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PWFヘビー級王座

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(2016年7月)
PWFヘビー級王座
詳細
管理団体全日本プロレス
管理PWF
創立1973年1月27日
廃止1989年4月18日
過去の名称世界ヘビー級王座
PWF世界ヘビー級王座
統計
最多保持者ジャイアント馬場
(1973年3月16日)
最年長ジャイアント馬場
(46歳6ヶ月)

PWFヘビー級王座(ピー・ダブリュー・エフ・ヘビーきゅうおうざ)は、全日本プロレスが管理、PWFが認定している王座。旧名称は世界ヘビー級王座(せかいヘビーきゅうおうざ)、PWF世界ヘビー級王座(ピー・ダブリュー・エフせかいヘビーきゅうおうざ)。現在は三冠ヘビー級王座を構成しているチャンピオンベルトの1つである。

歴史

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1972年力道山の死後、百田家に保管されていたインターナショナル・ヘビー級王座及びWWA世界ヘビー級王座のベルト(通称「力道山ベルト」)が、全日本プロレスを創立して間もないジャイアント馬場に寄贈された。これを受け、全日本プロレスでは力道山ベルトを「世界ヘビー級王座」のベルトとして使用することを決め、その王座争奪戦を開催した。

この初代王座争奪戦は、ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノテリー・ファンクアブドーラ・ザ・ブッチャーザ・デストロイヤーウイルバー・スナイダードン・レオ・ジョナサンパット・オコーナーボボ・ブラジルの8選手による勝ち抜き戦「世界選手権争覇十番勝負」という形で行われ、馬場が8勝2引分けという成績を収め(最初の対戦で引き分けたサンマルチノ、スナイダーには再戦で勝利)、初代世界ヘビー級選手権者となる。全日本プロレスがハワイ州ホノルルを本部とするPWF(Pacific Wrestlimg Federation)を設立し、初代会長には馬場と旧知の仲であったハワイのプロモーターのロード・ジェームス・ブレアースが就任した。

そして、世界ヘビー級王座をPWF世界ヘビー級王座と改め、馬場が自らその初代王者となった。途中1974年に、NWAの勧告により「世界」の文字を外してPWFヘビー級王座となった(NWAは傘下の各団体に「NWA世界ヘビー級王座以外の世界王座を作ったり認定したりしないこと」を求めているため)。

初代王者の馬場はザ・シーク、ブッチャー、オコーナー、ドリー・ファンク・ジュニアハーリー・レイスフリッツ・フォン・エリックジン・キニスキーペドロ・モラレスビル・ロビンソンプロフェッサー・タナカディック・マードックブラックジャック・マリガンクリス・マルコフディック・ザ・ブルーザーオックス・ベーカーワフー・マクダニエルキラー・カール・コックスケン・パテラなどを退けて38回連続防衛(これは今でも日本プロレス史上の最多連続防衛記録である)を果たしたほか、ジャック・ブリスコ(NWA)、サンマルチノ(WWWF)、大木金太郎アジア)の各王者が保持する王座を賭けてのダブルタイトルマッチも行った。

1978年6月にキラー・トーア・カマタとの防衛戦で、カマタの反則に怒った馬場が反則でやり返して大暴走、反則負けで王座転落。それまでアメリカでも日本でも「反則やリングアウトでは王座は移動しない」という選手権試合ルールとなっていたのを馬場が「反則負けでも負けは負け」としてPWFルールで反則・リングアウトでの王座移動を認めるようにしていたのだが、それが裏目に出た形となった。カマタは初防衛戦でロビンソンに敗れ、ロビンソンからブッチャーへ王座は移動。1979年2月に馬場はシカゴで王座奪回に成功する。

第5代王者時代の馬場は、防衛戦のペースこそ低下したもののブッチャー、ブルーザー・ブロディ、カマタ、ロビンソン、タイガー・ジェット・シンテリー・ゴディらを相手に3年8ヶ月の間防衛を続けた。この間、1981年1月には馬場のデビュー以来3000試合無欠場記録記念試合としてバーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われ、1982年2月には新日本プロレスから引き抜いたスタン・ハンセンとのシングル初対決がPWF選手権試合として実現している(2試合とも東京スポーツプロレス大賞の「年間最高試合賞」を受賞)。また、グリーンズボロバロン・フォン・ラシク)、ミネアポリススーパー・デストロイヤー・マークII)、アトランタ(ゴディ)、ダラスキングコング・バンディ)などアメリカ各地で防衛戦が行われたのも馬場王者時代の大きな特徴である。

1982年10月に馬場はレイスに敗れて王座転落するも1983年2月セントルイスで奪還。しかし9月にはハンセンに敗れまたも王座から転落する。この頃からはレイス→馬場→ハンセン→馬場→ハンセン→長州力→ハンセン→天龍源一郎→ハンセン、と、1年前後の在位の王者が続くことになる。1989年4月18日、PWFおよびUN王者のハンセンがインター王者のジャンボ鶴田と統一戦を戦い、勝った鶴田が三冠統一ヘビー級王者となる。

歴代王者

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歴代選手戴冠回数防衛回数獲得日付獲得場所
(対戦相手・その他)
初代ジャイアント馬場1381973年3月16日日本大学講堂
王座争奪戦を制して獲得
第2代キラー・トーア・カマタ101978年6月1日]秋田市立体育館
第3代ビル・ロビンソン111978年6月12日一宮市産業体育館
第4代アブドーラ・ザ・ブッチャー111978年10月18日栃木県体育館
第5代ジャイアント馬場2151979年2月10日イリノイ州シカゴ
第6代ハーリー・レイス111982年10月26日帯広市総合体育館
第7代ジャイアント馬場331983年2月11日ミズーリ州セントルイス
第8代スタン・ハンセン131983年9月8日千葉公園体育館
第9代ジャイアント馬場431984年7月31日蔵前国技館
第10代スタン・ハンセン211985年7月30日福岡スポーツセンター
第11代長州力161986年4月5日横浜文化体育館
試合への出場をキャンセルのため剥奪
第12代スタン・ハンセン341987年4月24日横浜文化体育館
王座決定戦で獲得
輪島大士
第13代天龍源一郎121988年3月9日横浜文化体育館
UNヘビー級王座との二冠王者
第14代スタン・ハンセン431988年7月27日長野市民体育館
UNヘビー級王座との二冠王者
第15代ジャンボ鶴田101989年4月18日大田区体育館
インターナショナル・ヘビー級王座UNヘビー級王座との王座統一戦が行われて三冠ヘビー級王座となる

主な記録

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  • 最多戴冠記録:4回
    ジャイアント馬場(第1・5・7・9代)
    スタン・ハンセン(第8・10・12・14代)
  • 最多連続防衛:38回
    ジャイアント馬場
  • 最多通算防衛:59回
    ジャイアント馬場
  • 最年長戴冠記録:46歳6ヶ月
    ジャイアント馬場(第9代)

外部リンク

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選手および活動ユニットの欄における選手ユニットは、五十音順。ただし、各ユニットの欄において、リーダー・発起人であることが明確な選手は、先頭に記載。
選手
所属
ヘビー級
ジュニアヘビー級
海外参戦
ヘビー級
他団体・
フリー
ヘビー級
ジュニアヘビー級
活動ユニット・タッグ
バカの時代
斉藤ブラザーズ
北斗軍
HAVOC
スタッフ
レフェリー
リングアナウンサー
役員ほか
王座
PWF
GAORA
全日本プロレスTV
廃止された王座
リーグ戦・
トーナメント戦
その他の関係者
関連組織・団体
テレビ番組
テレビゲーム
メサイヤ
その他
その他関連項目
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