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| たかはし けいこ 高橋 惠子 | |||||
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2022年10月、第35回東京国際映画祭にて撮影 | |||||
| 本名 | 高橋 惠子 | ||||
| 別名義 | 関根 恵子(旧姓・旧芸名) | ||||
| 生年月日 | (1955-01-22)1955年1月22日(70歳) | ||||
| 出生地 | |||||
| 血液型 | AB型 | ||||
| 職業 | 女優 | ||||
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||
| 活動期間 | 1970年 -1977年、1980年 - 現在 | ||||
| 配偶者 | 高橋伴明(1982年 - ) | ||||
| 著名な家族 | 秋山佑奈(長女) | ||||
| 事務所 | ブロウアップ | ||||
| 公式サイト | 高橋惠子 公式ホームページ | ||||
| 主な作品 | |||||
| テレビドラマ 『太陽にほえろ!』 『泣くな青春』 『過ぎし日のセレナーデ』 『葵 徳川三代』 『ヒガンバナ〜警視庁捜査七課〜』 映画 『高校生ブルース』 『朝やけの詩』 『神田川』 『青春の門』 『ラブレター』 『大日本帝国』 『ふみ子の海』 | |||||
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高橋 惠子(たかはし けいこ、1955年〈昭和30年〉1月22日 - )は、日本の女優。血液型AB型身長162cm。本名:同じ、旧芸名・旧姓:関根 恵子(せきね けいこ)。芸能事務所ブロウアップを主宰。
北海道川上郡標茶町(字磯分内熊牛原野とされる)出身[1]。小学6年生からは、東京都府中市で育つ。

中学校時代から持ち前の大人びた容貌で芸能スカウトの目に留まり、2年生の時に大映のスチールカメラマンにスカウトされ[2]、1970年春の中学卒業と同時に大映へ入社[3]。
1970年、映画『高校生ブルース』に旧姓(当時の本名)関根恵子の芸名で主演デビューを果たす[4][5]。同年の映画『おさな妻』では子連れの男性と結婚する17歳の役で出演し、この演技によりゴールデン・アロー賞新人賞受賞[6]。
1971年11月末に大映が倒産したことにより五社協定が自然消滅し、東宝へ移籍した[7]。翌1972年、『新・だいこんの花』にレギュラー出演し、竹脇無我の妻役を務めた[注釈 1][8]。
同年7月から東宝と日本テレビが共同制作していた人気テレビドラマ『太陽にほえろ!』に、ヒロインである七曲署(ななまがりしょ)の婦人警官「シンコ」役で2年間[9]レギュラー出演し、人気女優となる[1]。
1974年3月、『太陽にほえろ!』で共演した松田優作の劇団「F企画」の旗揚げ公演「みやもと武蔵」で舞台デビューを果たした[11]。
1977年、年明け直後からストレスがピークとなったことから心のバランスを崩して一時女優業を休業。1979年に女優復帰を願うも、出演予定だった舞台『ドラキュラ』の公演直前、当時新進作家の河村季里と海外失踪騒動を起こした。一時芸能界引退を決意するが、その後元気を取り戻したことから1980年1月に芸能界復帰会見を開いて活動を再開(これらの騒動について詳しくは後述)。
1982年、にっかつロマンポルノ10周年記念の大作『ラブレター』に主演し、同作品はロマンポルノ史上最高の興行収入を記録した[12]。『ラブレター』公開後、所属事務所との契約が切れる時期に、かつて『太陽にほえろ!』で共演した萩原健一からの誘いを受けて、比較的小規模の事務所に移ることとなった[13]。
1982年、操上和美撮影のヌード写真集が発売された[14]。同年三菱銀行人質事件を題材とした映画『TATTOO<刺青>あり』で映画監督の高橋伴明[注釈 2]と知り合い結婚[6][15]、同時に芸名も高橋惠子に改名[1]。以後は大人の落ち着きある女性の役柄を数多くこなしている。
1992年、NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』で織田信長の母「るい」役を1年間担当する。
1997年、蜷川幸雄演出の『近松心中物語』で4年連続で大役を演じたことで様々な舞台出演を依頼されるようになり、以降精力的に活動している[1]。
2012年11月、『カミハテ商店』で、1989年の『花物語』以来23年ぶりに映画主演をしている[16]。
同2012年から現在まで、テレビコマーシャル「レディースアデランス」に出演中。
2019年、北海道の民放5局[17]とNHK札幌放送局による共同キャンペーン『One Hokkaido Project』のキャンペーンソングに参加[18]。
2021年10月上演の『HOPE』で、66歳にしてミュージカル初主演[19][1]。
標茶町で酪農家をする両親、10歳上の兄(13歳で他界)のもとで育った[1]。両親はいとこ婚だった[20]。子牛の死産と同時に母牛も死んでしまい、牧場経営を絶たれて借金だけが残った。そのため小学校2年生の時に、父は帯広市で保険外交員に転職し、母は住み込みによる宿泊業の仕事を得て恵子と釧路市へ移った。
その後は5年生で父の転勤により斜里町へ移るも、もともと歌手を目指していた父の『娘を東京で育てたい!(文化的な意味合いで)』との希望と[2]、父が定年を迎えたこともあって6年生の途中で一家揃って東京都府中市へ落ち着く事となる[1]。
中学2年生の時に地元の写真屋に家族写真の現像しに行ったところ、偶然訪れていた写真屋の友人が大映のスチールカメラマンで、彼の目に留まったことからスカウトされた[1]。若かりし頃より浅草などの興行に慣れ親しんだ父の大賛成もあり、中学を卒業するまでの1年間、大映の研修所へ通い演技、日舞、体操などのレッスンを積む[21][1]。同時に第1回ミスセブンティーンを目指していたため、コンテストに歌の審査があったことから音楽教室にも通った[注釈 3]。
親や教師から高校進学を勧められたが、女優になるため3年間集中して頑張るため自らの意思で高校には行かず、通信教育で勉強したという[22][1]。
デビュー作品は当初1970年11月12日公開の映画『おさな妻』で決定していたが[23][24]、同年8月封切の『高校生ブルース』に主演予定だった南美川洋子が降板したことから[25]、急遽代役に抜擢されての主演デビューが決まった[26][5]。
『高校生ブルース』の台本を渡されて家で読んだところ、妊娠する女子高生という当時としては衝撃的な役で、上半身裸のシーンもあることが判明[1]。当時15歳で迷いもあったが、芸能界入りする際に両親にとにかく「自分で決める!」と言っていたことから、結局親に相談することなく自らの意思で出演を決めた[1]。
デビューから約1年半の間に7本の映画に出演し、そのほとんどの役でセクシーなシーンを演じた[1]ことから、マスコミによる記事で奔放な不良少女のイメージが作られた[27]。また、世間では「脱ぐ女優」、「性に奔放な女」などのレッテルも貼られた[1]。自分とは違うイメージが一人歩きしたことから女優引退を決意するが[28]、引退作のつもりで臨んだ増村保造監督の『遊び』で増村の情熱に感動し、辞意を撤回した[29]。
1970年代前半は当時まだ17歳ぐらいだったが大人びた役が多く、本来の自分とのギャップに悩むことが多くなったという[1]。また当時は、「様々な役を演じても素の自分は変わらないでいたい」と思っていたが、多忙により知らぬ間に周囲に流されていることに気づいたり、時には芸能界で人の裏側を見てしまうこともあって次第に心に影響が出始めたという[1]。
ストレスを抱えた1977年の年明け直後からは、自己否定するようになったり[30]、同年春には、睡眠薬を大量に服薬し、自殺未遂を起こした[31]。そんなある日、雑誌のインタビューによる作家の河村季里との会話がきっかけで、しばらくの間彼と過ごすことを決意[注釈 4]。ほどなくして女優業を休業して河村とインドに1か月間滞在し、帰国後は岐阜県の飛騨の山村で約2年間晴耕雨読の日々を送った[32][注釈 5]。
1979年の初夏に事務所に女優復帰を申し出て、7月21日初日の渋谷PARCO西武劇場公演『ドラキュラ』の舞台公演でのルーシー役が決まった[33]。しかし、演技に対して恐怖を感じたため公演直前の7月20日に河村と二人で海外失踪騒動を起こし、タイのバンコクに逃亡した[31]後、トルコ、マレーシアなどを転々とした[1]。同年11月初旬に日本に帰国して謝罪会見及び、翌1980年の芸能界復帰会見を経て、民放のサスペンスドラマの愛人役で復帰した[34][注釈 6]。
家族は夫で映画監督の高橋伴明との間に一男一女。長女はタレントの秋山佑奈。結婚時に芸名も現姓に改名している。現在は東京都国立市在住。
27歳で結婚して2人の子供に恵まれた後、「子供を自然の中で育てたい」との思いから東京郊外に家を建てた[1]。以後高橋夫妻、惠子の母(父は家が完成する前に死去)、子供や孫をあわせて4世代9人で暮らし、動物も飼い始めたため一時は犬3匹、猫11匹、カメ1匹で賑やかに暮らした[1]。子育てが一段落するまでは、仕事を少しセーブしながら活動した[1]。母は2015年に亡くなった[1]。
長女はその後2011年頃から、惠子のマネジャーを務めている[1]。子供や孫たちが独立した後、娘が住むマンションに空きが出たため、上記の家を手放して夫婦で転居した[1]。
また、1990年代半ばには演出家・蜷川幸雄から舞台『近松心中物語』の出演依頼があった[1]。過去に舞台をすっぽかしていたことから「自分には出る資格がない」との思いや、同作には地方公演もあるため「引き受けると中学生と小学生の子供もいる中、2か月近く家を空けないといけない」との考えから、依頼を2回断っている[1]。しかし、夫の高橋が助言してくれた[注釈 7]ことから、出演を決めた[1]。
孫娘の海空は、惠子が伴明とともにプロデューサーを務め、伴明が監督と共同脚本を務めた映画『「桐島です」』で俳優デビューした[35]。
| 発売日 | 規格 | 規格品番 | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 大映レコード | |||||||
| 1970年10月 | EP | G-9 | A | 愛の出発[注釈 8] | 中山和郎 | 高橋五郎 | |
| B | はじめての愛 | ||||||
| 1971年4月 | EP | G-26 | A | 愛の日記[注釈 9] | 永田秀雄 | 池田孝 | |
| B | 樹氷悲歌[注釈 10][注釈 11] | ||||||
| RCA | |||||||
| 1973年 | EP | JRT-1328 | A | 朝やけの詩[注釈 12][注釈 13] | - | 松村植三 | |
| B | 朝やけの詩[注釈 12][注釈 14] | ||||||
| 発売日 | 規格 | 規格品番 | アルバム |
|---|---|---|---|
| WESS RECORDS | |||
| 2019年3月6日 | CD | WHCD-111 | 私たちの道[注釈 15] |
出典:日外アソシエーツ現代人物情報(以下2002年以降)
エランドール賞 新人賞 | |
|---|---|
| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 |
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| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
| 1940年代 |
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|---|---|
| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 |
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| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
| |
毎日映画コンクール 田中絹代賞 | |
|---|---|
| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
| |
日本映画批評家大賞 助演女優賞 | |
|---|---|
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
※2017年度は授賞式中止 | |
| 10代 | |
|---|---|
| 20代 | |
| 30代 | |
| 40代 | |
| 50代 | |
| 60代 以上 | |
| 男性 | |
| 特別 賞 | |
| *は複数回の受賞。男性は1992年から、60代以上は97年から、10代は99年から対象 | |