鷹司冬教(『天子摂関御影』、紙本着色)より 後円光院関白 | |
| 時代 | 鎌倉時代後期-南北朝時代初期 |
| 生誕 | 嘉元3年(1305年) |
| 死没 | 建武4年/延元2年正月26日(1337年2月27日) |
| 別名 | 号:後円光院殿 |
| 官位 | 従一位、関白、内覧、左大臣、藤原氏長者 |
| 主君 | 花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇 |
| 氏族 | 鷹司家 |
| 父母 | 父:鷹司基忠、母:衣笠経平の娘 養父:鷹司冬平 |
| 兄弟 | 聖忠、道珍、冬平、良信、増基、冬基、冬教、尊基、慈兼、禅基、増静、聖尋、良聖、近衛兼教室 |
| 妻 | 一条内実の娘 |
| 子 | 養子:師平 |
| テンプレートを表示 | |
鷹司 冬教(たかつかさ ふゆのり、旧字体:鷹司 冬󠄀敎)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿。太政大臣・鷹司基忠の三男だが、兄・冬平の養子となる。官位は従一位・関白・左大臣。鷹司家5代当主。号は後円光院関白。
延慶2年(1309年)4月、元服と同時に正五位下に叙せられ、禁色を聴される。6月に右近衛中将に任ぜられ、8月に従四位下、10月に正四位下、11月に従三位に叙せられて5歳にして公卿に列す。
延慶3年(1310年)正三位・権中納言に叙任される。12月15日、養父・冬平が太政大臣に任ぜられると、冬教は父に扈従して慶賀を申している[1]。応長元年(1311年)には従二位・権大納言に叙任され、応長2年(1312年)正二位に叙せられた。元応2年(1320年)左近衛大将・左馬寮御監を兼ね、元亨2年(1322年)内大臣、元亨3年(1323年)には東宮傅を兼ねて元亨4年(1324年)に左大臣に任ぜられた。正中3年(1326年)東宮傅を辞任。
嘉暦2年(1327年)養父・冬平の薨去を受けて喪に服す。嘉暦4年(1329年)従一位に叙せられて元徳2年(1330年)正月、近衛経忠が冬教を飛び越えて関白・氏長者となったことを不満として辞職したが、同年8月に関白宣下がされた。しかし、元弘3年(1333年)5月17日、後醍醐天皇の詔により光厳天皇の即位が廃され、同天皇が与えた官位は無効となった。しかし、冬教を関白としたのは後醍醐天皇であるため、冬教は解任という形で関白を免ぜられている。建武元年(1334年)右大臣となり、氏長者、治部卿を兼ねた。建武2年(1335年)に左大臣に還ったが、11月に職を辞退した。
建武の新政崩壊後の建武4年(1337年)正月26日に33歳で薨御した。嗣子が無かったため、甥の師平を養子に迎えた。
和歌に通じ、『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に七首が入集している。
※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に随う。
| 飛鳥時代 | |
|---|---|
| 奈良時代 | |
| 平安時代 |
|
| 鎌倉時代 |
|
| 南北朝時代 | |
| 室町時代 |
|
| 戦国時代 | |
| 安土桃山時代 | |
| 江戸時代 |
|
| 平安時代 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 鎌倉時代 |
| ||||
| 南北朝時代 |
| ||||
| 室町時代 |
| ||||
| 戦国時代 | |||||
| 安土桃山時代 | |||||
| 江戸時代 |
| ||||