それから
幼少期に親から言われたこと
すべて忘れた方が
いいですよ
何の役にも立たない
「すべて」ですか。
「何の役にも立たない」ですか。
すごくシンプルな方針だけど、それくらいシンプルにすると、逆に実践できてしまうかもしれない。
作中で、エレベーターにいつも挟まれてしまう女性社員が、恥ずかしそうに
親がよくおまえはぼんやりだって言ってました
子どもを産んでからますますぼんやりしちゃって
家事や仕事やっても全然追いつかないし
と告白する。
それを言われた男性社員は
寝不足なんじゃないですか
単純に
とクールな顔つきで、しかしあたたかみのある言葉で返すのである。
その後すぐ、冒頭に述べた提案をする。
幼少期に親から言われたことが「呪い」になっているという人はたくさんいるようだ。
俺はそんなことはない。
…と言いたいところだが、そうとも言い切れない。
確かに自分の性格を規定されるような親の言葉に拘束されたことはない。しかし、よく考えてみると、父が望んだ結果を出したい、父にがっかりされたくない、という思考様式はどこかに残っている気がして、無意識にそういうものを選んでいたりする気はする。政治的にはあまり近くない考えなのに。
本作『元気でいてね』はオムニバス形式の短編集である。離婚、出産、結婚、育児、仕事をめぐる女性や男性の選択についての後悔・解放・回復の物語だ。
ぼくが読んでみて、全体を大きく貫いているのは、「私」がどうあっても何かに抑圧されていて、そこから解放されるために「私」を主語にして「私」の真意をまず言葉にしようと多くの登場人物が格闘していることだった。
解放された「私」が現れたとしてもそれは正解でもないし、解決でもないよ、とこざかしく言いたくなるが、まずはそこからではないか、そのスタートラインに立たせてくれよ、という息苦しさをなんとかしたいのである。
「case6. ハクウンボク」で休日に散歩していた四十代の姉と、その妹が、行き先のわからない水上バスに乗るくだりがある。姉には行き先がわからない、というのが「いい」と思えたのだ。
姉は会社を辞めてもいいと思えるようになった。
会社に不満がある的な話、というよりも、何かにとらわれないで選択ができるということの自由さを感じたのである。
慎重派のお姉ちゃんらしくなくていいねー
と妹が励ます。

ぼくも勤めていた団体で、全く不当な抑圧を受けた上で、お前が悪いのだから悪うございましたと謝れ、赦しを乞えば考えてやらなくもない、という人間を馬鹿にした抑圧を受けた時、それを否定してさんざんハラスメントという暴力を受けた挙句に放逐されたのであるが、今いろんな人の励ましを受けながらその抑圧に屈しなかったことには「自由」であることを感じざるを得ない。
仕事を奪われて、裁判などやる羽目になったのは気の毒だね、と思われているかもしれないが、一面当たっているものの、一面では全くそうではない。
団体から追放されたことで、自分が参加する社会運動も著しく制約を受けるようになってしまったのだが、何よりも裁判闘争によって壊れつつある左派の牙城を立て直すという歴史的なたたかいを、多くの人の支援を受けながらその中心になって進められるようになったわけだから、これほど巨大な意義のある社会運動もあるまい、という思いも他方である。
「自分で新たな団体を作れ」という人がいるけど、いやいやいや、ぼくを不当に追放したルール違反の幹部が出ていけばいいのでは? と思うし、「ネットでうだうだ言ってないで紙屋はリアル社会運動でもしろ」という人には、ぼく自身すでにいろんな運動やってるし、何より裁判闘争で世の中をよくするっていうこの上ない巨大なリアル大衆闘争やってますけど? と心の底から思う。
たしかにぼくは自由なのであり、何かに囚われた人たちが悪罵を投げようとしている。奇妙な構図だなあと思わざるを得ない。
作中で、都心の狭い川の水上バスに乗っているはずなのに、目の前にはまるで広大な海原にいるかのような光景が広がっている。
この姉が感じている自由さに、なんとなく自分の心象にある自由さを重ねてみた。
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