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齋藤内閣

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齋藤内閣
国務大臣任命式後の記念撮影
(1932年5月26日)
天皇第124代昭和天皇
内閣総理大臣第30代斎藤実
成立年月日1932年昭和7年)5月26日
終了年月日1934年(昭和9年)7月8日
与党・支持基盤立憲民政党立憲政友会
挙国一致内閣
成立事由五・一五事件
終了事由内閣総辞職
前内閣犬養内閣
次内閣岡田内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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齋藤内閣(さいとうないかく)は、子爵枢密顧問官退役海軍大将斎藤実が第30代内閣総理大臣に任命され、1932年昭和7年)5月26日から1934年(昭和9年)7月8日まで続いた日本の内閣

閣僚の顔ぶれ・人事

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国務大臣

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1932年(昭和7年)5月26日任命[1]。在職日数774日。

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣30斎藤実退役海軍大将
海兵6期
子爵
外務、文部大臣兼任
外務大臣43斎藤実退役海軍大将
(海兵6期)
子爵
内閣総理大臣、
文部大臣兼任
1932年7月6日免兼[2]
44内田康哉貴族院
無所属
(無会派)
伯爵
1932年7月6日任[2]
1933年9月14日免[3]
45広田弘毅外務省初入閣
1933年9月14日任[3]
内務大臣45山本達雄貴族院
立憲民政党
交友倶楽部
男爵
大蔵大臣31高橋是清民間
立憲政友会
留任
陸軍大臣21荒木貞夫陸軍中将
陸大19期
留任
1934年1月23日免[4]
22林銑十郎陸軍大将
陸大17期
初入閣
1934年1月23日任[4]
海軍大臣16岡田啓介海軍大将
海大将校科甲種2期
1933年1月9日免[5]
17大角岑生海軍大将
海兵24期
1933年1月9日任[5]
司法大臣35小山松吉司法省→)
貴族院[注釈 1]
初入閣
文部大臣40鳩山一郎衆議院
立憲政友会
留任
1934年3月3日免[注釈 2][6]
41斎藤実退役海軍大将
(海兵6期)
子爵
内閣総理大臣、
外務大臣兼任
1934年3月3日兼[6]
農林大臣8後藤文夫貴族院
無所属
(無会派)
初入閣
商工大臣9中島久万吉貴族院
無所属
公正会
男爵
初入閣
1934年2月9日免[注釈 3][7]
10松本烝治貴族院
無所属
(無会派)
初入閣
1934年2月9日任[7]
逓信大臣35南弘貴族院
無所属
(交友俱楽部)
初入閣
鉄道大臣11三土忠造衆議院
立憲政友会
拓務大臣6永井柳太郎衆議院
立憲民政党
初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

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1932年(昭和7年)5月26日任命[1]

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣書記官長32柴田善三郎内務省1933年3月13日免[注釈 4][8]
33堀切善次郎(内務省→)
貴族院[注釈 5]
無所属
研究会
1933年3月13日任[8]
法制局長官30堀切善次郎内務省1933年3月13日免[注釈 6][8]
31黒崎定三法制局1933年3月13日任[8]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官

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1932年(昭和7年)6月1日任命[9]

職名氏名出身等備考
外務政務次官瀧正雄衆議院/無所属
内務政務次官斎藤隆夫衆議院/立憲民政党
大蔵政務次官堀切善兵衛衆議院/立憲政友会留任
陸軍政務次官土岐章貴族院/無所属(研究会)/子爵
海軍政務次官堀田正恒貴族院/無所属(研究会)/伯爵留任
司法政務次官八並武治衆議院/立憲民政党
文部政務次官東郷実衆議院/立憲政友会
農林政務次官有馬頼寧貴族院/無所属(研究会)/伯爵1933年4月21日免[10]
織田信恒貴族院/無所属(研究会)/子爵1933年4月21日任[10]
商工政務次官岩切重雄衆議院/立憲民政党
逓信政務次官志賀和多利衆議院/立憲政友会1932年8月11日免[11]
牧野良三衆議院/立憲政友会1932年8月11日任[11]
鉄道政務次官名川侃市衆議院/立憲政友会
拓務政務次官堤康次郎衆議院/立憲民政党

参与官

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1932年(昭和7年)6月1日任命[9]

職名氏名出身等備考
外務参与官沢本与一衆議院/立憲民政党1933年6月21日免[12]
西脇晋衆議院/立憲民政党1933年6月23日任[13]
1933年12月19日卒去[14]
松本忠雄衆議院/立憲民政党1933年12月22日任[15]
内務参与官勝田永吉衆議院/立憲民政党
大蔵参与官上塚司衆議院/立憲政友会
陸軍参与官石井三郎衆議院/無所属
海軍参与官川島正次郎衆議院/立憲政友会
司法参与官岩本武助衆議院/立憲政友会
文部参与官石坂豊一衆議院/立憲政友会
農林参与官松村謙三衆議院/立憲民政党
商工参与官松村光三衆議院/立憲政友会
逓信参与官立花種忠貴族院/無所属(研究会)/子爵
鉄道参与官板谷順助衆議院/立憲政友会
拓務参与官木村小左衛門衆議院/立憲民政党

勢力早見表

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※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身国務大臣政務次官参与官その他
りつけんせいゆうかい立憲政友会346
りつけんみんせいとう立憲民政党144
こうゆうくらふ交友倶楽部200
こうせいかい公正会100
けんきゆうかい研究会031
くんふ軍部300国務大臣のべ4
かんりよう官僚100内閣書記官長法制局長官
むかいは無所属111
121212国務大臣のべ13

内閣の動き

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前任の犬養内閣は、満洲事変によって建国された満洲国の国家承認を巡って、犬養毅首相は国際社会との協調路線をとるために非承認の姿勢をとり、満洲建国に動いた関東軍を支持する国内世論[注釈 7]を背景に国家承認を求める荒木貞夫陸相と対立していた。犬養首相は荒木配下の将校(一夕会)の馘首を計画するが、1932年5月15日、一部の海軍将校に白昼暗殺される(五・一五事件)。

後継を巡り、当初は憲政の常道により立憲政友会の内閣が継続する見込みであったことから、政友会は党内最大派閥の領袖であった鈴木喜三郎を早々に次期総裁に選出する。ところが、当時の政界は、前政権の第2次若槻内閣が満洲事変への対応を巡って迷走して求心力を失っていった末期から、政友会および立憲民政党が世論の政党への不信に迎合して、両党の協力内閣(大連立)や、官軍界の有力者を担いだ挙国一致内閣など、憲政の常道の根幹である政党内閣制を自ら毀損する政治工作を行っていた。この時の政友会も、鈴木総裁を選出しながら、擁立した森恪平沼騏一郎枢密院副議長を推し、反発した鈴木総裁は荒木陸相と直接交渉しようとするなど、党内対立が発生する。西園寺公望元老は重臣らと協議を重ねた末、政党内閣制を放棄し、斎藤実海軍大将を推挙する。朝鮮総督や海相をつとめた行政経験が評価されての選出であった。

政権の基盤

斎藤内閣は、政友会および民政党からともに大臣を迎え、大連立政権として組織されたが、斎藤首相本人は非政党員であったことから議会に直接の基盤を持たなかった。そのため、かわりに世論の支持を基盤とすることになった。これが、当初想定されていた堅実な行政処理にとどまらず、満洲事変への対応に関して後述の強硬な態度をとって国際連盟と対立、脱退するという大きな政治決断をすることになった[16]

また、政民両党の側も、政友会鈴木派は自らが政権を逃した後釜の内閣であったことから不満であったが、ここで内閣に対立しても次期総選挙で勢力を維持できる見通しがなかったことから内閣をただすことができず、また反鈴木派や民政党は将来の禅譲を期待して政権運営に協力したため、2年にわたり安定的な議会対策をなすこととなった[17]

主な政策
  • 満洲事変 …1931年9月の事変勃発以来、第2次若槻内閣(幣原喜重郎外相)および犬養内閣(芳澤謙吉外相)は、現地の排日暴動を抑えて治安を維持させる必要性と、日本の軍事進出を警戒する国際輿論との調整に神経を使っており、連盟の調査団(リットン調査団)による現地調査および当面の間の関東軍による現地の治安維持が認められるなど、一定の成果を得ていた。しかし、斎藤内閣(内田康哉外相)は前者に比重を置き、国際社会とあからさまに敵対する態度をとる。1932年9月13日、日満議定書を締結し、日本は満洲を国家承認した。10月1日、国際連盟のリットン報告書が提出され、日本主導による地域の治安維持を認めるなど、日本の立場を擁護する内容であったが、満洲の中華民国からの独立は認めずに中華民国に潜在主権があるとした一事をもって日本の国内世論は激高、内田外相もこの流れに迎合する。連盟における審議の最中の1933年1月には熱河作戦が開始、満洲国の版図を更に広げるという連盟への挑発行動を行う。2月24日、連盟総会にて報告書が採択されると、日本は直ちに連盟脱退を宣言して、国際社会からの退場がはじまることになる。

1934年(昭和9年)1月、時事新報武藤山治社長)が、繊維会社の帝人と財界人グループ「番町会」や鳩山一郎とのあいだの贈収賄疑惑を報じたことから調査が開始され、帝人社長、帝人の株式を担保していた台湾銀行の頭取、番町会の永野護大蔵省次官銀行局長ら16人が起訴された(帝人事件)。

政財界だけでなく高橋蔵相の息子まで疑惑が広がり、政権批判の世論が収まることはなく、斎藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。後継には岡田海相が立てられる(岡田内閣)。

なお、その後、帝人事件の担当裁判官の石田和外らは1937年、被告ら全員に事件そのものが事実無根として無罪判決を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。

出版物

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司法省司法資料

脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^1934年(昭和9年)7月3日、貴族院勅選議員勅任。
  2. ^帝人事件関与疑惑で引責辞任。
  3. ^足利尊氏論の批判により辞任。
  4. ^病気療養のため辞任。
  5. ^1933年(昭和8年)12月5日、貴族院勅選議員勅任。
  6. ^内閣書記官長に就任するため。
  7. ^当時、歴代政権の経済政策の無策によって不況が続いており、失望した世論は軍部への支持に動いていた。
  8. ^優生学の研究書。

出典

[編集]
  1. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和7年5月26日
  2. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和7年7月6日
  3. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和8年9月14日
  4. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年1月23日
  5. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和8年1月9日
  6. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年3月3日
  7. ^ab『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年2月9日
  8. ^abcd『官報』第1859号「叙任及辞令」、昭和8年3月13日
  9. ^ab『官報』第1625号「叙任及辞令」、昭和7年6月2日
  10. ^ab『官報』第1891号「叙任及辞令」、昭和8年4月22日
  11. ^ab『官報』第1686号「叙任及辞令」、昭和7年8月12日
  12. ^『官報』第1941号「叙任及辞令」昭和8年6月22日。
  13. ^『官報』第1943号「叙任及辞令」、昭和8年6月24日
  14. ^『官報』第2094号「彙報 官庁事項 官吏卒去」昭和8年12月22日。
  15. ^『官報』第2095号「叙任及辞令」、昭和8年12月23日
  16. ^倉山, pp. 267–268.
  17. ^升味, pp. 212–213.

参考文献

[編集]

関連項目

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外部リンク

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犬養内閣齋藤内閣
1932年(昭和7年)5月26日
  - 1934年(昭和9年)7月8日
岡田内閣
   
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