以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1901年のできごとを記す。
この年アメリカンリーグがメジャーリーグとしてスタートし、、ナショナルリーグとの二大リーグ体制が始まった。
1901年4月18日に開幕し10月6日に全日程を終え、ナショナルリーグはピッツバーグ・パイレーツが1882年に加盟以来初めてリーグ優勝し、アメリカンリーグはシガゴ・ホワイトストッキングス(現在のホワイトソックス)がリーグ最初のシーズンを優勝した。
1900年のメジャーリーグベースボール -1901年のメジャーリーグベースボール -1902年のメジャーリーグベースボール
前年にウェスタンリーグから改称したものの、まだ五大湖地域のマイナーリーグに過ぎなかったアメリカンリーグは、1901年の年明けにメジャーリーグへの昇格を宣言し、ナショナルリーグに対抗すべくボスウォッシュ(東海岸)へ進出する。フランチャイズが競合するボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、空きが生じていたワシントンD.C.への進出を試みたが、ニューヨークのみニューヨーク・ジャイアンツの反対に遭い断念し、代わりに空きが生じていたボルチモアへ進出した。前年にはフランチャイズが競合するシカゴ、空きが生じていたクリーブランドへも進出しており、1899年シーズン終了後に構成球団数を12から8に減じたナショナルリーグと同様に五大湖地域4、東海岸4のフランチャイズ展開が実現し、3都市でフランチャイズが競合することとなった。
アメリカンリーグのバン・ジョンソン会長はボルチモア・オリオールズにはセントルイス・カージナルスからジョン・マグローを監督に呼び、フィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)にはピッツバーグ・パイレーツの選手兼監督だったコニー・マックを監督に呼び、ボストン・アメリカンズ(現在のボストン・レッドソックス)にはジェームス・コリンズ、シカゴ・ホワイトストッキングスにはシカゴ・オーファンス(現在のシカゴ・カブス)の監督であったクラーク・グリフィスをそれぞれ呼び、選手ではナポレオン・ラジョイ、ウイリー・キーラー、エド・ドラハンティ、サイ・ヤングなどナショナルリーグのスターたちを引き抜いた。このことでナショナルリーグとは対立し、両リーグは抗争状態であった。
シーズン終了後、ミルウォーキー・ブルワーズがセントルイスへの移転を決め、フランチャイズが競合する都市が4都市に増えることとなった。
アメリカンリーグの最初の年に、フィラデルフィア・アスレチックスのナポレオン・ラジョイことナップ・ラジョイは打率・得点・安打・打点・本塁打で全てアメリカンリーグのトップとなった。これはこの1901年が近代野球の始まった年とすれば最初の三冠王である。それ以前の19世紀には1878年のポール・ハインズ、1887年のティップ・オニール、1894年のヒュー・ダフィーが達成してそれ以来の4人目となる。しかし打点は1907年から公式に記録されるようになったことで、この4人の三冠王は忘れられていた。またこの当時、打点や本塁打はそれほど重要視されず、むしろ打率と得点と安打数を重要視していたとする説と打率・打点・安打数を重要視していたとする説があり、本塁打はベーブ・ルース以降から注目されたもので、また打点の定義がリーグによって微妙に違い、公式記録として出されたのが1907年以後であったことで、当時の三冠の重みは現在とは全く違っていたことになる。現在では1909年のタイ・カッブを近代野球最初の三冠王とする説が多いが、一方では1922年のロジャース・ホンスビーの三冠達成が近代野球での最初の三冠王(打率・打点・本塁打)である、とする主張もある。それでも1901年のナポレオン・ラジョイのこの記録はあとから振り返ると、8年後の1909年にタイ・カッブが打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、3年連続の最多安打、打点王、首位打者に加え、本塁打王、盗塁王を獲得し、史上ただ一度の打撃全タイトル制覇(当時はタイトルでなかったものを含む)を達成し、さらに得点数、塁打数、出塁率、長打率、OPSを含め合計10部門でリーグトップであったことと比べると、盗塁王にはなれなかったが、4割2分6厘の打率と安打数が多く最多二塁打を獲得していることを見ると、不滅の記録であることには間違いはない。
セントルイス・カージナルスのサイ・ヤングは、この年創設されたアメリカンリーグに移ってボストン・アメリカンズに所属した。ヤングは32歳になっていたが、当時、ナショナルリーグでは選手年俸の上限が2,400ドルで、アメリカンズが3,000ドルを上回る条件を提示したことで移籍を決意した。そしてこの年に最多勝(33勝)、最多奪三振158、最優秀防御率1.62を記録し、7月3日には史上7人目となる通算300勝を達成している。翌年には32勝、その次の年も28勝で3年連続最多勝となり、投手として最も充実した時期を迎えた。
シンシナティ・レッズのサム・クロフォードは、レギュラーとなったこの年に本塁打16本、打点104を打ちナショナルリーグの本塁打王となる。この16本の本塁打のうち実に12本がランニングホームランで、これは現在でも1シーズンのランニングホームラン数のメジャーリーグ記録となっている。ただしこの時代の野球場には外野スタンドが無かったり、外野フェンスはあるがそのフェンスの前に観客が座り込んでいたりして、本塁打は二塁打・三塁打の延長であり、フェンス越えの外野スタンドに入る本塁打はもともと少なかった。本塁打に注目が集まるようになるのは1920年代にベーブ・ルースが登場した頃からである。
セントルイス・カージナルスのジェシー・バーケットはアメリカンリーグが創設されたこの年に、打率.376で自身3度目の首位打者となった。バントがうまくこの当時は2ストライク後のバント失敗でもアウトにならずファウルであったので、この年は1896年と同じく最多得点と最多安打(226安打)でもあった。そして翌1902年にアメリカンリーグのセントルイス・ブラウンズに移籍したが、その年から2ストライク後のバントによるファウルはアウトとされるようになり、バント打ちの名人だったバーケットにはこのルールの変更は大きく、成績は3割前後まで落ち込んでしまい、ブラウンズでは特に目立った活躍ができず1905年にレッドソックスに移籍してその年限りで引退した。(1946年殿堂入り)
アメリカンリーグ[編集]
| ナショナルリーグ[編集]
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打者成績[編集]
| 投手成績[編集]
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打者成績[編集]
| 投手成績[編集]
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| 1870 - | |
|---|---|
| 80 - | |
| 90 - | |
| 1900 - | |
| 10 - | |
| 20 - | |
| 30 - | |
| 40 - | |
| 50 - | |
| 60 - | |
| 70 - | |
| 80 - | |
| 90 - | |
| 2000 - | |
| 10 - | |
| 20 - | |
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