最近、気づかされていることは、「名前「の軽視だ。特に学問の領域では「名前」は厄介者に見えてくる。固有の「名前」を用いることにかなり慎重である。それが客観的な学問ということであろう。しかし、ローゼン
ツヴァイクを読んでいると、そんな傾向に対して、違う、違う、と思ってくる。ましてや「名前」を超えて「呼称」こそが大事だ、なんていう考えを客観的な学問領域に入れるわけにはいかない。しかしわかっていても寂しい風が吹き抜ける。
イ
エスさまの弟子たちが、イ
エスさまが親しい間柄であるかのように「アバ父」と神さまを呼んでいる姿にかなり違和感を覚えたことであろう。そこに不思議とか神秘とかを覚えたであろう。しかし、何も神秘でなく、親しい会話、対話というものは「呼称」から始まっていくことを主も生き方で表されたように思う。私は呼びかける時には「イ
エスさまぁ」と言いつつも、同じ人間が、人に説明する時は、「イ
エス」と呼び捨てしていることにかなりの違和感を感じてしまう。聖書も「イ
エス」と書かれているのだからそれでいいのだが、その「イ
エス」との関係性をどう思っているのか、ということばかり思ってしまうのだ。背景に子供の時から「イ
エスさま」と言わないといけないと思ってきたからだと思う。
でも英語のJesusとは違う、何か、である。私は日本人的には、名前に関しては、生きている関係性を表していくために自然に生き生きと言い換えることもあっても良いように思う。「イ
エス」になったり、「イ
エスさま」になったり、「あなた」になったり、「あなたさま」になったり・・。私は賛美と聖書を読む時は「あなた」と発話するが、祈りのなかでは「あなた」と言えないなあ。私の主観です。ローゼン
ツヴァイクさん、もうちょっと教えてほしい・・