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予讃線に高松駅があって七.. |
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2025年 03月 30日
前回、寛永寺谷中第二霊園の現一橋徳川家の歴代当主墓は合祀墓で、その墓石には、一橋家2代当主徳川治済氏が使用されているらしいことについてふれた。
少なくとも、6代・7代墓は、元々は寛永寺の塔頭凌雲院にあったとのことなので、江戸期の絵図で凌雲院付近を確認してみた。
安政6年(1859)本郷・上野付近の絵図や嘉永7年東都下谷絵図に、不忍池の北側に凌雲院と御霊屋が確認できる。
天保14年(1843)以降東叡山円頓院寛永寺上野の絵図では、これらの図で凌雲院の北側に描かれた御霊屋のところに英徳院殿と記されているのをみつけた。
このことから、一橋家6代当主徳川慶昌氏の多宝塔は、安政6年(1859)時点で凌雲院の北側の御霊屋にあったということになるのだろうと想像した。
昭和26年頃の本郷・上野付近の地図と見比べると、その御霊屋あたりに「東京科学博物館」が記されている。ということは、この頃には徳川慶昌氏の多宝塔は、別の場所に移動されていることを想像した。
先に徳川慶昌氏多宝塔移築は昭和42年(1967)8月の東京都の区画整理との情報を見ているが、その時点では徳川慶昌氏の多宝塔は凌雲院の北側の御霊屋からは既に移動されていたということになろうかと思う。
いろいろな資料を眺める中で、「徳川将軍家墓碑総覧」に次のような記述があることが確認できた。
凌雲院に埋葬されていた徳川将軍家の墓所は、昭和9年に谷中霊園内寛永寺墓地の徳川家墓地に改葬され、新築された徳川家墓に改葬され、新築された徳川家墓に納骨合祀されている。徳川家の合祀墓は五輪塔墓で、地輪の四面には凌雲院から改葬された全45霊の婦女子の法号と没年が列記されている。
ということは、徳川慶昌氏多宝塔移築も、その昭和9年頃に凌雲院から移設されたのだろうと想像した。
昭和42年(1967)8月の東京都の区画整理にかかわる徳川慶昌氏の多宝塔移設は、現寛永寺付近、あるいは谷中霊園内の整備を意味しているのかもしれないことを想像した。
2025年 03月 28日
石塔2基を移設することになる経緯を寛永寺の散策情報で確認する。
その散策情報によると、現一橋徳川家の墓所は、谷中霊園内の寛永寺谷中第二霊園にあるようだが、墓地図にもその案内はないという。案内される中で目印になるのは徳川慶喜公の墓のようだ。その東側の位置になるようだ。
どちらの墓所も立ち入り禁止で、施錠されているという。
一橋徳川家の墓所は、元々は寛永寺の塔塔凌雲院にあったとのことだが、上野戦争で多くの墓石が損傷、更には関東大震災で破壊されてしまった為に、改葬された現況は歴代の合祀墓になっているとのことだ。
その合祀墓の墓石には、一橋家2代当主徳川治済氏の墓石が使用されているという。この墓石が歴代の墓石の中で最も損傷が少なかったということらしい。
単なる想像だが、杉並区の蓮華寺に寄贈された一橋家6代当主徳川慶昌氏と一橋家7代当主徳川慶壽氏の宝塔も廃棄するほどの損傷ではなかったということだったのだろうと思う。
ただ、この6代、7代も含めた一橋家代々の当主墓を合祀墓にしたという経緯があるようだ。
これが6代、7代墓が寄贈されることになる経緯かと思われる。
その寄贈先が杉並区の蓮華寺である訳は今のところ確認できていない。
さて、この一橋家当主の合祀墓の墓石になっている一橋家2代当主徳川治済氏と今回のテーマとのかかわりにもふれておく。
この徳川治済氏は、今回のテーマにかかわる第11代将軍徳川家斉公の実父だ。それで、幕政に隠然たる影響力を持っていたとされる。
田沼意次氏や松平定信氏等を失脚させる陰には、治済氏の意向が大きく反映されていたとされる。幕政の黒幕大御所的存在であったと言われ所以だ。
この方の父は一橋家初代当主徳川宗尹氏(徳川吉宗三男)で、母は側室細田氏。第10代将軍徳川家治公、松平定信氏とは従兄弟の間柄になるようだ。幼名は松平豊之助。
父の死後、嫡子であった重昌氏、重冨氏の二人の兄が相次いで越前藩主に転出し、もう一人の兄は早世したようだ。そのため、四男の身で家督を相続することになったという。
天明元年(1787)に長男の豊千代が将軍家治公の世子となり、後に11代将軍家斉公として就任すると、自身の官位も上昇し御三卿の官位の慣例を越えて従一位准大臣にまで昇りつめたという。
寛政11年(1799)年まで一橋徳川家当主の座にあったという。
今回の「大河べらぼう」では生田斗真さんがキャスティングされているという。
今回のテーマとのかかわりで、当時の一橋家家老(幕臣)は田沼意次氏の弟意誠氏だったことも記しておく。
2025年 03月 26日
前回整理したように、一橋家6代当主徳川慶昌氏の宝塔が信夫の里の真浄院にある。
散策人がこのことを知ったのは平成29年(2017)頃だ。フェイスブックの真浄院にかかわる情報の中で見た。当時は以下のようなそれにかかわる地方紙情報も確認できた。
昭和42年(1967)8月の東京都の区画整理に伴い、寛永寺境内にあった慶昌氏の多宝塔が福島市の真浄院に移築された(福島民報)
しかし、当時は興味ある情報ではなかったのでそのままにしていた。
それが、今回のテーマで老中田沼意次氏と松平定信氏とがかかわる11代将軍家斎公と一橋徳川家のキーワードが気になって確認しに出かけてきてみたということだ。
さて、散策人として合点がいかないのは、移築先が福島市の真浄院であるその訳だ。
まずは、東京都側の地域情報を探る。
すると、「杉並区の蓮華寺に石塔2基を寄贈し、内1基は真浄院に移設した(江戸大名墓総覧)」との情報が確認できる。この杉並区の蓮華寺の散歩情報を探ると、ここに7代慶壽氏の宝塔が確認できだ。
このことから杉並区の蓮華寺に寄贈された石塔2基というのは6代当主徳川慶昌氏と7代当主慶壽氏の宝塔であろうことが推測される。そのうちの7代当主慶壽氏の宝塔は杉並区の蓮華寺に移築されて、6代当主徳川慶昌氏の宝塔が真浄院に移設されたという経緯だろうとの推測だ。
ここで気になるのが、なぜ杉並区の蓮華寺から信夫の里の真浄院へ移転先が譲渡されたかということだが、これは二つの寺院の共通情報がかかわるのだろうと推理した。
それが、室生寺だ。
杉並区のページの蓮華寺情報には「天沼山蓮華寺は、真言宗室生寺派の寺院で、開山は真長和尚と伝えられます。」とあった。
そして、「国際ロータリー第2530地区福島東ロータリークラブ」のページには福島の真浄院住職網代智明氏は平成25年から9年間大本山室生寺の管長だったとの情報があった。
このこととのからみで杉並区の蓮華寺に寄贈された石塔2基の内1基が真浄院に移設された経緯を想像してみたということだ。
次に気になるのが石塔2基を移設することになる経緯だが、これは寛永寺の散策情報で確認できた。
2025年 03月 25日
地域の散策人としては、整理しておきたい一橋徳川家にかかわる地域情報がもう一つある。
それが、一橋家の6代当主徳川慶昌氏だ。
この方の多宝塔が、なぜか信夫の里の真浄院にある。これがそれだと思う。
今回の話題とのかかわりでみれば、意次氏が老中を免ぜられ、松平定信氏が老中首座となったのは11代将軍家斎公の時だ。この慶昌氏は、その11代将軍家斎公の孫とのことだ。
そのことを知ったのは、勝海舟にかかわる次のエピソードだ。
(勝海舟氏は、)幼少時の文政12年(1829年)、男谷の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(家斉の嫡男で後の12代将軍徳川家慶の五男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が天保9年(1838年)に早世したためその望みは消えることとなる。
この徳川慶昌氏の経歴をたどれば、以下のようだ。
文政8年(1825年)3月第12代将軍徳川家慶公の五男として江戸城西ノ丸で生まれる。母は側室押田氏(清涼院)。幼名は初之丞。
天保8年(1837年)一橋家5代当主徳川斉位氏の養子となり当主に就き元服。父家慶公から偏諱を受けて慶昌と名乗り、従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙される。
天保9年(1838年)5月14歳で死去。法名は英徳院殿。墓所は東叡山寛永寺・凌雲院。
その跡を田安家当主徳川斉匡氏の五男慶壽氏が継いだ。
この方の多宝塔が信夫の里の真浄院にあるという移転情報を整理するためのかかわりもあって、次の七代当主慶壽氏の跡継ぎ情報にまでふれた。
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