高橋 是淸 | |
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有爵者大礼服に勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章などを着用した高橋是清 | |
| 生年月日 | 1854年9月19日 (嘉永7年/安政元年閏7月27日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1936-02-26)1936年2月26日(81歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | ヘボン塾(現・明治学院) |
| 前職 | 武士(仙台藩士) 官僚 |
| 所属政党 | 立憲政友会 |
| 称号 | 正二位 子爵(1924年隠居) |
| 配偶者 | 高橋里ゆう(先妻) 高橋品子(後妻) |
| 子女 | 高橋是賢(長男) 高橋是福(次男) 大久保和喜子(二女) |
| 親族 | 高橋賢一(孫) |
| サイン | ![]() |
| 内閣 | 高橋内閣 |
| 在任期間 | 1921年11月13日 -1922年6月12日 |
| 天皇 | 大正天皇 |
| 内閣 | 第1次山本内閣 原内閣 高橋内閣(総理兼任) 田中義一内閣 犬養内閣 齋藤内閣 岡田内閣 |
| 在任期間 | 1913年2月20日 -1914年4月16日 1918年9月29日 -1922年6月12日 1927年4月20日 - 1927年6月2日 1931年12月13日 -1934年7月8日 1934年11月27日 - 1936年2月26日 |
| 内閣 | 犬養内閣 |
| 在任期間 | 1932年5月16日 - 1932年5月26日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
| 内閣 | 加藤高明内閣 |
| 在任期間 | 1925年4月1日 - 1925年4月17日 |
| 内閣 | 加藤高明内閣 |
| 在任期間 | 1924年6月11日 - 1925年4月1日 |
その他の職歴 | |
旧岩手1区 当選回数 1回 (1924年5月10日 -1928年1月21日) | |
(1921年11月13日 -1925年4月3日) | |
(1905年1月29日 - 1924年3月24日) | |
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高橋 是清(たかはし これきよ、旧字体:高橋 是淸、1854年9月19日〈嘉永7年/安政元年閏7月27日[1]〉-1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の政治家[2]。日本銀行総裁。
立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年〈大正10年〉11月13日 -1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、内閣総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。二・二六事件で暗殺された。
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいた三治郎[注釈 1]。きんは行儀見習いのために川村家へ奉公していた。
庄右衛門の妻は身重となったきんの身を案じ、きんのおばの家(芝中門前町)へ帰して静養させ、是清が生まれた[3]。庄右衛門はすぐに実子と認知したが、仙台藩江戸詰の足軽高橋覚治へ里子に出した。3歳の時に実子として届けた。4歳ごろ、藩主の奥方に召され破格の嘉尚を受けた。

藩命により、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、1867年(慶応3年)に勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード[4]によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され、年季奉公[5]の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、きつい勉強だと思っていた[注釈 2]。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。その後、1868年(明治元年)に帰国。


帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら佐賀の耐恒寮や須田学舎など当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現在の開成中学校・高等学校)の初代校長を務めた。共立学校の教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑となったため失敗し、英語教師時代からの友、山口慎と苦労を分かつ。1892年(明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。
日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロン(英語版)(デーヴィッド・キャメロンの高祖父)らが公債発行に応じ[6]、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。
1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。当時の農商務省は経営が不健全な保険業者は清算させるなどして金融業界の健全化を図っていたが、同年には大倉組保険部が、日本初の再保険会社である日清火災海上保険を設立したため、これにより保険業に規制緩和が行われた形となった[7][注釈 3]。


1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。
政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された第15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り[8][9]、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任命。1925年には日清火災海上保険が経営不振に陥って休止し、高橋は金光庸夫とともにのちの統制法の母体となった輸出組合法(大正14年3月30日法律第27号)及び重要輸出品工業組合法(大正14年3月30日法律第28号)を成立させた[10]。

その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うとともに、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀直接引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。
しかし、当時、満州事変が起こっていて、この不況脱出が金輸出禁止の結果であるのか満州進出の成果であるのか、世間一般の大衆には理解しにくかった節もある。また、金輸出禁止をあてこんで円売り・ドル買いを行っていた財閥が巨利をあげたことや五・一五事件で決起した青年将校らが世間で純粋だともてはやされたことで、一般大衆には富裕層と結託しているとの政党政治腐敗の印象を強めたとの見方もある。また、満州事変に続いて起こった上海事変では、荒木陸相が興奮しながら大軍を派遣すべきだと主張したとき、君はまだ若い、波が一つ来ただけで大変だ大変だという、まずかっさらった満州を返すことが先決だよ、総理の縄張りだ、と大声で叱咤し、荒木が陸軍省でその憤懣をぶちまけたため、陸軍内部で「高橋、消すべし」との声があがって、これが二・二六事件の一因になったという見方もあるという[11]。
五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任。
また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた[12]。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を3発銃撃された後、6太刀を浴びせられ、暗殺された。享年81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。
間口も奥行きもある人物であり、インタビュー後でも忘れられない印象を残したとされる[13]。


※日付は1872年まで太陰太陽暦

| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1889年(明治22年)10月25日 | 勲六等瑞宝章[27] | ||
| 1889年(明治22年)11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章[28] | ||
| 1902年(明治35年)12月28日 | 勲五等瑞宝章[29] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲一等瑞宝章[30] | ||
| 1911年(明治44年)8月24日 | 金杯一組[31] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章[32] | ||
| 1920年(大正9年)9月7日 | 旭日大綬章[26] | ||
| 1921年(大正10年)7月1日 | 第一回国勢調査記念章[33] | ||
| 1927年(昭和2年)6月3日 | 旭日桐花大綬章[34] | ||
| 1930年(昭和5年)12月5日 | 帝都復興記念章[35] | ||
| 1934年(昭和9年)4月29日 | 昭和六年乃至九年事変従軍記章[36] | ||
| 1936年(昭和11年)2月26日 | 大勲位菊花大綬章[24] |
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1908年(明治41年)4月1日 | 勲一等太極章[37] | |||
| 1922年(大正11年)2月7日 | レジオンドヌール勲章グランクロワ[38] | |||
| 1924年(大正13年)7月3日 | レジオンドヌール勲章グランクロワ[39] | 2回目 | ||
| 1923年(大正12年)8月24日 | グランクロアオドロゼニアポルスキー勲章[40] | |||
| 1934年(昭和9年)3月1日 | 建国功労章[41] |


かつて発行された日本の紙幣(日本銀行券)では、戦後の1951年(昭和26年)に発行が開始されたB五拾円券に肖像として採用されている(肖像画は是清の孫が所有していた写真を元にしており、服装を燕尾服から一般的な背広に差し替えたもの)。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 原敬 | 第20代:1921年 - 1922年 | 次代 加藤友三郎 |
| 先代 若槻禮次郎 勝田主計 片岡直温 井上準之助 藤井真信 | 第16代:1913年 - 1914年 第21代:1918年 - 1922年 第28代:1927年 第31代:1931年 - 1934年 第33代:1934年 - 1936年 | 次代 若槻禮次郎 市来乙彦 三土忠造 藤井真信 町田忠治 |
| 先代 創設 | 初代:1925年 | 次代 岡崎邦輔 |
| 先代 創設 | 初代:1925年 | 次代 野田卯太郎 |
| 先代 前田利定 | 第35代:1924年 - 1925年 | 次代 廃止 |
| 党職 | ||
| 先代 原敬 | 立憲政友会総裁 第4代 : 1921年 - 1925年 | 次代 田中義一 |
| ビジネス | ||
| 先代 相馬永胤 | 横浜正金銀行頭取 第7代:1906年 - 1911年 | 次代 三島彌太郎 |
| その他の役職 | ||
| 先代 松尾臣善 | 日本銀行総裁 第7代:1911年 - 1913年 | 次代 三島彌太郎 |
| 日本の爵位 | ||
| 先代 陞爵 | 子爵 高橋(是清)家初代 1920年 - 1924年 | 次代 高橋是賢 |
| 先代 叙爵 | 男爵 高橋(是清)家初代 1907年 - 1920年 | 次代 陞爵 |
| 大蔵卿 | |
|---|---|
| 大蔵大臣 | |
| 財務大臣 | |
| 商工大臣(第1期) | |
|---|---|
| 商工大臣(第2期) | |
| 農林大臣 | |
|---|---|
| 農林水産大臣 | |
| 農商務卿 | |
|---|---|
| 農商務大臣 | |
| 農商大臣 | |
東京大学総長(東京農林学校長:1889年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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京都大学総長(大阪英語学校長:1875年) | ||||
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