| 時代 | 平安時代末期 -鎌倉時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 久寿2年(1155年) |
| 死没 | 建保4年閏6月8日(1216年7月24日)[1] |
| 改名 | 長明→蓮胤(法名) |
| 別名 | 南大夫、菊大夫 |
| 官位 | 従五位下 |
| 氏族 | 鴨(賀茂)氏 |
| 父母 | 父:鴨長継 |
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鴨 長明(かも の ちょうめい)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。俗名は同じだが「読み」がかも の ながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。後の「菊家」との関連の外、「南大夫」の誤記に由来する可能性も指摘されている[2]。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、応保元年(1161年)、従五位下に叙爵されたが、承安2年(1172年)頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失った。安元元年(1175年)、長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北してしまう。
和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学ぶ。歌人として活躍し、歌林苑の会衆として賀茂重保撰の『月詣和歌集』に入撰し、『千載和歌集』にもよみ人しらずとして入集している。以降、石清水宮若宮社歌合、正治後度百首、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠し、建仁元年(1201年)8月、和歌所寄人に任命された。
元久元年(1204年)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に欠員が生じたことから長明は就任を望み、後鳥羽院から推挙の内意も得る。しかし、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。そのため、後鳥羽院のとりなしにもかかわらず長明は近江国甲賀郡大岡寺で出家し、東山、次いで大原で過ごした。承元2年(1208年)、目野(現・京都市伏見区醍醐)に移り閑居生活を行った。
出家後は蓮胤(れんいん)を名乗ったが、一般には俗名を音読みした鴨長明(ちょうめい)として知られている。建暦元年(1211年)には飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉へ下向したものの、受け入られず失敗している。
建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つである。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(建保4年(1216年)以前成立)、歌集として『鴨長明集』(養和元年(1181年))といった作品がある。『千載和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に25首が入集している[3]。
代表作『方丈記』の方丈とは、晩年暮らした庵を指す。日野には庵跡とされる地や方丈石がある[6]。また下鴨神社摂社の河合神社には、方丈の庵が復元されている[7]。
また岐阜県恵那市旧岩村町には鴨長明が当地で没したとの伝承がある[8]。岩村駅近くの「伝鴨長明塚」に付された恵那市教育委員会の説明文によると、人前で秘曲を披露したことを咎められて鎌倉を追われた鴨長明が、当地を領した鎌倉幕府御家人の加藤景廉に匿われたという。辞世の句として「思ひきや都を遠く立ち出でて遠山野辺に露消えんとは」と詠んだという。江戸時代の天保年間に岩村藩士が碑を建立した。