ゆきむろ しゅんいち 雪室 俊一 | |
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| プロフィール | |
| 別名 | 西浦あかね 洋駿太郎[1] |
| 誕生日 | (1941-01-11)1941年1月11日(84歳) |
| 出身地 | |
| 出身校 | シナリオ研究所(第8期) |
| 所属 | フリー |
| 活動期間 | 1961年 - |
| 主な作品 | |
| アニメ | 『サザエさん』 『キテレツ大百科』 『おはよう!スパンク』 |
| 受賞 | |
| 第14回アニメーション神戸賞・特別賞 | |
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雪室 俊一(ゆきむろ しゅんいち、1941年1月11日[1] - )は、日本の脚本家。神奈川県横浜市出身。日本放送作家協会会員[2]。
主にアニメ作品の脚本を手掛ける。代表作には『サザエさん』、『キテレツ大百科』、『魔法使いサリー』、『おはよう!スパンク』、『Dr.スランプ アラレちゃん』、『あずきちゃん』などがある。
中学校卒業後、様々な仕事をしながら定時制高校に通学[3]。その傍らで小説を書き、コンクールへの応募を続ける生活を送る。
ある時、シナリオライターを目指していた“堀川”という人物と友人になり、試しにと自身もシナリオを書いて見せたところ「僕よりうまいよ」と褒められたことがきっかけで、脚本の仕事に興味を持つようになる[4]。
1961年、シナリオ研究所(第8期)卒業[1]。テレビドラマ『近頃の若いやつ』が新人シナリオコンクールに佳作入選したことで松浦健郎に師事[5]。
1965年、日活映画『あいつとの冒険』で単独デビュー[1]。同時期には、先輩である石郷岡豪の紹介から虫プロダクションにて脚本助手として他の脚本家のための資料集めなどを担当し、それが縁で同プロダクションのテレビアニメ『ジャングル大帝』は数本の脚本を執筆。しかし、脚本より絵を優先する姿勢にショックを受け短期間で降板する[6]。
キャリア初期はテレビドラマや番組構成を手がけていたが、1966年、再び石郷の紹介からテレビアニメ『ハリスの旋風』の脚本を担当。当初は一本だけの予定で、石郷の顔を立てるために依頼を受けるなど消極的な姿勢だったものの、「できれば、次もお願いしたいのですが…」と言われたことを機にちばてつやの原作を読んだところ虜になったため、最終的に約30本の脚本を担当[6]。同作のヒットや東映動画(現:東映アニメーション)の飯島敬との出会いから、アニメの仕事が多くなる。
1981年、原作を手掛けた『おはよう!スパンク』で第5回講談社漫画賞・少女部門を受賞。1989年、毎日中学生新聞に「洋駿太郎」名義で連載した小説『まぶしい季節』では毎日児童小説コンクール・優秀作を受賞[1]。
2009年、第14回アニメーション神戸賞・特別賞を受賞[7]。
主にアニメ作品の脚本を手掛け、1965年のテレビアニメ『ジャングル大帝』の脚本に参加して以降、現在も『サザエさん』などで現役の、アニメ界では城山昇と並ぶ最古参となる脚本家である。
ファミリー向けや少女向けの作品、特に日常生活を題材にする作品(いわゆる日常系)を得意とする。
脚本の他にもアニメ化された『おはよう!スパンク』などで漫画の原作を担当し、絵本や児童向け小説の分野でも活躍した。
趣味はアマチュア無線、ドライブ[1]。
自身を「自己主張が強く、直しをいやがる」「気に入らないとすぐ降りる」など「業界のきらわれ者」と自虐的に語ることが度々ある。
「入口(シナリオ)と出口(声優)がしっかりしていれば、失敗作は生まれない」という持論を持つ[6]。
シナリオ作成はハコ書きで行っている。『サザエさん』では初稿を作成してから冷却期間を置いて納得いかない部分のみ修正し、自らの手で3稿くらいまでやって相手に渡すスタイルだとしている[8]。
プロットは書かない姿勢である。ただし、近年の現場ではプロットが必須なため、新人脚本家には「僕のことは例外だと思って」と話している[8]。
主役よりもつい脇役に目がいってしまう性分だとという[9]。また「面白いキャラクターができると、ストーリーは後からくっついてくる」との考えを持ち、「いいシナリオは、プロット通りに上がるはずない」「いけないのは、ストーリーに合わせてキャラクターを作ってしまうこと」と話している[8]。
内容に関して「嘘をいかに本当に見せるか」を大事にしており「ドラマはドキュメンタリーじゃないから、現実を書く必要はないんです」と語っている[8]。
脚本作成の際は声優のことも考慮しており、ゲストキャラクターには必ずいい見せ場を作るよう心掛けているほか、端役も「OL1」などといったものはなるべく出さず役名をつけるなど、役者がやりがいがあると思える役にするよう意識している[8]。
原作ものに関して「ぼくにとっての原作者は、娘の行く末を案じながらも、じっと見守ってくれている父親的存在」「原作の映像化権を渡すということは、言語も風習も異なる相手に娘を嫁がせるようなもの」「いくら娘(原作)がかわいいからといって、嫁ぎ先に押しかけ、あれこれ注文をつけても娘が幸せになれるとは限らない」と話しており、それを理解してライターを信用し、口出しをしなかった原作者らには感謝を表している。また、「好きでもない相手と結婚しないように、自分が乗れない原作はなるべく引き受けない」姿勢だという[10]。
池波正太郎が原作のセリフを丸写しにした脚本家を「文字で読まれることを想定して書いたセリフと、耳で聞くことを想定して書いたセリフが、なぜ同じなのか」と批判したエピソードを引用し「原作に忠実ということは、丸写しをすることではない」としている[10]。
プロデューサーなど数名が集まり4稿、5稿と修正する“脚本会議”制度は疑問を呈しており「建設的な意見はほとんど出ず、悪くいえばアラ探し大会」「ストーリーは破綻なくまとまり、人物の動きに不自然なところはない。しかし、優等生の作文のようにハートがない。女性でいえば整形美人だ。子どもたちは整形美人より、鼻ぺしゃでも、おもしろいお姉さんのほうが好きなのだ」と話すほか、2001年には「船頭多くして船、山に登る」という言葉を引用し「船頭多くして当たった番組は一本もない。いま求められているのは、こじんまりとまとまった本ではない。多少、荒削りでも作品の中に脈々と血が流れている、個性的な本である」としている[11]。
特に脚本家に弟子はいないが、ラジオで井上敏樹が雪室の系譜にいる脚本家であることを語っている。
アニメ脚本を多く手掛けるきっかけとなった『ハリスの旋風』には思い入れがあると語っているほか、同じちばてつや原作の『あかねちゃん』を手掛けたことで、自身の娘も「あかね」と命名している。ちばてつやの作品については「それまでの漫画は読者を笑わせたり、ハラハラさせたりするが心には何も訴えない。登場人物に血が通ってない」と感じるものが多く「ロボットが出なくても、清く正しく強いスーパーヒーローが登場しなくても、こんなに魅力的な作品が出来ることをちばさんの原作は教えてくれたのだ」と話し、自身のキャリアにも影響があったことを明かしている。
『ひみつのアッコちゃん』では、主人公・アッコが変身時と元に戻る時について子どもたちが親しんでくれる呪文の言葉が思いつかず、とりあえず「テクマクマヤコン テクマクマヤコン ○○になれ〜」(テクニカル・マジック・マイ・コンパクトの略)、元に戻る時は「ラミパス ラミパス ルルル……」(スーパーミラーの逆さ読み)としておいたものがそのまま採用されたという逸話がある。雪室自身は後で修正するのだろうと思っていたため、そのまま放映を見て驚いたと後年語っている[12]。
『キテレツ大百科』は複数の脚本家と共にスタートしたが、途中からはすべて雪室が担当となった。作風が同じ藤子・F・不二雄原作の『ドラえもん』と似ていると感じた雪室は差別化を意識し、道具(発明品)より人間ドラマに注力する。そのため、アニメオリジナルエピソードや登場人物を多く生み出す実質的なシリーズ構成となった。また、原作者の藤子は注文やクレームもなく「短い原作をよく長く作ってくれた」と満足していたといい、雪室は後年「始まりが複数のライターと共同だったこともあり、気負いせずリラックスして書けた作品」と話している。思い出深い話には第135話「ハダカの思い出!さくら湯ものがたり」を挙げている[13]。
『サザエさん』では、放映開始の1969年から脚本を担当。辻真先、城山昇と共にメインライターを務め、1985年に初代プロデューサーの松本美樹が降板した際には雪室も降板したが、1995年8月27日放送回「タマが告げ口」にて復帰。同じく復帰していた城山と共に、放映開始から現在まで参加する数少ないスタッフとして知られる[4]。
アニメオリジナルキャラクターである中島、花沢さん、かおりちゃん、堀川くんなどの生みの親として知られるほか、原作で名前が無かったノリスケの子を「イクラ」と命名したのも雪室である[14]。
小さい子の話を「何やっても許されるから、話が膨らむ」としており、一時期はイクラちゃんの話を多く書いていたという[8]。
近年はネットの意見も参考にすることがあるといい、ネットで隠れファンが多いと知ったためハヤカワさんを主役にした作品を多く書いていた時期もあった[4]。
2007年5月27日放送回の「父さん発明の母」に登場しネットで話題になった“全自動卵割り機”は、原作の4コマでマスオが“自動大根おろし機”を発明した回を元ネタにしたという[15]。
大勢の視聴者に見てもらいたいという思いから、サブタイトルはかなり熟考しているという。