以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第68巻
(1986年11月29日<昭和61年>東京、神奈川の記念合同本部長研修会・52頁)
「病気という一現象のみを見て、その人の信心が弱いとか、謗法があるとか、短絡的にきめつけるのは誤りである。むしろそのときこそ最大に激励し、守っていくべきである。これは信心の世界で、ともすれば陥りやすい点でもあるので一言、申し上げておきたい。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
人を大切にするということは、言葉を大切にすることだと思う。
「謗法」という用語は、非常に強い響きをもつ。
使い方を誤れば、人を励ますための言葉ではなく、人を裁く言葉として作用してしまう。
私たちは、「信心」の名のもとに、知らず知らずのうちに、人を裁く側に立ってはいないだろうか。
次元は少々異なるがと前置きしつつ、池田先生は日亨上人の言葉も引かれている。
「みだりに他人を憎んで謗法の罪名をきせることは、それが真実であれ、ウソであれ、かえってその重罪を自身に招いてしまう。恐れるべきである。」(趣意・富要一巻)
この言葉からもわかるように、「謗法」は極めて重い言葉であり、相当なパワーワードに該当する。
励ましの団体である創価学会の中において、よほどのことがない限り、同志に向かって安易に投げかけてよい言葉ではない。
そこには、最大限の注意と、自身への厳しい問いが伴わなければならない。
「真実だからよい」「正しいからよい」という発想は、仏法者の姿勢とは言えない。
仏法の根本は、正しさの主張ではなく、人の心を守り、励まし、立ち上がらせていくところにある。
病気という現象を前にしたときこそ、その人を裁くのではなく、最大に激励し、最大に守っていく。
この一点に、信心の真価が問われているのだと思う。
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