなのか。
そういう解釈無しの情報の垂れ流しは混乱を招くし罪ですらある。
情報を集めるのは単純作業でしかない。
情報を集めるための技術や手法は多々あるが、逆に言えばそれらを使えば誰でもできる。
そうやって集めた情報にどういう意味や文脈や価値を与えるか。
それこそが非常に重要だし、それができる人が評価されるし重宝される。

組織に属する人間には役割がある。
その役割が必要とする情報がそれぞれにある。
一人が何かの組織の中および外で発生する全ての情報を認識することは物量的にも理解度的にもできないし、そもそもそのように認識しようとする行為自体が現実的ではない。
そういうことが現実ではできないから、職能別組織があり、専門家がいるのだ。
何かに特化し、何かへの判断を何かの観点で行えるスキルを持った人間の集団だ。
仕事とはそういう集団が行う協調作業だ。

自分が持っている情報、得た情報を相手に伝える。
その時には、相手がどういう役割・立場であるかの認識と理解が必須になる。
何の解釈も意味付けもなく情報を垂れ流しにするのは子供でもできる。
子供は自己中心的に物事を進め、相手や周囲のことを見ていない。
自分が満足することを目的に行動する。
情報を無差別にひけらかすのをすごいことなのだと、そういうことができる自分は他人より優れているのだと無邪気にも感じる。
学校やプライベートな場ならともかく、仕事の場においてそのような自己中心的なやり方をする人がお子様扱いされるのは当然のことだ。
さらにそれは情報共有においてもそうである。

相手の役割に合わせて情報共有をする。
相手が目上でも目下でも同じことだ。
そして相手の能力的なレベルよりも相手の役割の方がどういう風に伝えるかを考える時に先に来るべきだと自分は思う。
単にそれだけのことなのだが、自己中心的な意識ではそれができない。
私が、私が、と思っているのではできないことなのだ。
相手が知りたいことは何なのか、相手が興味を持っていることは何なのか、相手が報告したり交渉したり直談判したり指示を出す人は誰なのか、相手がその情報を使ってどういう意思決定をするのか、相手は何に責任を持っているのか。
そういうことをわからないままの情報共有など無意味だ。
それに理解や取捨選択の手間を省いてくれる人、欲しいものをそのまま直接与えてくれる人、自分のことを分かってくれている人を大切に思わない人などいないのだ。
そして時間というものは全員の共有資産である。
だから相手の知りたいことを簡潔に伝える能力を磨かなければならない。
カスタマイズされた要約を即座に作れるようにならなければならない。
そのためには小手先のスキルではなく相手への理解が必要となる。
また付き合う相手はその時々によって変わるのだから同じやり方はずっと通じない。
役割ごとのテンプレートと個人に合わせたカスタマイズを常に行う。

軍隊的にやるなら、下の人間のやるべきことはとにかく何でもかんでも情報を上げて上の人間に判断してもらえ、という感じになる。
でもそれだと上に行くほど情報が増えていくだけだから、上の人間の判断なり情報処理がいずれ追い付かなくなる。
さらに下の人間に上の人間の視点や観点がいつまでも身に着かない。
すると立場が上がった途端、その立場に求められる振る舞いができず苦しむことになる。
経営者のように考えろ、というのは最近は言われることが少ないような気はするが、それでも自分以外の人間が何らかの行動を取る理由を理解できているに越したことはない。
別にその理由に心から納得する必要はないし、自分の行動をそれに合わせる必要もない。
ただ知って理解する必要がある、というだけだ。
そうすれば相手に対する信頼感が得られることもあるだろう。
上の人間を妄信するのと、その行動原理を理解した上で信頼するのとでは大違いだ。

情報に意味や解釈を与えるのと、情報を隠蔽したり捏造したりするのは当然ながら違う。
厳然たる事実があり、それに対して専門家としての自分の解釈が付属しているのは別にいいし、そもそもそうあるべきなのだ。
そうでなければお前は何のために専門教育を受け、さらにそこにいるのか。
それに自分の解釈を受け入れるかどうかは、別の専門家としての相手次第である。
しかしこういう情報を欲しがっているはず、と情報を作ってしまうのは間違っている。
それは情報に対する越権行為だし、相手からの信頼を裏切ることだ。
そういう誘惑に駆られたら断固として跳ねのける。
率直に情報共有をしたら怒られるのだとしても、怒られてしまえばいいのだ。
捏造はばれるし、後ろめたい気分のまま仕事をしたくはない、少なくとも自分はそうだ。

……みたいなことを、情報の要約がものすごく下手な人を見ていて思った。
彼は常に情報を詳細に述べることが正しいことだ、と思っているようだ。
でも自分はそうは思わない。
いや、詳細な情報にいつでもアクセスできることは必要なのだよ、何かの判断をしたその根拠を必要なら示さなければならないのだしね。
しかし意思決定をする人には詳細な情報、生の情報は原則として必要ない。
彼らは正確な情報は常に必要としているのだが、冗長な情報はそうではない。
意思決定をする人は専門家からの報告を(一抹の不安をいつも感じながらも)信じてくれているし、そういう信頼関係がなければチームとしての仕事を進められない。
それに情報を詳細に伝えなければ不安であるならば、そういう態度は相手のことを信頼していないということを表明しているのと同じことなのだ。
そんなのはさみしいじゃないか。
まあ自分がこう思っているだけのだけれど、昔からこうだね、自分は。

つなげる

あの国および世の中は大混乱中。
まあ、結果がどうなるか見てみればいいのではないのかな。
彼らはこうなることを期待して彼をリーダーに推したのだ。
彼を選んだ人たちがこうあってほしいという姿はついに実現した。
よかったね。
皮肉でも何でもなく、素直にそう思う。

さて、これからどうなるのか。
いままで誰もやってこなかったことだ。
主流派なり正統派からは無理筋あるいは妄想だとして相手にされなかったことだ。
理屈を分かっていると主張する人たちが言うように果たしてなるのか否か。
やってみなければわからないことはあるのだから、良くも悪くも注目すべき大実験だ。
その実験結果は率直に受け取って欲しいものだが、決してそうはならないのだろう。
それに結果がどうなったとしても、周囲はもはやそれに対応していくしかない。
無視したり仲間外れにするわけにもいかないのだし。
自分も決して無関係ではないのだから観察はしていこう。

世の中の仕組みの複雑さを理解したがらない人がいる。
逆に複雑に考えすぎてしまって一歩も動けなくなる人がいる。
どっちもどっちだけれど、そういう気持ちはどちらもよくわかるのだよ。
とはいえ、現状維持が嫌なのなら何もやらないわけにはいかない。
でも自分で責任は取らずにこうあるべきだと声高に主張する人に判断を丸投げする。
大多数の中の一人、無個性な一人でいたがる。
そういう気持ちもよくわかる。

やってみた結果を直視して次の動きに反映するから少しずつ変わっていく。
あくまで変わるのであって、よくなっているかどうかはわからない。
後から見ればまるで的外れだったということはある。
だが、見込みがありそうか、あるいは駄目そうかという経験は少なくとも積める。
理屈からしてその結果はどうなんだ、という判断はできる。
その繰り返しの中で体力を使い果たしてしまって、ばったり倒れるかもしれない。
でもたいていの場合は状況は悪くなれども死ぬまでには至らない。
そしてどうすべきか選択せざるを得ない時がまたやってくる。
その時に、以前の繰り返しを覚えているかいないか。
覚えていなければ勇気を持って挑戦できるかもしれない。
覚えているならやり方を変えて再挑戦できるかもしれない。
また同じことを繰り返して倒れるかもしれないし、今度は死ぬかもしれない。
まあ、どれでもいいんじゃない?
やらないよりはいい気はする。
羹に懲りて膾を吹く、二の足を踏む、な状態になって何もやらなくなるかもしれないが。
どれも強制できはしないし、強制したとしてもそのとおりにはやらないだろうし。

今のこの動きが百年後、千年後にどう評価されるものやら。
といってもその時には自分はもう生きていないからどうでもいいといえばそのとおり。
何にせよ絶滅なり滅亡はしないと思うからやるだけやってみればいいのだ。
ちょっとしたさざ波程度の影響で終わるかもしれないし、ドラスティックに変わるかも。
覚える、記録する、計測するという能力はこの百年くらいで飛躍的に向上した。
それを生かして何らかの形で次につなげてほしいものだ。
何もやらずに考えるだけで賢くなるということはなさそうに思えるし。

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