| この項目では、欧化政策の一環として建設された西洋館について説明しています。その他の用法については「鹿鳴館 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
| 鹿鳴館 | |
|---|---|
| 情報 | |
| 完成 | 1883年7月7日 |
| 閉館 | 1940年 |
| 収容人員 | 2,000人 |
| 客席数 | 1階(食堂・談話室・書籍室) 2階(舞踏室) |
| 設備 | バー・ビリヤード |
| 用途 | 外交・舞踏会 |
| 運営 | 宮内省・宗秩寮・内匠寮(明治23年 - ) |
| 所在地 | (現在の東京都千代田区内幸町1-1[1]) |
| 位置 | 北緯35度40分19秒東経139度45分27秒 / 北緯35.67194度 東経139.75750度 /35.67194; 139.75750 (鹿鳴館)座標:北緯35度40分19秒東経139度45分27秒 / 北緯35.67194度 東経139.75750度 /35.67194; 139.75750 (鹿鳴館) |
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鹿鳴館(ろくめいかん、旧字体:鹿鳴館󠄁)は、1883年(明治16年)に日本の外務卿・井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である[2]。
国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ[2]。欧米諸国との間の不平等条約を改正する目的があったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1940年(昭和15年)に取り壊された[2]。
外務卿(内閣制度発足以降は外務大臣)・井上馨によって、建設計画が推進された。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。
それまで国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町)に決まり、1880年(明治13年)に着工。途中、規模拡大があり、3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドル、施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織で、大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流にあたる)が担当した。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室を開放すると、100坪ほどの広間になったほかバーやビリヤードも設置されていた。ホテルとしての機能も持ち、1階と2階に20室ほどの客室を備えていた。井上馨がお雇い外国人として招聘したドイツの建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが1887年(明治20年)に宿泊した記録が残っている[3]。


同館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で[4]、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節などの祝賀会行事をはじめ、数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。
鹿鳴館は外務省が主管し、初代館長は松平忠礼、第2代館長は吉田要作。
当時は政府高官やその令夫人でも、大多数は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどは知らず、洋食の食べ方、洋服の着方、ダンスの踊り方などは、西欧人の目からはサマにならないものだった[注釈 1]。日本駐在外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記し嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ[5]、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという[6]。
一方、欧化政策を批判する国粋主義者は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていた。井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに、条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって、天長節夜会が開催された)。
「鹿鳴館時代」の最も華麗なイベントのひとつとして挙げられるのは、1887年(明治20年)4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。この舞踏会は、鹿鳴館ではなく首相官邸で行われたもので、さらに外交や条約改正とは直接関係のない催しだったが、350人が招待され、伊藤博文夫妻はヴェネツィア貴族、伊藤次女生子はイタリアの田舎娘、井上馨は三河萬歳芸人、山縣有朋が奇兵隊の隊士、鍋島直大夫妻は18世紀フランス貴族、戸田極子は山吹を捧げる賤女、戸田氏共は太田道灌、アルベルト・モッセはトルコ人、渋沢栄一は歌舞伎の登場人物にそれぞれ扮した。参加者の仮装は、西洋歴史衣装、欧州や東洋の民族衣装、日本の歴史上の人物や歌舞伎風、の3系統に大別された。
伊藤首相夫人梅子の名で開かれた仮装舞踏会だが、実際にはイギリス公使のフランシス・プランケット夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸したにすぎなかった。しかし当時の国粋主義者たちは、このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。アメリカへの渡航歴があり、外務大丞を務めたこともある勝海舟でさえ、これを契機に憂国の感を深め、21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府提出した。勝は建白書で、単なる西洋文化の模倣ではなく、国内の基盤整備や独自の軍備の重要性などを説いた。
鹿鳴館は1889年(明治22年)に外務省から、華族の金禄公債を資本に設立された十五銀行へ土地・建物が払い下げられ、1890年(明治23年)、十五銀行から華族の親睦団体である華族会館に貸与された。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。その後、1898年(明治31年)にコンドルが改修工事を行い、正面のマンサード屋根の幅が倍増するなど外観が変更される。また、黒門を真向かいにした東向きに建てられていたが、建物自体が90度方向を変え、かつての正面が南向きとなった。
1927年(昭和2年)、華族会館は麹町区三年町(現千代田区霞ヶ関3丁目)に新築した佐藤功一設計の建物に移転し、敷地は日本徴兵保険[注釈 2] に売却された。敷地北部に1930年(昭和5年)、日本徴兵保険の3階建て本社が新築されたが、旧鹿鳴館・華族会館の建物は残され、同社の会議・応接・迎賓施設、社員の懇親施設に転用。一部は貸会議室にもなり「日比谷會館」「日本徴兵會館」とも呼ばれた。
1940年(昭和15年)に、解体計画の話が広まった時、これを惜しんだ早稲田大学教授・商工省参与官の喜多壮一郎が、幣原喜重郎商工大臣に保存を提議し、3月9日に岸信介同省次官らと協議。結局、取り壊し計画を止めることができなかったため、跡地に幣原が自腹で「史蹟鹿鳴館跡」の記念碑を建てることを約束させたという[注釈 3]。しかし、この約束も守られることはなく、旧鹿鳴館は老朽化のため、1940年(昭和15年)3月から6月末にかけて解体された。同時期は戦時体制で、洋風社交施設の使用に対する世間の風当たりも強まっていた。
同年3月9日の東京日日新聞は以下のように報じた。「日本徴兵保険会社では最近のビル飢饉時代に建物に比較して広大な敷地を遊ばしておくのは土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、不経済であるとの理由で建物の取毀しを決定したともいはれ、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して商工省分室として貸室することに内定、数日前から工事に着手した」。
谷口吉郎は、鹿鳴館の滅失について、同年11月8日の東京日日新聞に寄せた手記「明治の哀惜」で「明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。それこそいい明治の記念物となったらうに。明治時代の人から、次の時代に贈るほんとにいい贈物になつたことと思ふ」「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」と綴った。

鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩江戸中屋敷(装束屋敷)の表門(通称・黒門)は1934年(昭和9年)12月28日、文部省により旧国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失した。
戦後、鹿鳴館の跡地には1961年(昭和36年)3月、日本電信電話公社の本社である日比谷電電ビル(1985年からNTT日比谷ビル)が、日本徴兵保険(1945年から大和生命保険)本社ビルの跡地には1984年(昭和59年)6月に日比谷U-1ビル(旧大和生命ビル)が竣工し、「鹿鳴館跡」の碑が設置された[1]。
2022年(令和4年)にNTT日比谷ビルと日比谷U-1ビルは解体された[7]。一帯は帝国ホテル、三井不動産、NTTなど10社を事業主とする大規模再開発計画「内幸町一丁目街区(TOKYO CROSS PARK構想)」に組み込まれ、鹿鳴館跡地には地上46階、高さ230mの高層ビル(セントラルタワー、サウスタワー)が2029年(令和11年)~2031年(令和13年)に竣工予定。
旧鹿鳴館取り壊しの際に取り外された階段と親柱、壁紙見本は、東京大学工学部建築学科に残されている。このほか、持ち送りは江戸東京博物館に、杭は蒐集家の一木務氏宅に、大鏡は霞会館に、イタリア製の青銅シャンデリアは江戸川区の燈明寺(平井聖天)本堂に、舶来上向腕ガスランプ(ガスマントル)と舶来上向腕ガスランプ(裸火)、電気灯はいずれもGAS MUSEUM がす資料館に、竹塗り小椅子1脚と延遼館から伝わった桜蒔絵小椅子1脚は博物館明治村に、コンドル自らデザインした八角テーブルとジャコビアン調の椅子1脚は尚友倶楽部にそれぞれ保存されている[8]。カラトリーも残されており、深川製磁製の大皿1枚、深川製磁製の砂糖壺2個、深川製磁製の深皿2客、象牙ハンドルのディナー用ナイフ10本、象牙ハンドルのディナー用フォーク10本、フォーク10本、デザート用フォーク10本をそれぞれ旧華族の末裔が所蔵している。これらは1927年(昭和2年)、華族会館が旧鹿鳴館を退去する際に行った備品オークションで、同会館会員の手に渡った。
コンドルが引いた鹿鳴館のオリジナル図面は現在に至るまで行方不明。1940年(昭和15年)の解体直前調査時に堀越三郎と横河工務所によって作成された実測図面も行方不明で、現在残っている鹿鳴館の図面は幾つかの推定図と、竣工後に書かれた略図しかない。外務省外交史料館には平面図の縮小版が残されている。
1884年(明治17年)、鹿鳴館に日本人と外国人との融和交際を目的とした男性限定・紹介制の私的クラブ「東京倶楽部」が設けられ、戦前は初代会長の伊藤博文のほか井上馨、大隈重信、山縣有朋、黒田清隆、西園寺公望、松方正義、桂太郎、若槻禮次郎、牧野伸顕、平沼騏一郎、金子堅太郎、渋沢栄一、大倉喜八郎、岩崎久彌、團琢磨、原富太郎、近衞文麿、木戸幸一、徳川家達、細川護立、鍋島直映、吉田茂、白洲次郎らが会員に名を連ね、東伏見宮依仁親王と朝香宮鳩彦王が特別会員となり、歴代名誉総裁には親王を推戴している(現在は常陸宮正仁親王)。
倶楽部内では英語の使用に限られ、日本語は勿論、他の外国語の使用は禁止された。1896年(明治29年)、鹿鳴館と同じコンドルの設計によるヴィクトリアンゴシックの初代倶楽部が鹿鳴館の隣接地に建てられ移転。1908年(明治41年)に社団法人として認可され、1912年(大正元年)、やはりコンドル設計の2代目倶楽部を麹町区三年町(現・霞が関3丁目)の国有地に建設。
戦後は戦災で消失した2代目の跡地に1959年(昭和34年)、地上6階建ての3代目倶楽部が竣工。2005年(平成17年)には六本木一丁目に「東京倶楽部クラブハウス」を設けて倶楽部本拠を移転し、3代目倶楽部の跡地は三井不動産と共同開発し、2007年(平成19年)9月に地上14階建ての「東京倶楽部ビルディング」が竣工した。
日本ボールルームダンス連盟により、鹿鳴館の開館日にあたる11月29日はダンスの日に制定されている[9]。