リリコ LiLiCo | |
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![]() (2018年) | |
別名義 | LILIKO(旧芸名) |
生年月日 | (1970-11-16)1970年11月16日(54歳) |
出生地 | ![]() |
国籍 | ![]() |
身長 | 168 cm |
血液型 | A型 |
職業 | タレント、映画コメンテーター |
活動期間 | 1992年 - |
配偶者 | 一般男性(2000年 - 2006年) 小田井涼平(2017年 - ) |
主な作品 | |
『王様のブランチ』 | |
備考 | |
歌手、ナレーター等としても活動 | |
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LiLiCo(リリコ、1970年11月16日 - )は、日本のタレント、歌手、映画コメンテーター、元プロレスラー[1]である。所属事務所はプランチャイム。旧芸名はLILIKO(リリコ)。本名はAnn-Sophie Lennerfors(アンソフィー・レナーフォース)[2][3]。スウェーデンストックホルム出身[2]。夫は歌謡グループ純烈の元メンバーで俳優の小田井涼平[4]。2023年現在は、港区麻布在住[2]。
父親はスウェーデン人で、母親が日本人[5](2012年に病死)。LiLiCoが9歳の時に弟が誕生した[6]。スウェーデンでは、ハーフということで壮絶ないじめを受けた。また、父と母は喧嘩が絶えず、母はLiLiCoを否定する言葉を投げつけるなど、家の中でも逃げ場はない状態であった[7]。両親は弟が生まれてから間もなくして別居(ただし両親が離婚をしたのは、約20年後のLiLiCoが最初の結婚をした翌日。LiLiCoが代行して離婚届を提出した[6])。
18歳の時、日本でアイドル歌手になることを夢見て単身で来日する[8]。母親の故郷である東京都葛飾区立石で、祖母と叔父が経営していたライブ喫茶店の店舗兼住居に身を寄せた[9](その縁で、2016年に「かつしか観光大使」に就任[9][10])。
19歳のとき(1989年)、当時歌のレッスンを習っていた講師に勧められて静岡県浜松市に転居。現地の芸能事務所に在籍していた演歌歌手の元で下積みを重ねる。同年5月2日、浜松のデパート屋上にあるビアガーデンで歌手活動をスタートさせた(媒体によっては、これを歌手デビューとする場合もある)[2][11]。この浜松に住んでいたことが縁で、2013年には浜松市やらまいか大使を委嘱されている。
21歳でマネージャーともう一人の歌手と独立。しかし後にその歌手は失踪、事務所は差し押さえにあい、26歳までの5年間、マネージャーと二人で車でのホームレス生活をしながら[12]、スナックや健康ランドなどでドサ回り歌手として活動をしていた。
1992年2月21日、映画の主題歌として日本クラウンから念願のCDデビューを果たした[13]。また、ヌードシーンも含むVシネマや『ロバの耳そうじ』などにセクシー路線で出演。
28歳でマネージャーのもとを離れ独立。中川翔子の母親が経営するショーパブで働きつつ[14]、トヨタ自動車の販売系列である『ネッツトヨタ』などのCMナレーターをしていた。
30歳のときに最初の結婚をしたが、6年で離婚[15](この夫との間に子供はいない)。
テレビ版アニメ『サウスパーク』の吹き替えを担当したことに関連して、2001年に雑誌で映画についてインタビューを受けたことがタレントとし転機となった[11]。「好きな映画を3本教えてください」と言われて答えたところ、後日TBS『王様のブランチ』のプロデューサーの目に留まった。その人から「オーディションを受けないか」と誘われて合格し、その10日後から同番組の映画コメンテーターとしてレギュラー出演が決まった。
以降映画俳優へのインタビューをはじめ、トークイベント、声優やナレーション、雑誌エッセイ執筆など、マルチタレントとして幅広く活躍していく[2]。
2018年4月2日、レギュラー出演している『ノンストップ!』(フジテレビ)の生放送中に、当日ゲスト出演中の歌謡グループ純烈のメンバーで俳優の小田井涼平と2017年に婚姻届を提出していたことを発表した[4]。当時小田井とはお互いに47歳同士で、この熟年結婚(先述の通りLiLiCoは再婚)は話題となった[2]。2019年7月27日、LiLiCoの故郷のスウェーデン・ストックホルムで挙式[16]。結婚式の様子は、TBS系『日立 世界ふしぎ発見!』のスウェーデン特集内でオンエアされた[16]。
2020年頃には、先述の仕事以外にプロレスラー、ジュエリーデザイナー、北欧雑貨を扱うネットショップ「LiLiCoCo」の経営者としても活動[11]。
2020年8月11日、声帯の手術を受けたことを公表[17][18]。翌12日には転倒して左膝蓋骨を骨折し[19][20]、13日に手術を受ける[19][20]。左膝蓋骨にボルト(釘)とワイヤーで固定しての治療を行っていたが、2021年11月30日に抜去手術を行ったことをブログを通じて報告した[21]。
2021年11月22日、テレビ朝日系『徹子の部屋』に出演。結婚後も健康保険証などの記載本名が「レンネルフォッシュ・アンソフィー」(英字記載)だと明かす。
2024年6月20日、17年ぶりに復活した第17回淀川長治賞を受賞[22]。
スウェーデン人の父は医薬品関連の企業勤務で、日本人の母は機械設計士として働いていた[2]。生まれた頃はストックホルム市内の団地で暮らし、7歳で市内のメーラルヘイデンという地域に転居し、自然に囲まれた山の途中の大きな一軒家で18歳まで暮らした[2]。
9歳の頃に弟が生まれたが、この頃から両親の仲が悪くなり[注釈 1]、ほどなくして父は家を出ていった。以後学校に通いながら、放課後などは仕事で家にいない母の代わりに弟の世話や家事を手伝った[11][2]。
12歳頃には弟の“子育て”に疲れる中、離婚の影響などで精神的に参っていた母から時々人格を否定するような暴言[注釈 2]を吐かれるようになった[2]。同時期に学校では、アジア人とのハーフという理由でイジメにも遭っていた[注釈 3]が、家にいるよりマシとの思いから学校には通い続けた[2]。学生時代はコーラス部に在籍していた[23]。
辛い状況の中、心の拠り所となったのは、幼少期より祖母が日本から送ってくれた小包に入っていたアイドル雑誌であり、その雑誌を読み、日本のレコードを聴いていくうちに歌手になりたいという夢を持つようになる[23]。
15歳のころ、当初中学卒業後に来日することを考えていた[2]。しかし、祖母から「せめて高校だけは行くように」と言われ、渋々スウェーデンの高校に進学[2]。だが結局中退し、歌手になるため18歳で来日して母の故郷である葛飾区で暮らし始めた[2]。
当時は日本語がほぼ話せなかったため会話は困難であったが、祖母は孫であるLiLiCoに愛情を注いでくれた[7]。後日、祖母が見つけてくれた弁当屋でバイトを始めた[2]。この頃は日本語学校へ行く資金がなかったため、祖母の話す様子や祖母がテレビを見る時のリアクションを見て「今のは笑うところなんだ」などと覚えていった[11]。また、バイト先の弁当屋の昼休みでは、『笑っていいとも!』や『ライオンのいただきます』などを観て日本語の勉強に役立てたという[2]。数か月かけてカタコトの日本語が話せるようになり、以後歌手を目指していくつものオーディションを受けるようになった[2]。
19歳の頃に浜松の芸能事務所に弟子入りし、先輩演歌歌手の付き人としてレッスンに励んだ[2]。当初、社長の自宅兼事務所に住み込んだが、ほどなくして社長の弟であるマネージャーが見つけてきた浜松市東区のアパートに転居[2]。しかし家賃が払えず、マネージャーとともに彼の車・白のセドリックで上京したが、経済的事情により以後5年以上もの間車中生活を送った[2]。以降昼間は東京でテレビ局に自分を売り込み、夜は浜松や名古屋のスナックや健康ランドで歌わせてもらい日銭を稼いだ[2][11]。
来日から7年が経つ頃、セクシー路線のテレビ番組や、Vシネマに出演させてもらえるようになったが収入は安定しなかった[2]。杉並区で一人暮らしをしたが家賃を払い続けられず、マネージャーが住んでいた中野区の事務所兼自宅に転がり込んだ[2]。
後日親しくなった女性タレントからの誘いで、中川翔子の母のショーパブで働き出した[2]。この店では大好きな歌とダンスを披露することができ、ママ(中川の母)たちからは様々なことを学ばせてもらったという[2]。1年後、ある程度の貯金ができたことからマネージャーからの独立を決め、港区麻布のワンルームマンションに転居[2]。以後、2度の結婚生活も含めて長年に渡り麻布内を転々とする[2]。
この頃に最初の夫と入籍し、その3か月後に「王様のブランチ」のレギュラーに抜擢されたことで、とりあえず安定した収入が得られるようになった[2]。しかし当時の夫とは、結婚から5年ほど経った年のクリスマスイブに別居し、その後夫婦関係にピリオドを打った[2]。その後もたくさんの人との出会いを通じて様々なチャンスをもらい、40歳を過ぎた頃にようやく仕事が軌道に乗った[11]。
LiLiCo | |
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プロフィール | |
リングネーム | LiLiCo |
身長 | 168cm |
体重 | 51kg |
誕生日 | (1970-11-16)1970年11月16日(54歳) |
出身地 | ![]() |
所属 | フリーランス |
デビュー | 2015年8月23日 |
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2014年8月17日、DDTプロレスリングの開催する両国ピーターパン2014〜人生変えちゃう夏かもね!〜にて行われた「アイアンマンヘビーメタル級選手権バトルロイヤルに特別リングアナとして参加。試合後、バトルロイヤルを勝ち抜きアイアンマンベルトを保持していたゴージャス松野がダウンしていたところをフォールし3カウント、同王座の第1009代王者となる[24]。
以降、ボディーガードとしてベルナール・アッカを連れ防衛を重ねるが、12月23日のDDT後楽園大会にてヨシヒコに敗北。同王座から陥落。
2015年6月28日、DDT後楽園大会に来場しプロレスラーデビューを直訴[25]。
2015年8月23日、『両国ピーターパン2015〜DDTより愛をこめて〜』でプロレスデビュー。第2試合「時間差タッグバトルロイヤル」に出場、宮武俊とタッグを組み、勝ち残っていたアジャ・コング&大石真翔組と対戦したが、宮武がアジャに敗北[26]。
2016年1月3日、DDT後楽園大会にて、アイアンマン王座を保持していた赤井沙希を奇襲し同王座を獲得。
2016年3月21日、DDT両国大会にて梅田公太・渡瀬瑞基を引き連れ、赤井・大石真翔・レディビアードと対戦。卍固めで大石から勝利。アイアンマン王座を防衛。
2016年4月24日、DDT後楽園ホールにて赤井沙希に敗れアイアンマン王座から陥落。
2016年5月29日、DDT後楽園ホールにてスーパーササダンゴマシンの保持するEXTREME級王座に挑み、勝利し同王座を戴冠。
2017年8月20日、DDTプロレス『両国ピーターパン2017〜ピーターパン 二十歳になっても ピーターパン〜』にて初代『KO-D10人タッグ王座』を獲得。他のパートナーは大石真翔&レディビアード&スーパーササダンゴマシン&大家健[27]。
2020年、私生活で転倒し膝蓋骨を骨折、これがプロレスラー引退の引き金となる[28]。
2022年3月20日、DDT両国大会にてプロレスラーとしての引退試合を行った[28][1]。
通常回 | |
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