騎射 をする慕容 部の弓騎兵 の図。北魏 となった拓跋部の帝国 (1–3世紀)。鮮卑 (せんぴ、拼音 :Xiānbēi )は、紀元前3世紀 から中国 北部と東北部に存在した騎馬民族 。五胡十六国時代 ・南北朝時代 には大移動で南下して漢人 の国々を征服し、中国 に北魏 、北斉 、北周 などの王朝 を建てた。
漢代 の初め、匈奴 の冒頓単于 が東胡 を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓 と鮮卑になった。鮮卑はしばらく匈奴のもとにいたが、匈奴が南北に分かれその力が衰えてくると、勢力を盛り返すようになった。
建武 30年(54年 )、鮮卑の大人(たいじん:部族長)の於仇賁 (おきゅうほん)は部族民を引き連れて都の洛陽 に上って朝貢をし、光武帝 から王に封じられる。
永平 年間に、祭肜 が遼東 太守 となると、鮮卑に誘いをかけ賂を送って、漢の命令に従わない烏桓の欽志賁 (きんしほん)らの首を取らせた。
永元 6年(94年 )、鮮卑大都護の校尉蘇抜廆 (そばつかい)は、部族民を率いて護烏桓校尉 の任尚 に従い、南匈奴 の反抗者たちを討伐した。その功により、朝廷は蘇抜廆を率衆王に封じた。
殤帝 の延平 元年(106年 )、鮮卑は東への移動を始め、長城 の中に入って漁陽 太守の張顕 を殺した。
安帝 の時代、鮮卑の大人の燕茘陽 (えんれいよう)が入朝した。朝廷は彼に鮮卑王の印綬を授けた。これ以後、鮮卑は、あるときは反抗し、あるときは降伏し、あるときは匈奴や烏桓と争った。
安帝の末年、国境地帯から歩兵と騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。のちに鮮卑の8000-9000の騎馬兵は代郡 と馬城の砦を破って侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した。朝廷は度遼将軍 の鄧遵 (とうじゅん)を派遣して、長城を出て追撃させ、これを打ち破った。鮮卑の大人烏倫 (うりん)・其至鞬 (きしけん)ら7000余人が鄧遵のもとに降伏を申し入れてきた。そこで朝廷は烏倫を王に封じ、其至鞬には侯の位を与えた。鄧遵が去ったあと、其至鞬はまたもや叛き、護烏桓校尉を馬城に包囲した。度遼将軍の耿夔 と幽州 刺史 とが救援に赴き、包囲を崩した。其至鞬はこれ以後ますますその勢力を盛んにし、長城の内部に侵入して、五原郡の曼柏(まんはく)に向かい、匈奴の南単于に攻撃をかけ、左薁鞬日逐王 (さいくけんじつちくおう)を殺した。
順帝 の時代、再び長城の内部に侵入し、代郡の太守を殺した。朝廷は長城付近に軍を駐屯させ、南単于も1万余人を率い、漢の軍を援助して鮮卑に攻撃を加え、これをしりぞけた。こののち、護烏桓校尉の耿曄 は、烏桓大人で都尉 の戎末廆 (じゅうまつかい)を率いて長城を出ると鮮卑に攻撃をくわえ、鮮卑の中の首領格の者たちを多く斬った。その結果、鮮卑の3万余落は、遼東郡の役所に降服を申し入れてきた[ 1] 。
桓帝 の時代、投鹿侯(とうろくこう)の子の檀石槐 が大人の位に就くと、高柳の北、300余里の弾汗山(だんかんさん)・啜仇水(せつきゅうすい)のほとりにその本拠を置いた。東や西の部族の大人たちはみな彼のもとに帰服してきた。その兵馬は勢い盛んで、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令 の南下を阻み、東では夫余 を撃退させ、西では烏孫 に攻撃をかけた。かつての匈奴 の版図をまるまる我が物とし、東西は1万2000余里、南北は7000余里にわたって、広大な地域をすっぽり手中に収めた。漢 の朝廷はこれを患え、使匈奴中郎将 の張奐 を送って討伐させたが、勝つことができなかった。そこで今度は使者を送り印綬を授けて、檀石槐を王の位に封じ、和親を通じようとした。檀石槐は拒絶して受け取らず、侵入略奪はますます激しくなった。
こうして勢力を拡大した檀石槐は、自らの領有する土地を東・中・西の3部に分けた。右北平 から東方は遼東 の夫余や濊貊 (わいはく)と接するあたりまでを東部とした。そこには20余の邑 があり、その地の大人は、弥加 (びか)・厥機 (けつき)・素利 (そり)・槐頭 (かいとう)と呼ばれる者たちであった。右北平から西方の上谷 に至るまでを中部とした。そこには10余の邑があり、その地の大人は、柯最 (かさい)・闕居 (けつきょ)・慕容 (ぼよう)などと呼ばれる者たちで、彼らは大帥(たいすい、総指揮官)でもあった。上谷から西方の敦煌 まで、西方の烏孫と接する所までを西部とした。そこには20余の邑があり、その地の大人は、置鞬落羅 (ちけんらくら)・日律推演 (じつりつすいえん)・宴茘游 (えんれいゆう)などと呼ばれる者たちで、彼らは大帥であり、みな檀石槐の支配を受けていた。
霊帝 の時代になると、彼らは幽州 ・并州 の2州で盛んに略奪を行い、国境地帯の諸郡は、鮮卑から酷い損害を受けない年はなかった。
熹平 6年(177年 )、護烏桓校尉の夏育 (かいく)・破鮮卑中郎将の田晏 (でんあん)・使匈奴中郎将の臧旻 (そうびん)を派遣し、南単于(屠特若尸逐就単于 )の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、3隊に分かれて並行して進み、2000余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。この頃、鮮卑の人口が増え農耕牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなり、川魚を獲って食料とした[ 1] 。
檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連 が代わって立った。和連には父親ほどの素質や能力もなく、しかも貪欲淫乱で、裁きが不公平だったため、部下の半数はその命令を聞かなくなった。霊帝 の末年、しばしば侵略を行い、北地郡を攻めたが、北地の庶民で弩 に巧みな者がおり、和連はそこで射殺された。和連の子の騫曼は幼かったので、兄の子の魁頭 が代わって立った。魁頭が立ってしばらくして、騫曼が成長すると、両者は国を争い、部下は離反してしまった。魁頭が死ぬと、弟の歩度根 が代わって立った。檀石槐の死後は大人たちの位はみな世襲されることになったのである[ 1] 。
鮮卑は、歩度根が指導者になってから、その部族の勢いがやや衰え、彼の次兄に当たる扶羅韓 がまた別に数万の衆を擁して大人となった。建安 年間に、曹操 が幽州を平定すると、歩度根は軻比能 らとともに護烏桓校尉の閻柔 を通じて、朝廷に献上物を送った。のちに代郡の烏丸の能臣氐 (のうしんてい)らは、漢の支配に叛き、扶羅韓に、その配下に入りたいと通知した。扶羅韓は1万余騎を従えて迎えに出た。桑乾まで来たとき、能臣氐らは話し合い、扶羅韓の配下は彼の命令に十分に服していないから、結局はそこに身を落ち着けることはできないだろうということで、別に使者を送り、軻比能に連絡を取った。軻比能はすぐさま1万余騎を率いてやってくると、ともども会盟を行うことになった。軻比能はその会盟の席上で扶羅韓を殺し、扶羅韓の子の泄帰泥 とその配下の者はすべて軻比能の指揮下に入った。軻比能は自分が泄帰泥の父親を殺していることから、泄帰泥には特別に目をかけた。歩度根は、こうしたことから軻比能を仇敵とみなすようになった。
魏の文帝 (曹丕)が漢より禅譲を受けて即位すると、田豫 が護烏桓校尉に任ぜられ、持節の権限を持ち、護鮮卑校尉 も兼ねて、昌平に駐屯した。歩度根は使者を送って馬を献上し、帝は歩度根に王の位を授けた。のちしばしば軻比能と戦闘を交えたが、歩度根の配下はだんだんと減り弱体となったため、その配下の1万余戸を率いて太原郡 と雁門郡 とに入って安全を計った。歩度根はそのあと使者を送り、泄帰泥に誘いをかけ、泄帰泥はその部族民たちを引き連れて逃亡し、歩度根のもとに身を置いた。
黄初 5年(224年 )になって、歩度根は朝廷に参内し献上物を捧げ、手厚い賜り物を授かった。これ以後はひたすら辺境の守りに努めて、侵入略奪を行うことはなかった。一方、軻比能の部族はますます勢力を強めた。魏において明帝 (曹叡)が即位すると、異民族との関係を努めて平和にして軍事行動をなくそうとし、2つの部族を名目的に魏 の支配下に繋ぎ止めておくだけにとどまった。
青龍 元年(233年 )になって、軻比能のほうから誘いかけて歩度根と堅固な和親関係を結んだ。このようにして歩度根は泄帰泥と部族民全部を率いて軻比能の配下に身を寄せると、并州を犯して略奪を働き、役人や民衆を殺害し俘虜 として連れ去った。帝は驍騎将軍 の秦朗 を征伐に向かわせた。泄帰泥は軻比能に叛いて、その部族民を率いて朝廷に降服すると、帰義王の位を授かり、元通り并州に居住することを許された。歩度根は軻比能に殺された[ 2] 。
軻比能 はもともと鮮卑の中でも勢力のない部族の出身であったが、勇敢で裁きが公平であり、財物を貪ることがなかったため、人々は彼を推して大人に戴いた。建安 年間、軻比能は閻柔 を通じて、献げ物を奉った。漢 の丞相 曹操 が西方に軍を動かし、関中 を征すると、田銀 が河間で叛旗を翻した。軻比能は3000余騎を引き連れ閻柔に従って田銀を攻め、これを打ち破った。のちに代郡の烏桓 が反乱を起こすと、軻比能は今度は烏桓と力を合せて侵攻し、漢に損害を与えた。曹操は、鄢陵侯曹彰 を驍騎将軍 に任じて北に攻め込ませ、曹彰は軻比能を手ひどく打ち破った。軻比能は逃げて長城の外に出たが、のちにはまた使者を送り、献げ物をするようになった。
延康 の初め(220年 )、軻比能は使者を送って馬を献上し、文帝 のほうでも軻比能に附義王の位を授けた。
黄初 2年(221年 )、軻比能は魏の者で鮮卑の中に逃げてきている者たち500余家を送り返して、代郡に移住させた。次の年、軻比能はその部族の大人や配下の者たち、代郡の烏桓の修武盧(しゅうぶろ)など3000余騎を引き連れ、牛や馬7万余頭を駆ってやってくると、魏との間に市場を開いて交易を行なった。また、魏の者1000余家を送り返して上谷に移住させた。そののち、東部鮮卑の素利や歩度根の配下の3部族が軻比能と争いを起こし、互いに攻撃をかけあった。護鮮卑校尉の田豫 が調停をして、互いに侵伐することをやめさせた。
黄初5年(224年 )、軻比能が再び素利に攻撃をかけると、田豫は軽装備の騎兵を率いて駆けつけ、背後から牽制した。軻比能は小さな部隊を選んでその隊長の瑣奴(さど)に田豫の攻撃を防がせたが、田豫は積極的に攻撃をかけて、瑣奴を敗走させた。このことがあって、軻比能は魏を信頼しなくなったが、輔国将軍の鮮于輔 (せんうほ)のとりなしで両者は友好関係を結んだ。軻比能はさらに勢力を増し、部下からの信用も厚くなったが、かつての檀石槐 には及ばなかった。
太和 2年(228年 )、田豫は通訳の夏舎 を軻比能 の娘婿の鬱築鞬 (うつちくけん)の部族のもとに行かせたが、夏舎は鬱築鞬に殺された。その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭と泄帰泥 を率い長城を出て鬱築鞬を討ち、これをひどく打ち破った。その帰還の途上、馬城まで来たとき、軻比能が自ら3万騎を率いて田豫の軍を包囲し、その包囲は7日に及んだ。上谷太守の閻志 は、閻柔 の弟で、もともと鮮卑たちの信頼を受けていた。その閻志が行って諭したため、軻比能はすぐさま包囲を解いて引き揚げた。そののち、幽州 刺史 の王雄 は、校尉 の任を兼ね、恩賞と信義とでもって鮮卑たちを懐かせた。軻比能も、しばしば長城に入り、幽州の役所にやってきて献上物を捧げた。
青龍 元年(233年 )になると、軻比能は歩度根 に誘いをかけて、并州 の支配から抜け出させ、和親の約束を結ぶと、自ら1万騎を率いてその妻子眷族を陘北(けいほく)まで迎えに出た。并州刺史の畢軌 (ひつき)は、将軍の蘇尚 ・董弼 (とうひつ)らを送ってこれに攻撃をかけさせた。軻比能は自分の息子に騎兵を引き連れさせて派遣し、蘇尚らと楼煩(ろうはん)において会戦し、その戦闘中に蘇尚と董弼を殺害した。青龍3年(235年 )になって、王雄は、勇猛の士の韓龍 を送って軻比能を刺殺させると、代わってその弟を立てた[ 1] 。
素利 ・弥加 ・厥機 はそれぞれに大人であったが、遼西・右北平・漁陽などの郡の長城の外にいて、遠く離れていたために国境地帯に損害を及ぼすことは絶えてなかった。しかしその部族民の数は軻比能よりも多かった。建安 年間、彼らは閻柔を通じて献げ物を奉って、漢 との交易を求めてきた。曹操 は彼らをそれぞれに表彰し手厚く待遇して、王の位を授けた。厥機が死ぬと、代わってその子の沙末汗 を立てて親漢王の位を授けた。延康 初年(220年 )、彼らはまたそれぞれに使者を送って馬を献上してきた。文帝 は、素利と弥加とを立てて帰義王の位を授けた。素利は、軻比能と戦いを交えた。太和 2年(228年 )、素利が死んだ。息子が幼かったので、弟の成律帰 を王に立て、代わってその配下の統御にあたらせた[ 2] 。
正始 元年(240年 )、弱水 以南の鮮卑名王たちは皆遣使を送って来献した[ 3] 。
正始5年(244年 )9月、鮮卑が内附したので、遼東属国 を置き、昌黎県を設置して彼らをそこに住まわせた[ 4] 。
西晋時代の北方遊牧民族の領域 泰始 6年(270年 )6月、禿髪部の族長であった禿髪樹機能 が涼州 の異民族を率いて西晋 に反逆し、万斛堆の戦いで秦州 刺史 の胡烈 を討ち取った。271年 、禿髪樹機能は涼州 刺史の牽弘 を敗死させた(禿髪樹機能の乱 )。
泰始 9年(273年 )、鮮卑は広寧郡 を寇し、5000人を殺略した。
咸寧 元年(275年 )6月、鮮卑拓跋部 の力微 (りょくび)は子の沙漠汗 を遣わして西晋に来献した。同年、西域 戊己校尉 の馬循 は反乱を起こした鮮卑を討伐し、これを破ってその渠帥を斬る。
咸寧2年(276年 )7月、鮮卑の阿羅多(あらた)らが辺境を侵したので、西域戊己校尉の馬循は再びこれを討ち、4000余級を斬首し、9000余人を生け捕った。
咸寧3年(277年 )1月、西晋の武帝 は征北大将軍の衛瓘 に命じて鮮卑の力微を討伐させた。同年3月、西晋は司馬駿 ・文鴦 を派遣して、樹機能を破り、降伏させた。
咸寧5年(279年 )1月、禿髪樹機能は再び西晋に反逆し、涼州を占拠したが、12月、西晋の馬隆 に大敗し、没骨能 に殺害された。涼州は馬隆に平定された。
太康 2年(281年 )10月、鮮卑慕容部 の慕容廆 は昌黎郡 を寇す。11月、鮮卑は遼西郡 を寇し、平州 刺史 の鮮于嬰 はこれを討ち破る。
太康3年(282年 )3月、安北将軍の厳詢 は慕容廆を昌黎で破り、数万人を殺傷した。
太康7年(286年 )5月、慕容廆は遼東郡 を寇す。
太康10年(289年)5月、慕容廆が晋に来降し、東夷11国は内附することとなった[ 5] 。
これ以後は、五胡十六国時代 に突入し、拓跋部 ・慕容部 ・宇文部 ・段部 などの部族が互いに抗争したり、晋朝のために匈奴 の漢(前趙 )や後趙 と戦ったり、代国 ・前燕 ・後燕 ・西秦 ・南涼 ・南燕 など自らの国を建国したりしたが、最終的に拓跋氏 の北魏 が華北 を統一し、南北朝時代 を迎える。
鮮卑の戦士の像 鮮卑の言語は烏桓 と同じである[ 6] 。
鮮卑の言語系統について、古くはテュルク系 であるとする説[ 注釈 1] があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部 )の言語、鮮卑語 はモンゴル系 であるという説もあるがまだ明らかではない。近年には夫余語 との共通点が注目されている[ 注釈 2] 。
だが鮮卑の部族にはもとは匈奴に参加していた部族もいるなど、非鮮卑系の異民族も参加していたため、鮮卑の部族全ての言語を特定することは難しい[ 7] [ 8] 。
鮮卑は烏桓と同族なので習俗はほぼ同じである(詳しくは烏桓#習俗 を参照 )。ただ、結婚 のスタイルは烏桓のものと異なり、まず婚姻の前に髠頭し、春に饒楽水(作楽水)のほとりで開催される大会で、酒盛りをした後に妻を娶る[ 9] 。
その地に生息する動物は中国のものと異なり、野馬、原羊、甪端牛がおり、甪端牛の角は弓(甪端弓)の材料となる。また、貂 、豽、鼲子も生息しており、その毛皮はとても柔らかく、上等な裘(かわごろも)となった[ 10] 。主に放牧を生業とするが、農耕することも知っている[ 11] 。
鮮卑のベルト バックル 、3-4世紀 「鮮卑」という名称は、中国側の音訳であるが、その原音が何であったかは、彼らが文字を持たなかったため不明である。王沈 の『魏書』などでは「鮮卑・烏桓なる族名は、山の名前より付いた」と記されている。『漢書 』匈奴伝顔師古 の註において、「犀毗(せいび、さいひ)とは胡の帯鈎 なり、また鮮卑、師比ともいう」とあり、鮮卑人が着用するバックルを指す名であるとする。『史記索隠』匈奴伝注に引く張晏説では「鮮卑・郭落、帯の神獣の名なり。東胡好みてこれを服す。」とあり、より正確にはバックルに描かれてる神獣(トーテム )であるとする。東洋史学者の白鳥庫吉 などは、古代トルコ・モンゴル語で帯鈎をいうsärbi 、満州語 で異人をいうsabiが「鮮卑」の語源であるとし、逆に鮮卑山という山名は鮮卑 (särbi / sabi ) 族が根拠地としたために鮮卑山と呼ばれるようになったと主張した[ 12] 。「鮮卑」=はっきりと卑しいという意味で「匈奴」「蒙古」「吐藩」などと共に、漢民族の周囲の地域・民族は、すべてネガティブな意味の漢字を当てられている。
初め、鮮卑の各部族長は大人(たいじん)と呼ばれていたが、匈奴のように統一的な君主号がなかった。拓跋部 の時代になって可汗 号が採用されると、中央ユーラシア の歴代王朝は可汗(カガン:Kakhan)を君主号とするが、中国を征服し、移住した鮮卑系の王朝は中国風の王 や皇帝 を称するようになった。
大人(たいじん:部族長) [ 13]
大人(たいじん:部族長) 檀石槐 (155年? -181年 ?)和連 (181年 ? -189年 ?)…檀石槐の子魁頭 (?年 - ?年)…和連の甥歩度根 (?年 -234年 ?)…魁頭の弟。220年 鮮卑王に封じられる。扶羅韓 (?年 -218年 殺)…魁頭の弟、歩度根の次兄。泄帰泥 (218年 - ?年)…扶羅韓の子。帰義王に封じられる。[ 13]
大人(たいじん:部族長) 軻比能 (?年 -235年 殺)…220年附義王に封じられる。軻比能の弟(235年 - ?年)…苴羅侯 とは別 [ 13]
大人(たいじん:部族長) <素利鮮卑>
素利 (?年 -228年 )…220年帰義王に封じられる。成律帰 (228年 - ?年)…素利の弟<厥機鮮卑>
厥機 (?年 - ?年)沙末汗 (?年 - ?年)…厥機の子。親漢王に封じられる。<弥加鮮卑>
弥加 (?年 - ?年)…220年帰義王に封じられる。[ 13]
大人(たいじん:部族長) [ 13]
大人(たいじん:部族長) 置鞬落羅 日律推演 宴茘游 蒲頭(附頭)(?年 - ?年) [ 13]
慕容部 の大人(たいじん:部族長)莫護跋 …慕容部の始祖、率義王を拝命する慕容木延 …莫護跋の子、左賢王を拝命する慕容渉帰 (? -283年 )…木延の子、鮮卑単于を拝命する慕容耐 (刪)(283年 -285年 殺)…渉帰の弟慕容廆 (285年 -333年 )…渉帰の次男嫡子[ 14]
前燕 の歴代君主太祖文明帝(皝 )(燕王337年 -348年 )…慕容廆の三男 烈祖景昭帝(儁 )(燕王348年 -352年 、皇帝352年 -360年 )…慕容皝の次男 幽帝(暐 )(360年 -370年 )…慕容儁の三男 [ 14]
後燕 の歴代君主世祖成武帝(垂 )(燕王384年 -386年 、皇帝386年 -396年 )…慕容皝の五男 烈宗恵愍帝(宝 )(396年 -398年 )…慕容垂の四男 中宗昭武帝(盛 )(398年 -401年 )…慕容宝の長男 昭文帝(熙 )(401年 -407年 )…慕容垂の末子 [ 14]
西燕 の歴代君主済北王(慕容泓 )(384年 )…慕容暐の弟 威帝(慕容沖 )(384年 -386年 )…慕容泓の弟 燕王(段随 )(386年)…慕容沖の配下 燕王(慕容凱 )(386年)…宜都王(慕容桓 )の子 燕帝(慕容瑤 )(386年)…慕容沖の子 燕帝(慕容忠 )(386年)…慕容泓の子 河東王(慕容永 )(386年 -394年 )…慕容運 の孫 [ 14]
南燕 の歴代君主世宗献武帝(徳 )(燕王:398年 -400年 、皇帝:400年 -405年 )…慕容皝の子 慕容超 (405年 -410年 )…慕容徳の甥[ 14]
吐谷渾 の歴代君主慕容吐谷渾 (285年? - 317年)…慕容渉帰 の庶長子吐延 (317年 - 329年)…吐谷渾の長子葉延 (329年 - 351年)…吐延の長子辟奚 (碎奚)(351年 - 375年)…葉延の長子視連 (375年? - 390年)…辟奚の子視羆 (390年 - 400年)…視連の長子烏紇提 (大孩)(400年 - 405年)…視連の次男樹洛干 (405年 - 417年)…視羆の長子阿豺 (417年 - 426年)…視羆の次男慕璝 (426年 - 436年)…烏紇提の長子慕利延 (436年 - 452年)…烏紇提の次男拾寅 (452年 - 481年)…樹洛干の子度易侯 (481年 - 490年)…拾寅の子伏連籌 (490年 - 529年)…度易侯の子仏輔 (中国語版 ) (529年 - 534年)…伏連籌の子可沓振 (中国語版 ) (534年 - 540年)…仏輔の子夸呂 (540年 - 591年)…伏連籌の子世伏 (591年 - 597年)…夸呂の子伏允 (597年 - 635年)…世伏の弟趉胡呂烏甘豆可汗(慕容順 )(635年 - 636年)…伏允の子 烏地野抜勤豆可汗(諾曷鉢 )(636年 - 666年)…慕容順の子 〈唐へ亡命(青海国)〉
烏地野抜勤豆可汗(諾曷鉢)(666年 - 688年) 慕容忠 (688年 - 698年)…諾曷鉢の子烏地野抜勤豆可汗(慕容宣超 )(698年 - ?)…慕容忠の子 慕容曦光 (? - 738年)…慕容宣超の子慕容兆 (738年 - 739年)…慕容曦光の子慕容曦輪 (739年 - 749年)…慕容宣超の子慕容復 (798年 - ?)[ 14]
宇文部 の大人(たいじん:部族長)葛烏菟(?年 - ?年) 普回(?年 - ?年) 莫那(?年 - ?年)…普回の子 -数代略-
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北周 の歴代君主孝閔帝 (宇文覚)(556年 -557年 ) …宇文泰の三男世宗明帝 (宇文毓)(557年 -560年 ) …宇文泰の長男 高祖武帝 (宇文邕)(560年 -578年 ) …宇文泰の四男 宣帝 (宇文贇)(578年 -580年 ) …武帝の子静帝 (宇文闡)(580年 -581年 )…宣帝の子[ 14]
段部 の大人(たいじん:部族長)日陸眷 (?年 - ?年)乞珍 (?年 - ?年)…日陸眷の弟務勿塵 (務目塵)(?年 - ?年)…乞珍の子。303年 、遼西公に封じられ、大単于を拝命。疾陸眷 (就六眷)(?年 -318年 )…務勿塵の子渉復辰 (318年殺)…務勿塵の弟末波 (末杯)(318年 -325年 )…疾陸眷の従弟牙 (325年 - ?年)…末波の弟護遼 (?年 -338年 殺)…日陸眷の孫。331年 、驃騎将軍となる。鬱蘭 (338年 - ?年)…護遼の弟龕 (?年 -357年 殺)…鬱蘭の子[ 14]
拓跋部 の大人(たいじん:部族長)成帝(拓跋毛 )(? - ?) 節帝(拓跋貸)(? - ?) 莊帝(拓跋観)(? - ?) 明帝(拓跋楼)(? - ?) 安帝(拓跋越)(? - ?) 宣帝(拓跋推寅 )(? - ?)…大澤に南遷する。 景帝(拓跋利)(? - ?) 元帝(拓跋俟)(? - ?) 和帝(拓跋肆)(? - ?) 定帝(拓跋機)(? - ?) 僖帝(拓跋蓋)(? - ?) 威帝(拓跋儈)(? - ?) 献帝(拓跋鄰 )(? - ?) 聖武帝(拓跋詰汾 )(? - ?)…南遷する 始祖神元帝(拓跋力微 )(220年 -277年 )…詰汾の子文帝(拓跋沙漠汗 )…力微の子、大人にはなっていない。 章帝(拓跋悉鹿 )(278年 -286年 )…力微の子 平帝(拓跋綽 )(287年 -293年 )…力微の子、悉鹿の弟 思帝(拓跋弗 )(294年 )…沙漠汗の少子 〈三分統治〉
[ 14]
代 の歴代君主〈再統一〉
穆帝(拓跋猗盧 )(308年 -316年 )…315年 代王となる 文平帝(拓跋普根 )(316年)…猗㐌の子 (名不明 )(316年)…普根の子 太祖平文帝(拓跋鬱律 )(317年 -321年 )…弗の子 恵帝(拓跋賀傉 )(321年 -325年 )…猗㐌の中子 煬帝(拓跋紇那 )(325年 -329年 )…猗㐌の少子 烈帝(拓跋翳槐 )(329年 -335年 )…鬱律の長男 煬帝(拓跋紇那)(335年 -337年 )復位 烈帝(拓跋翳槐)(337年 -338年 )復位 高祖昭成帝(拓跋什翼犍 )(338年 -376年 )…鬱律の次男 [ 14]
北魏 の歴代皇帝太祖道武帝 (拓跋珪)(398年 -409年 )…献明帝(拓跋寔 )の子 太宗明元帝 (拓跋嗣)(409年 -423年 ) 世祖太武帝 (拓跋燾)(423年 -452年 ) 南安隠王(拓跋余 )(452年) 高宗文成帝 (拓跋濬)(452年 -465年 ) 顕祖献文帝 (拓跋弘)(465年 -471年 ) 高祖孝文帝 (元宏)(471年 -499年 ) 世祖宣武帝 (元恪)(499年 -515年 ) 粛宗孝明帝 (元詡)(515年 -528年 ) 敬宗孝荘帝 (元子攸)(528年 -530年 ) 東海王 (元曄)(530年 -531年 )節閔帝 (元恭)(531年)安定王 (元朗)(531年 -532年 )孝武帝 (元脩)(532年 -534年 )[ 14]
西魏 の歴代皇帝文帝 (元宝炬)(535年 -551年 )廃帝 (元欽)(551年 -554年 )恭帝 (拓跋廓)(554年 -556年 )[ 14]
東魏 の皇帝[ 14]
禿髪部 の大人(たいじん:部族長)禿髪寿闐 (? - ?)…匹孤の子禿髪樹機能 (? -279年 )…寿闐の孫禿髪務丸 (? - ?)…樹機能の従弟禿髪推斤 (? - ?)…務丸の孫禿髪思復鞬 (? - ?)…推斤の子禿髪烏孤 (? -397年 )…思復鞬の子[ 14]
南涼 の歴代君主烈祖武王(禿髪烏孤 )(397年 -399年 ) 康王(禿髪利鹿孤 )(399年 -402年 )…烏孤の弟 景王(禿髪傉檀 )(402年 -414年 )…利鹿孤の弟 [ 14]
乞伏部 の歴代君主[ 14]
西秦 の歴代君主烈祖宣烈王(国仁)(385年 -388年 ) 高祖武元王(乾帰 )(388年 -400年 、410年 -412年 )…国仁の弟 太祖文昭王(熾磐 )(412年 -428年 )…乾帰の長子 後主(暮末 )(428年 -431年 )…熾磐の次子 [ 14]
高句麗 の将軍である乙支文徳 は、高句麗に帰化 していた鮮卑の出自とする学説がある[ 15] [ 16] [ 17] 。
中国 の英雄的女性 木蘭 は、鮮卑だったというのが学界の主流の見解である[ 18] [ 19] [ 20] 。木蘭は、唐代 以降、漢人 の社会概念を加味した口承物語として漢人に伝えられたが、その後の作品の改編で木蘭の遊牧民 の出自が消去され、明代 には徐渭 の『雌木蘭』に、北魏 や胡族 がおこなっていなかった纏足 というストーリーが加味された[ 21] 。2020年 、考古学者 のChristine LeeとYahaira Gonzalezは、モンゴル から出土した女性の遺骨の関節炎 、骨格 の外傷 、筋肉 の付着の痕跡などからから判断して、生前に「弓を射る武術に長けていた」可能性のある鮮卑の女性であることを特定し、匈奴 や突厥 よりも鮮卑の女性の方が騎乗していたことを発見し、鮮卑の平民女性は騎兵 として常時戦争に赴いていたのではないかと推測している[ 22] 。
^ Boodberg (1936) やBazin (1950) は、東胡の子孫である鮮卑族、特に拓跋部の言語をturkish ないしproto-turkish original であるとした。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》^ Pullyblank (1962) やLigeti (1970) によると、鮮卑語 (特に拓跋語)の特徴はモンゴル語 であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》